ブルマン一座の読書会 (第4話/全10話)

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』


「それでは第二回読書会を始めます」
 青山の言葉にテーブルのざわめきが消える。
 二度目の読書会に集まったのは、初回とまったく同じ顔ぶれだった。始まる前から互いに会話を始め、本を開いて感想を披露しあっていた。コーヒーを準備しながら、青山はそうした光景を微笑ましく見つめていた。
 コーヒーを配り終え、時間どおりに会はスタートした。
「本日もお集りいただきまして、ありがとうございます。前回、僕としては大成功だと思ったんですが、皆さんにとってどうだったのかはわかりません。でも、こうやってまた来ていただいたことで、心からほっとしています」
 参加者たちは軽く頭を下げた。
「今回は『消失の惑星』を選びました。著者はジュリア・フィリップス。早川書房から出版されています。たしか、茂方さんのご紹介だったと思いますが」
 茂方が静かにうなずく。
「それではまた私から、簡単なあらすじを述べたいと思います。ただ今回はすこし、手こずりました」
「たしかに」
 誰ともなくつぶやきが漏れた。
 青山は安堵の思いを抱きつつ、苦心して仕上げたレジュメを読み上げる。

 舞台はロシア極東にあるカムチャツカ半島。海辺の町で幼い姉妹が失踪し、犯人も姉妹の姿も見つからないまま日々が過ぎていく。そこで語られるのは、様々な女性たちの日常だ。姉妹の母親や誘拐の目撃者など、事件に関連する人もいれば、そうでない人もいる。誰もが自分の置かれた状況の中で、何かしらの苦悩を抱えて生きている。
 いつしか事件は物語の奥へ消えていきそうになるが、やがて一年が過ぎるころ、大きな事実が浮かび上がり、驚愕のラストへと読者を導いていく。

「青山さん、あおり過ぎ」
 茂方がくすくす笑っている。
「この小説、あらすじを書くのが難しかったんですよね。大きく間違ってはいないと思いますが」
 青山はレジュメをテーブルに置く。
「このあとは前回と同じです。作品を読んで率直に感じられたところをお伺いしたいと思います。今日は、萬田さんからいきましょうか」
 萬田は体をびくりとさせたが、小さくうなずいてから話を始めた。
「前回、茂方さんがおっしゃってた通り、片仮名の名前はなんとかなりました。ただあたし、こういう海外小説、あんまり読んだことがなくて、短いお話が集まって一つの物語になってますよね」
「つぎつぎに主人公が変わっていきます」
 と茂方が答える。
「で、それぞれの話が微妙に関係しあってるじゃないですか。こういうのって、海外文学にはよくあるんですか」
「どうかなあ」
 茂方は少し考え、青山に目を向けた。
 正直、これがよくあるフォーマットなのかはわからない。
「ドラマではよくあると思いますけど」
 そう答えたのは、映画好きの健矢だ。
「ほんとに? 暴力映画とかじゃなくて?」
 と萬田がからかう。
 開始前から見ていると、萬田は健矢や桐間と年齢が近いせいか、すぐに気安く話をする間柄になったようだ。
「違いますよ」
 と、健矢があきれた顔をする。
「海外のテレビドラマって、複数のエピソードが同時に進行して、どこかで交わり合うというパターンがよくあるんです」
「そうなの」
「でも、それがこの小説と同じかっていうと、違う気もするけど」
「なによそれ」
「すみません」
 健矢がいたずらっぽく首をすくめる。もう九月も終わりだが、健矢だけはあいかわらずTシャツ一枚で、盛り上がった二の腕をさらしている。
 萬田は健矢に向けていた顔を正面に戻す。
「そこがこんがらがっちゃって、今回出てくるこの人は、前にどっかで出てきたよなあって、人物一覧を見直したり」
「僕もそうですよ」
 今度は桐間が口を出す。
「僕も記憶は悪いほうなんで、名前をすぐに忘れちゃうんです。でも、いろんな人のつながりがわかってくると、気持ちいいんですよ。この人って、あそこのあの人か、って」
「わかるわかる」
 萬田が大きく首を振る。
「あと、どこの国でも女は虐げられてて、女一人で生きていくのは大変だと思いました。日本も居づらいけど、カムチャツカはもっと嫌かなあって」
「行かないでしょ、ロシアとか」
