ブルマン一座の読書会 (第10話/全10話)

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

「それでは第五回読書会を始めます」
 この日のあいさつには、いつもと違う緊張感があった。
 六人の参加者が自己紹介をする。そこに今日は特別ゲストが加わる。
 青山は隣に座る男性に目を向けた。
「こちらにいらっしゃるのが、このお店のマスターです」
 マスターは名前を名乗り、椅子に座ったまま頭を下げた。
 青山の店と違い、奥行きが広くて照明は暗く、その意味で読書会には不向きだ。それでも目の前にはいつもの参加者がいて、これから始まる読書会を心待ちにしているのが伝わってくる。
 奥の席にはマスターの妻が美瑠と並んで座っている。テーブルの上にはマスターが淹れたコーヒー、そして美瑠が作って持参したケーキが置いてある。
 幸せな空間だと思いつつ、青山は話をはじめる。
「今回の課題図書は、松家仁之さんの『泡』という小説です。集英社から出版されています。今日はあまり時間がとれないので、さっそく感想からお伺いしたいと思います。そういえば理花ちゃん、前回はあらすじ紹介をありがとうございました。とてもよくできていたと聞きましたよ」
 理花が顔を赤らめて下を向く。
「この小説は以前、桐間さんからお勧めいただきました。あらためて桐間さん、この小説はどのあたりがポイントになりますか」
「一人の少年の成長物語として、すごく楽しめました。応援したくなるんですよね、薫って。学校ではうまく立ち振る舞えないし、親も助けてくれない。それでも女の子に興味はあるしで、言ってみれば普通の男の子ですよ。自分が思ってるよりよっぽどちゃんとしている。自信持っていいんだよと言いたくなります」
「中学の時には、女子と美術館行ってるし」
 健矢が口をはさみ、桐間がうなずく。
「だからもう少し自信持てよって。海辺の花火のシーンなんて、客観的に見たらしっかり青春してますよ。あんなの僕もやったことないです」
「だよね」
「健矢さんも、同じようなご感想ですか」
 と青山は訊いた。
「そうですね。この本、『泡』っていう一文字のタイトルが、表紙にばんと大きく書いてあるじゃないですか。それでいて装飾は最小限で、なんか純・純文学って感じがしたんですよ」
「なんだよ、純・純文学って」
 と桐間が笑う。
「純粋な純文学っていうか、手ごわい感じの小説かなって思ってたんです。そしたらすごく読みやすくて、さわやかな小説でした。純粋に、面白かったです」
「そうですか」
 と青山は思わず声を弾ませる。「今回、桐間さんや健矢さんのように、若い人に共感してもらえたらいいなって思ってたんです」
「私も共感しましたよ」
 萬田がいたずらっぽい声を出す。
「もちろん、萬田さんも含めてですよ。お若い皆さんに気に入ってもらえて安心しました」
 と笑顔で答える。「桐間さん、『消失の惑星』と『泡』との共通点として、近い人ほど愛するのが難しい、というポイントをあげられていましたが」
「そうなんです。薫の両親って、二人とも教師でお堅い感じですけど、それほど悪い人とも思えないんです。なのに薫と決定的な溝がある。親子って難しいなと思いました」
「そこよ、そこ」
 と声をあげたのは萬田だ。「あたしもそこが気になったの。子供を持つ身としてはさ、薫の両親が無能に書かれすぎじゃないかって思うわけ」
 萬田の勢いに他の参加者達はあまり乗ってこない。
「あれ? そんなこと思うのあたしだけ?」
「無能、とまでは思いませんが」
 桐間は戸惑っている様子だ。「親子関係はあまりうまくいってなさそうですね」
「そもそも、両親についての描写がほとんどないですからね」
 と青山も付け加える。
「お母さんだって悩んでると思うよ」
 萬田は一人、息巻いている様子だ。「息子が登校拒否になって、自分達に相談もしてくれなくて、遠い親戚の家に行きたいなんて言いだして。ほら、前回の『つまらない住宅地のすべての家』にもいたじゃん。引きこもりなのに急に遠くまで行っちゃって、両親を困らせる男の子。あれぐらい親は悩みまくってるよ、絶対」
 健矢がうなずく。「なのに子供は、我関せず」
