ブルマン一座の読書会 (第1話/全10話)

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』

(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』


 土曜の午後六時、閉店と同時にメールをチェックする。
 受信トレイは空のままだ。
 うまくいかない原因をたどると迷宮にはまり、宣伝が足りなかったせいだとか、店に来る客から自分は嫌われているのだとか、そもそもこの田舎町に本を読む人などいないとか、極端な結論に陥る。
 壁には一カ月前に作ったチラシが貼ってある。じっと眺めていると、このチラシが酷いからではと思えてくる。
「読書会始動! 読書好きの店主・青山満(あおやまみつる)が始める新企画! 美味しいコーヒーを飲みながら、本について気ままに話してみませんか」
 読書=本=樹木、と連想して緑色、しかも目立つように明るい色をと思い、黄緑のバックに白抜き文字でメッセージを書き、ネットプリントで二百部を注文した。たしかに目立つデザインではあるが、なんだか馬鹿みたいな配色だ。読書好きな人に届けるなら、もっと渋い色で知的に攻めるべきだった。とはいえ開催まで一週間に迫った今、作り直す時間はない。
 十六年勤めた会社を辞め、カフェを開業してから二年がたつ。
 駅から遠く、大通りからはずれた店に来る客は少なく、思うように売り上げが伸びない。自分にできることは何かと必死で考え、出てきた企画が読書会だった。
 自分自身、本好きなのはもちろん、読書会が大好きだ。近場で開催されれば必ず顔を出し、誰より多く発言する。本を通じて話が広がり、深い交流ができる楽しさは格別だ。自分で企画すれば好きなように本も選べ、好きなように話せる。その上で売り上げが伸びれば万々歳だ。
 なんと素晴らしい思いつきだろう。俺は天才なのか。
 意気揚々と企画したものの、現時点で参加者が一人も集まらない。
「最悪だ」
 テーブルに突っ伏す。
 妻の美瑠(みる)がいたら、いつものように怒鳴られるだろう。
「あなた、最悪って字、知ってる? 最も悪いって書くんだけど、なに? 日本で最も悪い状況? それとも世界? これが世界で最も酷い状況なわけ?」
 想像の中とはいえ、わざわざ世界まで持ちだすのは美瑠らしい。
 彼女は去年、ふらりと店にやってきた。
「私はあなたに必要な人だと思う。
 あなたが私に必要かどうかは知らない」
 まっすぐ見つめる目に反抗はできなかった。
 三カ月後に二人は結婚した。その前後に何かの経緯があったのかもしれないが忘れた。あの言葉で青山は美瑠の勢力下に置かれ、今に至る。
 美瑠の言葉の真意は、新婚旅行先で知ることになった。
「ずっと行きたかったの」
 美瑠の一言で行き先がアフリカに決まり、インド航空の経由地ムンバイで一泊した。
 青山は自分を楽観的な性格だと思っているが、場合によって極端に心配性になる。旅先ではそれが顕著だ。空港には四、五時間前に入っていないと落ち着かず、勝手の違う海外では不安ばかりが先立つ。トランジットだから空港ホテルで過ごそうという提案に美瑠は異を唱え、街中に出たいと言い出した。
 押し切られる形でタクシーに乗り込み、インド門やタージマハルホテルを見て回った。初めてのインドはそれなりに愉快で、海岸沿いのマリンドライブは夕暮れに映えて美しかった。
 浮かれ気分で空港へ戻る途中、渋滞でタクシーが止まった。時間を計算すると、次のフライトまでぎりぎりだった。
「飛行機に乗れなきゃ最悪だよ。旅行が全部駄目になって日本にも帰れないよ」
 パニックに陥る青山をよそに、美瑠はタクシーのドアを開け、外に出た。
「行くよ」
 足早にタクシーを後にすると、美瑠はすぐそばにいた二輪のタクシー、オートリクシャーに近づく。早口で運転手と交渉し、ポケットの金を渡すと、運転手が笑顔で座席を示した。
 二人を乗せたリクシャーは猛スピードで車の間を抜けていった。快調に思えたのもつかの間、しばらく走るとリクシャーもずらりと道を埋め尽くし、よける隙間もなくなった。美瑠は運転手に耳打ちし、困った顔をされると、また金をポケットから出し、頭を叩いた。青山は生まれて初めて、札束で頬を引っぱたく現場を見た。
 ふてくされた顔の運転手が脇道へハンドルを切り、暗くなった住宅街や線路沿いの細い道を飛ばした。横たわる牛を蛇行運転で避け、豚や野犬はクラクションで追い散らす。明かりのない山道では道路脇に猿が固まっていて、怒った一匹に引っ掻かれそうになった。
 空港には出発一時間前に到着した。道中が賑やかすぎて、心配したことさえ忘れていた。美瑠は運転手に礼を言い、残りの金を渡した。
「間に合ったでしょ。心配しすぎなのよ、いつも」
 美瑠は乱れた髪を整えると、スーツケースを引いて歩き始めた。
 無事にインドを発ったあともアフリカで似たような騒動を繰り返すのだが、そんなことを思い出している暇はない。
 青山は手早く片づけを終え、カウンター席に座った。
 やはり課題図書選びが間違っていたのか。
 初回だから派手にやりたい。誰でも楽しめて、読みごたえのある作品を。
 そう思って決めたのが『テスカトリポカ/佐藤究』だった。
 文句なしに面白い小説で、直木賞受賞作だから知らない人はいない。エンタメ好きにはもちろん、純文学好きのお堅い読者にも受けそうだ。ネットでも軒並み高評価が並んでいる。
 店の中で本を読んでいる客がいれば、さりげなく勧めてもみた。チラシを見せつつ、この本なんですがと課題図書を出すと、二人に一人が「ぶあついですねえ」と苦笑する。わざわざ最後までページをめくり、「553ページですか、うーん」と顔をしかめる人もいる。
 この本だと決めた時は妙に楽観的で、読書好きなら躊躇せず読んでくれるだろうと思っていた。しかし考えてみれば、自分でも読書会の課題本が分厚いと尻込みする。期日までに読めるだろうかと思ってしまう。
 いっぽう、二人に一人は表紙を見せただけで顔を背けられる。全面に描かれた暗くまがまがしい顔に圧倒され、読みたい、面白そうというより、怖いという感情が先に立つらしい。
 馬鹿だった。自分の思いだけで突っ走り、参加する側の気持ちを考えていなかった。これでは誰も来てくれるはずがない。このままでは読書会は開催できず、やがて店も潰れてしまうだろう。
 相当思い詰めて家に帰ったらしい。
 気づけばダイニングテーブルで頭を抱えており、ねえ、ねえとくりかえす声で青山は我に返った。
 キッチンの入り口に美瑠が立っていた。店から帰る途中の景色も、帰った時に美瑠がどう迎えたのかも覚えていない。
「なに?」