 娘の古志田理花がたしなめる。
「行かないけどさ、生きてくのはどこでも難しいってこと。とりあえずそんなとこかな。あたし、人の意見聞いてると自分の感想も湧いてくるタイプだから、先へいっちゃってください」
「それじゃあ理花ちゃん、どう? またしっかりまとめてきたんだろうね」
 理花は得意げな表情を浮かべ、自分のノートを開く。
 隣で萬田がノートをのぞき込んみ、声をあげる。
「すごい、章ごとにまとめてあるの、それ?」
 理花はうなずき、最初の章から説明を始めた。
 すこし話を聞いてからふと思いつき、「ねえ、理花ちゃん」と途中でさえぎった。
 理花は言葉を止め、きょとんとした顔をする。
「ごめんね、話の途中に。そのメモがよくまとまってるみたいだから、後からあらためて順番にみていったらどうかと思って。いいかな?」
 理花はしばらく迷ったあと、「わかりました」と静かにメモを閉じた。その表情を確認してから、桐間に発言をうながした。
「最初のうちは戸惑ったんですけど、意外にすいすい読めました。僕も同じく、女性って大変なんだなあと思いました。やや男が悪く書かれ過ぎというか、あまりにも能無しで馬鹿みたいに書かれてる気がしましたけど」
「だって、能無しで馬鹿なんだもん」
 すかさず萬田が割り込む。
「そうですかね」
 桐間は困った顔になる。「能無しで馬鹿かもしれないけど、そもそも、ここに出てくる男の言動って気持ち悪いですよね。これってカムチャツカ特有なのかな」
「そんなことないよ」
 と萬田がふたたび即答する。
「日本でもこういうこと、いーっぱいある」
 いーっぱい、と長く伸ばした言い方がおかしくて、思わず吹き出してしまった。それをめざとく見つけた萬田が、「あ、青山さん、いま笑ったでしょ」とにらむ。
「青山さんだって、この本みたいなひどいこと、女性にやってるかもですよ。一度、美瑠に聞いてみます」
「ええ?」
 一瞬、美瑠の顔を思い浮かべ、これまで起こした喧嘩のいくつかを思い起こした。
「美瑠さんって、この前コーヒー淹れてくれた人ですよね。あのすごい美人の」
 健矢が無邪気に訊く。
 素直にそうだとも答えづらく、いやあ、とごまかした。
「今日はいらっしゃらないんですか」
 と健矢がしつこく訊くので、仕方なくうなずく。
「ざーんねん」
 健矢はおどけて見せたあと、「それじゃあ僕、いいですか」と手を挙げた。
「僕、これまでのみなさんのお話を聞いてて、そうだったんだーと思いました」
「そうだったんだ、って何よ」
 萬田がなぜか怒ったように訊く。
「僕、ここに出てくる人の大半が女性だったって、いま気がつきました」
「なに言ってんの」
 と萬田は容赦ない。まるで漫才のツッコミのようだ。
「僕はこの小説、謎解きだと思って読んでたんです。いろんな人の話が出てくるなあとは思ったんですけど、たしかにそれぞれの章で主役になるのは女性ばっかりですね」
「そういうとこが大体、女性蔑視だっていうの」
「蔑視はしてませんよ。逆に女性としてじゃなくて人間として見てたっていう感じ? 自分でもよくわからないですけど。なんでかな」
「フェミニズム色が薄いせいじゃないでしょうか」
 茂方が静かに割り込んだ。
「この小説、ほぼすべて女性視点で語られるのに、女性に権利を、とか女性を粗末にするなっていう主張が、意外に薄い気がするんです」
 青山は、読書喫茶レトルのマスターの言葉を思い出した。
「言われてみたらそうかも」
 萬田は本をめくりながら考えている。
「ですので」
 と茂方は続ける。「健矢さんのご意見は、じつは核心をついているのかもしれません。男性の意見として、貴重だと思います」
 健矢が困った顔をする。
 青山は前回の読書会のメモを読み直し、茂方の発言を思い出した。
「あの時、人間ドラマがすごいって、茂方さんおっしゃってましたよね」
「ええ。本当にたくさんの問題意識やテーマが入っていて、奥が深いんですよ。女性差別もテーマの一つなんですけど、それだけじゃないんです」
「たしかに盛りだくさんってのは言えるだろうね」
 と、口を出したのは医師の粉岡だ。
