ブルマン一座の読書会 (第6話/全10話)

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』

 次の読書会まで一週間を切った日、青山は読書喫茶レトルにふたたび顔を出した。
 土曜日の昼下がりで、店には四人ほどの客がいた。無調のBGMが流れる店内に、ときおりページをめくる音や皿を洗う音が響く。本を読むのにこれほど心地よい空間はないだろう。目でマスターにあいさつをし、青山も持参した本を開いた。
 一時間の滞在の間にまた二人ほど客が入り、店は満杯になった。これなら店の先行きを心配する必要はなさそうだ。好きなことをやるのが一番、というマスターの言葉を青山は思い出した。
 帰り際、借りていた『歌うように伝えたい』を返しつつ、次回の課題図書にすることを小声で伝えた。マスターは満面の笑みで喜びを表現した。
 帰宅すると、メールが届いていた。
「今日は話せなくて残念でした。そういう店だから許してください。次の読書会がうまくいくことを祈っています。店がなければ僕も参加したいけど、そうもいかないからね。そういえば本を返してもらって良かったの? 読書会で使うと思うんだけど」
 簡素な文面から、マスターの笑顔が透けて見える気がした。
「本は自分用に買いましたのでご心配なく。読書会が終わったら、報告がてらまたお伺いします」
 返信のメールを送ったあと、読書会までの数日は最後の準備に時間を費やした。すでに二回の通読を終えていた課題図書をふたたび読み返し、抜き出したポイントを項目ごとに色分けしてまとめた。
 読書会の当日、最後の確認を終えて資料を印刷した。準備は万端のはずなのに、なにかをやり残している気がした。予感のようなものが働いたのかもしれない。手持ち無沙汰のはけ口に、読書喫茶レトルのウェブサイトを開いた。おすすめコーヒーが一カ月前から更新されていない。SNSのリンクをクリックすると、短い投稿があった。
「現在、店主が体調を崩しております。しばらくお店は休業いたします。ご迷惑をおかけしまして、たいへん申し訳ございません」
 家族の誰かが代筆したのだろう。日付は三日前だった。病状に進展があれば新しい投稿があるだろうから、良くない予感しか思い浮かばない。
 心配は募るが、こちらから連絡するすべはない。その後一時間おきにSNSをチェックしたが、更新されることはなかった。
 沈みそうになる気持ちを抑えつつ、読書会の時間を迎えた。
 参加者は、前回までと同じ六人だった。
 いつもどおりのあいさつをしながらも、青山の心情は前回までとずいぶん違った。どこか答えを求めるような危急さを感じ、胸の中がざわついていた。
「今回の課題本は、エッセイを選びました。塩見三省さんの書かれた『歌うように伝えたい』です。角川春樹事務所から出版されています。
 俳優の塩見三省さんが脳出血で倒れ、半身不随の体になりました。絶望に打ちひしがれながら、リハビリの一環で文章を書き始めたのですが、それをまとめたのがこの本です。冒頭は発病前後の経緯、その後は自分のこれまでの人生、俳優や演出家との交流などが描かれていきます。これを読んでみなさんがどうお感じになったのか、僕としては非常に興味があります」
「思ってた内容とすこし違ってました」
 口火を切ったのは桐間だ。
「塩見さんって、どうしても『アウトレイジ・ビヨンド』のイメージが強くて、怖い感じの人かなと思ってたんです。よくあるじゃないですか、そういう人が病気になって、こんなオレでも真面目に頑張った、みたいな感動もの。ああいう感じかなあと思って読み始めたんですけど、どこか不思議な感覚で、まだもやもやしてます」
「不思議、ですか」
 青山は訊き返した。その感想自体が不思議に思える。
「六十六歳で脳出血になって、いま七十三歳くらいですよね。僕の祖父の年代だから、理解できないところも多いんです。どこか自分にも通じるところがありそうだけど、それが何なのかよくわからない。そんな感じです」
「ふうん」
 不思議そうな顔をしたのは、隣の健矢だ。
「健矢さんは、『アウトレイジ』とかお好きでしたよね」
 青山が話を振ると、健矢が嬉しそうな顔になる。