「そうそう。学校に行かなくなった薫を、母親はぜんぜん責めたりしないの。本当は心配でいろいろ口出ししたいはずなのに、母親は我慢してるんだよ。なのに、母は自分のことを楽観視しすぎ、みたいに薫は思ってる。あれどこだっけ、理花」
 理花は素早くノートをめくる。
「〈母は薫の能力をかいかぶるところがあった。薫は母がおもうほどしっかりしているわけではない。頭もよくはない。つよくもない。高校に通うことを再開するのは、とてもではないが無理だ、という薫の感覚をどこまでわかっているのか、あやしいところがあった〉」
「もう、コンニャロって薫の頭をぐりぐりしてやりたいね」
 萬田の言葉に一同が笑う。
「あたしは母親がどうしてもかわいそうって思っちゃう。薫が思うより、母親は薫のことを思ってるよ。兼定のところにやらせるのも半信半疑なんだよ。兼定のことあんまり好きじゃないからさ。だけど、そこに賭けてみようとしてる。そういう愛情もあるよ」
「僕もそういう意味で、近い人ほど愛するのが難しい、と思ったんです」
 桐間もようやく萬田に同意する気になったようだ。
「理花ちゃんはどうですか」
「私は同じ世代だから、薫くんに共感するところがたくさんありました。歴史上の人物がなぜ負けたのかを延々と話す社会科教師とか、いつでも怖い顔してる体育教師とか、うちの学校にも似たような先生がいます。一番うえーっと思ったのは、剣道の授業でつける、小手っていうんですか、あの道具」
「あそこはねえ」
 と萬田が顔をしかめる。
「抜き書きしてきたので、読みますね。〈小手はなめし革のようなものでできており、素手にふれる革は、何百何千何万と使いまわされるうち、男子高校生の汗と垢が染み込んで、すりこまれ、乾かないままそこに沼地のようなものをつくっていた〉」
「沼地!」
 萬田が身もだえするのを見て、理花が笑う。
「学校でガラスを割ってしまった薫を、体育教師が呼び出すんですよ。教師は無言で薫にプレッシャーを与えて、自分が望む言葉だけを薫に言わせます。薫はそれを、〈この場所を統治しているのは誰かをあらためて刷り込む儀式〉だと思うんです。すごく怖いなって思いました。『テスカトリポカ』でバルミロが残虐なおこないを見せて、この人に歯向かっちゃいけないと思わせるシーンがありますけど、それを思い出しました」
「すごいね、その連想」
 と健矢が驚く。「僕もそんなこと思わなかった。あの体育教師がバルミロってことね」
 理花がうなずいてメモを閉じる。
 青山は続いて粉岡に感想を尋ねた。
「私も、かつて若かった身として、少年の成長する姿を楽しく、頼もしく読みました。面白いなと思ったのは、泡というタイトルがさまざまな意味で使われるところですね」
「冒頭からそうですよね」
「薫は緊張すると空気を呑み込んでしまって、それが腸にたまって圧迫する。最終的にはガスになって出るわけですが、人前では恥ずかしいから、誰もいないところで出すわけです。最初のシーンは風呂の中ですね。泡になって目に見えるから、それが薫自身の情けなさみたいなものの象徴になっています」
「おならなんて普通のことなのに」
 と萬田が優しい声を出す。「そういえば先生、小説だと呑気症(どんきしょう)って書かれてましたけど、これって本当にある病気なんですか」
「もちろん、実際に存在します。ストレスが一番大きな原因だと言われています。思春期の子だと、どうしても恥ずかしいでしょうし、薫もそれで悩んでるわけです」
「かわいそう」
 萬田が顔をしかめてうつむく。
「泡の話をつづけますけど、他にも海水に立つ泡、本物の泡ですね。海岸沿いの町だから、海の泡を目にする機会は多いんでしょう。他にも薫は、生まれては消えていく泡のようなものだと自分をとらえています。はかない存在の象徴としての泡ですね。こうしたイメージが重なり合ってこの小説が成り立っている。よくできていると思います」
 粉岡の発言に、静寂が訪れる。やはり年長者としての言葉の重さがある。
 最後に、茂方に発言をうながした。