 うつむいたまま問い返す。
「さっきからぶつぶつ言ってて、なに聞いても返事してくれないし」
「ごめん。ちょっと考えごと」
「読書会でしょ。課題図書がどうとか、なんでこうなるんだとか」
 顔を上げ、美瑠を見た。情けなさと涙が同時にこみ上げてくる。
「誰も来てくれないんだよ。宣伝もちゃんとできてないし、そもそも課題図書選びがまちがってるし」
「最悪だ、って言いたいわけ?」
 美瑠が腕を組む。
「言ってないよ」
 涙が落ちそうになり、慌てて立ち上がる。冷蔵庫から缶ビールを出し、勢いよく開けて口をつけた。哀れむような視線が痛い。
 美瑠は静かに歩み寄り、半開きになった冷蔵庫の扉を閉めた。
「なんとかしてみようか」
「え?」
 美瑠の表情をうかがい、真意を探る。
 参加の呼びかけは思いつく限りの知り合いに送ってある。これ以上、なにができるのか。
「一日、待って」
 美瑠は素早く立ち上がり、自分の部屋に入っていった。閉じた扉の向こうからパソコンのキーを叩く音が響き、それは一時間以上もつづいた。部屋から出てこない美瑠にかける言葉もなく、青山は一人でベッドに入った。
 翌朝目覚めると、いつの間にか美瑠が隣で眠っていた。静かに起き出し、いつものとおり簡単な朝食を作った。
 青山が店に出る九時前になって、ようやく美瑠は起きてきた。眠そうな顔でキッチンに入ってくると、彼女はポットに入ったコーヒーをカップに移した。
「六人いれば、なんとかなる?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 美瑠は赤い目をしてこちらを見ていた。
「参加者。読書会の。たぶんそれくらいは大丈夫だと思う」
 二口ほどコーヒーをすすると、美瑠は洗面所へと消えた。
 その日のうちにメールは届いた。三通それぞれ簡単な文面で、読書会参加希望、友人を連れていきますとの内容だった。
 これで開催できる。美瑠がどうやって人を集めたのかは気になるが、詰めの作業を怠るわけにはいかない。課題図書をもう一度読み直し、ポイントをまとめた。印刷したレジュメはA4用紙五枚に及んだ。
 準備は完璧と思ったが、当日の朝になり、ふたたび不安が頭をもたげた。
 課題図書が不評だったらどうしよう。もしも話さない人ばかりだったら、会が盛り上がらなかったらどうしよう。青い顔で部屋を歩き回っていたら、久しぶりの休みで寝ていた美瑠が起きてきた。
「また心配してるの? 参加者がいたんだからもう大丈夫でしょう」
「でもさあ、なにが起こるかわからないじゃない。たとえば予定が変わって来られなくなるとか」
「六人全員が?」
「可能性としてだけど」
「可能性って言い出したらなんだってあるよ。あなた、ときどきその癖が出るね」
 言われて頭に浮かんだのがアフリカ旅行だった。
 インドで猿に引っ掻かれた傷が赤くなり、いくら洗っても腫れがひかない。狂犬病ではないかと考え始めると、寝られなくなった。
「皮膚は裂けてないから大丈夫だって」
 美瑠がなだめてくれたが、
「可能性はゼロじゃないから」
 とホテルでふさぎ込んでいた。
 美瑠は静かに部屋を出ていくと、ナイロビ市内を駆け回って病院を探し、タクシーで連れて行ってくれた。検査は怖いからと断っても看護師と美瑠に組み伏せられ、血を抜かれた。診察はすぐに終わり、医者に笑われて病院を出た。
 ホテルには、各階にライフルを持った警備員が立っていた。頻繁に強盗事件が起こると聞けば、また寝られなくなった。
「だって、警備員の隙をついてとか、警備員を殴り倒して入ってくる可能性はあるだろう」
「ちょっと待ってて」
 美瑠はまた静かに部屋を出ていき、戻ってきたその手にはライフルが握られていた。
「余ってるのを無理言って借りてきた。これで安心でしょ」
 ライフルを壁に立てかけると、美瑠はベッドにもぐりこんだ。
 その後も、数々の危機を美瑠に救ってもらった。今回の読書会が開けるのも彼女のおかげだ。そう考えると、不安はゼロにはならないが、心強くはある。
 開店後は店の通常業務をこなし、午後一時三十分に店を閉めた。午後二時からは読書会のみの営業となる。
 十分前になり、窓の向こうで音がした。
 駐車場に停まった車から、二人が歩いてくる。
「こんにちは」
 探るような声で入ってきたのは、背格好のよく似た青年二人だ。青山は最近、二十代の若い人が同じ顔に見えて仕方がない。
「こんにちは。読書会ですね」
 笑顔で二人を迎える。
 先に入ってきた男性が、視線を合わさずにお辞儀をした。シャイなのかもしれないが、あまり行儀が良くない。サマーセーターから筋張った首が伸び、腕も女性のように白くて細い。
 いっぽう、後から入ってきたほうはがっしりした体格で、自信に満ちた顔つきだ。最初のほうがIT技術者、後のほうが営業マンか政治家秘書といったところか。どちらもソフトモヒカンを横に流した髪型なので同じ顔に見えるが、体格で区別はつきそうだ。
 つづいてやってきたのは、一見して親子とわかる二人連れだった。母親は美瑠と同世代、娘は中学生か高校一年生くらい。意志の強そうな瞳と、がっしりしたあごのラインがそっくりだ。
「よろしくお願いします」
 母親が大きな声であいさつをしたあと、
「お願いします」
 とこだまのように娘が続けた。
 母親は袖にフリルのついた濃紺のトップに、スカートのようなワイドパンツ。都会的なセンスを感じるものの、化粧越しにわかる目元のくすみで不健康さが際立つ。娘は学校の制服を着ており、ブラウスの胸で水色のリボンが揺れている。二人そろってそそくさと奥まで進み、席につく。
 四人をテーブルに案内し終えたところで、ふたたび扉が開いた。入ってきたのは、見るからに生地の良いグレースーツを着た初老の紳士、もう一人はパステルブルーのワンピースを着た中年の女性だった。
「いらっしゃいませ」
 青山の出迎えに、紳士はしかめっ面を崩さず、女性は申し訳なさそうに頭を下げるだけだった。
 違和感があった。
 参加者全員の雰囲気や顔つきが、いつも参加する読書会とかなり違う。読書会に来たというより、妙なところに連れてこられたような顔をしている。今日の読書会がどうなるのかふたたび不安が募るが、ここであがいてもしかがたない。勇気を奮い起こさねばならない。
 他の車が来ないことを確認し、六人が席についたテーブルへと近づく。
 最悪ではないから、と何度も自分に言い聞かせる。
「今日はお集まりいただきまして、本当にありがとうございます。店主の青山満と申します」
 あいさつの言葉を、参加者たちは固い表情で聞いていた。
 やがて青山が自己紹介を終える頃、派手な音を立てて店の前にバイクが停まった。
