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お砂糖とミルクを混ぜて

金木犀の香りがふんわりと風にのって鼻をくすぐる、わずかな季節も過ぎ去って、ここ最近は朝夕の寒暖差が大きく、不安定な大気はしょっちゅうざあざあ降りの雨を私たちの上に落としていく。冬が近いのだ。

とはいえ昼間の白い月とか、水分量が多く、陰影のついている豊かな雲だとか、外を歩いていて日陰から日向に出たときに肌をほんのりあたためてくれる太陽の光だとか、そういうのをわりと楽しめているような気がする。

皆さま、お久しぶりです。いかがお過ごしでしょう。

先月から、私にはしっかりとした文章を書くほどの時間的、あるいは心身的余裕がなくて、しばらくは現実世界と向き合っていました。

そういうときこそ、書いておきたい出来事が起こるもの。私には、こういうnoteの書き方が向いているのかもしれないな。ためてしまったから長くなると思うけれど、久しぶりにたっぷりとした分量のnoteを書きます。

私にとっては全部が大切だけど、みなさんは適宜飛ばしつつ、興味のある所を読んで、さらに時間のあるときに全体に目を通したりしてくださるとうれしく思います。


マシュマロのお返事

まず、どなたかが放り投げてくださっていたマシュマロのお返事を、ここでさせてもらいます。ずいぶん遅くなってしまった。本当にごめんなさい。

今回は2件ほどメッセージが届いていたので、ご紹介します。

こんばんは。

おすすめの本を教えてくださり、また、お気遣いをいただきありがとうございます。こちらで勝手に、あなたのことを一番星さんとお呼びします。

凪良ゆうさんの小説は読んだことがないのですが、「流浪の月」という小説は聞いたことがあります。内容については全く知識がないですが、せっかくおすすめしていただいたので、ぜひとも読んでみたいです。図書館へ行ってみようかな。本屋さんがよいかなあ。

私は最近思うように読書ができておらず、非常にもどかしいです。

読みたいものはたくさんあるのですが、読まなくてはならないものがそれを上回っているような状況です。卒論が最優先の時期なので仕方ないのだけれどもな…

しかし私は大学で、「文学」という好きなものを学んでいるので、その点は本当にありがたいことなのかもしれません。

私は最近なんの本を読んだかなあ…

小説に限定すれば、江國香織さんの「赤い長靴」、村上春樹さんの「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」、上畠菜緒さんの「しゃもぬまの島」、萩原朔太郎さんの「猫町」、三島由紀夫さんの「金閣寺」などでしょうか。谷崎潤一郎の「痴人の愛」も読んだな。

ちなみに、上畠菜緒さんは私の大学の先輩に当たる方で、今期の授業で、私たちの先生が「しゃもぬまの島」を扱うということで、先週は授業のために有給休暇をとって、オンラインで色々お話をしてくださいました。

そのほか、川端康成の「掌の小説」、岡本かの子の「生々流転」、夏目漱石の「草枕」は読みかけています。

内なる世界を広げるために、私にとって読書は必要不可欠のもののような気がします。音楽を聴いたり、映画や絵を見たりすることも、すこし違うのかもしれないけれど、似ているのではないかと思う。

一番星さんは、他に好きな本などがおありでしょうか?またすてきな本がありましたら教えてくださると、とてもとてもうれしいです。

文章の世界は奥深く、めまいがしそうなときもあるけれど、ともに楽しんでまいりましょう。

***

続いてはこちらです。

こんばんは。
論文のことを気にかけてくださり、ありがとうございます。

こちらの方は、おひるねさんと呼ばせていただきます。

もしかするとばれちゃっているかもしれませんが、実は6月から「卒論の記録」を謳ったnoteの更新がぴたりと止まっています。「あちゃあ」と思いつつ、毎月必ず決まったことを書く行為を自分に課してしまったからか、途中で面倒になってやめてしまったようです。

しかし卒論は、おそらくは、ものすごく遅れているとかいうことはないのではないだろうかと思います(ほんとうに?)。

ここ数カ月、毎朝学生研究室へやってきて、夜まで大体12時間くらいは入り浸っています。この文章も研究室で、研究の合間に打ち込んでいます。

私のゼミは週に2回集まりがあり、発表が月に1度回ってくるので、かなりこまめにレジュメを書かなくてはなりません。発表用のレジュメは少なくとも4000~5000字程度は書きます。最近みんな分量が増えてきているので、もしかするともっと書いているかもしれません。

私たちのゼミでは、卒論本体は12月中盤に入ってから書き始める予定になっています。4月から12月初頭までは準備期間で、それぞれの小説を読みこんで知らない言葉や文化を調べたり、先行研究の論文収集や読み込みをしながら、とにかく扱う作品にまつわるあらゆることを勉強します。

