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母からの贈り物
今日の午後に某赤ちゃん用品店にいると、後ろから叫び声が聞こえてきました。
「そこ乗るなボケ!ほんでしゃべんなうるさいな!!」
私と同じ年くらいの母親でしょうか。
生後6ヶ月前後の男の子と3歳くらいの女の子を怒鳴りつけていました。
気を受けやすい私は、その声によって溝落ちに重さを感じながら、商品をえらんでる間、しばらくその家族と同じ場所にいました。
最初正直に感じた事は、子どもたちがかわいそうだということ。
ふざけてカートに乗ろうとしたり、母親に話しかけてるだけの子、おそらく発声の練習をしているだけの子。
決して綺麗とは言えない言葉で罵られ続けている2人に対して、可哀想以外の言葉が見つかりませんでした。
しかし、立ち止まって考えてみると、その母親も可哀想かもしれない。
2人の子育てを誰も手伝ってくれなかったりしてストレスが極限なのかもしれない。
もっと仮説を立ててみると、その母親は幼い頃から自分の母に、やることなすこと肯定されず、否定されてたのかもしれない。
河合さんもそういった問題は大体3代まで続くと仰っていたな。
言葉の使い方の教育受ける機会があまりなかった、道徳的な事を学ぶ暇がなかったのかも。
と、下世話なことを思い巡らせながら家に帰りました。
それに私の息子はまだもうすぐ一歳になる頃なので、子育てのことは到底わからない。
育児初心者中の初心者です。
ただ、教育に興味がある私は、どうしてもそのような場面に遭遇した時に、頭の中にいろんな思考が湧いてくるのです。
家に帰って夕飯の準備をしてると、息子がいつものように家中を散策していました。
手が届いたらしく、机の上にあったお茶の容器を落として、床にお茶がこぼれてびしょびしょに。
とっさに出た言葉が、
「大丈夫?!ごめんね!!!」
(息子とは英語で話していますが、日本語にしています。)
でした。
それに対して自分が驚きました。
なぜなら、私はADHDの特性で、攻撃性がかなり高いのです。
今まで誰かが同じ事をしたら、間違いなくイライラしたか、怒鳴っていました。
しかし、息子に対しては全く違い、怒りは皆無で、案じる心だけがそこにはありました。
このような自分にとって、意外性のある心の動きへの戸惑いは、今日だけではなく息子が生まれてから、幾度となくあるのです。
普通の人は、他者や家族を案じる事自体が、普通のことじゃないか、と思うかもしれません。しかし、今までそのような気持ちを感じる事が少なかった私にはちょっとした革命です。
子どもができたら、絶対毎日イライラすると思ったのに、(もっと大きくなれば、する事も沢山あると思いますが汗)一挙一動が愛おしく思える。
全てを肯定できる自分に驚き、同時に気がついたことがありました。
なぜ、自分の子供をこんなにも肯定できるか。
それは、私が母に肯定され続けてきたからです。
周りから甘いと言われたこともありますが、母は私が変な事を言ったり、普通の親であれば気がおかしくなる行動をしても決して否定しませんでした。
間違っても、うるさい!!などと怒鳴られた事はありません。
もちろん危ないことなどは人並み以上に心配していましたし、マナーなどについては厳しい場面も多々ありました。
しかし、私の存在を否定した事は未だかつてありません。
それが私の無意識下で力になっていたのです。
今までいじめに遭ったり、人と同じことができなかったり、自分の感情がコントロールできなかったり、自分に嫌気がさしてましたが、その力が子育てという種目になって、やっと発揮されているのです。
今考えると、その力をつけてあげるためには、相当の忍耐が必要です。
母は、自分の母親に肯定され続けたわけではないそうです。なので自分はそうなりたくなかったと。大変厳しい心の修行をしたのだなと思います。
河合さんがいうように、親は教育者ではなくどこまでも保護者でいなくてはならないの意味が今ストンと落ちています。
そして自分もそれを息子に受け継ぎ、それによって修行させて貰おうと思う次第です。
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