 見なくてもわかる。あれは美瑠の乗る四〇〇㏄だ。今日はコーヒーの準備を彼女に頼んである。
 扉が開き、美瑠が入ってきた。片手にヘルメットを下げ、背中に届く髪が乱れている。一瞬、六人の目が美瑠に集まり、彼らの表情が変わったように見えた。
 ふと、ここにいる者全員が美瑠の関係者だと気づき、不思議な気持ちにかられる。いったいどういう関係なのだろう。
 今日の美瑠は、自宅でテレワークのはずだ。急いで抜けて来たのか、朝と同じくベージュのTシャツにジーンズのままだ。
 美瑠はテーブルに軽く目をやり、すぐにカウンターの奥に向かった。Tシャツのすそにシミがあって部屋着にしたはずだが、と思っていると、それを隠すように手早くエプロンを装着した。
 青山は、参加者たちの関心を引き戻すように声を張り上げる。
「それでは読書会を進めたいと思います。しばらくのちに、コーヒーをお持ち致します」
 全員の視線が戻ったのを確認し、テーブルに置いてあった本を手にとる。
「今回の課題図書は、佐藤究さんの書かれた『テスカトリポカ』です。KADOKAWAから出版されています。けっこう分厚い本でしたが、みなさん、お読みになられましたか?」
 一瞬、場が静まり返る。小さくうなずく者、左右に目をやる者。
 未読の人はいなさそうだが、と思っていると、小さな笑い声がした。スーツを着た老紳士だ。
 青山を含めたいくつかの視線に気づき、紳士はひとつ、こほん、と咳をすると、
「いや、本当に分厚かったなあと思って」
 と取り繕った。
 全員が激しくうなずく。今日、一番の反応だった。
「すみません、こんな本を選んでしまって」
 青山は頭を下げた。申し訳ない思いがしたが、場が和んだことに安堵もした。
「それでは最初に私から、簡単なあらすじをご紹介します。なにか間違いがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
 青山は大きく息を吐いてからレジュメに目を落とし、話をはじめる。

 物語の発端は、麻薬カルテルのはびこるメキシコの犯罪都市。
 兄を殺され、命がけで国を脱出した十七歳のルシアは、流れ着いた日本で暴力団員と出会い、子供を産む。息子の名はコシモ。凶暴で名高い父親の血を引き継いだコシモは、やがて身長二メートルを超す大男となり、怪物性を目覚めさせていく。
 いっぽうメキシコの麻薬抗争は激化を極め、二大勢力のひとつ、エル・カサソラズが新興勢力により壊滅させられる。唯一生き残った幹部のバルミロは、命がけの逃避行でインドネシアへと逃げ延びる。そこにはもう一人の主人公、末永がいた。
 高名な心臓外科医だった末永は、日本で不祥事を起こし、ジャカルタに身を隠していた。バルミロと出会った末永は、自らのオペ技術を生かした臓器売買ビジネスをもちかける。二人は密かに日本へと渡り、着々と準備を進めていく。
 こうして麻薬カルテルの生き残りと凄腕の心臓外科医がタッグを組み、大きな闇ビジネスが日本の地に誕生しようとしていた。

「と、こんな感じでよろしいでしょうか」
 いったん言葉を切り、周囲を見渡す。
 とくに反論はなく、何人かが本をぱらぱらとめくる音がする。
「それでは、お一人ずつみなさんから、簡単な自己紹介と、本の感想をお聞かせいただければと思います。細かいところは後でじっくりやりますので、本当にざっくりした感想で大丈夫です」
 一気に六人の緊張が高まる。
 読書会に出るとよくわかるが、楽しむために来ているのに、いざ自分の感想を披露するとなると緊張する。自分の感想は正しいのか、他の参加者と違っていないか。感想に正しいも間違いもないはずだが、自分が気に入った小説を他の人がけなしたりすると、読書会の雰囲気も微妙なものになってしまう。
 大丈夫だよ、と言ってあげたい。意見の違いは主催者の自分がなんとかするから、不安になることはないんだよと。
「それではそちらから」
 一番乗りだったIT技術者風の青年に手のひらを向ける。
「僕ですか」
 困ったような笑いを浮かべると、青年は本を手に取った。
「はじめまして。桐間(きりま)と申します。青山さんの、奥さんと同じ会社で働いています」
 美瑠に目をやると、声は届いているはずだが反応はなく、コーヒーの準備に忙しそうだ。
「本は昔から読むんですけど、ビジネス書とか、小説なら日本の純文学が好きですね。あと、うちの祖父がずっと台湾に住んでたもので、台湾の小説なんかもたまに読みます」
「それは頼もしい」
「今回の本、こういう派手なエンタメ系ってあんまり読んだことなくて、すごかったなあっていうのが率直な感想ですね。ハリウッド映画なみの迫力で、たぶんこれ映画化されるんじゃないですか」
 桐間の発言が終わったのを確認し、隣の青年をうながす。
「健矢(けんや)と申します。下の名前ではなく、苗字です。今日は桐間君に誘われて来ました。それでこの本、残酷描写がすごいじゃないですか」
「まずはそこですよね」
「僕、本より映画をよく見るんですけど、アクションものが大好物で、ハリウッドの大作も日本のアクション映画も好きなんです。『アウトレイジ』とかたけし映画は全部見てますし、他にも『バトル・ロワイヤル』とか『クローズZERO』とか、昔だったらやっぱり『仁義なき戦い』ですね」
 隣で桐間が吹き出す。
「アクションっていうか、バイオレンスな」
「そうそう」
 健矢も破顔してうなずく。
「バイオレンス、好きなんですよ。今回、小説でもこんなすごいシーンが書けるんだってびっくりしました。で、今日、子供さんがいらっしゃってるのにもびっくりしてて」
 健矢は隣に座る親子に目を向けた。
 母親は自分達への視線に気づき、
「この子?」
 と娘を指さした。
「この子なら大丈夫だから。いつも変な本ばっかり読んでて、あたしが知らないこといっぱい知ってるの。耳年増ってことで、気にしないで」
 早口で説明する母親を、隣の少女がにらみつける。太い眉と切れ長の目が勝ち気な印象を与える。
 返す言葉が見つからず、
「それでは」
 と母親に手を向けた。
「萬田凛(まんだりん)、といいます。今日は、青山さんの奥さんが高校からの友達で、ご紹介を受けて来ました。
 本の感想ですけど、あたし、こういう本あんまり読んだことなくて、こんなに分厚いでしょう。値段もけっこうするなあって思ってたら、この子が」
 萬田が娘の背に手をやる。
「たまたま買って読んでたんですよ。変な子でしょう?」
 青山はふたたび返答に困り、無言で首を横に振る。
「だって、お小遣いなんてそんなにあげてないのに、よくこんな高い本」
「無駄遣いしないもん」
 ぶっきらぼうに娘が言う。
 萬田は何も返さない。