私の小説、澁澤龍彥の「高丘親王航海記」は、おそらく普通のひとは「澁澤って誰?航海記ってなに?」となってしまうと思われるものなので、具体的になにを勉強しているかを述べても分かりづらいのかもしれません…かなしい。

それはおいておいて、私たちの研究室では毎年秋に「国文学会」と呼ばれる大きな行事があります。これは日本の言語文化を学んでいる4回生や院生の方が、卒業論文、あるいは修士論文の進捗を発表するというもので、大学の外部からもお客様がいらっしゃったり、卒業生の方が見に来てくださったりするような、由緒正しきイベントです。

発表者は各ゼミから大体1名程度。院生の方がいらっしゃれば、その方も出るので2名。

私たちのゼミからは、4回生はカッターシャツの彼が、院生は真っ赤な口紅の魅惑的な先輩(彼女のことはあとで書きます)が、発表者として登壇しました。

(※なお、これは発表を希望者するひとびとが集まってくじを引いて決めた結果なので、いやいや発表するというわけではありません)

私は出ないけれど、出ないひとは出ないなりにレポートの提出を求められたので、国文学会をひとつの目標に勉強する必要があります。

私のお話ばかりになってしまいましたが、あとわずかで卒論を書き始めなくてはならないので、みんなほんのりと焦っている。どんなに研究室へ通って勉強していても、焦っている。それは私たちが文学を愛し、楽しみ、それと向き合っているからこそ感じられる焦燥なのだと思います。

おひるねさんも卒論と向き合っておられるのでしょうか。違うかなあ。どうだろう。なにか他のことと向き合っていらっしゃるのかな。

何と向き合っているにしても、無理をせず、風邪をひかないように体調をととのえていきましょうね。カッターシャツの彼曰く「ゆっくり、焦ろうか」ということなので、焦るにしてもあわてすぎず、適度に焦っていけると理想だなあと思います。

寒くなってきましたので、あたたかくして、どうかご自愛ください。

そして誰かの何かのご参考までに、今回(11/20)提出した10,000字レポートをPDFで貼り付けておきます。今までのゼミの発表資料もどこかでまとめられたらいいんだけど。

***


お便りいただきありがとうございました。

マシュマロはいつでも開いていますから、ぜひあなたのことも教えてね。楽しかったことでも、ちょびっとさびしかったことでも。好きなものやひとのことでも。

***

これ以降は大学での日々の記録をしていきます。とっても長いです。覚悟してね。

赤い口紅

私のゼミには、ひとりだけ院生のおねえさんがいる。

ふたつほど年上の彼女は裏表がないさっぱりとした性格で、実におしゃれな女のひとだなと思う。

彼女の名前には「子」という字が入っているのだけれども(実は私の名もそうなんだけどさ)、私には以前から、名前に「子」が入っている年上のきれいなお姉さまを慕いたいという、なんとも不思議な憧れがあった。

彼女は夏目漱石の「草枕」で卒論を書く。

彼女の書く文章はもちろん、作品を読み解くときの着眼点、言葉の言い換え方なんていうものを目の当たりにするたび、やはり彼女は先輩で、私たちより長く先生のもとで学んでいるんだなあ、ということを改めて感じさせられる。

彼女は自分では「え、全然よ?大学生のときも、先生から、お前の文章は幼いから、もっと二字熟語とか使ってみろってずっと言われとったもん」と言っていたけど、丁寧でリズムのよい文章はとても読みやすいし、そんな文章を書けること自体がすごく格好いいので、私は彼女を尊敬している。

そんな彼女は、初めて見かけたときから真っ赤な口紅を塗っている。鮮やかでつやつやとした、彼女にしか塗れないのではないかという色の、きれいな色の口紅。

そしてその唇の赤色は、彼女の真っ黒な髪、そして色の白い肌に映えて、本当に魅惑的に見える。まるで白雪姫みたいだと、私はいつも思う。私にはあの色の口紅はきっと塗れない。

彼女はきっと、自分に何が似合うのかをよく知っているんだろう。そう思うにつけても本当に魅力あるひとだと思う。そんな彼女にかわいがってもらえることが、なんだか妙にうれしい。

私は先輩付き合いというのがあまり得意ではない。

でもそれはおそらく、小学校から中学校に上がったころ、1年前には「ちゃん」や「くん」をつけて喋っていた、たったひとつかふたつ年上のひとたちのことを急に「さん」づけで呼び、敬語を使って話さなくてはならないという、あの暗黙の(謎の)ルールが腑に落ちなかったからなのだと思う。

そして私はわりと真面目だったから、うっかりため口なんて使ったらかなりまずいんだろうな、ちゃんと敬語で話さなきゃ、と思えば思うほど先輩とかかわるのが億劫に感じて、勝手に敬遠していたのだった。

