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midsummer

きらきらと透きとおっている夏の青空をたたき割ったら、空の一部が琥珀糖みたいにばらばらと落ちてくるのではないかと、そんなことばかり夢想している。

割れて穴が開いてしまった部分には適当に、溶けた飴か何かを流し込んでおけば、何もなかったことになってしまうのではないかしら。空が割れたことさえ。

中学生のころだったか高校生のころだったか忘れてしまったけど、「星屑と太陽」というタイトルの短い物語を書いたことがある。「僕らの街には太陽が出ません」という文章から始まる、500字程度の短い物語だ。

その物語に登場する惑星には、地球の住人にとっての太陽のような、まぶしく輝く恒星がない。あるのは月ほどのささやかな光を放つ星だけで、彼らはそれを太陽と呼び、昼も夜も区別のない世界で生活している。

しかしあるとき、少年が窓から暗いおもての様子を眺めていると、空からきらきらとした虹色の物体がたくさん落ちてきて、川を流れているのを発見する。

実はその落下物は、彼らが太陽と呼んでいた小さな星の一部なのだが、子どもたちはそれに気づかず、きれいなかけらに夢中になって手を伸ばす。この物語は「僕らはもう、その街には暮らしていません」という文章で幕を下ろす。

要は星が砕けて落ちてきたという物語なのだ。

自分ではなかなか気に入っていたのだけど、星が砕けて落ちてきたらそれはもう隕石だし、のんきにかけらを集めようとしている場合ではないんじゃないか、そもそも恒星のない惑星に生命が誕生するのか、そういうことが気になり始めてしまい、結局誰にも見せなかったし、どこにも出さなかった。

23歳になっても「夏の空が割れて落ちてきたらソーダ色の琥珀糖みたいだろうな」とか考えているのだから、私は中高生のころからさほど変わっていないのだろう。

そう思うとすこし安心する。

***

夏の夕方には雷がよく鳴るし、夕立にもよく出会う。

去年の夏、授業やゼミを終えた週末の夕方に車で実家へ戻ろうとすると、その度に私はスコールのような激しい雨に出会ったものだ。

運転していて、山の向こうに大きな入道雲が見えたり、明らかに暗雲が立ち込めていたりするとお天気が怪しくなるサイン。しかも私は実家に帰るために東から西へと移動しなくてはならなかったので、西から東へやってくる雨雲と出会うのは避けようがなかった。

しかし、私は雷というものもとても好きだ。

屋内にいるとき、雷がごろごろ鳴る音が聴こえてくるとすぐ窓の方へ駆け寄り、空で稲妻が光っているのをいつまでも見てしまう。

光と音がずれてやってくるのもいい。

空がぴかっと光ると、すかさず1、2、3…と秒数を数え始めて、雷鳴が轟いたところで数えるのをやめる。数えた秒数に340を掛け、雷の鳴った場所と自分のいる場所がどれくらい離れているのか計算する。

雷の音は1秒間で340mの距離を進むので、光ってから何秒で音が鳴るかを数えて掛け算をすれば、雷の鳴った距離が分かる。

計算は大の苦手な私だけど、小学校の理科で習ったこの式だけはいまだに覚えていて、雷が鳴るとなんとなく計算してしまう。

夜や明け方、まだ外が暗い時間帯に、雨が降っていて時折雷が閃くのも好き。カーテンを閉め切っていても、雷の光は部屋を一瞬明るく照らす。それが面白くて、布団のなかからずっとその様子を眺めてしまう。

そういうわけで、雷をこわがってきゃあきゃあ言っている女の子たちの気持ちは、私にはあんまり分からないかもしれない。いや、分からない。ごめんなさい。

屋外にいて雷がごろごろと鳴ったときの恐怖は私にも分かる。

しかしあからさまに、大げさに騒いでいる子を見ると、ちょっと冷めた目で見てしまう。本当に雷をおそれているひとはもっと真剣に、そして静かに雷をおそれるのではないかという、先入観があるからかもしれない。

もちろん、雷がおそろしいものだという畏怖の念は持っている。雷神さまを侮っているわけでもない。

けれど雷は本当に美しいのだ。私は雷のおそろしさより、その美しさの方に強く惹かれてしまうのだろうと思う。

そういえば、イギリスのロックバンド・オアシスの「Some Might Say」という曲(晴れた夏の日に爆音で聴きたくなる)の冒頭の歌詞にも雷、正確にはthunderという言葉が出てくる。