「粉岡先生がおっしゃった泡のお話、人間なんて泡のようだと思うのは薫だけじゃなくて、大叔父の兼定もそうなんです。人生の大先輩の兼定が、ですよ。私、薫のパートのほかに、この兼定の語るパートがあるから小説に深みが増してると思うんです。兼定のこと、薫はおもしろいおじさんだからって慕ってるし、薫の両親は遊び人で信用ならないと思ってるけど、どっちも本当は違うんですよね。誰と接するにでも一定の距離を取っていて、必要以上に踏み込まない。それがお互いに心地よい関係だとわかってるから、自分の店のスタッフにすらとやかく指示したりしません」
「兼定は戦争の前後で辛い経験をしてるから」
 と粉岡が続ける。「一人の人間の無力さを骨の髄まで感じている。いい意味で諦めているというか、最終的にはなるようにしかならないと思ってる。だから薫のことも必要以上に構おうとしない。薫は自分で考えて自分で行動しなきゃいけなくて、結果として薫は成長する。そのあたりが、この小説の爽やかさにつながってるんじゃないのかな」
「いい意味で、諦めてる」
 と萬田が神妙な顔で繰り返し、何気ない風で桐間の顔を見た。
「岡田も似たような感じですしね」
 と、桐間も萬田を見返す。
「兼定の店の岡田くんですね」
 と青山がフォローする。「彼もいわくありげにやってきて、それほど話もしないうちに兼定と通じ合うんですよね」
「薫のいい相談相手にもなってくれますし」
 と茂方が続ける。「薫と兼定のあいだで、ちょうどいいつなぎ役というか、兼定が言わないところを言語化してくれる。頼れるアニキって感じ」
「でもちょっと、いい人すぎません?」
 萬田は不服そうだ。「なんかいいとこばっかり書いてもらってる。薫のお母さんも、もう少しいいとこ書いてあげればいいのに」
「こだわりますね」
 と桐間が呆れた声を出す。「岡田がらみだと、愛と自由の両立がどうこうって薫が思うシーンがあったんだけど」
 ああ、と思いついたように理花がノートをめくる。「〈ひとりで眠るのは自由だ〉〈岡田のように誰かとふたりで眠るとしたら、それは自由とはちがう。自由でないとしたらなんだろう。愛?〉」
「そう、そこです。お見事」
 桐間は理花に親指を立てて見せ、理花はおどけたように胸をそらして見せる。
「そうやって岡田との交流の中で、薫は愛と自由について悩み続けるわけです。がんばれ、とか思っちゃいますよ」
「で、岡田君のおかげで薫は女の子と出会うんだよね」
 と萬田が大声になる。「それで、その子と薫がさあ」
「待って」
 美瑠の大きな声がした。
 なにごとかと驚き、奥の席に目をやる。
「あんた、またなの?」
 と萬田も大声で返す。
「あたし、この小説も読みたくなったから、大事なとこはカットで」
「青山さん、聞いてもらえます?」
 萬田は訴えるような眼差しを向け、前回の読書会で美瑠がネタバレ禁止にした話を延々と語った。
「そんなこと言ったの?」
 青山が驚いて訊くと、
「まあね」
 と美瑠は軽く切り返す。「だってネタバレなしでも読書会はできるし、盛り上がったわよ、ちゃんと」
 あきれたと青山は思いつつ、ふと目に入った時計を見て慌てた。予定をかなりオーバーしている。まとめに入る時間だ。
「どうですか、マスター。今日は短めに切り上げようと思いますが、マスターのほうからこの本について、なにかあればおっしゃってください」
「そうですね」
 とマスターは考え込む仕草を見せた。
「ひとつ、大事なポイントが抜けていると思いました」
「どういうところですか」
「それはね」
 と答えるとマスターは、もったいぶった間を取ったあとに言った。
「この本が、猫小説だということです!」
「たしかに」
 全員がうなずいた。
「タロですね」
 と青山が訊く。
「黒猫のね。あれはいい猫だよ。薫の家の出窓が好きで、いつも外を眺めてるんだよね。薫が帰ってきたら足元に体をすり寄せて、また出窓にのぼる。愛情はあるんだけどベタベタしていない。だから薫は、兼定の家で過ごす時も、両親よりタロのことを思い出すんだよ。さっきの方がおっしゃったとおり、母親のことも、そりゃあ考えてるんでしょうけど」
 マスターは萬田に目を向けた。
「そんな」
 萬田は顔の前で手を振る。