しかし今はそんなことはなく、自分が先輩という立場になってからは、敬う気持ちがあれば、たとえ不意にため口が飛び出してしまっても大丈夫なのだということに気づいたので、中学生のころよりは先輩方と良好な関係性を築けるようになった気がする。

それに、何よりも赤い口紅の彼女は本当に魅力的だし、さばさばした性格なので、話していて苦痛だとか思ったことはただの1度もないのだ。

そんな彼女とのエピソードをひとつ。

この前研究室で話していたとき、彼女に「〈青葉〉ちゃんキキに似とる」と言われた。「えっ、キキって?」と返したら、「魔女の宅急便のキキ。どっか、なんか似とるんよね。勝手にそう思ってる」と答えてくれた。

私はそれを聞いて舞い上がってしまった。

私はキキがだいすきだ。おしゃれで明るくてピュアで、魔女の修行のためにひとりで知らない街へ旅立つたくましさがあるのに、本当は繊細で傷つきやすい少女。いつも一生懸命で、ちょっと意地っ張りな等身大の女の子。

キキに似ていると言われたことは、もちろんうれしかった。

けれど、そのことを他の誰でもなく、彼女に言われたということが、私としては重要なポイントだった。彼女が赤い口紅を塗っているように、キキのトレードマークは赤いリボンだ。

赤という色は周囲のひとを惹きつける、鮮やかで美しい色だと思う。だからこそ、赤い色をまとう彼女に、赤い色をまとったキキに似ていると言われるのは、私にとってすごくすごくよろこばしいことだったのだ。

そういうわけで私は春から彼女に憧れを抱いているし、今もそうで、おそらくこのまま卒業していくのだろうと思う。

年齢がちがう彼女と出会えたことを、見えない誰かに感謝して、春に卒業するまでにもっといっぱいおしゃべりしたいなあ。

ギンガムチェック

ずっとずっと気になっている女の子が同じゼミにいる。

彼女は落ち着いた雰囲気のひとだ。私のように、がやがや誰かと話したりはせず、静かにそっと言葉を紡ぐ。けれど別に冷めているというわけではなく、無邪気に笑う、穏やかでやさしいひとだと私は思っている。

肩ほどまでの茶色い髪を、たまにくるりんと巻いているのもかわいいし、結んでいてもかわいいし、何もせずそのままでもかわいい。おでこを出しているのが大人っぽくて素敵。

あの無邪気な笑顔でにこっとされると胸がきゅんとなる。研究室で袋菓子を配って歩いたりしたときなんかに、まっすぐな瞳で「ありがとう」と微笑まれたら、もうイチコロだ。

そんな彼女は白と黒のチェック柄のトートバッグを使っている。ピンク色の糸で英語が刺繍されているトートバッグだ。どんな服を着ていても、どんな髪型をしていても、そのトートバッグはいつも彼女の華奢な肩にかかっている。

さっき書いた先輩にとっての赤い口紅と同じで、ギンガムチェックのトートバッグは彼女のトレードマークなのだ。

そんな彼女は、岡本かの子の「生々流転」という小説で卒論を書く。

卒論で扱う小説を決める前の面談で、私は先生から、岡本かの子の「金魚繚乱」という短編小説を勧められて読んだ。だから、彼女が岡本かの子の小説で小説を書くと聞いたときから、彼女のことを気になっていた気がする。

そして彼女がゼミで発表するときのレジュメの資料は、小説の文章も、彼女の書く地の文も本当に美しく流麗だし、加えてそれを読み上げる彼女の声が淡々としているのがまた小説の雰囲気に合っていて、発表を聞きながらうっとりしてしまう。

彼女の発表を聞くたびに、私は「生々流転」という小説を読みたくて読みたくて仕方がなくなってしまう。彼女の何回目かの発表のとき、以下のような本文引用をしているのを読んで、より一層読みたくなった。

もっともわたくしとしても、年齢からいってそろそろ人恋しい時代で、心の中にうずく痛痒い情緒につれ学課の暇には歎きの面持で花畑をさまよったり、遣る瀬ない肩の落し方をして果樹園を縫い歩いたりしないことはありません。(中略)ですから、学園の中でもわたくしに対して何かはらはらするものを感じ、零れそうな露を感じ、誘惑の蜜を匂わせてるもののように感じて、つねに反感と興味とをもって何かと噂を立て、それが男の先生や生徒たちに結びつけられたものも一つや二つではありませんでした。だがわたくしが人恋しがる気持はそんな単純なものではありましょうか。それならまことに始末がよいのですけれども。

岡本かの子全集7「生々流転」より引用

(「歎きの面持で花畑をさまよったり、遣る瀬ない肩の落し方をして果樹園を縫い歩いたりしないことはありません」のところが非常に好きだ、心当たりがあるからかもしれない)