「『アウトレイジ・ビヨンド』でいちばん怖かったのが塩見さんでしたから、あの人が病気になってたんだ、と驚きました。たしかに『アウトレイジ・最終章』では動きがなんかおかしくて、あの時は西田敏行さんも大病を患ったあとだったから、すごい病み上がりコンビだったんですよね。そういう内幕が詳しく書いてあって、ワクワクしながら読みました」
「お前、そういう本じゃないだろ」
 桐間が不機嫌な顔になる。
「いや、そうだよ。大杉連とそんな昔からつるんでたんだとか、思ったとおり岸部一徳はいい人なんだとか、松岡茉優はすごい子だなあとか、いろいろ収穫あったよ」
「だからそうじゃなくて」
 と桐間がさえぎる。
「読み方は人それぞれですから」
 青山がなだめるように口をはさむ。「闘病記のあたりは、健矢さんはどう思われました?」
 健矢は一転して真面目な顔になる。
「そのあたりは桐間君と同じで、年齢が違うから実感が湧かないというか、うちはおじいちゃんおばあちゃんが六十代でみんな亡くなってて、それくらいの年齢になったら病気も出てくるんだろうなあって思います。年をとってから読んだら、感じ方が違うのかも」
 桐間は健矢の言葉を無視するように、本に見入っていた。
「確かに若い人には伝わりづらい本だったかもしれません。理花ちゃんはどう?」
 青山がうながすと、古志田理花は困ったような顔をした。
「病気になったり年をとったりすることに、共感できるかって言われたら、できてないと思います。あと、出てくる俳優さんとか、私はほとんど知らなくて」
「理花ちゃんにはなじみの薄い人ばっかりだもんね。でも、今回もしっかり資料は作ってきてるね」
 と、青山は理花の手元にあるノートを指さす。
「今回は自分の意見というより、たくさん抜き出してきただけです」
 理花は照れたように笑った。
「萬田さんはどうでしたか」
「あたしは」
 と言ったきり、言葉が続かない。なにかを我慢しているような表情を見せ、青山は不思議な気持ちになる。
「あたしも、健矢君たちと同じ世代だから」
「だいぶ上」
 健矢が口をはさむ。
 萬田は瞬時に厳しい視線を向ける。
「ちょっと上、かもしれないけど、塩見さんとは相当に年が離れているわけで。なんかあたし、いろいろと考えさせられました」
 珍しく真剣な口ぶりの萬田に、どのあたりでしょう、と訊く。
「第一章の始めに、本人の写真があるじゃないですか」
 萬田がページを開き、全員に見せる。
 フローリングに白壁、腰高の窓だけの簡素な部屋で、著者が椅子に腰かけている。右手に杖を持ち、口元の左がやや下に垂れている。
「これ見て、すごく情けないというか、哀れな感じがしたんです」
「体のバランスが崩れてて、アウトレイジの頃の面影は正直、ないですよね」
 と青山が答えた。
「発病してから初めて鏡を見るシーンがあるんです。発病当初は、この写真よりさらに酷い状態ですよね。顔が歪んで口元が垂れ下がって、まっすぐ立ってるつもりが左に大きく傾いてて。髪は白くなったし、すごく痩せてるし。愕然とした塩見さんは大声で奥さんを呼ぶんです。奥さんは何も言えずにうなずくだけ。で、塩見さんはこう書いてるんです。
 〈これが、全ての始まりであった〉。
 つまり、現状を受け止めることから始めるしかないってことでしょう」
「辛い話ですけど」
「自分のありのままの姿を受け入れなければ、リハビリもできないし、体も精神も上に向いていかない。それってすごく難しいことだと思うんです。だって」
 萬田は一瞬、息を止めた。
 その気持ちに寄り添うため、青山は次の言葉を待つ。
「五体満足なあたし達だって、自分のありのままを受け入れるって大変ですよ。自分ってこんなに醜いのか、こんなに汚れてるのかって、心底嫌になりますよ」
「そうですかあ?」
 健矢がちゃかし気味に言う。
 青山も、やつれ気味ではあるが彼女の整った顔立ちを見て、違和感を覚えた。
「とにかく」
 萬田は続ける。「塩見さんの場合、半身不随になって、いくらリハビリをしても現状維持にしかならなくて、そういう状況ぜんぶを受け入れるって、想像を絶することですよ」
「冒頭に書いてあるよね」
 隣の理花が割って入る。
「〈66歳の春、ここに来て、この壁を乗り越えるのは、私は無理だと思った〉」