「この作者、あとがきを見るとまだ三十歳そこそこで、これがデビュー作ですよね。アメリカ人なのにカムチャツカに興味を持って、何度も現地に足を運んで取材をしています。しかも、これほど多彩な人間を登場させるということは、観察眼が素晴らしい。日頃からたくさんの人間を見て、自分の中に取りこんでいるんでしょう。まだ若いのに大したもんだなと感心しました」
 粉岡の言葉に全員が聞き入る。威厳たっぷりの話しぶりには、人を引きつける何かがある。
 一通りの感想を聞き終えたところで、理花に話を振った。
 理花はメモを開き、話を始めた。
「それじゃあ順番に話を追ってみます。ひと月ごとに一話の連作短編になってて、まずは八月。十一歳のアリョーナと八歳のソフィヤ、失踪した姉妹のパートです。海のそばに繁華街があって、全体的にわびしい感じとか、カムチャツカがロシアの離れ小島だってことがわかります。町の名前が」
「ペトロパヴロフスク・カムチャツキー」
 と茂方が答える。「この町が主な舞台ですね。ソ連時代の遺物みたいな建物が並んでいて、それが後の伏線にもなっています」
「下の子が生意気なんだけど、いざとなったらお姉さんを頼ってて、かわいいの」
 と萬田がほほ笑む。
「そんな二人が男にだまされてさらわれます」
 と理花が続ける。「九月はオーリャの話。オーリャは十三歳の少女で、仲の良かった友達からなぜか無視されるようになります」
「友達のお母さんが原因だっけ? すっごく嫌な女だった気がする」
 萬田の言葉に、理花がうなずく。
「そう、友達のお母さんのワレンチナ。この人がオーリャを嫌ってて、オーリャのお母さんのことも嫌ってます」
「原因は」
 と、粉岡がページをめくる。「この人、ソ連時代のほうが良かったって思ってるんですね。今は町に様々な人が来るようになって、変な人が増えたと思ってる」
「勝手なばばあ」
 と萬田が吐き捨てるように言い、思わず口をおさえる。
 粉岡は薄く笑い、話を続ける。「オーリャの母親は、仕事であちこち飛び回っています。それでワレンチナは思うんです。そんな女はろくでもない、その娘もろくでもない、だからウチの娘と付き合ってほしくない」
「地獄の三段論法だね」
 と萬田が割り込む。
「こんな記述があります」
 と理花が続ける。「オーリャがワレンチナについて想像するシーンです。〈その憎しみに理由はない。オーリャたちが自分たちの力で生きていることが、ただ気に入らないのだ〉」
 うー、と萬田が顔をしかめる。
「たしかにひどい母親だ」
 粉岡は本から顔を上げる。「誘拐事件で疑心暗鬼になってるのもあるけどね。フェミニズム色が薄いという話がありましたが、女性の嫌なところを隠さず書いているからかもしれません」
「そして十月が、カーチャとマックスの話」
 と理花が続ける。
「くそ男のマックスね」
 萬田が毒づくと、
「ほんとにくそ男」
 と茂方が笑う。
「そうかなあ」
 と桐間が割って入った。「恋人のカーチャとキャンプに来たけど、テントを忘れた人でしょう。うっかりミスじゃないですか。許してあげましょうよ」
「それだけじゃないから」
 と萬田が反論する。「職場の同僚も認めるダメ男だから。どこに出しても恥ずかしい奴」
「同僚ってオクサナですね。この人が実は重要人物で、姉妹誘拐の目撃者です」
 理花が補足し、萬田が深くうなずく。「そのオクサナがマックスを紹介するとき、〈ずさん〉な人ってカーチャに言うんだよ。詳しくは書かれてないけど、オクサナもカーチャも、うんざりするほどひどい目に遭わされてるんだよ」
「でも、カーチャのほうもマックスに幻想を抱いてたんじゃないですか」
 と桐間が食い下がる。いつもよりむきになっているように見える。
「テントを忘れたのは、確認しなかったカーチャにも責任があるでしょう。彼女は誘拐事件にかなり神経質になってて、守ってくれる人がほしかった。そこにマックスが現れて、彼に実際以上の英雄性を求めた、そういうとこありませんか」
 萬田が言い返そうとしたところへ、理花が素早く口をはさむ。
「ここだと思います。〈誘拐事件からはじめの数日間、カーチャは落ち着きをなくし、すべてにおいて神経質になった。友だちが他人のように思えた〉。それから次のページに、〈あらゆる恐怖を消し去るために、マックスの美しさが欲しかった〉とあります」
「あんた、ほんとよく読んでるね」
 萬田は反論もせず、感心している。
「私も男だからひいきするつもりはありませんが」