そんな彼女とすこしずつ話をするようになり、この前のゼミのとき、彼女へのコメントシートに「生々流転を読みたい」と書いた。

コメントシートというのは、誰かの発表資料で気になった点や質問を書き込んで渡す小さな紙で、ゼミ終わりに発表者に直接渡すから、わりと自由にいろんなことを書くことができる。

その日のゼミが終わったあと、研究室で「今日の発表資料もよかったよ」と話しかけたら、「〈青葉〉ちゃん、小説読みたいって書いてくれてたね。私文庫本2冊持ってるから、よかったら貸そうか?」と彼女が言ってくれた。

小説で卒論を書いた、あるいは書いているひとは分かってくれるだろうと思うのだが、自分の扱っている小説を誰かが読んでくれるというのは、無意識に目をきらきらさせてしまうほどうれしいことだ。

だから彼女も私に小説を貸してくれたのだろう。

物のやりとりはコミュニケーションの一環だから、私は彼女に本を貸してもらったことが本当にうれしくて、その日は眠るまでずっとにこにこしていた(仲間たちに「よかったねえ」と何度も言われた)。

彼女に貸してもらった本
(しかも聞くところによると先生からの又貸し)


もうじき卒論執筆を開始するから、それまでには半分以上は読み進めたいな。彼女ともっと気さくにおしゃべりできるようになりたいし、彼女のことをもっと知りたい。

それをストレートに伝えることから始めていこう。それが私の取柄だから。

キャンディとか虹とか

大学の友人であり、同じゼミに所属している〈ワニの筆箱の彼〉のロッカーに、不定期でチュッパチャップスを入れるようにしているのは前にもnoteに書いたとおりである。


そんな彼とは、できればSNSでは繋がらないように過ごしたいと思っていたのに、いつだったか研究室で飲み会をしたときかなにかに、Instagramを交換してしまった。今では教職関係の手続きや授業や試験なんてもの、ゼミに関する最低限の情報のやりとりをするために、InstagramのDM機能を使っている。

そんな彼から、1か月ほど前に急にメッセージが届いていて、一体何事かと思ったら次のような画像が送られてきていた。


これは私が彼のロッカーに放り込んでいたチュッパチャップスの包み紙で、味はさくらんぼ。

我が家では、妹たちが「チュッパチャップスはさくらんぼ味がいちばんおいしい!」とことあるごとに言っていたので、この間お店に行ったとき、彼にあげる用にさくらんぼのチュッパチャップスを選んだのだ。

写真背景の机はどう見ても研究室の机だし、たぶんロッカーをぱかっと開けて、そのまま置いてあったチュッパチャップスを食べたのだろう。画像とともに送られてきていたメッセージは一言、「うま」。

その後のやりとり

彼はこういうかんじで、ちょこちょこDM機能を使って一言何かを送ってくる。この映画よかったから見た方がいいよとか。授業の資料の印刷部数は何枚だったっけとか。

この前は、虹が出たときに私がストーリーを載せていたら、「おれも虹見たぞい」というメッセージとともに虹の写真を送ってくれていた。一瞬どこにあるのか分からないほどうっすらとした虹の写真だったけど、こういうところが彼の愛らしいところで、妙にほっこりしてしまう。

彼の適度に人懐こい、気まぐれな雰囲気に翻弄されたり、癒されているひとはきっと彼が思っている以上に多くいるのだろう。

だからどうかこれからもそのままの純真さで生きて行ってほしいと思う。

おひさま、ひなぎく、とろけたバター

この小見出しを見て、ハリー・ポッターと関係する文章が出てくると思った方には申し訳ないけれど、まったくもって関係ないです。ごめんね。

ただ私がここで書きたい女のひとの笑顔は、まるでおひさまのように明るくてチャーミングなので、彼女を〈おひさまみたいな彼女〉と呼称しようと考えたとき、おひさまという言葉と関連して最初に出てきたのが、ロンの「おひさま、ひなぎく、とろけたバター」という呪文だったの。だからそれを見出しにした。

さてさて、ここまで書き連ねてきたひとはみんな私と同じ、近代文学ゼミに所属しているひとびとだった。しかし、おひさまみたいな彼女は私たちとはちがうゼミに所属していて、ざっくり言ってしまえば「源氏物語」で卒論を書く。

(以前彼女のことも少し書いたよ。下の記事の「金平糖」という項目に登場する女の子が彼女です↓)

上の文章を書いたときには、まだ彼女との関係性はいくらかよそよそしくて、互いを苗字+さん付けで呼んでいたのだけども、9月に一緒に大学祭のドッジボール大会に出たり(一回戦で敗退した)、研究室で同じ机を囲んで勉強したり、みんなで一緒にごはんを食べに出かけたりしているうちに仲よくなった。