「タロは、ストーリーに何ら関係しないのにちょくちょく出てきます。僕も最近、猫を飼い始めたんだけど、おもしろいよ猫って。干渉するのもされるのも好まないっていうか、個人が独立して生きることを尊重してる。兼定や岡田の生き方に通じるものがあって、これからどうやって生きていこうかと考える薫にも、大きな影響を与えている。だからこその、猫小説ですよ」
「ありがとうございます」
 青山はマスターに頭を下げ、参加者に向きなおる。
「『泡』についての読書会はここまでとします。このあとは特別版として、いつもとは趣向を変えてやってみたいと思います。メールでお伝えしたとおり、皆さん、おすすめの本を持ってきてくださっているはずです。それをお一人ずつ、ご紹介いただければと思います」
「いいねえ」
 マスターが顔を輝かせる。この読書会を心から楽しんでいる気持ちが伝わってくる。
 ふいに、きれいな青の表紙が目に入った。
 桐間が手にした本の表紙には、濃い群青の背景に一羽のマガモが墜落していく絵が描かれていた。
「きれいな表紙ですね」
「ありがとうございます」
 桐間は本が全員に見えるよう、ぐるりと体の前で回した。
「じゃあ僕からいきますね。朝井リョウさんの書かれた『正欲』です。新潮社の本ですね。古志田さんがいるので話しにくいですが、そんなにエロい話じゃないんです」
 マスターがきょとんとしているのを見て、萬田が慌てて説明する。
「すみません、うちの娘なんですけど、一人で勝手にいろんな本を読んでて、免疫だけはあるから大丈夫です」
 ほお、とマスターがうなずく。その様子を桐間があたたかい眼差しでみつめ、言葉をつなぐ。
「この本、『消失の惑星』とか『つまらない住宅地のすべての家』みたいに、群像劇なんです。ある犯罪をめぐって様々な登場人物が動くところも同じです。
 いま、多様性ってことがよく言われますよね。LGBTQなんかが典型ですけど、世の中にいる少数派を認めようという動きです。一見すごくいいことだけど、ほんとにそんなことできるの? って問いかける本なんです」
「へえ」
「おもしろそう」
「朝井リョウって、『桐島、部活やめるってよ』の人だよね。映画は見たけど」
 様々な感想に、桐間がひとつひとつうなずく。
「登場人物の一人は検事の寺井です。息子の登校拒否に悩んでいて、嫌なら学校に行かなくてもいいという妻と意見が合いません。検事として、社会のルートを外れた人間の末路を嫌というほど知っているから、普通に学校に通う生徒に戻ってほしいと願っています。それが正義だと信じているわけですね」
「そういう人、いそう」
「頭の固いおじさん」
「そうなんですよ」
 桐間は、手にした本を振り回すように強く答える。「それから別の登場人物、夏月は、人に言えない性的指向を持っています。誰にも打ち明けられず、無為に日々を過ごしていますが、ある時、同じ指向を持つ男性と巡り会い、社会の片隅で共に生きていこうと決意します。
 さらにもう一人、大学生の八重子は、容姿に自信がなく、大学祭でのダイバーシティ活動に精を出します。多くの登場人物の中で、じつはこの八重子の描き方が特徴的なんです。八重子は差別をなくし、少数派を受け入れる社会にしようと頑張っています」
「いいことじゃん」
「時代の象徴だね」
「そうですよね、でも」
 と桐間がさえぎる。「それってしょせん、想定しうる少数派を容認しているだけだろうと著者は訴えるんです。想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱く対象には、しっかり蓋をするんじゃないか。八重子の活動もその程度のことじゃないか。人間は結局多数派を指向し、完全なマイノリティは排除するんじゃないか」
「嫌なとこをついてくるねえ」
 と粉岡が顔をしかめた。「どんな人も認めようという考え方は間違いじゃないだろうけど、突き詰めていくと、犯罪者だって個性として認めようってことになる」
 粉岡は、一瞬だけ美瑠に目を向けた。美瑠もまた、粉岡をみつめていた。
「そうなんです」
 と、桐間の口調はいつになく滑らかだ。「後半は、まさに粉岡さんのおっしゃったように展開していきます。著者の朝井さんは本当にこういう嫌なポイントを突くの、うまいんですよね」
「桐間さんは、その本のどこに一番惹かれたんですか?」
 マスターが静かに訊いた。
 桐間はしばらく考えたあと、