 萬田が神妙にうなずく。「どうしても何か、すがるものが欲しかったんですよね。だから動く右手を使って、病気や入院のことを書き始めた。リハビリとか生きるためというより、今できること、書くという行為に没頭した気がします。そしたらなぜか若い日のことが頭に浮かんできた。そのへんも確か、最初に書いてあったよね」
 萬田が顔を向けると、理花はすぐにメモを読み返す。
「〈まずは病のこと、入院生活のこと、その後の苦難の日々を書いていると、途中で人物や景色など、若い日々の思い出や大きく影響を受けた人たちの姿が浮かんできたのである。どうしてだかわからない。私はひたすらフラッシュバックのように無作為に出てくるものを書き出した。私が私を知るために、生きていく作業として〉」
「そうやって書いていくことで、たぶん、自分の価値を確認していったんだと思います。自分を元気づけるようなことを、たくさんやってきた人だから」
「そういうことか」
 とつぜん、桐間が口を開いた。全員が彼のほうを向く。
「僕、自分からは遠い人の話だなあと思いながら、どこか身につまされるような気持ちもあって、それが何なのかわからなくてもやもやしてたんです。今の萬田さんのお話で、わかった気がします」
 萬田が興味深そうに聞いている。
「若い頃にヨーロッパを放浪した話とか、舞台俳優から始めてそのあと映画に場所を変えたとか、ぜんぶ面白いエピソードなんですけど、そうやって生きてきたことが、今の自分を支えてるんですよね」
 萬田は深くうなずく。「今の自分を見つめるってことは、過去の自分ものぞき込むことになる。自然とそうなっちゃう」
「そして、過去の自分が今の自分のお手本になってくれる」
「そうだね。すごい。桐間君、いいこと言うじゃない」
 萬田は心底感心したようだ。
 青山も桐間の言葉をメモに書きつけた。「ありがとうございます。とても貴重なご意見をいただきました。粉岡さんはどうでしょう」
「お二人のお話、興味深くお聞きしました。この中では私が一番、著者に近い年代ですよね。他の皆さんがこの本を褒めなくても、私がちゃんと褒めなきゃと思って今日、来たんですが、そんな心配することもなかったですね」
 粉岡は乾いた笑い声をたてた。
「私、序盤の発症から入院のあたりを読んでて、医者の分が悪いなあと思いました」
「分が悪い?」
 すぐに意味が分からず、次の言葉を待つ。
「私としてはどうしても医者の立場で読んでしまいます。脳外科の専門ではありませんから詳しいところはわかりませんが、手のつけられない状況があるのはわかります。この本を読んで、医者の腕が悪かったとか、思ってほしくないんです」
「僕それ、ちょっと思ってました」
 と健矢が手を挙げる。「塩見さんを担当したのがもっと名医だったら救えたのかも、なんて思っちゃいました」
「一般の人がそう思われることは普通ですし、しかたありません。私は医者の立場として擁護したいというか、説明はしておきたいと思ったんです」
 粉岡は、カバンから別の本を取り出した。
「もう十五年くらい前の本ですが、虎の門病院の泌尿器科部長だった小松秀樹さんが書かれた、『医療崩壊』という本です」
 白い表紙にぼんやりと赤十字が浮かび、そこにタイトルと著者名が書かれている。シンプルだけど迫力を感じる装丁だ。
「この中に、医療がいかに不完全であるか、医療者と患者の間にいかに認識の隔たりがあるかが、詳しく書かれています」
 粉岡が本を隣の理花に手渡す。理花が慎重にページをめくり、横から萬田がのぞき込む。
「簡単に言うと、手術であれ投薬であれ検査であれ、すべての医療行為は体にダメージを与えます。そのダメージが病気を治す方向に働くこともあれば、良くない作用をおよぼすこともあります。体というのは本当に人それぞれで、ある人にはうまくいった治療が、別の人には逆効果ということもある。良かれと思っておこなった医療が症状を悪化させたり、最悪の場合亡くなることもあります。それはやってみないとわかりません」
 隣で茂方がしきりにうなずいている。同じ医療者として共感するところが多いのだろう。