「で、娘のを借りて読みました。感想は、あたし、ぜんぶ理解できてるか自信ないんですけど、どんどん人が変わっていくのがすごいと思いました」
「人が変わっていく、というと?」
「最初、メキシコから話が始まるじゃないですか。あの女の子の」
「ルシアですね」
「冒頭でお兄さんが殺されちゃう」
 ルシア・セプルベダは、兄とともに貧しい暮らしをしている。兄は安定した職を求めアメリカへ渡ろうとするが、麻薬カルテルに目をつけられ殺されてしまう。兄の葬儀を終えたルシアは、生き延びるために命がけでメキシコからの逃亡を図る。
「ルシアが主人公だと思って読んでくと、今度はその子供の話になって」
「コシモですね。そうやって、どんどんつながっていきます」
「一人の物語がしっかり描かれて、さあこのあとどうなるって時に別の話になっちゃう。だから次を読まされちゃうんですよ。ずるいんじゃないかな。そこがうまいんだろうけど」
「うまいですよね。一人一人がちゃんと書き込まれてるから、この先どうなるのかが気になって、読むのを途中でやめられない」
 話しながら、自然と笑みがあふれてくる。
 自分が選んだ本をほめてもらえるのが、たとえようもなく嬉しい。
「アステカの話のとこは、片仮名が多くて参りましたけど」
 萬田が眉を下げる。
「あそこは僕もそうでした。でも、アステカの歴史や文化が理解できると、バルミロっていう稀代の悪漢がなぜ誕生しなきゃいけなかったのか、リアルに伝わってくるんですよ」
「あのおばあちゃん! バルミロの」
「リベルタですね。あのおばあちゃんがアステカの魂をバルミロに吹き込むんです。僕、そのあたりもまとめてきました」
 青山はレジュメの該当部分を読み上げる。

 リベルタの本当の名前は〈テスカキアウィトル〉という。
 彼女は六歳になったある日、老いた村長に呼びつけられる。村長はリベルタに、おまえの先祖はアステカ王国でテスカトリポカという神に仕えた神官だったと告げる。彼女の名前の「テスカ」がその証であり、たとえ貧しくとも、自分が特別な一族に属していることを忘れるな、と。
 いっぽうリベルタの父親は、アステカの名を口にすることを禁じた。残酷な神々を現代に蘇らせるより、貧しい暮らしを送ったほうがましだと彼は考えていた。
 成長したリベルタは、アステカ信仰を隠して生きていた。ところが、夫が野良犬に噛まれて狂犬病を発症し、悪魔に憑かれたようにわめきながら死んでいく姿を見て、アステカの呪いだと解釈する。
 その後、長男が五人の子供をもうけ、その末っ子が再び狂犬病で悶死したとき、リベルタは悟る。これはアステカの怒りなのだと。
 リベルタは、残った四人の孫にアステカの教義を伝え、雄鶏の心臓を捧げる儀式を見せる。この世に起こる災厄は、いけにえを捧げることで収まると叩き込むのだ。この四人の孫の一人が、バルミロだった。

「ざっくりまとめるとこんな感じですね」
 青山の言葉に、萬田がうなずく。
「リベルタおばあちゃんすごい、って思います。良くないことが起きるたび、これはアステカの呪いだ、暦にちゃんと書いてあるよ、なんて勝手に解釈していく。だから血の儀式が必要で、いけにえを差し出さなきゃってことになる。ちっちゃい子供の頃から毎晩そんな話を聞かされたら、バルミロみたいになるのは仕方ないかも」
「そうですね。ありがとうございました」
 青山は満足し、頭を下げた。
「こんにちは」
 隣に座る娘が、固い声で口を開く。
「あの、本を読むのが好きで、でも別に変な本ばっかり読んでるわけじゃなくて、この本もすっごい面白いって聞いて、直木賞も獲ってるし、クラスで読んでる子もいるし、だからそんなに変ってるわけじゃないんです」
 娘は顔を斜め下に向けた。
「そんなのいいから、自分の名前を言って」
 萬田が呆れた声を出す。
 娘は横目で母親をにらみつけた。
「すみません。古志田理花(こしだりか)、といいます」
 苗字が違うんだ、と思っていると、
「この子はね」
 と萬田が口を開く。
「離婚した元亭主の苗字を名乗ってるんです。だから私たち、正真正銘の親子」
「なるほど。理花さんは、この本の感想はどうでしたか」
 なるべく優しい声を出すよう努める。
 理花は、カバンからA5サイズのノートを取り出した。覗き見ると、びっしり文字が書きこまれている。
「まず、メキシコの麻薬事情がよくわかりました。最初にルシアがメキシコから逃げる時も、ここまで命がけじゃないと駄目なら、私、大きくなってもメキシコには行かないと思います」
 一同が笑う。ただ、そこまで思えるというのは、この本を存分に楽しんだ証拠でもある。
「だって、こんな風に書いてあるんですよ。〈麻薬密売人による虐殺は、避けがたい自然現象と呼べるまで日常に浸透していた〉。自然現象みたいに殺されるって、やってられないですよね」
「メキシコは映画でもそんな感じですよ」
 健矢が割って入る。
「この本にもありましたけど、カルテルがらみの捜査のとき、警官は目出し帽をかぶるんです。相手に顔を知られたら、その警官が家族ごと殺されちゃうから。どんだけ怖いとこなんだって思いますよね」
 理花が大きくうなずき、話を続ける。
「さっきバイオレンスがすごいってお話されてましたけど、ずっと暴力の話ばっかりですよね。ルシアが生んだコシモがあんな事件を起こして、そのあと出てくるバルミロがまた本物の悪党で、どこまでひどいことが起きるんだろうと思いながら読んでました」
「のっけからバルミロは暴れまくりですから」
 健矢が嬉しそうな声を出す。つられて理花も声を高める。
「ですよね。さすが巨大組織のリーダーっていうか。そしたらいったん話が中断して、バルミロのおばあさん、リベルタが出てきます。ここでアステカの歴史が語られて、アステカの勉強にもなりました。で、私もここで苦労しました。漢字に片仮名のルビが振ってあるんですけど、『神官』が『トラマカスキ』だったり、『われらは彼の奴隷』と書いて『ティトラカワン』と読ませたり、あれってスペイン語なんですか」
「スペイン語とアステカの言葉、両方かなあ」
 青山は首をひねる。
「私、漢字と片仮名のどっちで読めばいいのかわかんなくて。すみません、関係ないとこで」
「僕もそこは苦労しましたよ。ここにいる皆さん、同じだと思います」
 青山がフォローすると、参加者の大半がうなずく。
 理花はほっとしたように、表情をゆるめた。
「青山さんがさっきまとめてくださったように、リベルタのパートがあるおかげで、バルミロがあそこまで凶悪になった理由がわかった気がします。殺したいけにえの腕をリベルタが処理するのを見て、バルミロが例の拷問を思いつくわけですよね」
「あれはねー」
