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眠れない羊たちの沈黙

「今夜は頭がいたい」という歌詞から始まり、サビで「眠れない、無理に寝ない…」と歌っている曲を聴いてから寝てるんだよねと、数ヶ月前に妹が言っていた。

その当時、無自覚ではあったけれども、おそらく卒論執筆によるストレスのために一時的な不眠症になっていた私も、眠れない夜にその曲を聴いてみた。

けれどやっぱりなぜだかどうしても眠れなくて、夜中の3時ごろまで起きていた。

夜の10時以降に何かの返信をしたりすると「なんでこんな時間まで起きてるの?」「何かあったのか?」と心配されるほど早く眠る中高生時代を送り、大学時代もおふとんに入るなり眠りに落ちると友人に話すと、「それは気絶だよ」と言われるほどだったのに、その時期、たしかに私は眠るのにずいぶん長い時間を費やした。

眠気の訪れない暗い部屋で、ひとりで白い天井を見つめながら、私は不眠症に悩まされるひとびとのことを想った。

作品にもよるけど、眠るという行為は、文学では死というものとかかわっていることが多い。なんだかえらそうだけど、そうとしか言いようがない。

言うなれば死は永遠の眠りなのだから、眠りと死が結びつけられても、ひとつも不思議ではないのだ。

毛布に潜り込んだまま、そんなことを考え、大学の愛すべき友人たちとそういう話がしたい、と思っていた。朝が来たらみんなに会えるのに、夜のうちから会いたくて仕方なかった。

今考えてみると、私が「眠れないから、ちょっと一緒に起きていてよ」と言えば、彼らはある程度の時間まで付き合ってくれたのだろう。

だってもし友人たちの誰かにそんなことを言われたら、私はそのひとと、そのひとのために起きていることを選択するであろう他の友人たちと一緒に、朝が来ようが来まいが、喜んでいつまでも起きていただろうと思うのだ。

みんなそれに近いことを思っていたに違いない。

今はもうどうだか分からないけど、あのときの私たちの間には、確かにそういう無根拠な暗黙の了解、すなわち、互いが互いを心底好きで、そのことを互いに了承しているという、謎に満ちた自信があったのだから。

けれどそのとき、みんなそれぞれに疲れていたのも確かだったので、彼らに甘えすぎるわけにもいかず、私は冬の夜の闇を朝までやり過ごそうと必死になっていた。

頭の中で羊の数を数えながら、今ここに恋人がいたらすぐに眠れるだろうに、と私は恋人のことを考えてみるなどした。

そしてそれは間違っていなかった。

どんなに眠りたくても眠れないために夜の間中謎の焦燥を感じ、昼間は昼間で、夜には訪れてくれない眠気に襲われてうとうとする生活を送っていた私は、卒論提出締切日の2週間ほど前、地元に帰ってきた恋人が隣にいてくれるだけで、驚くほどすこやかに眠りに落ちた。

そして、朝まで一度も目覚めることはなかった。

恋人と眠るとき、私は彼より先に眠りに落ちる。昼でも夜でも関係ない。

そのときはたまにしか会えなかった、若くて未熟な私たちは、「おやすみ」と言い合ってキスするときには大抵いつも身体がくたくたにくたびれていた。朝になって、目覚めたときには、私は昨夜のどこからが夢でどこまでが現実だったのか、曖昧に思うこともしばしばあった。

おふとんの中で、「昨日はどっちが先に寝た?」と尋ねると、彼は私のことを見つめ、愛おしそうに笑って「あなただよ。すやすや寝息を立てていたから、しばらくそれを眺めてから寝たよ」などと言ってみせる。

私はいつも先に眠ってしまうので、隣ですやすや眠る恋人の寝顔を見つめるという、ロマンチックな経験に乏しい。

でもきっと、この世界にたったひとりきり、自分の横ですっかり安心しきって眠る女の子がいたら、きっとその子のことが心底愛おしいのだろう。あるいは急激に冷めてしまうか。幸運なことに、彼は前者らしかった。

私はひとりでうれしくてたまらなくなっては、「えー!何してるのさ、恥ずかしいでしょ」などと笑ってその気持ちを誤魔化したものだ。

眠れようが眠れまいが、夜というものにはたくさんのドラマがある。私が眠っている今夜眠れない誰かもいるだろうし、誰かが眠れて私の眠れない夜もあるだろう。

眠れない夜に無理に寝ないということを、幼いころから私はずっと練習している。

そしてここ数年、私は、どんなにかなしい夜だろうがすばらしい夜だろうが、最後はきっと明けてしまうということを少しずつ学んでいる。




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