「医療は根本的に危険な行為なんです。魔法のように体を治してくれるものなんかじゃありません。CTスキャンとかMRIで画像が出てくるでしょう。あれで医者は臓器の様子を詳しく把握できる。そう思われてるでしょうけど、全然そんなことないんです」
 粉岡は、確認するように参加者を見渡す。
「ああいう検査でわかるのは、体の内部のぼんやりした輪郭くらいです。実際の状況はメスを入れてみないとわかりません。もちろん、医者の技量にも差があります。難しい手術をこなせる医者とそうでない医者はいます。ただ、この塩見さんの場合、六十六歳という年齢と症状からして、手術に踏み切る医者はいなかったでしょう」
 本は理花から萬田、健矢へと回っていく。
「そうしたことが詳しく書かれているのが、この『医療崩壊』です。硬い文章で読みづらいかもしれませんが、これは医者ではなく一般の皆さんがぜひ読むべき本だと思います。すみません、脱線しました」
「そんなことありません。貴重な書籍をご紹介いただいて、ありがとうございます」
「それで課題図書に戻りますが」と粉岡が続ける。
「塩見さんの場合、医者についての言及はないのですが、そのぶん、リハビリ療法士さんの重要性を書かれています。たとえば」
 粉岡は付箋を貼ったページをめくる。
「〈リハビリの療法士さんたちの仕事は、命をとりとめ生還した者がこの世の中で、あるハンデを背負い、生きていくため、現代医療の中で最も重要な役割を担っている。障害を持った人たちを技術と熱いマインドでもって支え、患者と認識を合わせて送り出す〉」
 理花は自分のノートを見ている。同じところを抜き書きしてきたのだろう。
「もう、スーパーマン的な書かれようですね。〈現代医療の中で最も重要な役割〉ですから。このあたりを読んで僕は肩身の狭い思いがしました。医者ってあまりこういう風に思ってもらえないんです。うまくやって当たり前で、少しでもミスをしたら徹底的に叩かれる。損な役回りだと思います」
「聞いた話ですけど」
 と萬田が口を出す。「飲み会が荒れる職業のベストスリーって、医者、教師、警官だって言いますよね」
 あはは、と急に茂方が笑いだす。
「たしかにそうかも」
 と言いながら、なかなか笑いが止まらない様子だ。
「すみません、変なこと言っちゃって。でも本当、お疲れさまです」
 萬田がすまなそうな顔をした。
「いいんです。リハビリ療法士に嫉妬してもしかたないですよね。でも絶対、医者って嫌われてるんだろうなあと思うことはあります。患者のことなんて全然考えてないんだろうとか。この本読んでても、なんとなく医者に対する批判がうかがえる気がして」
「先生はそんなことないですよ」
 と茂方が粉岡のほうを向く。さきほどの笑いが表情に残っている。
「先生はちゃんと患者さんのこと考えてらっしゃいますから。あのね、皆さん。粉岡先生って、あんまり治療しないんです」
「え?」
 と全員が茂方の顔を見る。
「変なこと言わないでよ」
 粉岡が苦笑いを浮かべると、
「ごめんなさい、言い方が悪かったですね」
 と茂方が肩をすくめた。「さっきの本、私も先生に勧められて読んで、すごく納得がいったんです。粉岡先生の治療方針は、『体に聞け』なんです。医療行為の危険性や限界をよくご存じだからそうなるんです。やみくもに薬を出したり注射を打ったりするのは、患者さんにとって決していいことじゃないんだって」
「それも説明が必要だけど」
 と粉岡が割って入る。「けっきょく薬って、病気を治すというより、症状を抑えてるだけなんです。発熱とか咳とか鼻水とか、そういう症状は全部、体の免疫反応なんですね。体の側がわざとそうしてる。それを薬でおさえてしまったら、逆効果にしかなりません」
「だから先生は、患者さんから生活習慣を聞いて、徹底的にそこを見直すよう指示するんです。中には、怒って帰る患者さんもいます」
「薬を出す場合もありますよ。どうしても苦しくて仕方がないとか、今日だけは症状を抑えたいという時くらいですけど。じゃあ何のための医者なんだって訊かれたら、何のためなんでしょうね?」
 粉岡はわざとおどけたように笑った。
「でも、そういうお医者さんって少ないでしょう」
 と茂方が訊くと、
「少ないっていうか、身近には一人もいないね」
 と粉岡が答える。
「私たち看護師も、だから食事指導とか、生活習慣の改善を勉強して、それを患者さんに伝えるようにしています」