 該当のシーンを思い出し、思わず顔をしかめた。
「それで、新興勢力にやられたバルミロがインドネシアに逃げ延びて、心臓外科医の末永と出会うんですけど」
「あんたそれ、ぜんぶ話すつもり?」
 萬田があきれた口ぶりで、理花の手にしたノートを見る。
「長すぎますか?」
 理花が首をすくめ、青山に目をやる。
「だいじょうぶですよ」
 青山の言葉に、理花がうなずく。
 同時に桐間も、
「だいじょうぶです」
 とつづけた。「ちょうど内容のおさらいになりますよ。僕、あなたほどしっかり読んでないんで」
 小さな笑いがおこり、雰囲気が穏やかになる。
 理花はつづけてノートをめくる。
「末永って人も、最初は紳士っぽい感じだったのが、だんだん経歴が発覚して、たくらみもわかってきますよね。手術の腕前とか、あれって本当のお医者さんが読んだらどうなんだろうって思います。末永がバルミロと知り合いになって、最初はお互いに探り探りだったのが、徐々に仲良くなっていきますよね。それで一緒に日本に来て、計画が進んでいく。その辺がすっごい面白かったです」
「ありがとうございました」
 ここで青山は間を取り、一区切りつける雰囲気を作った。理花はまだ話を続けたそうだったが、次に回す頃合いだろう。
「また詳しいところは後でお聞きしますね。それでは、次の方」
 男性は、参ったという風に首をすくめた。
「なんか、ぜんぶ話されてしまったようで。もう言うことない気がしますが」
「そんなことありませんよ。でも、わかります。感想を言うときは、あとのほうが不利なんです」
 青山は笑った。「重なっていても大丈夫ですので、簡単なご感想をいただければと思います」
「粉岡(こなおか)と言います。クリニックで、内科医をやっております」
 いたずらっぽい笑みを浮かべ、粉岡はちらりと理花に目をやった。
「お医者さんでしたか。それは」
 と青山も理花に目を向ける。「興味深いご意見がお聞きできそうですね」
「どうでしょう。あの手術のことでしたら、私の知識のかぎりで言えば、おかしいところはなかったと思います。内科医ですので、詳細はわかりませんが」
「おお」
「すごーい」
 参加者から声があがる。
「別にすごいことはないんですが」
 と粉岡は恐縮する。
「巻末の参考資料を見ると、心臓移植関連だけで三冊もあるんですよ。アステカとかメキシコの本はさらにたくさんあって、リアリティという意味では相当しっかりしてるんじゃないでしょうか」
「だと思います」
 青山は強くうなずく。
「他の皆さんがおっしゃるとおり、エンターテインメントとして迫力のある作品ですし、著者は相当な手練れだと思います。アステカと臓器売買を結びつけるとはね」
「この小説の最大のアイデアです」
「現実の取り入れ方も巧みです。東京オリンピックのせいでホテルの部屋が足りなくなって、クルーズ船を停泊させるホテルシップ構想が生まれる。そこで川崎港のターミナルが使われることになって、インドネシアから大型クルーズ船が入ってくる」
「手術室が船内に作られて、臓器売買の拠点になるんですよね」
「現実とフィクションの見事な融合だと思います。コロナ禍も関連してきたりして、本当に感心しました。ただ」
 粉岡はいったん言葉を切り、手にした本をぱらぱらとめくった。
「さっきの心臓移植の話ですが、リアリティは問題ないと思うんですけど、末永という男の心情についてはどうかなあ」
 粉岡は薄く笑いを浮かべる。人を見下す顔つきにも見える。
「末永は、自分の手術が人を救うことを、神に挑戦する行為と思っています。手術そのものが生きがいだったんですね。なのに不祥事を起こし、日本にいられなくなった。だとしたら、どこか別の国で普通に医者として働いたほうが意志に合うし、金も儲けられるんじゃないのかなあ」
「僕は医者じゃないから、なんとも」
 青山は参加者を見渡す。同じようにピンと来ていない顔が並んでいる。
「だって、臓器売買だとどうしてもいろんな組織に話を通す必要があるでしょう。実際、イスラムのテロ集団グントゥル・イスラミとか、中国黒社会の新義安(サンイーオン)とか、日本の暴力団もからんできます。いかに末永の腕が優れていても、儲けはごっそり持っていかれて、彼の取り分なんてたかがしれていると思うんです」
「ははあ」
 と反応したのは桐間だった。
「それこそリアルな話ですね。僕らにはよくわかりませんが。でもこの小説、どこまでいっても金の話だよなあ」
 桐間は諦めのような表情をした。
「そんなことないだろ」
 隣の健矢が反応すると、
「そんなことあるよ」
 と桐間が即座に返す。
「だって、ルシアの兄貴がアメリカに行こうとしたのも、金を儲けて家族に楽させたかったからでしょう。自由を求めて日本に来たルシアも、結局金が回らずにヤバい仕事で身を落としていく。バルミロはバルミロで、組織を立て直すのに巨額の金が必要だからビジネスを始めるわけです。やっぱり世の中、カネですよカネ。ほんともう、どうしようもない」
 粉岡は桐間の意見に同意も反対もせず、穏やかに話を続ける。
「アステカの歴史のあたりですけど、私もみなさん同様、あそこは読むのに苦労しました。さすがにあれは長すぎませんか」
 粉岡が参加者全員に問いかける。
 萬田は神妙にうなずき、他の参加者たちは首をひねりながら該当ページをめくる。
 マイナスの意見が出され、場の雰囲気が変わろうとしている。
 これも読書会ではよくある話だ。
 かしゃん、と耳元で音がした。
「お待たせしました」
 隣を見ると、美瑠がトレイを持って立っていた。
 コーヒーができあがったらしい。
「お話の途中、失礼いたします」
 無表情のまま、美瑠が机にコーヒーを置いていく。
 萬田のカップが置かれたとき、
「あんたは出席しないの?」
 と萬田が美瑠を覗き込んだ。
「私はこれだけ」
 美瑠は一瞬、動きを止めてから、また次のカップを置いていく。二人とも固い表情を崩さない。そのやりとりを見ていると、二人は本当に友達なのかと疑ってしまう。
 全員にコーヒーが行きわたると、美瑠はメモを手渡し、カウンターへ戻っていった。
《あとはよろしく。私の話題が出ても、膨らませなくていいから》
 真意を計れないままに青山はメモを折りたたみ、ポケットにしまった。
「ひきつづき、感想をお聞きしたいと思います」
 粉岡の隣の女性が口をひらく。
「みなさん初めまして。茂方真理(もかたまり)と申します。草木が茂るの簡単なほうの字に、方角の方で、茂方です。今日は粉岡先生のご紹介で参りました。先生と同じ診療所で、看護師をやっております。本の感想ですけど、みなさんのおっしゃった通り、とにかくこのパワーに圧倒されました」
 全員がうなずく。