 と粉岡が冷静な声を出す。「カーチャもマックスの見た目に惚れたり、救世主みたいなものを求めたりっていうところはある気がします。マックスは、キャンプの最後に面目躍如もしてますし」
「そうだそうだ」
 桐間が大きな声を出す。
「あれは単なる偶然だよ」
 と萬田は不服そうだ。「あたしは納得できないなあ」
「いろんな見方があるということで」
 と青山はとりなした。「理花ちゃん、次の月、いきますか」
「十一月は、さっき出てきたワレンチナの話ですね。胸に変な水疱ができて病院に行きます」
「ざまあって感じ」
 萬田の言い方は憎々しい。
「ですよねー」
 と茂方も同意する。「彼女の生い立ちが紹介されて、なぜ差別意識を持つようになったかの説明にもなっています。最初にも出てきましたが、彼女はソ連統治下で過ごした少女時代がいちばん良かったと思っています。だから現状が受け入れられない」
「姉妹を誘拐したのは実の父親じゃないかって言い出すのも彼女です」
 と健矢が割り込む。「それで自分は貴重な意見を言った、自分ってすごい、みたいに思うとこあったじゃないですか」
 すかさず理花がページをめくり、読み上げる。
「〈ワレンチナは、実際に捜査に影響を与えたのだ〉〈自分は職場も家庭も立派に取り仕切ってる。自分は強い〉」
「言うかね、自分で」
 と萬田が馬鹿にしたように笑う。
「最後にひどい目に遭うじゃないですか。許してあげてくださいよ」
 と青山は冗談めかして言った。「理花ちゃん、十二月はどうですか」
「クシューシャの章ですね。彼女はエッソっていう北の町から来て、今年で大学四年生になります。エッソにいるルースランと遠距離恋愛中。ルースランは彼女に干渉しがちだったのが、誘拐事件以降、さらに口うるさくなりました」
「このルースランも馬鹿男」
 萬田はどこまでも手厳しい。
「それは僕も賛成。あいつは駄目ですよ」
 と桐間が言い、萬田が意外そうに口をすぼめる。
「あいつは異常ですよ。朝晩必ず電話しろとか、本当に家にいることを音で証明しろとか」
「クシューシャは周りに振り回されるんですよね」
 と粉岡が説明する。「話し方や顔つきで先住民ってわかっちゃうから、引け目を感じて内向的になってしまう。同居している従姉妹が美人で遊び好きで、むりやりクシューシャを舞踏団に引き入れるんだけど、そこでチャンダーという男性に出会います」
「チャンダーはいい奴」
 桐間の言葉に、
「そうかな」と萬田が反論する。「彼氏がいるの知っててクシューシャに言い寄るんだよ。けっきょくあいつも遊び人じゃないの」
「違いますよ。彼氏がいることを知りながら、思いを抑えきれない。無理やりじゃなく、ゆっくり優しく近寄って、そこにクシューシャも惹かれていくわけですよ」
 男女問題になると、桐間の言葉は熱を帯びる。
「この章って、意外に重要かもしれません」
 という粉岡の声に、萬田も桐間も矛先を収める。
「クシューシャのお兄さんがチェガでしょう。この先、さまざまなところで顔を出してきます」
「こいつもまた馬鹿男でさあ」
 と萬田が調子づく。「すっごいボロ家に家族を住まわせて、奥さんが愛想つかして逃げてくんだよね」
「それはこのあと、三月の話」
 と理花がたしなめる。
「そうだっけ? チェガはルースランと友達で、だからクシューシャと付き合うようになるわけだけど、そろってクズ。類は友を呼ぶ」
「チェガが前につきあってたリリヤも失踪しちゃったんですよね」
 と、粉岡は萬田の言葉にかぶせる。
「そのリリヤと、失踪した姉妹との対比がありますよね」
 と茂方も同意する。「この章でいろんなピースが出てきて、物語が広がりと深みを増していきます」
「本当ですね」
 青山は読書会にも広がりと深みが出てきたことを感じていた。
「そういう意味では、明けて一月の章も重要です」
 と理花が声を大きくする。「ペトロパヴロフスクに住むナターシャの元に、エッソから母親と弟がやってきます。弟は超常現象が大好きで、昔からUFOとか宇宙人の話ばかりしています。ナターシャはそれが煩わしいし母親も口うるさいしで、若い頃にエッソを出てきたんです」
「この母親がまた困った人でねえ」
