11.2.6 ドイツの統一 世界史の教科書を最初から最後まで
ナポレオン戦争終結後のドイツ地方では「ドイツ連邦」という枠組みが設定されたものの、中身は35の君主国と4つの自治権をもつ都市の“寄せ集め”。政治的分裂状態が続いた。
しかし、ウィーン議定書によって領土を拡大させたプロイセン王国が、そのなかでもひと首抜けた発展を見せ始めていく。
今はなきベルリンの王宮
1834年には、ライン川中流エリアの工業地域をもつプロイセン王国を中心に、オーストリアを除く大多数のドイツ諸領邦からなるドイツ関税同盟が発足。
同盟の外からの輸入品に一律の関税をかけ、同盟内部の産業を守るための政策で、イギリスを中心とする「自由貿易はすばらしい!」とする経済学理論を真っ向から否定する、ドイツ人経済学者リスト(1789〜1846年)の「よちよち歩きの経済には保護貿易が必要だ!」とする理論に基づくものだ。
同盟国どうしの関税がかからないため、原材料の調達やマーケットへの輸送も容易となり、商工業者が強くのぞんだ経済的な統一はほぼ実現することとなった。
次は政治的な統一をめざすフェーズに突入。
まず1848年に三月革命が起きたときにはフランクフルト国民議会でドイツ統一がめざされたよね。
議事ではオーストリア大公国を含めた「ドイツ」づくりをめざす大ドイツ主義と、オーストリア大公国をはずした形での「ドイツ」づくりをめざす小ドイツ主義が対立。
しかし、オーストリア大公国を含める(大ドイツ主義)となると、オーストリア国内のドイツ人地域だけでなく、チェコ人のいるベーメンなど、さまざまな「ドイツ人以外の民族」をエリア内に含めることになってしまう。
結局、小ドイツ主義による自由主義的な憲法がまとめられて、プロイセン国王をドイツ皇帝をたおしたけれど、王の拒否にあって失敗。
このことを「下(民衆)からのドイツ統一運動は失敗した」と表現するよ。
「下から」がダメだったら、「上から」というわけで、その後のドイツ統一の主導権は「自由を求める人々」から、プロイセン王国の政府や軍部を支配する地主たちに変化する。彼ら保守的な地主貴族のことを「ユンカー」という。
このユンカー出身のビスマルク(1815〜98年、在任1862〜90年)は、1862年に陸軍大臣からの強い後押しを受け、プロイセン王ヴィルヘルム1世(在位1861〜88年)から首相に任命されると、議会の反対を押し切って軍備を拡大。
「話し合いによってドイツを解決しようとしたことが、1848〜49年のフランクフルト国民議会の失敗だった。これからは“鉄” (軍備の改革増強)と、国に忠実な兵隊の“血”が必要だ!」と演説。
議会で話し合って時間を無駄にしているうちにも、国力を増強させなければドイツ人に未来はない。たとえ議会が予算を決めることができなくても、王から任された宰相が、軍事に予算をつぎ込む決定をくだすことができるんだということだ。
演説にあらわれる鉄と血という単語から、ビスマルクの政策を「鉄血政策」と呼ぶよ。ずいぶんと強引な手法だよね。
つぎこんだ軍事予算は、各地に張り巡らされた電気通信(電信)と鉄道のネットワークに注ぎ込まれた。
(注)このプランは、当時最先端の戦争プランを描いていたモルトケ参謀総長(1800〜1891年)によるものだ。19世紀に入って戦い方が複雑化・戦いの規模が巨大化し、戦争はますます経済力勝負になっていた。これに対応するには、もはや一人の指揮官では無理筋。
そこで、いくつかの担当に、指揮官を補佐させることにした。
①指揮官を補佐する作戦アイディア出し担当、②武器・弾薬・食料の補給と輸送担当(これがめちゃ大事!)、③情報集めと通信担当(すでに1830年代にモールスが電信機を発明。1866年には大西洋横断電信ケーブルが設置される時代となっていた)、それに④お給料と人事担当。こういったことを戦争が起こる前から、あれこれ検討することが大事とされるようになっていったんだ。
①〜④を参謀といい、これらをまとめる人を「参謀(総)長」という。
人がバタバタと死んでいく戦場において、参謀長には、秒単位で推移する情況と、参謀から上がってくる情報を、冷静に処理・判断する能力と人柄が求められた。
まずこうした改革の成果を試すように、1864年に開戦した相手はデンマーク。
国境付近のシュレスヴィヒとホルシュタインの両州がどちらに属するかという対立をめぐり開戦したのだ。
このときはオーストリア大公国とともに戦い、デンマークに勝利をおさめた(プロイセン=デンマーク戦争)。
敗戦後のデンマークは軍備拡張による国づくりではなく、狭い国土を最大限利用した農牧業中心の国づくりをすすめていくことになるよ。
さらに第2ラウンド。
プロイセンは、1866年にオーストリア帝国とたたかい、これを破った。
これを「プロイセン=オーストリア戦争」という。
漢字の名前の頭文字をとって、「普墺戦争」ともいうよ。
これにより、オーストリア帝国(上記の他の箇所も訂正する)の一部も含まれていた「ドイツ連邦」というグループはバラバラにされ、プロイセンをリーダーとする「北ドイツ連邦」(1867〜1871年)が新たに結成された。
残るは南ドイツの諸国の出方次第。
南ドイツの大国バイエルン王国は、北ドイツ連邦には加わらなかった。しかし国王は、ビスマルクの支援で念願の「ノイシュヴァンシュタイン城」を建設。
最終的に南ドイツ諸国もプロイセンとの同盟を結んだので、統一はあと一歩となった。
そしてついに第3段階。
ビスマルクは戦略を立てる。
「ドイツにとっての最大の脅威はフランスの拡大だ。フランスにはナポレオン3世が支配し、産業化を進めている。早期に手を打つ必要があるのではないか」
一方、フランスのナポレオン3世も、中央ヨーロッパで快進撃をつづけるプロイセン王国を警戒していた。
そんな中、当時王位継承問題の起きていたブルボン朝のスペイン王国に、プロイセン王国がからもうとしているところを、フランスのナポレオン3世がブロックするという一悶着(ひともんちゃく)が起きる。
その際、プロイセン王国のビスマルクの挑発にのってしまったナポレオン3世は、準備不足のまま開戦。
1870年7月にはじまったこのプロイセン=フランス戦争(普仏(ふふつ)戦争)で、フランス軍はプロイセン王国を圧倒し、9月にはフランス北部のスダンというところでナポレオン3世を捕虜にすることに成功。
皇帝が捕まってしまったため、フランスの第二帝政は崩壊。
1871年にビスマルクはフランスの弱体化をはかるため、きびしい条件を含む講和を結ぶこととなる。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