「男女の関係性ですかね」
 と答えた。「関係の仕方って、それぞれ違っていいと思うんです。男女だけじゃなく、人間と人間って。どこで出会って、どういう経緯で惹かれあって、それが世間の常識に合っていなくたって構わない。そういう考え方を後押ししてくれるような気がしました」
「ありがとうございます。とても面白そうな本なので、僕も読んでみたいと思います」
 青山は、次に健矢をうながした。
「僕はこれですね」
 健矢が見せたのは、きれいなオレンジ色の背景にイラストが描かれた表紙だった。
「台湾の紀蔚然(き・うつぜん)が書いた『台北プライベートアイ』。文藝春秋から出ています。僕、前にも言いましたけど、話題になってるエンタメとか、映画の原作なんかだと読む気になるんです。この本も、映画化されたら絶対面白くなるよって、桐間君がすすめてくれました」
「僕はまだ読んでないけどね」
「そうなの? あんなに台湾好きなのに」
 不服そうな顔を桐間に向けたあと、健矢は話を続ける。
「一言でいえば、新趣向の台湾版ハードボイルドですね。元劇作家で大学教授だった呉誠(ウーチェン)が主人公で、五十歳を機に私立探偵を開業します。さっそく最初の依頼が来るんだけど、呉誠は特別頭がいいわけでもなく、若い頃からパニック障害で薬に依存していて、すんなり事件解決には向かいません」
「駄目な探偵もの、かな」
「台湾が舞台って珍しい」
 わきあがる感想の中、健矢はあらすじを思い出すように、えーと、とページを何度かめくっていた。「それで、最初の依頼はなんとか解決するんですけど、ほどなく呉誠は連続殺人事件に巻き込まれていきます。彼はかつて演劇界でも問題を起こしていたんですが、その辺の事情も関わってきます。呉誠の披露する自虐的な語りも独特でおもしろいんです」
「新趣向、とおっしゃったのはどのあたりでしょう」
 と青山が訊く。
「連続殺人事件で呉誠が容疑者にされるんですが、そこから驚くような手法で捜査を進めるんです。それがもうたまらなく面白いんです。ネタバレになるので詳しくは言えませんが」
「ありがとうございました」
「私は、軽めの読み物なんですけど」
 と紹介を始めたのは粉岡だ。
「韓国のキム・シヨンの書いた『僕だって、大丈夫じゃない』、キネマ旬報社から出ています。エッセイ集なんですが、韓国の医者が書いてるんですよ」
「粉岡先生らしい選書ですね」
「医者だからというだけじゃなく、救急救命室で働いたあと町の開業医に転身した経歴が、私と似ているんです。大きな病院にいると、病気とは向き合うけど病人とは向き合えません。あまりにシステマチックになっていますし、患者ごとの人生に向き合う余裕もありません。僕もずっとそのあたりで悩んでいました」
「先生はよくやってらっしゃいましたよ」
 と茂方が優しい声で言う。「規則一辺倒じゃなく、なるべく患者さんの思うとおりになるよう処置されてました。面会謝絶の患者さんなのに、どうしても昔の恋人に会いたいからと頼まれて会わせてあげたり」
「そういうこともやりましたけど、果たしていいことだったのかどうか」
 粉岡はうつろに空を見つめる。「たぶんこの著者も、救急救命室にいた頃は、病気と病人とのはざまで悩んでいたのだろうと思います」
「病気と病人のはざま、ですか」
「粉岡さんならではの言葉ですね」
 神妙な声があがる。
 粉岡は、沈んだ空気を打ち破るようにわざと明るく、いえいえ、と大きな声で手を振る。「そんな大層なものじゃないんです。たとえば救急救命室だと、後から来た患者のほうが緊急度が高ければ、そちらから治療します。『この人は今すぐ死にそうか、そうでないか』が判断基準になるわけです。だから町医者になった後も、『大丈夫、これくらいで死なないから』と口癖のように言ってしまう。もちろんそれは、『だから心配しなくても大丈夫』という意味なんですけど、言われた相手は話をシャットアウトされたみたいに感じるわけですね。そんなことに、町医者になってから気づいたりする。実に人間的な医者だと思います」
「医者は苦労が多いですね」
「そりゃ、飲み会も荒れるわ」
 雰囲気が暗くなりすぎないよう全員が配慮しているのがわかり、青山は胸が熱くなる。粉岡もいつしか自然な笑顔になっていた。