「ホラーでもないのに、得体のしれないまがまがしい空気が漂ってくるんですよね。夜に一人で読んでると薄ら寒くなってくるので、なるべく日中に読むようにしました。何より、この表紙がすごいじゃないですか」
「そうそう」
 萬田が声をあげる。
「これは強烈ですよね」
 と青山も表紙をみつめた。
 アステカの畏怖を具現化したような顔が、飛び出さんばかりに描かれている。
「昼間でも、表紙見るだけで怖いんですよ。で、バルミロと末永が商売の準備を始めて、不穏な空気がどんどん高まっていくでしょう。たとえば」
 と、茂方はページをめくる。
「こんな記述があるんです。自動車解体場を経営する宮田っていう人の視点です。
〈今や自分の所有する自動車解体場は、ヤクザよりも危険な連中に支配されていた。平気で人を殺して溶かしたチャターラ、闇医師が突然連れてきた得体の知れないペルー人。そのペルー人の命令で猟犬が撃ち殺され、まだ生かされている猟犬もいた。敷地内でおそらく何千発も撃たれた散弾、ガレージで見た血と臓物の入ったバスタブ、自動車解体場は悪夢に満ちており、なかでも宮田にとってもっとも怖ろしいのは、これらの悪夢の背後で本当は何が起きているのか、まったくわからないことだった〉。
 うわー、って思いません?」
 たしかにこの本を象徴する描写だ。派手なシーンがたくさんある中で、あえてそこを抜き出す茂方にも感心する。
「そこって、シカリオを育てていくところですよね」
 健矢が楽しそうな顔をする。
 シカリオとは殺し屋のことだ。体つきのたくましい彼なら、すこしがんばればシカリオの候補になれるかもしれない。
「僕はそこ、読むのが辛かったんです」
 健矢の隣で、桐間が両眉を下げる。
「僕、犬が大好きなんですよ。昔、実家でボーダーコリーとシェパードを飼ってて、とにかく大型犬が好きなんです。この本に出てくるドゴ・アルヘンティーノなんて、憧れの犬種ですよ。普通には買えなくて、個人輸入するしかありません。その犬を、シカリオ教育のために殺すってひどくないですか? 一頭いくらすると思ってるんですか」
「また金の話かよ」
 健矢が笑う。
「金だけじゃないんです。大型犬って人間と同じくらいの存在感があるから、本当にかわいいんですよ。さんざん愛情をかけて育てて、そのあと自分で殺すなんて、よくそんなことできるよなって」
「さんざんかわいがってた犬を殺せる奴だから、簡単に人も殺せるんですよね」
 茂方がさらりと言う。地味でおとなしい風貌で言われるとぞくっとする。
「とにかく」
 と桐間は不服そうな顔でつづける。
「犬小説として読めば、なかなか辛い話ですよ、これは」
「犬小説じゃないから」
 と、今度は萬田が吹き出す。
 桐間は子犬のように静かになった。
「でも、犬のイメージは最初から出てきますよね」
 と青山はフォローした。桐間がなんだか哀れに思えたのだ。
「ほら、バルミロ達を壊滅させた新興勢力の名前が」
「ドゴ・カルテル!」
 と桐間が即答する。
「そのとおり、ドゴ・カルテル。犬連合、ですかね訳すとしたら」
「犬連合って」
 どっと笑いがおこる。
 桐間の言った犬小説というくくりは悪くない。小説の読み方は人それぞれだから、犬の小説として読んでも一向にかまわない。誰も思いつかない読み方を披露しあえるのも、読書会の醍醐味の一つだ。
「私がもうひとつ面白いなと思ったのは」
 と、茂方が座を静める。
「この小説って、派手な立ち回りをするのは男性ばかりじゃないですか。でも、意外に女性も活躍してるんですよ。たとえば臓器売買のための子供を育てる施設に、宇野矢鈴さんっていますよね。矢鈴は、子供を預かる仕事に使命感を持っています。裏の実態を知らずに、施設で子供の世話をしています。バルミロやシカリオ達にかかればイチコロだと思うんですけど、最後に重要な役目を果たすんですよね」
「たしかに」
 青山は後半の展開を思い出した。矢鈴は物語に翻弄される立場だが、言われてみれば意外にしぶとい。
「この凄絶なお話のなかで、彼女が一服の清涼剤っていうか、ほっとする存在になってますね」
「そして、バルミロを育てた祖母のリベルタですね。あの人がなんというか、ザ・やり手ばばあって感じ?」
 どっと笑いが起こった。
「やり手ばばあって!」
 健矢が手を叩いて喜んでいる。
 茂方は自分も笑いつつ、
「だって」
 と続ける。
「彼女が一人でアステカの歴史を背負って、麻薬カルテルを作り出したわけでしょ。アステカはスペイン人に壊滅させられたけど、実は死に絶えてなかったって話すとこもすごいんです。
〈アステカは、征服者のものにならなかった。連中はアステカの怖ろしい神々を怒らせたよ。白人の文明に取りこまれたふりをして、アステカの神々は奴らのはらわたを食いちぎり、首を切り落として回ってるんだよ。麻薬戦争は終わらないだろう? あれは呪いなのさ〉って。むちゃくちゃ説得力ありますよね」
「アステカを乗っ取ってメキシコに住み着いた白人が、自分たちで麻薬戦争を引き起こして恐ろしい社会にして、それが実はアステカの呪いだったっていう」
「そうなの。えらいことやっちまっただ、って感じ?」
「よく読んでるねえ」
 隣の医師、粉岡が感心して腕を組む。
 茂方は粉岡に向き直り、
「だから、この小説の大事なところを握ってるのは女性だってことですよ」
 とわざとおどけた風を装った。
 粉岡は無感情な表情を崩さないでいたが、ややあって
「私は」
 と口を開いた。
「やり手ばばあはいいとして、矢鈴って女性ね。あれ、コカインやってるからね」
 すっと笑いの波がひく。
 たしかに矢鈴は登場してすぐ、仕事の疲れをいやすためコカインを吸っていることが明かされる。
「そういうのは受け入れがたいですよ。だってみなさん、自分の子供を保育園に預けたとして、そこの保育士がコカイン吸ってたらどう思います?」
 うーん、と全員が考え込む。
 青山は説明の必要を感じ、口を開く。
「そこが人間の複雑さじゃないでしょうか。結局、完全な善人も完全な悪人もいないわけでしょう。矢鈴がコカインを吸ってるのも、そうしないと耐えきれないほど厳しい状況だったからです。そりゃあ手放しで許せるわけじゃありませんが、その一方で子供を助けたいという彼女の気持ちも嘘じゃない」
「あたしは粉岡さんに賛成」
 固い声が聞こえた。萬田が手を挙げていた。
「だって、メキシコの麻薬戦争が終わらないのは、矢鈴みたいに簡単にドラッグ買っちゃう人がいるからですよね。どこか抜けてる感じもするし、あたしはあんまり好きになれないなあ」
 突き放すような口ぶりは、薬になにか恨みでもあるのだろうか。