今では彼女は私のことを「〈青葉〉ちゃん」と呼んでくれるし、私は2歳年上の彼女を「〈おひさまみたいな彼女〉さん」と下の名+さんづけで呼ぶようになった。敬語も互いにすっかりとれてしまったから、以前よりフラットに話せるようになったと思う。

私が彼女を好きだなあと思うところはいくつもあって、例えば研究室でお昼ごはんを食べるとき、誰も聞いていなくても、どんなに小さな声でも必ず「いただきます」と「ごちそうさま」を言うところとか、携帯電話のアプリじゃなくて紙の手帳を使ってスケジュール管理をしているところなんかは、本当にいいなと思う。

しかし、彼女と言えばまず最初に出てこなくてはならないのは、彼女が自分のゼミの先生を信じられないほど敬愛しているということだ。

彼女は中古ゼミに所属している。

彼女の教授は和歌の研究をされている、たおやかで品のある女性の先生だ。私もこの素敵な先生の授業を何度か履修したことがあり、朗らかそうな先生だなあと思って好きだったけど、所詮は「好きだなあ」というくらいのもので、彼女の手前、このすばらしい先生のことを語るのさえおこがましいような感じがする。

おひさまみたいな彼女の先生に対する愛情は、もう、尋常ではないのだ。

彼女はゼミのあとで研究室へ帰ってくると、資料中の調査不足なところを先生に指摘された、丁寧な言葉づかいでどんどん詰められたといって大喜びしているし、誰かの会話の中に一瞬でも先生の名前が出てきたらすかさず話に割り込んでくる。

こういう風な書き方をすると「その愛情は大丈夫なの?」と思われる方もいるかもしれません。でも大丈夫なのです。

彼女は心から先生を敬愛していて、先生の顔に泥を塗らないように、期待に応えられるようにと、いつも好きなことを一生懸命に勉強しているだけなのだから。

そしてそういうのを見ると、ああ、彼女は本当に自分の先生を好きなんだなあ、こんなに生徒に慕われたら先生もさぞうれしいだろうなあと思って、妙に感動してしまう。

もちろん私も、自分のゼミの先生に対して深い尊敬の念を持って学んでいるつもりだけれども、私のそれは、彼女の先生に対する深い愛情と尊敬とまた少し種類が違っているものなのだろうと思わざるを得ない。

私の先生に対する愛情については、卒論を書き終え、無事に提出したそのあとで、卒業のときにでも丁寧に書き記したいと思う。

さくさくビスケット

ここからは今もこれからも、私の大学時代を語る上で必要不可欠になってしまった特別なひとびとについて書いていく。

まずは眼鏡の彼について。

彼はビスケットが好きらしく、よく大学のショップで、大きな袋に入ったビスケットを買って研究室に持ってくる。

私たちは研究室の長机をひとつ占領して毎日勉強していて、私は椅子をひとつ開けて彼と隣同士に座っているので、眼鏡の彼が袋を開ける音がすると、つい反応して右を向いてしまう。

私としては、彼がビスケットを口に放りこんでいるのを眺めたくて、ちらっと見てしまうだけなのだ。

けれど彼は私の視線に気がつくと、「要る?」と訊いてくる(なお、彼のその訊き方は「いる?」ではなく完全に「要る?」というかんじなので漢字表記の方を採用しておく)。

私は「え?なんで?あ!見てるからか!」となって、「いやあ?べつに、欲しくて見てたんじゃないよ?」と返事をする。しかし、彼は聞いているんだか聞いていないんだか、穏やかに袋を差し出しながら「ほれ」と言って、ビスケットを私にくれる。

たとえ袋を開けたばかりで彼がまだ手をつけていなくても、ビスケットの最初の1枚目を私にくれたりする。

そして彼は机の周りに座っているひと(うっかりやさんの彼女や、カッターシャツの彼なんてひとびと)や、研究室にいる他の学生にもビスケットを配ってまわる。

***

ここで一旦脱線して、話をすこし変える。

学生研究室には9月ごろからノートブックが置いてあり、その表紙には、眼鏡の彼の字で「研究室覚書」と書かれている。同じ机を占領して勉強している数名の4回生や院生が、日々感じたこと考えたことを綴る、情緒のある交換日記みたいなものだ。

みんなの文章を引きたいけど著作権があるから我慢


ここからが素敵ポイントなのだけれども、私の大学の友人たちはみんな文章を愛しているひとだから、ひとが書いたものを読むのも苦ではないし、短時間でもつらつら文章を書くから、ノートの減りがものすごく早い。

