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人と比べるのは修羅の道

 大学の部活の先輩に、とにかく自分が一番でないと気の済まない人がいました。自分は誰よりも頭が良くて、誰よりも効率よく勉強が出来て、誰よりも弓道が上手いと確信しているように見えました。
 実際その人は頭が良くて勉強も出来て、弓も上手い人でしたが、いつも誰かのことを気にしていて、うまくいかないときには苛立ちを隠せない様子でした。常に笑顔を張り付けている人でしたから、気付かない人もいたかと思いますが、目が笑っていないとはこういうことだろうな、という顔をしていました。

 弓道は心の武道です。どれほど技術を磨いても、心を鍛えなければ良い弓は引けません。その人の射をみれば、心の状態が分かります。修練を積んでいくと、性格や考えていることも視えてきます。
 その人は多くの時間を弓技を磨くことに費やし、どんどん上達していきました。驚異的な的中率を叩き出し、大会の常連になります。
 しかし不思議なことに、強豪の集う環境では、途端に的中率が落ちてしまうのです。実力を発揮できません。彼はメンタルがね、と裏で囁かれているのを聞いて、私はなんともいえない気持ちになりました。

 私は大学1年生の頃、同期の誰よりも弓が下手でした。その人は私のことを気にかけてくださって、とても嬉しく有り難い気持ちでした。きっと上手くなるよ、といって教えてくれたその人は、本当に優しい目をしていました。その目に憐れみの色が混ざっていたとしても、私に声をかけてくれることが嬉しくて、練習に励みました。

 その人は弓道部の主将(部長)になりました。私が2年生の冬に、その人は私を副将(副部長)に任命しました。大して弓の上手くない私がそんな役職をするわけには、と辞退も考えましたが、「大丈夫。うまくなるから。それに、弓が上手い人が部活をまとめられるわけじゃない。」と激励を受け、恐る恐る拝命し、私は副将になりました。

 私は期待に応えるべく練習量を増やし、家では弓道教本を読み、心を鍛えるために瞑想を始めました。弓の下手な私が副将になることには複数人から強い反対があったことを知っていました。それを押し切って私に声をかけてくれたその人に、恥をかかせてはいけないと思って頑張りました。

 その人の態度が豹変したのは、私が3年生の夏でした。
 
 練習の成果が開花した私は的中率を伸ばし、大会で活躍を期待される水準に到達することができました。弓道は個人競技ですが、団体戦もあります。通常6人を1グループとして、グループ同士の総的中数で勝敗を決めるという方法です。大学ごとに選抜方法はそれぞれですが、私たちは公平性の観点から、決まった練習日の的中本数の上位から6人を選抜メンバーとする選考会形式をとっていました。

 体調不良で練習に出られなかった日もありましたが、私はギリギリその6人に入ることができました。私は心底ほっとしました。その人のために、もっと頑張ろうと思いました。

 大会に向けた練習期間中のある日、部活終わりにその人に呼び出されました。なんだろうと思って着いていくと、ザン、と、目の前に選考会の成績表が投げ捨てられました。

 「これ。」

 …これ?意図が分かりません。

 「当然、僕がいちばんあたってる(的中本数が多い)んだけど。」

 「はい。」 なんでしょうか。怖い。

 「的中率でみると君の方が上なんだよ。」

 いつもの張り付けた笑顔は何処に行きましたか。真顔過ぎます。逃げ出したい。

 「(選考会の日を)何回か休んだのに、選抜メンバーに入れるなんてね。」

 貴方のために頑張ったのに?
 喜んでもらえると思ったのに?