 と茂方が眉をへの字にする。「ナターシャの娘たちのいる前で、彼女を叱るんですね。ナターシャは三十一歳で博士号も取っているのに、母親はいつまでも子供扱いする。私もメモしてきたんですけど」
 茂方は小さな紙を取り出した。
「〈家族が訪ねてくるたびに、ナターシャは十代の少女に戻った〉とか、〈家族がこの町へ来るたび、ナターシャは母親としての自信を失った〉とか、何度も書かれています」
「ナターシャはかわいそうなんですよね」
 と理花も自分のメモに目を落とす。「このナターシャ姉弟にはもう一人、一番下の妹がいて、それが例の失踪したリリヤなんです。その点でもナターシャは母親との確執を感じています」
「そのへんは僕もすごくうまいなあと思って」
 と粉岡が割って入る。「ナターシャには故郷の町の閉塞感がよくわかるから、リリヤは自分の意志で出て行ったと確信している。いっぽう母親は自分のしつけに自信があるから、リリヤが不満を抱えていたとは思わない。だからリリヤは誘拐されて殺されたと思っている。このあたりの確執が本当によく書けてる」
 萬田がうなずく。「ナターシャにはユーリっていう夫がいるんだよね。船に乗る仕事で、たまにしか帰ってこないけど」
「この男も駄目男ですか?」
 と、すかさず桐間が訊く。
「駄目男ってほどでもないけど、たいした男じゃなさそう。ナターシャと電話している時はかっこいいこと言うんだけど、理花、どこだっけ。ユーリが家に帰ってきたらぐだぐだしてるって話」
 理花は急いでメモをめくる。
「〈家に帰ってくると、ユーリは退屈し、わずらわしい存在になる〉」
「わずらわしい存在って、けっこうナターシャもきついこと言うね」
 茂方はひとしきり笑ってから、顔を引き締めた。「でも、ここも大事なところですよ。電話だと仲良く話せるのに、顔を突き合わせるとうまくいかない。こんな記述があります。〈すぐそばにいる者を愛するのは難しい〉。こういうの、日本人でもよくわかるっていうか」
「身に沁みますよね」
 桐間がしみじみと呟く。「僕、ここを読んで思い出した小説がありました。松家仁之(まついえまさし)さんの書いた、『泡』という作品です」
 青山はすかさずメモをとる。
「家庭や学校に馴染めない男子高校生が、親戚の家で過ごすうちに輝きを取り戻す話です。こちらは青春小説だから、『消失の惑星』とは作風は違いますけど、〈すぐそばにいる者を愛するのは難しい〉というテーマは共通しています」
「本当に小説がお好きなんですね」
 と粉岡が褒めると、桐間は恐縮して首をすくめた。粉岡はそのしぐさを見てから、言葉をつづける。
「ただ、僕が年長者だからというわけでもないのですが、母親を弁護したい気持ちもあるんです。この章で、読者はどうしてもナターシャの気持ちに寄り添って読むでしょう。だから、彼女が正しくて母親が間違ってる、みたいになるけど、じつはそうでもない。隣人とのやりとりでナターシャも、自分の中の偏見に気づくんですね。ほんと、すごい小説ですよ。僕はこの章だけ単独で読んでも素晴らしい短編だと思います」
 粉岡は心底、感心しているようだ。
「母親はラスト近くでまた出てきますよね」
 と健矢が続ける。
「ラストは後でまとめてやりましょうか。これでほぼ半分まで来ました。残りを急いでやっていきましょう」
 青山の進行のもと、その後も理花が要点を話し、他の参加者がコメントを挟む展開が続いた。
 残り時間がすくなくなり、ラストの解釈について尋ねると、男性と女性で見事に意見が分かれた。
「あれはハッピーエンドでしょう」
 という桐間に、萬田が真っ向から反対した。
「なんであれがハッピーエンドなの? 桐間くん、ちゃんと読んだ?」
「読みましたけど」
 桐間が憮然とした顔になる。
「あれでうまくいったなんて素直すぎるよ。裏を読まなきゃ。ねえ、茂方さん」
「私も、あのまがまがしい感じが、素直にハッピーエンドとは思えませんでした。でも桐間さんの感想も、もっともだと思います」
 茂方が優しい声でフォローする。
「素直すぎるってことですかね?」
 桐間の表情が、すこし柔らかくなった。

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

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