1ヶ月に1冊ペースでノートがなくなるので、卒業までに何冊いくか分からない。5冊くらいはいくんじゃなかろうか。

私たちは、それぞれの授業やゼミの発表資料の作成、卒論にかかわる作業(論文を読むとか、調べものをするとかね)の合間に、こういった別の文章を書いたり読んだりすることで気分転換をしていて、文章を書く気分転換に別の文章を書くというのは、実に文学を専攻する者たちらしいと思う。

そのノートを書き始めた最初のころ、私はこんなことを書いた。

私はつねづね、誰かの記憶の中に欠片として残ることができたらどんなによいだろう、と考えます。家族とか恋人とか友人とか、人と人との関係性にはそれぞれ名前がついていて、けれど名前のついていないような関係性の相手もいるから、そういう誰かの中に記憶として生きられたらよいなあと思うのです。(中略)誰かが何かを見て私を思い出してくれたら、それはとても幸福なことだと思うのです。そういうわけで、みんなの中にどうやったら私の欠片をばらまけるかなといつも考えています。・・・

研究室覚書1より

「かけらをばらまきたいと思っていること」を書くことによって、私がみんなの中に自分のかけらをばらまこうとしたのは言うまでもない。

みんなはこれを読んで、「自分と違いすぎて、ああ、こんなこと考えてるひといるんだって思ったわ」と言ってくれたり、私が何かしていたら「〈青葉〉さん、いま欠片をばらまいてるでしょ~」と声をかけてくれたりする。極めつけには、互いにとって何か印象的な出来事があると「これはかけらだ!かけらだ!」と一緒にはしゃいでくれる。

そういうところが楽しいのだし、たぶん、大学を卒業して別の環境に身を置くことになったとき、私が恋しくなるのはみんなのこういうところなのだろう、と思う。

私たちは、家族や恋人、幼馴染といったひとびととのそれとは全く異なる強さと近さで固く結ばれている。それは単に仲よくなったというのではなくて、みんなが同じ好きなこと、つまりは文学というものをともに、真剣に学んでいるという、特殊で密接な、泣きたくなるほどしあわせな結びつきなのだ。

そしてそういったひとの中にかけらとして残ることができるというのは、私にとっては何よりも価値あることだと思う。

そういうわけで私は自分が意図的にかけらをばらまいているつもりでいるけれど、おそらくは大学の友人たちが無意識にこぼしたかけらをも自分で拾いあげたり、すくいあげたりしているのだ。

***

話をもとに戻そう。私が今書いてきたことは、眼鏡の彼のビスケットにだって当てはまる。意識的であろうと、なかろうと、私たちが物事を記憶するとき、誰と何を結びつけるかは自由だ。

何を見て私を思い出してほしいか。

それはこちらの意思で、ある程度の範囲までは狭められるけど、一定のライン以上は干渉できないから、それぞれのひとに委ねるしかない。私の意図していないものが、誰かの中では私を想起するものとして記憶されることもあるはずだ。

例えば、おひさまのような笑顔の彼女は、いつだったか、どこかへ旅行したときにお土産屋さんにあった砂糖菓子を見て、私を思い出したと言ってくれた。それは私が以前、研究室に、小さな瓶に入った金平糖を持ってきていたからだという。それは誰かの中に印象的なかけらをばらまきたくてやったことでもあるから、私の目論見通りということになる。

しかし以前はじめてみんなでカラオケに行ったとき、私が新しい学校のリーダーズの「オトナブルー」を最初に歌ったせいで、眼鏡の彼は私とその楽曲とを結びつけてしまったらしい。それは私の意図ではない。でも、べつに悪くないなと思う。

そういうわけで眼鏡の彼もおそらく、ビスケットと自分とが結びつくように仕組んでいる気は全くないのだろう。

でも私は研究室での日常の中でそこを拾いあげてしまったから、たぶん、大学を卒業してからも、袋入りのビスケットを見かけたら彼のことを思い出してしまうんだろうな、と思う。

きっと他にも無意識にすくいあげているものもあるんだろう。まだ気づいていないけど、みんなと会えなくなってしまってから気がつく「かけら」もいっぱいあるんだろうな。

彼がビスケットの袋を破くたび、私がそんなことを考えてにこっとしていること、きっと彼は知らないままで卒業していくのだ。

ドタバタ劇場

うっかりやさんの彼女とはもう4年目の付き合いになる。

彼女は1日に何度も物を落とすし、手にケトルのお湯をこぼすし、すぐ何かにつまづいて転びそうになったり物に身体をぶつけたりする。

彼女は大学図書館でアルバイトをしているのだけど、バイト開始5分前に急に無言で席を立ち、信じられない速度で廊下を駆け抜けてバイト先へ向かうので、研究室に残されたメンバーはそれがおかしくてお腹を抱えて笑ってしまう。彼女はいたって真面目なので余計におもしろいのだ。

