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音楽の話。変化はいつも突然で、懐疑的で、恐ろしくて、やさしい。

人は変わる。

昔は食べられなかったナスが、大人になってから食べられるようになったり。昔は関心がなかった海外ドラマに、興味を持つようになったり。

オールナイトでカラオケを楽しめたのに、今では起きていられなくなったり。トゲを撒き散らしながら生きていたのに、「丸くなったね」なんて言われたり。

生きていると意図していないタイミングで、身体や心に変化が起きる。

良い変化なのか、悪い変化なのか。すぐに良し悪しを判断して、自分の価値を見定めたくなってしまうけれど、二択なんかじゃ図れない。

なぜなら大体の変化は、外的要因によって起こっているからだ。時代が変われば環境が変化する。環境に適応するためには、自分自身が変化しなければならない。

きっと「変化」という道具は、生きるために必要な必須装備の一つなのだ。

とはいっても、変化という道具は使いこなすのが難しい。知らないところで勝手に起動するから、コントロールができない。おそらく本能的な部分が「何か」を察知することで、自動で起動するようになっているんじゃないかと思う。

つまり、今のわたしが最善な生き方をできるように、本能が勝手に「変化」スイッチを押してくるのだ。

そう考えると「変化」というものは、今のわたしを「守るため」に起きている事象なのかもしれない。

もちろん意図せず起動する「変化」に、わたしはいつも驚いて、狼狽えてしまうのだけれど。

ーーどうして起動したの?
ーーこれから、なにが起こるの?

分からないものほど、恐ろしいことはない。

わたしは気がついたら「変化」という、逃れようのない台風に呑まれ、地から足が離れて、荒々しく別の場所へ飛ばされる。

変化の最中は、くるしい。

砂埃で、前がよく見えない。
風が強くて、周りの音もよく聞こえない。
自分の声だって掻き消されてしまう。
顔を覆う腕や剥き出しの足に小石が当たって、いくつも擦り傷ができる。

ーー何をするの。ひどい、ひどいよ。
ーー痛い。悲しいよ。
ーーなんで、わたしだけ、こんな目に。
ーーさっきの場所に戻りたい。
ーー怖いよ。誰か、助けてよ。

己の身体を、ギュッと抱きしめて、目を閉じる。


嵐が去ると、瞼に明るい日が差してきて、怯えるように薄目を開いた。そのまま顔を見上げてみると、見たことのない澄み切った空が見えた。強張っていた身体を柔らかな空気が解して、太陽の光が心を芯からポカポカと温める。

ーーあれ、息がしやすい。心地よい。
ーーこんな場所があったなんて、知らなかった。
ーー今までいた地よりも、ずっとずっと、生きやすい。

嵐に巻き込まれることで、失ったものもあるかもしれない。けれど、それ以上に得られたものが大きくて、わたしはホッと胸を撫で下ろした。

なんだ変化も悪くないじゃん。けど、もう少し穏やかに変化してくれても良いのに、なんて悪態をつきながら立ち上がる。

新しい幸せがやってくる気配を肌で感じながら、わたしは見知らぬ温かい地へ、足を踏み出した。

人は変わる。
もちろん、会社も変わる。
思いもよらない出来事に手立てがなくなって、人が変わるのと同じように、安定して息ができる場所を求めて変化する。

生きるためだ。どれだけ其処に伝統や想いがあったとしても、変わらなければならない時がある。ずっと育ててきた風景を手放さなければならない時がある。

毎年8月に開催地される日本最大級の野外音楽フェスティバル『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』(以下、ロッキン)の開催地が、茨城県国営ひたち海浜公園から千葉市にある蘇我スポーツ公園に変更になるという。

初回開催の2000年から運営者、アーティスト、そして何十万人に及ぶファンによって、育てられ、支えられ続けてきたロッキン。

昨今の情勢による影響を受け、密を避けた万全の感染対策を行うには蘇我スポーツ公園が最適であると判断を下したのだ。

※詳細はロッキンHPに掲載されている総合プロデューサー渋谷陽一さんの悔しさと熱意の篭ったメッセージを読んでほしい。
▶︎ ROCK IN JAPAN 公式Web  http://rijfes.jp

わたしが初めてロッキンに訪れたのは2013年のことだ。大学生になった初めての夏。クラブハウスを飛び越えて、遂に憧れだった野外フェスの舞台を経験した。

早起きして、ロッキン行きのバスに乗り込み、数時間かけて開催地へ向かう。着いた時の不安と高揚に胸がざわめいた感覚は今でも忘れられない。

太陽に負けないキラキラした音の飛沫がはじけ、何万人もの人たちの心が繋がったように、音で感じ合い、笑い合い、喜びを分かち合う。

これが、野外フェス。
これが、夏フェス。
これが、ロッキン!

わたしの初めてを総ナメにしたロッキンは、忘れろと言われたって忘れられないくらい、強く深く愛の宿った想い出なのだ。

だからこそ、やっぱり。開催地が変わってしまうことに一抹の寂しさはある。ひたちなかで行われるロッキンで、わたしは野外フェスの魅力に落とされ、ロッキンは毎年駆けつける人生の一部となったからだ。

夏が来る度に、ひたちなか市へ向かい、音楽の海に飛び込んで、ビショビショになるまで泳いで堪能して、ホクホクとした心を携えて、花火をバックに帰路を辿る。

たくさんの想い出が詰まった場所だ。もちろんわたしだけではない。あらゆる人の声にならない想いが零れ落ちて染み込んだ大切な場所なんだ。

だけれど、人は変わる。世界も変わる。

音楽も変わる。フェスも変わる。
ロッキンにも変化の時が訪れたのだ。

寂しいけれど、ロッキンがこれからも息をしつづけてくれることの方が何百倍も嬉しい。だって、もう二度とロッキンに会えなくなってしまう方が悲しいから。

それにね、変化したって、忘れるわけじゃない。
わたしだって二十数年生きていて、たくさんの変化をしてきた。これまでの成功、失敗、歓喜、挫折をちゃんと覚えている。忘れない限り、人も、場所も、思い出も、音楽も、感動も、ずっとずっと生きている。

だからわたしは、ロッキンの思い出を未来に連れて行きたい。

音楽に命を燃やしたアーティストの溢れる熱を、空気中に伝わる音を全身で浴びた高揚を、ひたちなかで確かに行われていた音楽の祭典の景色を、ずっとずっと忘れずに抱いていたい。

今年から蘇我スポーツ公園を舞台に新たなロッキンが始まる。きっと新しい場所でもロッキンらしい熱い足跡が刻まれることだろう。楽しみだ。

新しい夢を見ながら、わたしは心のアルバムに、ひたちなかのロッキンの想い出を飾っておきたいと思う。

身体も心も熱くなったのはロッキンが初めてだった。
いつもなら人混みと思う。今日は、仲間だと思う。
風に乗って音楽が飛んでくる。
当たり前で、当たり前じゃない景色。
自然と音楽って、融合するんだ。
アーティストと同じ時を刻める幸せ。
ロッキンから見る空は、いつもより広い。
フィナーレは花火の演奏。
「また来年」の約束が、生きる糧になったりする。
by セカイハルカ
挿入画像:私がロッキンで実際に撮った写真たち
トップ画像:msyさんの絵大好き。可愛い!!
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