「著者は、町医者になってほんとによかったと思っています。最先端の現場で刺激を受けることはなくなりましたが、そのぶん人間と毎日、格闘しています。いいこともあれば悪いこともある。そこに、以前には抱けなかったやりがいを感じています」
「扱う患者の種類もぜんぜん違うでしょうしね」
 と青山が訊く。
「お年寄りの患者が病気でもないのにやってきて、みやげものを渡したりするんです。必死で階段を登ってぜいぜい言って、そのせいで体を壊しそうなくらい。そういった人間の温かみを感じるエピソードが並んでいます。僕も、開業医になった当初は勝手が違って苦労しました。でも今は、患者に寄り添う治療をめざしています。やりがいはありますよ」
「そのあたりもじっくりお聞きしたいところですが、すみません、今日は時間がなくて」
「この本、医者だけじゃなく、誰が読んでも心を揺さぶられるエッセイだと思います」
「ありがとうございました。それでは茂方さん、お願いします」
 茂方が取り出したのは文庫本だった。
「ジュリアン・バーンズというイギリスの作家が書いた『イングランド・イングランド』、創元社の本です。元は十五年前くらいに出版されたものが、今年になって文庫本になったんです」
「ジュリアン・バーンズと言えば」
 と口をはさんだのはマスターだ。「最近だと、映画化もされた『終わりの感覚』が良かったですねえ」
「ミステリ仕立てで、すごく面白かったですね」
 と茂方が声を弾ませる。「あの小説は、やや内容が暗くて重い感じでしたけど、こっちはとっても明るくて軽いんです。丸々イングランドを模したテーマパークを作ろうとする話です。イングランドって、ビッグベンとかバッキンガム宮殿とかストーンヘンジとか、観光地がたくさんありますよね。そういった観光地を一つの島に再現するという壮大な計画です」
「また全然ちがう話ですね」
 マスターが興味津々の表情を見せる。
「首謀者は大富豪の実業家、サー・ジャックです。彼はワイト島を買い取り、様々な観光地を再現します。イングランド中の観光地を回るのは大変だけど、この島に来れば全部が揃っている。遠くの本物より近くの偽物に人々は集まる。傲岸で皮肉屋のサー・ジャックは、自信満々でテーマパークをオープンします」
「変わった話だなあ」
「ワイト島って、実在しますよね」
「実在します。オープン後には、頭の切れる女性スタッフとサー・ジャックの闘争も勃発して、思わぬ方向に物語は進んでいきます。著者自身が皮肉屋なので、イングランド人への揶揄がたっぷりちりばめられています。壮大な嘘を本物らしく思わせるサー・ジャックの詭弁も楽しくて、ひねくれた話が好きな方にはお勧めの一冊です」
「私は、小説じゃないんですけど」
 と萬田が取り出したのも文庫本だった。
「これも最初は二〇一二年に出版されて、今年文庫化された本です。内澤旬子さんの書かれた『飼い喰い』で、角川文庫から出ています。内澤旬子さんって私知らなかったんですけど、あの高野秀行さん界隈の人なんですね」
「高野さんって、モケーレ・ムベンベの?」
 と健矢が切り返す。
「なんですか、モケーレ・ムベンベって?」
 粉岡が吹き出す。
 健矢も笑いながら、
「そういう名前の、幻の動物がいるんです。いるんですっていうか、ネッシーとか雪男みたいな」
 粉岡は不審な顔になったが、それ以上言及はしなかった。
「あたしもよく知らないんですけど、そういう怪しい書き物とかしてる人ですかね、内澤さんて。SNSで、強烈な本を読んだよって紹介されてる人がいて、タイトルが『飼い喰い』。売り買いの買うじゃなくて、飼育する、の飼う、です。すごく気になったんで読んでみました。豚を飼って、最後に自分で屠畜して食べるんです。それを著者の内澤さん自らが実践したノンフィクションなんですよ」
 参加者全員が顔をしかめる。同時に、どういう本なんだろうと興味も湧いているようだ。
「著者も酪農は初めてで、豚小屋を作るところから始めるわけです。東京では場所が見つからず、千葉の僻地に移り住んで豚小屋を建てます。三匹の豚を豚農家さんから仕入れて、飼育方法も一つ一つ学んでいきます。素人による豚の飼育奮戦記として、まずはめちゃくちゃ面白いんです」
