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野の草花を摘むように

今年はもう1年間、学生でいるという選択をしたのだけど、同級生たちがみんな毎日働いているのに、私だけまだのほほんとしているというのは、なんともうしろめたい気持ちになる。

私の実家がお寺だということは、以前にも書いたことがあるように思う。

母がお寺のひとり娘で、父が婿入りして跡を継いだ、田舎の山の上のお寺。50歳を超えたばかりの両親は、いまの私と同じ年齢のころに高野山で出会い、23歳のときには結婚しているので、もうずいぶん長い間一緒にいることになる。

私は3人姉妹の長女で、下に2人妹がいる。そして女の子ばかりのお寺の長女として生まれたということには、必ず何か意味があると思っている。

さらに言えば、私は生まれ育った家が好きだから、物心ついたころから、お寺を継ぐことができるようにしておきたいと思ってはいた。しかし、僧侶の資格を得るにはそのための勉強をしなくてはならない。

私の実家は真言宗のお寺なので、高野山で教師資格というものを得なくては僧侶を名乗ることができない。僧侶というのは、普通のひとには許されない、とっても専門的なことをする存在だから、きちんと段階を経て、知識と経験を持っていなくては、何かをしても嘘つきになってしまう。

お坊さんというのはそういう、非常に危うい職業だと私は思う。目には見えないものを扱うからこそ、目に見えるところをちゃんとしていなくてはならないのだ。

ちなみに私の「青葉(せいは)」という名は、私が小学生のときに行った得度式の際に父につけてもらった、僧侶としての名前でもあるのだけれど、私は密教僧侶としての資格を持つことができる、最後の儀式や行までしていないので、そこまでやらなくては正式にお寺を継ぐことはできない。

そんなこんなで話がすこし変わるのだけれど、私は去年の夏に県の教員採用試験を受けた。

筆記の1次試験をクリアして、面接と模擬授業のある2次試験まで通り、最終的には繰り上げ名簿登載者になった。つまり、教員採用試験の合格者が辞退したときには私が繰り上がって正規採用になる、という補欠合格みたいなもの。

そして私の出身県の高校国語科教員の募集人数は4名で、辞退者は出なかった。

この時点で、私は卒業後に正規雇用ではなく、講師として働かなくてはならない期間ができるということになった。

もし試験に1回で通り、正規雇用の高校教員になったら、とりあえずしばらくはそのまま働いてみようと思っていた。けれど、そうはならなかったので改めてもう1度、自分の今後についてよくよく考えてみた。

そしてどうせ1度働き始めたら高野山へ行くことも難しくなってしまうのだから、もう1年間は就職せず高野山へ行かせてもらい、修行の期間に充てるほうが将来的にも賢いのではないか、という考えに至った。

そういうわけで両親や家族とも相談して、今年1年間は高野山で僧侶になるための諸々のことをさせてもらうことになった。尼僧を目指しているひとの集まる学校へ入って、勉強をしたり必要な修行のようなものをしたりする。

そう決めて実際に動き始めてから、とてもしっくりきている気がする。

私の母も大学卒業後、つまり私と同じ年齢のときに高野山へ行っているのだ。そしてそこで父と出会い、惹かれ合って結婚した。

私は将来一緒にいたい相手が既にいるけれど、私がお寺生まれだからといって、彼に僧籍を取ることを強いるのはまた話が違う。彼の人生はあくまで彼のものだし、私の人生もまたそれは同じだから。かといって、他の誰かと一緒になる気もないので、自分で密教を学ぶのが一番手っ取り早く、素敵なことなのだと思う。

それに自分で考えてみても、今このタイミングで高野山へ行くというのは、わりといい考えなのではないかと思う。

私は今年も夏に教員採用試験を受ける。それは田舎のお寺は僧侶の仕事だけでは生きていけないからだ。仕事をしながらお寺のこともこなすひとはものすごく多い。私の知っている多くのひとは、そこに葛藤を抱えながらも、懸命に生計を立てている。

教員になってしまったら、高野山へ行くなんてことはたぶん気軽にはできっこない。私はこの10年以内に家庭を持ちたいなあとぼんやり思い、恋人とも話をしているけど、家族が増えたらもっと動きが取れなくなるだろう。

そういうわけで、いまはまだ実家にいるけれど、5月の終わりが近づいたら私は高野山へ行くことになっている。それまでは実家で父にいろいろ教えてもらったり、母を手伝ったりして過ごすことになっている、というわけなのだ。

どこかのタイミングで書いて整理しておかなくてはならないことだったから、今日無事に書けてよかった。

でも、実は今日ここで書いておきたかったのはここからの話なのだ。

5月に高野山へ行くまでの空いている時間、そして秋から冬にかけての本格的な行を前に、一旦戻ってきて英気を養う夏休みに、何をして過ごすのか、ということ。

それが私の今年のもうひとつの主題でもあるのだけど、それについてはかなり固まっている。

私は去年はずっと卒論関係の読書をしていたので、今年は他の本もたくさん読みたいなあと思うのだ。それだけにとどまらず、映画を見たり音楽を聴いたり、漫画を読んだりもしたいなあと思っている。

結局のところ、私はそういう文学や芸術のようなものがどうしても必要な人間だから、今後もいろいろなものに触れていきたいのだ。そして今年はそういうことに集中するにはうってつけの1年間ではないかと思う。