私はこれらの彼女の行動に対し、ひそかに「ドタバタ劇場」と名付け、楽しんで観察している。

そんなうっかりやさんの彼女とは大学入学以来の仲なのにもかかわらず、彼女のことをしっかり扱ったnoteはまだ存在していない。

(上の記事にちょっぴり彼女とのことが書いてあります)

それは私にとって彼女が、大学に入って初めて仲よくなった存在で他の誰より特別だということ、そして何より、彼女といる日々があまりにも日常すぎる風景で、かえって書くタイミングを見失っているからなのだった。

私は昔、誰かとの関係性には必ず特別な名をつけたい少女だった。

たとえどんな相手でも、そのひととの関係性を特別に仕立て上げたいのだ。相手をどのような「特別」の位置に置くことができるか、いつもそんなことを考えていた。

あの子とは幼馴染だし、でもこの子にしか話せないお話があるし、あのひとには前にこういうことをしてもらったし、そのひととはこういう思い出があるから、みんな特別で、みんな大切。だからきっと相手もそうなのだ。

そういうふうに思い込みたい時期が私にはあった。

あるときそれが非常に夢見がちで、浅はかなことだというのに気づき、どうにかしてやめようと試みた時期もあった。だってもし本当に私にとって誰も彼もが唯一特別な存在ならば、わざわざそのうちの特定の相手を「親友」や「恋人」と呼称する必要は全くないのだ。

でも、最近になってまた気がついた。

私と出会ってくれた誰かは世界にたったひとりしかいなくて、私も世界にひとりきりならば、私と誰かとの関係性は最初から特別なものに決まっているじゃないか。

どんなに近くて親しくても、逆にどれほど遠くよそよそしくても、その関係性は世界中でもそこにしかない、たったひとつだけのものなのだ。ならばみんなが特別で、みんなが大切だと感じていても何も問題はないはずだ。

そして私は、だからこそ、誰とどんなに仲よくなっても、個々の相手との間にしかない時間ややりとりなんていうものを重んじたいと考えている。それが私と相手との間にだけ流れている、透明な血液のようなものだと思っているからだ。そこを介して相手と繋がっている、唯一無二のもの。

彼女にとってはどうか分からないけど、私にとって、彼女との間にしかない最も特別な時間は、毎日の帰り道だ。

私と彼女はいつもふたりで帰路につく。

ときどき誰かが加わることもあるし、課題や用事の兼ね合いなんかで別々の時間帯で帰ることもあるけど、大体は同じタイミングで、夜9時以降に研究室を後にする。

帰る方向が正反対なのに、彼女はいつも「もう少し長く一緒にいたいから」「自転車ですぐに帰れるから」と言って私をアパートの前まで送ってくれる。だから私は彼女と夜の闇の中をゆっくり歩いて帰るし、その途中で夜空やそこにきらめく月を見上げる。

私の中では彼女と月とが強く結びついているようで、見返してみたら、前に彼女との思い出をnoteに綴ったときにも彼女と月を見上げながら帰ったことを書いているのだ。他にも数えきれないほどのエピソードがあるはずなのに、私はそこを切り取って胸に飾り、とりわけ大切にしている。

だって首を思い切り上へ向けて、真っ暗な空に浮かんだ月を眺めながら、「今日も月がきれいだねえ」「本当にきれいだねえ」と話しながら帰るのが、私と彼女の日常なのだ。

あなたたちふたりの会話にはちっとも中身がないねえ、オウム返しをしているだけだねえと、眼鏡の彼やカッターシャツの彼によく言われるけど(もちろん馬鹿にされているわけではないよ)、それが私とうっかりやさんの彼女との関係性なのだ。

きれいなものを「きれいだ」と言えば、「そうだね」と返ってくる。「楽しいね」と言えば、「楽しいね」が、「寒いね」と言えば「寒いね」という言葉が返ってくる。安心して言葉を放つことができる関係性。

私たちはどこかできちっとそれが分かっているのだ。

どんな色や形をしていても、たとえ見えない日があっても、私たちは並んで空を眺め、あのつめたく錆びついた星を道しるべに家へ帰る。

彼女は月を愛しているし、私は月を愛している彼女がだいすきだ。

だから毎日一緒に帰る日々がいつか終わってしまったそのあとも、私はひとりで月を見上げて歩く夜には、恋人でもほかの誰かでもなく、大学時代の帰り道に傍らにいてくれた彼女を思い出すことだろう。

手編みのコースター

ここではすっかりおなじみのカッターシャツの彼はこの数カ月、研究室でコーヒーを淹れるときに、ときどき私の分も一緒に入れてくれる。

私のも淹れてくれと頼んでいるわけではないのだが、彼は気が向いたときに「〈青葉〉さん、コーヒー飲みたい?」と訊いてくるので、「飲みたい」と答えていたら、いつの間にか何も言わずに私の分まで支度してくれるようになった。