「この件はそれくらいにして」
 粉岡は持参した本をカバンにしまった。
「私は皆さんと違って塩見さんと年も近いので、他にも楽しく読みました。学生時代、神戸の異人館にいたら浅川マキが来て一緒に歌ったとか、若い頃から芸能の界隈にいた人なんですね。海外を放浪して帰ったら大杉漣と出会って芝居を始めたり、岸田今日子さんにかわいがってもらって二人芝居の舞台に立ったり、意外と経歴は派手なんだなあと思いました」
 青山は納得してうなずいた。「僕もそこそこの年なので、出てくる俳優さん達の、名前だけはわかります。中で書かれているとおり、塩見さんは〈人に出逢う力〉を持っていたんでしょうね。いろんな人に出逢って力をもらったんだと思います。同時に、自分もいろんな人に力を与えてきたんでしょうね」
「もうすこしお話ししてもいいですか」
 茂方の顔からは、笑いは消えていた。
「私がこの本で一番ぐっときたのは、塩見さんの孤独と絶望っていうところなんです。すごく個人的なことですけど、私、若い時に乳ガンをやってるんです。すぐに命が危なかったわけじゃないですけど、再発も怖いので、手術で片方の胸を全摘出しました」
 全員が静まり返り、茂方を見つめている。
「昔は乳房再建技術もあまり進んでなくて、手術が終わって見せてもらった時、あまりの変わりようにショックを受けたんです。これじゃあもう結婚もできないって落ち込んで、周りに当たり散らしたり、かなり荒れました。いくら優しくしてもらっても、受け入れられない。かわいそうとか頑張れとか言われるたび、あなたはこんな体になってないからいいよねって、心の中で毒づいてました」
「あたしも言っちゃいそう。かわいそう、とか」
 萬田が顔を歪ませる。
 茂方は一瞬、萬田に顔を向けてから話を続ける。
「その時に、ものすごい孤独を感じたんですね。健康な人と自分の間に、絶望的な疎外感というか、巨大な壁を感じたんです。みんな慰めてくれてるけど、だったら私のこの胸、元に戻してくれる? それができないなら家族でも友達でもない。無茶なことを思ってました。こういう気持ち、経験した人じゃないとわからないと思います」
 茂方は、静かに本を開いた。
「本の中に、〈社会からある種の異なる存在として孤立する恐怖〉と書いてあります。私の場合は胸のことだけで、それでもとことん落ち込んでボロボロになってたのに、塩見さんみたいに体半分動かなくなったらどうなるのか、想像もできません。でも、その孤独の何分の一かはわかる気がします。逆に言うと、私が想像する何倍も強い孤独を塩見さんは味わったんでしょうね。それを思うといたたまれなくて、読むの辛かったんです。だからこそ、それを乗り越えてリハビリに向かっていくところは、私、どうかと思うくらい泣いてしまいました」
「なるほどなあ」
 と、粉岡が椅子に背を預ける。
「医者はそういう時、なんにも力になれないからなあ」
「仕方がないですよ。私も当時、担当のお医者さんにけっこう辛く当たりましたけど、申し訳なかったなって今は思います」
 茂方が冗談めかして粉岡に頭を下げ、参加者に笑顔がこぼれる。
「よく乗り越えられましたね」
 萬田の声が、いつになく優しい。
 茂方は静かにうなずいた。
「いちばん励みになったのは、同じ病気の人なんですよ。病室の、それまで赤の他人だった患者さん達が、よく話しかけてくれました。私が一番若かったし、荒れてるのもわかってたからだろうけど、なんとか私を励まそうとしてくれるんです」
「いい部屋だったね」
 と粉岡も優しい声で言った。「やれうるさいとか干渉しすぎだとか、同室の患者の悪口なら山ほど聞くけど」
「いい人たちでした。みんなで手術跡を見せ合って笑ってるんです。抗ガン剤治療の女性が、かつらを取ってつるつるの頭を見せてくれたり。
 六十代の女性が夜中に吐いてるのを見つけて、私が介抱してあげたんですけど、その人、ぐったりしながら私の顔を見て、こんなおばあちゃんでも頑張ってるんだから、あんたも負けちゃ駄目よって」
 萬田が目頭を押さえている。青山も、胸にこみあげるものを感じた。