 ただ、粉岡の意見も否定はできない。自分に子供ができたとして、そういう保育士のいる保育園に預けたいかと言われたら、嫌だと答えるだろう。
「それからさっき青山さんが言った、矢鈴が清涼剤っていう表現もあたし的にはどうかなあ。矢鈴が清涼剤的な役割を果たしてるわけではないし、結局、コカインを餌に利用されてるだけじゃないでしょうか」
「青山さんが言ったのはそういうことじゃないよ」
 萬田の隣で、理花がたしなめる。
「読む人にとっての清涼剤ってこと。たくさんの人が悲惨な殺され方をして、その合間にアステカの神様や儀式の話があって、面白いけど疲れちゃうでしょう。そこに矢鈴みたいな普通の人が出てくると、癒されるというか、こういう普通の人もいるんだって安心できるじゃない」
「わかるけど、でもやっぱり矢鈴は好きじゃない」
「それはお母さんの勝手だけど」
 萬田はそこで口を閉ざした。
 理花が申し訳なさそうに青山をうかがう。
「ありがとうございました」
 青山は理花に笑顔を向けた。萬田の言葉に一瞬むっとしかけたが、理花の言葉で救われた。
「さっきは犬小説という読み方が紹介されましたけど、茂方さんによると、女性小説という読み方もできるわけですね」
「半分こじつけですけど」
 茂方が肩をすくめる。「それで言い忘れたんですけど、女性小説で、しかも犯罪小説ってことで、ひとつ思い出したのがあるんです。今日、持ってきたんですが」
 茂方はカバンを探り、一冊の本を出した。
 夜明けのようなくすんだグレーを背景に、一人の女性が物憂げに立っている。
「きれいな表紙ですね」
「『消失の惑星(ほし)』という本です。今年読んだ海外小説では、これがベストかな」
 参加者の注目が一気に集まる。
「どんな話です?」
 青山も身を乗り出す。
「書いたのはジュリア・フィリップスっていうアメリカの女性作家ですけど、舞台はロシアのカムチャツカ半島なんです」
「カムチャツカっていうと、ロシアの東側の?」
「千島列島をたどった先くらいですね。そこに住んでる幼い姉妹が、夏の日に失踪するんです。この事件をめぐって、町に住む女性たちの人生が浮き彫りにされていきます」
「ミステリー小説ですか?」
 茂方は首を横に振る。
「犯罪を描いているけど犯罪小説ではなくて、犯罪を軸にした人間ドラマなんです。そこがとんでもなく面白いんです」
 熱っぽく語る茂方に、必死でメモを取りながらうなずく。
 茂方は本を粉岡に手渡し、粉岡はぱらぱらとめくったあと、また隣へと手渡した。
 理花は大事そうに本を開き、最初にある地図に目をとめた。
「これがカムチャツカ、ですか?」
 理花の開いたページには、全面に細長い半島の地図が載っている。
 ページを開けたまま萬田が本を受け取る。萬田はその前後のページをめくり、
「あたしこれ、駄目かも」
 と叫んだ。
「これ、登場人物の名前? マリーナ・アレクサンドロヴナとか、アーラ・イノケンチエヴナとか。片仮名の名前、覚えられないんですよ」
「大丈夫ですよ、萬田さん」
 と茂方が笑顔で言う。
「『テスカトリポカ』だって片仮名の名前、いっぱい出てきたじゃないですか」
「そうですけど。ロシアの名前ってなじみがなくて」
「ぜんぜん大丈夫。最初の章が誘拐された姉妹の話で、名前がソフィヤとアリョーナ。難しくないでしょう。次に出てくるのが、十三歳の少女オーリャとその友達ディアナ。これも大丈夫でしょう」
 萬田が戸惑う顔を見せる。
「そうやって徐々に登場するから、すんなり読めるんです。最初に人物一覧を見ちゃうから、これ読むのかってぎょっとするだけ」
 へえ、と萬田はつぶやき、本を閉じる。
「たしかに表紙はきれい」
 と、表面を指で撫でた。
「ありがとうございます。面白そうな本ですね」
 青山は本を茂方に戻した。
「これでひととおり感想をお聞きしました。マイナス要素も出ましたが、おおむね好意的な評価でほっとしています」
 青山は全員を見渡す。おおむね好意的な評価というまとめかたに、異存はなさそうだ。
「残虐描写が多いという意見について、思い出したことがあります。この作品が直木賞を獲った時の講評で、暴力シーンが批判されていたんです。どういう言葉だったかは忘れましたが」
「待ってください」
 慌ててメモを取り出したのは理花だ。
「ネットにあったのをコピーしてきたんです。読みましょうか」
「本当に? すごいね」
 理花はうなずき、メモに目を落とす。
「〈あまりに暴力シーンが多い。子どもの臓器売買という部分が読む人に嫌悪をもたらすのではないか。こんな描写を文学として許して良いのか。文学とは人に希望と喜びを与えるものではないのか〉」
「その部分ですね。読みながら、あれーって思ったのを覚えています。こういう指摘をどう感じられたのか、今日お聞きしたいと思っていたんです。どうですか、健矢さん」
「僕ですか」
 健矢は驚き、一瞬考えてから口をひらく。太い二の腕がTシャツの裾から覗いている。
「僕はとくに気にならなかったというか。小説はそれほど読まないんですけど、映画だとさっきも言ったとおり、バイオレンスものは大好物なんです。ネット配信会社って、自分が見た作品から類推して、こういうのはどうですかってお勧めしてくるんですね。僕のお勧め欄にはもう、暴力ものとか殺人ものばっかりですよ」
 健矢が笑い、他の参加者からも笑みがこぼれる。
「男の人ってそういうの、好きだよね」
 萬田がうんざりした顔をする。
「悪魔のなんとかとか、血のなんとかとか、なんとかのいけにえとか」
「スプラッター映画ですね。お好きなんですか?」
「まさか」
 萬田が目をむく。
「そういう人が周りにいただけ。あれってさ、『悪魔』『血』『死霊』『地獄』とかを上に並べて、下に、『いけにえ』『はらわた』『えじき』『したたり』って並べて、その間に『の』を入れれば、適当なタイトルがいくらでも作れますよね」
 萬田がなぜか強い調子で訊くと、
「そうそう」
 と健矢が身を乗り出す。
「あと、なんとかオブ・ザ・デッドね。それだけでスプラッターのタイトルが無限にできる」
 なぜか二人で盛り上がっているが、他の参加者たちには白けた空気が流れた。
 察知したのか、健矢が表情を戻す。
「そういうスプラッターというかバイオレンス的な部分が、この小説の一番おもしろいとこですけど、子供にはどうかなあ。どうですか、お子さんについては」
「どうだろう」
 萬田は目をぐるりと回し、理花を見つめた。
「というかこの子のほうがいろんな本読んでるからなあ。大人が読むミステリーとか、恋愛ものとか」
 考え込む萬田の隣で、理花は困った顔をしている。
「いいんじゃないですか」
 と萬田が続けた。