 「僕より上手いんじゃない?もう僕が教えることはないよね。」

 ただ、ショックでした。そのとき自分がどんな受け答えをしたのか、記憶にありません。ただその人の言葉だけが深く心に突き刺さり、癒えない傷を与えました。

 自分は引き立て役だったのです。決してその人を超えてはいけなかったのです。誰よりも弓道の上手いその人を慕い、ひたむきに練習して、それでも圧倒的に敵わないという状況こそが、その人の望む形だったのだと知りました。それが予想外に上達してしまったものだから、その人の心は穏やかではなかったことでしょう。

 その日以来、その人が私を指導することはありませんでした。

 その人の現役引退後、私は主将になりました。しかし引退した後もその人は、部活を陰から自分の思い通りに動かそうと部員を懐柔していきました。人間関係のストレスに巻き込まれた私は体調を崩しながら業務を務め、主将を引退する頃には慢性的な腰痛で弓の引けない身体になっていました。

 1年間の休部を経て基礎から身体を作り直し、5年生の冬からジムに通い、6年生の春から弓道を再開しました。この間には鍼灸師の先生にも漢方の先生にも大変お世話になりました。弓に罪はありません。私は弓を引く時間が好きでした。そうして習得した天衣無縫の極みをもって、6年生の夏の大会で一番の賞を受賞することができました。

 何年か後に、その先輩と話す機会がありました。

 「おめでとう」と、張り付けたものでない本当の笑顔でその人は云いました。

 「僕がいちばん取りたかった賞をとるなんてすごいよ。僕には出来なかった。…正直に言うと、僕は嫉妬していたんだ。つらい思いをさせちゃったよね。ごめん。」

 瞬間、その人の笑顔は私の滲んだ視界に溶けていきました。号泣する私にその人は、

 「ごめんな。」

と、もう一度。それだけで充分でした。

 聞くと、働き始めてからの心境の変化ということでした。先輩は多くを語りませんでしたが、どこか憑き物のとれたような晴れやかな顔をしていました。


 人と比べるのは修羅の道です。

 大乗仏教の六道にある修羅道は、常に何かと戦っている境涯を示します。猜疑心、嫉妬心、執着心に焼かれながら、争い続ける魂の状態です。
 競争社会はより良いものに到達する手段として有用で、これを全て否定するわけではありませんが、「何の為に」を忘れると大変なことになります。争い続ける魂に休息はありません。勝敗ばかりに意識が向いて、勝利の喜びと敗北の怒りを繰り返す。それはいつか自分を高めることよりも、他人を蹴落とす方が楽だということに行き着いてしまうかもしれません。

 六道とは「天」「人」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」に示される輪廻転生の世界ですが、天台宗ではこれに「声聞」「縁覚」「菩薩」「仏」の四つを足して「十界」と呼ぶそうです。

 ここで重要なのは、生まれ変わりとかそういう非科学的なことではなくて、魂あるいは心の状態を示している言葉ということです。

「地獄界」は苦痛に焼かれ続ける状態です。
「餓鬼界」は目の前にあるものしか見えず、渇望に苛まれる状態です。
「畜生界」は動物と同義で本能の欲望のままに生きている状態です。
「修羅界」は争い続け武力で解決しようとする状態です。
「人界」は平穏ですが何もない状態です。
「天界」は刹那的な喜びを感じている状態です。
「声聞界」は学びの喜びに気付き、真理を聞いて学んでいる状態です。悟ったつもりになっています。
「縁覚界」は仏との縁によって自分の中に悟りを灯した状態です。悟りは自分だけのものでよいと考え、他者のために動こうとしません。
「菩薩界」は得られた悟りをもとに他の生命のために、仏のために、行動している状態です。
「仏界」は「悟りを開いた」状態です。

 修羅なときも餓鬼なときも、ありますよね?
これは解釈の問題で、たしかにそうやって名付けると、自分の中にも色々な心の状態があることに気付きます。

 人と比べて一喜一憂し、人と争い打ち負かそうとする姿勢は、決して平和ではない。修羅だった先輩は、その世界から抜け出したようです。

 さて、貴方は何処にいますか?

 何処を目指して、生きましょうか。



 長々と続く拙文に最後までお付き合い頂けたことに至上の感謝を。願わくは貴方の心が、穏やかでいられますように。

※本記事は哲学の側面から仏教を取り上げたもので、特定の宗教や思想を推奨するものではありません。



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