「そういうこと続けていって、私は少しずつ自分を取り戻していった気がします。この本の『戦友たち』っていう章がありますよね。病気で苦しみながら頑張ってる人達の描写は、本当に身につまされました」
「ありがとうございます」
 と、青山は話を引き取った。
「同じ本を読んでもそれぞれに着目するポイントが違ってて、面白いというか、素晴らしいなあと思いました。
 僕も少し、個人的なお話をさせてください。実は今回の課題図書を推薦してくれたのは、僕の好きなカフェのマスターなんです」
 青山は、読書喫茶レトルの話をした。読書好きで博学のマスターが、この本を課題本に勧めてくれたこと。ガンを患い、闘病中であること。今朝になり、体調を崩されているのを知ったこと。
「三日ほどSNSにも投稿がなくて、あまり状態が良くないのかもしれません。そのマスターがこの本を読んで、本当に感銘を受けたとおっしゃってました。今回もきっと、乗り越えてくれると信じています。だから今日の読書会は、妙な気持ちになってしまいました」
 そこで言葉に詰まってしまった。それでも文句を言う参加者はいない。優しい気持ちで待っていてくれるのがわかり、青山は呼吸を整えると、話を続ける。
「僕もこの本を読んで、考えることがたくさんありました。けっして上手な文章だとか、練られた構成ってことはないんですが、だからこそ生々しい言葉、真に心から出てきた言葉だと思います。
 すごく立派な人が強くがんばった話だと、読む方が引け目を感じてしまいますけど、塩見さんは、僕らと同じように弱く壊れやすい人間が、情けないほど傷ついてやけになって、それでも頑張れるんだという姿を見せてくれている。だから、いろんな境遇の人の心に刺さるんだと思います」
「いいエッセイを書こうなんて思ってないからね」
 粉岡がしみじみと深い声を出す。
 青山は強くうなずく。
「うまく書こうとか全然思ってなくて、だからこそ読む者の胸を打つんです。僕も、好きな文章があるんですが」
 青山は自分の本をめくった。
「茂方さんのお話にもあった、リハビリ病棟で励まし合った人たちを思い出すシーンです。〈私がやろうとする仕事がもしもできたら、それはあの人たちの寂しさのお陰でもある〉。すごいですよ。〈寂しさのお陰〉って言葉は、当事者じゃないと出てこないですよ」
「後半にも、いい文章があります」
 と茂方が話を引き継ぐ。
「〈カットの声がかかっても、役の感情も相まって涙が止まらず、監督の土井さんに「ただいま」と言って握手を交わし、この夏の三ヶ月を過ごした幻の街の片隅を後にした。台風の多い夏であった〉」
「そこ、あたしもいいと思った」
 萬田が嬉しそうな顔をする。「後半になると、そういう詩のような表現が出てきますよね。第五章のはじまりの辺もそうじゃなかったですか」
「自宅から隅田川をみおろすシーンですよね」
 と茂方が答える。「ここまでくると、やや小説っぽくもなってきます」
「やっぱり塩見さん、うまく書こうとか、ちょっと思ってますかね?」
 青山が首をすくめると、全員が笑う。
「なんといいますか」
 粉岡が笑いの中から言葉を発した。「巧まざるからこそ生まれる、珠玉の文章ってことですよ」
「それ、いいですね」
 と茂方がおおげさに両手を握りしめた。
 その後も、それぞれに好きな個所を披露しあう展開がつづいた。健矢は植木等や萩原健一とのエピソードがお気に入りで、さすがにスターは違う、としきりに感心していた。
 終了時刻が迫り、まとめに入ろうかとした時だった。
「いいですか」
 と口を開いたのは、理花だった。
 どうぞ、と青山がうながす。
「私、よくわからなかったって言いましたけど、皆さんのお話を聞いて納得できました。塩見さんに共感できるかどうかはわかんないですが、もう一回、読んでみようと思います。もしかして、もう少し年をとった頃に、この本の意味がわかるかもって気がします。だから今日、この会に参加できて、本当によかったと思ってます」
 理花が頭を下げるのを、全員が神妙に見ていた。
「今の言葉は、読書会の開催者冥利に尽きます。貴重なご意見をありがとうございます。僕自身も、今日の会はいつもとまた違った意味で、心に残るものになりました」

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?