そしてこの前、淹れてもらったコーヒーをふうふう冷ましながら飲んでいたら、ふと彼に「〈青葉〉さん、ブラックが飲めるようになったね」と言われた。心底びっくりした。

自分では気づいていなかったけど、数カ月前には「ミルクがほしい」と言いつつ顔をしかめながら飲んでいたブラックコーヒーを、私はいつの間にやら普通に飲めるようになっていたのだ。それはどう考えても他の誰かではなく、彼のせいだろう。

そんな彼には素敵な恋人がいる。最初はそんなこと一切なかったのに、最近彼は一緒に住んでいるという恋人の話をしてくれるようになった。

研究室の仲間はみんな彼のことをとても好きなので、彼の恋人の話を聞く時間もまた至福のひとときだ。私やうっかりやさんの彼女は、彼と彼の恋人のかわいらしさに、しょっちゅう身悶えて(文字通り、身悶えて)苦しむ。眼鏡の彼もにこにこ(にやにや?)して話を聞いている。

もう1度書くけど、みんな彼のことが好きなのだ。そして愛するひとの話をしてくれるほどに、彼もまた私たちを大事に思ってくれているということを、私たちは知っている。

彼の話を聞いてあからさまにきゃっきゃと騒いでいるのに、カッターシャツの彼は「そんなに喜ばないでください」と言いつつ、私たちを見て満足そうに笑っている。

最近、彼の恋人は編み物がブームらしく、お買いものに行くたびに毛糸を買うのだという(なお、彼は「毛糸」のことを毎回「毛玉」と言い間違える)。だから部屋の中には毛糸がたくさんあって、彼曰く「生産量と毛玉の購入量が釣り合っていない」らしい。

と、そんなことを言いつつ、彼は彼女が編んだペットボトルホルダーを使っていて私たちに見せてくれたり、やさしい緑色の毛糸で編まれた、花の形のコースターを研究室に置いていて、それの上にマグカップや筒状の筆箱を乗せて使ったりしている。そういうところがまた、非常にかわいらしい。

私は、男の子が自分の好きなひとや恋人の話をするのを聞くのがとても好きだ。最近そのことに気がついた。

私はずっと、友人の女の子たちが男の子のことを語る話ばかり聞いてきた。そして言い方はあまりよくないけれど、きっとそういうのに飽き飽きしていたのだろう。女友達から聞く恋の話は大抵、過度な惚気話か、不幸話かどちらかに偏っていて、彼女たちは話の加減をわかっていないのだ。それが女の子らしいといえばそうなのだけど。

さらに私の周りの男の子たちの多くは女の子より筆不精で、女の子よりマメにはSNSに何かを投稿しない、自ら彼女の話をべらべら喋ったりもしないようなひとたちだったから、カッターシャツの彼が余計に際立って見えるのかもしれない。

カッターシャツの彼は、豊かで穏やかな言葉で恋人のことを語る。自らべらべら喋ったりはしないけど、ふとしたときに、恋人との日常にころがっている、ささやかなエピソードを私たちに分けてくれる。

話すときもだらだら喋ったりはしない。引き際をきちんとわきまえている。

彼の話を聞いて「とてもいいね」とこころから口にすると、彼は「いい?そんなことないでしょう」と、私の方をまっすぐ見て口にする。

彼は私が遠距離恋愛をしていることを知っていて、そう言うのだ。その一言があるからこそ、私はより、彼が語る彼の恋人の話を愛おしく思う。

「いいえ、本当にとてもいいですよ。これからもどんどん話してください」と笑って返すと、彼は「ええ~?」と言って目を細める。

好きなひとと一緒にいられない私は、家に帰れば恋人が待っている彼のことをときどきうらやましいと思うけど、だからといって彼らを妬ましいとか、憎らしいと思ったことはただの1度もない。

それがちゃんと伝わっているといいのだけど。

ううん、別に伝わらなくてもいいか。ただひそかに願っている。どうかあなたたちがこれからも幸福でありますように!

***

日々はあっという間に通り過ぎていく。風や水や雲のように、つかむこともとどめることもできない。あと数カ月したら私たちはみんな離ればなれになる。

でも私がいつか大学生活を振り返るとき、何よりも最初に思い出すのは、きっとこの短くて濃密な1年間なのだ。あたりまえはあたりまえじゃない。この日々のきらめきを、儚さを、私はどこかで知っている。

いつか私が、みんなの過去の思い出の中だけに生きる人物になってしまったとしても、せめて今だけは、「みんなのことがだいすき!友達になってくれて本当にありがとう!」って、言葉を愛するひとたちに、言葉で伝えることをやめないでいたい。
















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