「ほかの小説は知らないけど、この本は大丈夫な気がします。品があるっていうか。だって昔のおとぎ話だって、悪い奴が悪いことしてそれをやっつける話、いっぱいあったじゃないですか。『テスカトリポカ』が駄目っていうなら、そういうのも全部駄目になっちゃう」
「たしかに」
 青山はうなずき、意外に正論だと思った。
「でも矢鈴のコカインは駄目。あそこはなんとかしてほしい」
 萬田が断言すると、他の参加者から苦笑がもれた。
「僕も萬田さんと同感で」
 と話し始めたのは健矢だ。
「品があるっていう話、僕もそう思います。映像と文章の違いはありますけど、麻薬カルテルの映画って、殺伐として陰惨な作品が多いんです。でも、この小説にはそれが感じられなくて、暴力にも一定の説得力がある気がします」
「あっちゃいけないけどね」
 萬田が笑い、たしかに、と健矢もつられて笑う。「幻想的な雰囲気で包まれるっていうのかな。あのお婆さんが語る話で、祭りの時にテスカトリポカの分身の少年が選ばれて、四人の美少女と交わるシーンがあるじゃないですか。あ、ごめんなさい、こんな話」
 健矢は萬田と理花の二人に頭を下げる。
「いいのいいの、気にしない」
 萬田がめんどくさそうに答え、理花は顔を赤らめた。
「そこは僕も印象に残ってます」
 と口を開いたのは桐間だ。
「さっきも言いましたけど、台湾の小説をたまに読んでて、呉明益(ご・めいえき)が書いた『複眼人』という小説があるんです。それを思い出しました」
「どんな小説ですか」
 と青山はメモを取りだす。
「台湾に巨大なゴミの島が流れ着くんです。そこに古来の生活を守る少年がいて、台湾在住の女性と巡り合います。少年の生まれたワヨワヨ島には独自の歴史と風習があって、現代人の女性とは相容れません。愛する家族を亡くして絶望していた女性は、少年との接触をつづけるうちに、どこか響きあうものを感じていくんです」
「ワヨワヨ島? 変な名前。面白そうだけど」
 萬田が興味を示す。理花も桐間の言葉に耳を傾けている。
「そのワヨワヨ島が大変なところで、次男は大きくなったら島を出なきゃいけない。最低限の荷物だけ持って船で出ていかされるんです」
「なにそれ」
 と萬田が驚く。「島流し、じゃなくて島から流し?」
「そうなんです。で、次男が島を去る前日の夜、女たちが待ち伏せをしていて、その女たち全員と交わるんです」
 青山は相槌を打ちながら、さすがにここまで「交わる」が連発されるとまずいかと理花をうかがう。理花は真剣な顔で聞き入っている。
「面白いでしょう。『テスカトリポカ』に出てくる儀式と似ているなあと思いました。ほかにも、末永がインドネシアでボルダリングをやってるじゃないですか。あまりに上手すぎて、みんなから蜘蛛(ラバラバ)って呼ばれるくらい」
「それが後のコードネームになるんですよね」
 と理花が答える。
「そうです。で、『複眼人』でも、ボルダリングが物語の重要な要素になってるんです」
「なんだか読みたくなってきました」
 理花の言葉に気持ちがこもる。
「こっちは全然違う世界観で、暴力も出てきません。おすすめですよ」
「そういえば」
 と健矢が割って入る。
「バルミロがやる例の拷問だって、実はそれほど痛くはなくて、幻想的な雰囲気があるかも」
「それは言い過ぎ。あれは痛いよ」
 と桐間がたしなめ、話は落ち着いた。
「そんなところですかね」
 青山が全員を見渡す。とくに他の意見はなさそうだ。
「コシモについてあまりお話が出てきませんでしたが、彼はどうでしょう」
 コシモは事件を起こして少年院で過ごしたあと、十七歳で出所する。ナイフ職人の見習いとして働き始めたものの、その巨体と運動能力を目にしたバルミロに誘われ、闇の稼業に加担することとなる。
「いい青年じゃないですかね」
 と、医師の粉岡が表情を引き締める。
「彼には激しい暴力性がありますが、本心から悪いことはしていません。バルミロからアステカの教義を吹き込まれて、運命のようにシカリオになっていきます。そこに哀愁がある」
「気は大きくて力持ちって感じ?」
 隣の茂方がなにげなく口添えをすると、
「気は優しくて、でしょう」
 と粉岡が訂正する。
 ぶはっ、と茂方が笑いだす。「そうでしたそうでした。気は優しくて。気は大きくてだと、なんか間抜けになっちゃう」
 茂方は自分で言っておいて爆笑している。おかしな人だなと青山は思う。
「哀愁っていう言い方、いいですね」
 桐間が優しい声を出した。
「子供の頃から公園で一日じゅう木を彫ってたり、コシモはいつも孤独でひたむきなんですよね。シカリオになる時も、人殺しよりナイフ作りに夢中になったりして、ぜんぜん悪の世界の人じゃない。なのに悪に染まっていくところが、まさに哀愁ですね」
「ナイフ作りを教えてくれるパブロって人が、またいい人だし」
 と健矢も口を出す「ペルー人と日本人のハーフで、子供の頃から家が貧しくて、小遣いもろくにもらえない。中学の時に友達に見せてもらったフォールディングナイフに魅せられて、ナイフ職人になるために腕を磨いていく」
「パブロの描写もすごいんです」
 と、理花が本を開く。
「十ページ以上にも渡って細かく書かれてます。生い立ちから始まって、バルミロに目をつけられて人間の骨でナイフの柄を作るところまで」
 ほー、と感心した声が参加者から漏れる。しっかり読み込んでるなあ、と青山も感心する。
「そういうとこがこの本の面白さを支えてますよね」
 と桐間が話をひきとる。
「パブロって、主役ではないけど、適当に出てきたキャラクターではなくて、ちゃんと人生を与えてもらってる。一人ひとりが血肉の通った人間として描かれてるから、これだけすさまじいリアリティが出るんですよね。この小説が並みのエンターテインメントではない理由はそこだと思います」
 その後は、クライマックスに向けての人物達の行動の是非、盛り上がり方のすばらしさなどが語られ、あっという間に時間が過ぎていった。
「今日はどうもありがとうございました」
 青山が手短にあいさつをする。
「初回の読書会で、どうなるんだろうと心配していたのですが、こんなにたくさん集まっていただいて、しかもこれだけ濃密なお話ができて、主催者としては胸がいっぱいです。それではまた次回、あらためて告知を出しますので、SNSなどでチェックしてみてください。本日は本当にありがとうございました」

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~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』

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