Some might say that sunshine follows thunder
Go and tell it to the man who cannot shine
Some might say that we should never ponder
On our thoughts today cos they will sway over time

Some Might Say/oasis

この曲はイントロから本当に最高だからどうか聴いてみてください。骨まで痺れちゃう。これ以外にも、オアシスにはよい曲がたくさんあります。

私は「Time Fries…1994-2009」というアルバムで育ったので、よければどうぞ。このアルバムについてる歌詞カードの和訳も大変によい。

というわけで、私は夏の雷が好き。

冬という季節は夏ほど好きではないけれども、冬の雷は雪起こしという名を与えられたりしていて格好いいから、冬の雷もどうやら嫌いではないようである。

***

数日前に母と妹と3人で出かけたとき、お店で写ルンですを見かけたので、つい手に取ってそのまま買ってしまった。

27枚撮りなのでいつシャッターを切るかということを楽しんでいるけど、「なんかいいな」と思う瞬間が多すぎて、もう半分くらいフィルムを使ってしまっている。私には写ルンですは向いていないのかもしれないね。

高野山でのことをどう書いたものか、非常に悩んでいて、結局書けないでいる。もしかしたらまだ書かないかもしれない。マニアックすぎて書きようがない。

そこで出会った誰かとのエピソードを書こうとしても、巻き起こる事件を描写するには、お寺特有のあれこれをある程度は書かねばならず、そうなると分かりやすく書くのは難しいし、なんとか書いてもそのおもしろさやうるうるしたことが分かってもらえない可能性がある。

私が現段階で書けるのは、私が高野山でもひとに恵まれたということと、思っていた以上に真言宗僧侶の修行内容は過酷だったということである。

私は普段あんまり本気で「うわ、もうこれだけは本当に無理だ。やめてしまいたい」と思わないタイプの人間だ。

しかし今回はさすがに、「うわーん!これはつらい!できることなら今すぐ全部やめて家に帰りたい!うえーん!」という気持ちで尼僧部での日々を過ごしていた。

そこへ行くまでの3週間お世話になっていた、両親ゆかりのお寺では、忙しいとはいえもう少しのびのびさせてもらっていたので、尼僧部での日々は壮絶だった。

私が自由に過ごせるのは夢の中だけだった。それ以外に私たちに与えられた自由時間はなかった。トイレさえ好きなときには行けないし、お風呂のあとに髪を乾かしている時間なんてない。食事も10分以内に済ませなくてはならない。

何をやってもとりあえず叱られるので部活みたいだった。理不尽に慣れていないひとには耐えられないだろうと思う。

そうだ、これだけは書いておこう。

高野山にいた間、私は毎日必ず夢を見ていた。嘘だと思われるかもしれないけど、毎晩夢を見ていたのだ。

不思議だなあと思いながら、私は眠る時間を何よりも楽しみにしていた。元々眠るのは好きだし、夢を見ることも好きなのだ。

恋人には「眠りが浅いから夢を見るんだよ、かわいそうに」と言われたけど、楽しみだったのだからいいではないか、とひらきなおった。

それくらいしか書きようがない。

前期はなんとかがんばった。私は誰かに強いられたわけではなく、自分でそこへ行くことを選択したのだから、何ひとつとして他者のせいにはできなかった。

次は9月から12月まで行かなくてはならないので、後期は4カ月もその状態に置かれることになる。しかし、文字通りひとつひとつこなしていくしかないということが分かったので、とりあえずやるだけやってみようと思う。仲間もいるし。

そのときどんなにつらくても、全てが終わってしまえば何もかもをいいかんじの思い出にすることができるという、私の生まれ持った強い力を信じて、英気を養う夏にする。

もっと他に書こうとしていたことがあったはずなんだけどな。まあいい。

それでは最後に、最近読んだ村上春樹の短編集から文章を引用して終わることにする。

「僕が言いたいのはさ、こういうことなんだよ。つまりさ、僕以外の誰かが痛みを感じていて、それを僕が見てるとするね。それで僕はその他人の痛みを想像してつらいと思うね。でもさ、そんな風に想像する痛みって、本当にその誰かが経験している痛みとはまた違ったものだよね。うまく言えないけどさ」
 僕はいとこに向かって何度か頷いた。
「うん、痛みというのはいちばん個人的な次元のものだからね」

村上春樹『螢・納屋を焼く・その他の短編』より

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