みんなが不慣れな職場で一生懸命働いているのに、私だけ読書したりして過ごしているなんて、ちょっとかなり、うしろめたい気もする。

けれどこれも同じことで、きっと働き始めたら思う存分読書したり、映画を見たりする機会も限定されてしまうだろう。それに、あなたはあなたで今しかできないことをして1年を過ごしたらいいんだよって、みんななら言ってくれるような気がする。

今まで、小説はそれなりに読む機会が多かったように思う。もともと本を読むことは好きだったから、文字が読めるようになってからずっと読書はしていた。

大学では念願の文学を専攻したから、授業でもわりといろいろな小説を読んできた。先生に小説の読み方を教えてもらったから、今までのように単に主人公の思いに共感するとか、主題を理解して物事について考えるとか、なんとなく好きな場面や文章を探すとかだけではなく、文学的な読み方も身につけて、さらにいい感じに小説を読めているんじゃないかと思う。

けれど本をたくさん読んでいる、というときの、この「たくさん」というのが難しい。一体どれくらいで「たくさん」と言えるのか、私にはさっぱりわからないのだ。

たとえば「本を毎年100冊読んでいたら、たくさんと言ってもいいですよ」というように、「たくさん」を意味する絶対的な数が決まっていたらいいけど、そういうわけでもない。

そうなると相対的な数値に頼ることになるけれど、それでは誰かと比較して多い、少ないという話になってくる。大学の友人や教授の読んでいる本の量を思うと、私は眩暈がする。

彼らに比べたら私の読書量は圧倒的に足りていないからだ。

そして「自分はたくさん本を読んできたぞ」とひけらかしているひとよりも、しれっとしているけどいろんな本に触れてきているひとのほうが、私には魅力的に思える。

そしてそんなことを考えていたら、単に本をたくさん読んだからそのひとはすばらしい、というわけでもないような気がしてくる。娯楽として適当にたくさん読むよりも、1冊1冊に時間をかけてじっくりと味わって読むほうが、豊かな気がする。

死ぬまでに見ることのできる映画も、読むことができる小説や漫画も、きっと数字として出してしまえばある程度決まっている。

その限られた時間のなかで一体何を選び取るか。何と出会って、何を自分のものにしていくか。

そういうことがそのひとをそのひとたらしめるのであれば、本当に今まで触れてきたものたちこそが、そのひとを作り上げているのだろうなあと思う。

世界に星の数ほどある作品のすべてに触れられるわけじゃない。触れたって、そのすべてを自分のものにできるわけじゃない。何度も繰り返し読んだり観たり思い出したりするものもあれば、そうでないものもある。

けれど、何度も触れた作品のほうが、1度しか触れなかったものより優れているとか、そのひとを深く形作っているとも限らない。たった1度だけ見かけた文章が、何度も読み返した本と同じくらいの力を持って私のこころを揺らすこともある。

私たちは、物質的な意味でも世界にたったひとりしかいないけど、人生のどの時期に何に触れてきたのか、精神をどんなものによって造られているのかという意味でも、やはり世界にひとりきりしかいないのだと思う。

そう思うと、いま縁のあるものを追いかけて捕まえて、自分を深めていくことしかできないのだろうな、というところに最終的に収束する。

たとえば私はいま、原市子さんの「百鬼夜行抄」という漫画を読んでいるけど、これは母が集めていて家にずっとあったのに私が読んでいなくていまようやく読んでいる。

今敏監督の「パプリカ」をようやく観たけれど、これは妹が勧めてくれたから観ることができている。瀬尾まいこさんの『夜明けのすべて』は、私は絶対手に取らなかったはずだけど、高校の同級生の女の子が教えてくれたから、積読のひとつとして机に重ねられている。

自分の興味に基づいて触れるものもあれば、誰かが教えてくれてようやく向き合うことのできる作品もある。どんな有名な作品も、マイナーな作品もそれは同じこと。いま出会うべくして出会っているのだ、と思うことができる。望めば出会い直すこともできる。

私には本が最も身近で、取りかかりやすいものに思えてしまうから、映像媒体のもの(映画やアニメ)にはあんまり手が伸びない。

それは本はページを開きさえすればいつでも読むことができ、誰かに呼ばれたり用事があったりしても、さっとその場に伏せて置いていくことができるから。そこから続きを簡単に読むことができるし。

機器を使って動画を再生するまでにかかる時間が、私にはちょっと、長すぎるらしいのだ。

でも今年は食わず嫌いをせず、いろんなものに触れてみようと思う。選り好みせず、気楽に手を伸ばしたい。世界には多くの見るべきもの、聴くべきもの、読むべきものがあり、それはどんどん増えていく。しかし何を選び、そこから何を掴み取るのかは、こちらにある程度委ねられているのだ。

高野山には小説は持っていけない。決められた期間中は携帯を見ることも許されない。外部との連絡も取ることができない。

でもそれ以外の期間にさまざまな物に触れて、こころと頭を動かしておけば、私はたくさんの創作物をみんな味方にして、この身ひとつで日々と闘うことができるのだ。

だからもし、みなさんが今までに選び取ってきたものに素敵なものがあったら、ぜひ教えてください。

私も私が出会ってきたもの、出会ったものをときどきここでお伝えするかもしれませんが、「ふむ、青葉さんはこれによってつくられているんだなあ」というくらいに思っていただけますと幸いです。


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