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運命と呼ばれるもの ー八日目の蝉を観賞して-

昨夜、何年かぶりに映画、「八日目の蝉」を観た。

以前に何度か観たことがあったが、子どもを産んでからの観賞は初めてだった。

案の定、自分の子育てと映画を照らし合わせてしまい、嗚咽が漏れるほどの大号泣だった。

それはさておき、この映画を通して再認識させられたことがある。

それは、

「運命には逆らえないことがある。」

ということだ。

決して人生の選択を思うようにできなかったことの言い訳や、物事がうまく行かなかったことに対しての気休めでもない。

数十年生きてきて感じ取ったことで、言葉にする事が難しい感覚だ。

あえて言葉にするなら、


その世界には大きな川のような流れがあり、私たちはその中にいる。その川がうまく流れるように、色々と仕組まれていて、私たちはその仕組みの中の一つのコマに過ぎない。
機械のパーツのように、一人一人に役割があって、それを遂行するため、私たちは突き動かされることがある。

といった具合だ。

抽象的すぎて、自分でもよくわからないのだけれど、そういう流れ、役割をただ受け入れるということが、どうも人生のコツなのではないかと思う。

受け入れるために善悪を超えなければいけない。

映画の話に戻ろう。

八日目の蝉の内容は、

不倫関係にある男性との子どもを堕胎し、子どもを望めなくなった希和子は、その男性と妻の間にできた、生後4ヶ月の子どもを誘拐してしまう。子どもと、身を隠す生活を続けるが、その中で、自分の子ども以上ではないかという程に愛情を注ぎ続ける。純粋無垢な子どもも、その疑いのない愛情に応えるように、日々成長していく。しかし、4年間に渡る2人の幸せな日々は、やがて希和子の逮捕によって幕が下される。

といったものだ。

一般的に考えると、誘拐は犯罪なのだから、希和子のした事は悪だ。

しかし、映画を観たことがある方ならお分かりだろうが、この映画はどちらかというと、
不倫相手である男と妻が悪として描かれている。

妻は、不倫相手の希和子に対して「子ども堕したあんたは、からっぽうのがらんどうだ。」と罵り、自分の大きくなったお腹の胎動をわざわざ触らせに、彼女の家へ行ったりする。

赤ちゃんが生まれた後も、家の施錠もせず、妻と男は生後4ヶ月という幼い子を残して出かける。
もし子どもを本当に愛しているなら、そんなことができるだろうか?

希和子の逮捕後、子供が4歳で家に戻ってくるが、自分を愛してくれないという身勝手な理由で、母親は子どもに癇癪を起こし、嘆く。
1番辛いのは、目まぐるしい現実についていけない子どもなのに。

その反面、希和子は惜しみなく愛を子どもに注ぐ。子どもは可愛いという気持ちだけでは本当にやっていけない。毎日のお世話があるし、可愛いという側面だけではない。
しかも本当の子供じゃないときたら、最初は私が一生守っていく!などと、意気込んでも途中で投げ出す気持ちになるはずだ。

しかし希和子は違った。

それは彼女の素敵な言葉の数々から感じ取ることができる。

別れを予期した時は、

「ママはもういらない。何にもいらない。薫が全部持って行って。大好きよ」

と、親の本質が見えるセリフがでる。

逮捕直前には、

「その子、まだご飯食べていないんです。よろしくお願いします。」

と、止まらない涙と共に放つ。

普通は、子どもと別れる悲しみや、逮捕される自分の身を案じる言葉が出てくるだろうに、希和子は最後まで子どものことしか考えていなかった事がはっきりとわかるセリフだ。

しかし、1番可愛い時に子どもを奪ってしまうというのは、やはり罪作りなので、どちらが良いか悪いかは知る由もない。


長々と映画のことを語ってしまったが、ここからが本題。

そこまで希和子を突き動かしたものは何だろうか。

自分を裏切った憎むべき不倫相手と、嫌がらせをやめなかったその妻の子供を、ここまで愛すことができるだろうか。

罪と分かっていながらも、愛情深い人物像が犯罪に至るまで動かされた原因は?


それこそが、前述したような「役割」ではないかと予測できる。

自分ではどうしても止められない。
突き動かされるように、「裏で何かが動いているような衝動」は、役割による働き、いわゆる「運命」だと認めざるを得ない部分があるのではないか。

希和子自身も何が起こっているかわかっていなかったはずだ。(フィクションですが)

ここまで行かなくても、似たような体験をした人もいると思う。

私自身、この「役割」を感じたエピソードはいくつかあるが、1番最近で言うと結婚だった。

私と夫は出会って一ヶ月で、なぜか結婚しようと決めた。
お互い、特別情熱的に惹かれあっていたわけではなかったと思う。

年齢的にも焦る必要がなかったし、私はワーキングホリデーのためにカナダへ渡航する準備をしていたところだった。

しかし自分でもよく分からず、渡航をやめる決意をし、夫と結婚することに決めた。

その後はトラブルがたくさんあり、何度も結婚を本気で辞めようと思った。

喧嘩は絶えない、始終顔を見るだけで腹が立つ、そもそも性格が合わない。
別れるには十分すぎるほど、材料が揃っていた。

逆に別れたくない理由がなかったくらいだ。

ある夜、2人で話し合って本気で別れようと決めた。

正直言って別れた方が楽だし、幸せになれる。合わない人と結婚しなければならない時代でもないし、別れたくないほどの情熱もない。

そう2人で確認しあい、彼は国に帰ることを決め、私はカナダへやはり渡航するという話になった。

しかし、しばらくして彼が泣き出した。
そうするとすぐに、私も気持ちとは裏腹に涙が止まらなくなり、気がつけば2人で抱き合い今までにないくらい大声を上げ、一晩中泣き叫んだ。

これには驚いたと同時に、なぜかこの人とは絶対に別れられない、という確信が自分の中に生まれた。

泣き叫んだ夜は、自分以上の何かから、突き上げてくる感情が込み上げてきて、「ああ、これが、運命には逆らえないということなのだな。」と悟った。

私と夫が結婚し、仲良く添い遂げることには、きっと「川」の流れのためになる何らかの役割だのだな。と解釈してからは、何があっても添い遂げようと決めた。

私の書いていることは、狂気の沙汰に聞こえるかもしれない。
けれども、このような経験を重ねれば重ねるほどに、起こってくることへの抵抗が減ってきたし、これと比例して生き辛さも軽減されてきた。

私たちがほんとうに学ばなければいけないことは、言葉にはできないものかもしれない。

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