「その人、なんでそんなこと始めちゃったんです?」
 と訊いたのは桐間だ。
「前に、屠畜に関する本を出されてるんです。世界の屠畜現場を紹介した本なんだけど、取材をする過程で、どうしても自分で家畜を飼育して食べてみたいと思ったんですって」
 うえー、と桐間が舌を出す。
「飼う前の準備からして、最高なんですよ。豚の来歴を知りたいから、と豚の交配に立ち会うんです。豚のオチンチンって、すごく変な形をしてるんですね。太さは人差し指くらいで、すっごく長くて、ワインオープナーみたいにらせん状になってるんです。この形がメスの子宮にぴったり収まるらしくって、でもうまくできないオスもいて、その時は人間がオチンチンを握って入れてやるんです。で、一回挿入したらお互いじっと静止したまんま。これでいつイクんですかって著者が訊いたら、豚はそのまま十分ほど射精し続けるらしいんですよ」
 キャハハ、と笑いながら話す萬田を、他の参加者たちは苦笑しながら聞いている。
「交配するのは個別の部屋で、オスとメスを一頭ずつ入れるんです。相性が合えば行為に至るんですが、うまくいかなければ別のオスの部屋にメスを移します。チェンジって感じ? 実際、その話を聞いた著者も、〈どうしても個室風俗店を連想してしまう〉って書いてます」
 萬田の話は勢いを増し、青山も笑いながら聞いていた。ふと見ると、桐間だけが笑わずに顔をしかめていた。
「でね、着床を完全にするために、若いオスから採取した精子で人工授精もおこなうんです。だから、どのオスの子供だか区別なんてつかない。来歴なんて結局わかんないんです。精子を採る時は、跳び箱みたいな台にオスが乗っかります。それで横から人間が手を出して採取する。それを見た著者が、こっちの豚は童貞ってことですか、なんて聞いちゃう。そういうやりとりが爆笑なんですよ」
「そういう本なのー?」
 と、茂方も嫌がりながら笑っている。そうなのそうなの、と萬田はガールズトークのノリで返す。
「飼い始めたらまた、ハプニングの連続なんです。豚に突かれたり噛まれたり、豚小屋の扉を壊されたり台風で雨漏りがしたり。思うように大きく育ってくれなくて、でも決められた期限に屠畜場に運び込まないといけない。そういう過程がまためちゃくちゃに面白いんです」
「実際に飼うとなったら、そうなりますよね」
「簡単に考えすぎじゃない? この人」
 場が盛り上がっている様子を萬田は満足そうに眺め、それでね、と得意げな声を出す。
「一番のポイントは、最後に豚を殺すとこですよ。手間をかけて世話をするうちに、どうしても情が移ります。豚たちがかわいくてたまらないわけですよ。なのに、最後には自分で殺すという選択をしなきゃいけない。単なる豚の飼育奮戦記だけじゃないんです」
「あそこにも置いてありますよ」
 見ると、マスターが壁の本棚を指さしていた。そこには同じ背表紙の文庫本があった。
「僕も読みました。めちゃくちゃ興味深い本です。奇書といってもいい。ご紹介いただいた前半部のあたりは、僕も大笑いしながら読みました。入院中は暇でしたから、大いに助けになりました。でも、読み進めるうちにしんどくなってくる。屠畜の場面が近づいてくるからです。
 豚の飼育と屠畜、どちらかだけなら、単なるルポで終わります。この二つが結びつくと、とたんに愛と生命の物語になるんです。これは相当に厳しいですよ。だって、たとえば僕の飼っている猫を自分で殺して食べるのと同じことでしょう」
「そうなんですよね」
 萬田は打って変わって真剣な表情でうなずく。
「豚農家さんって、豚に名前は付けないんですって。名前を付けたらかわいくなって、愛着が湧いちゃうから。でも内田さんは名前をつけちゃう。豚農家さん達はすごく心配するんです。そんなことしてたら殺せないよって。
 私も最後のほうを読むのは勇気がいりました。美瑠に指摘されなくても、ラストでどうなるかは言いません。でもほんと、読んでよかったと思っています」
「ありがとうございました」
 青山は萬田の話しぶりに圧倒されていた。爆笑で始まり、最後はいつになく真摯な顔で紹介を終えた彼女が不思議な存在に思える。
「それでは」
 と仕切り直し、理花に話をうながす。
「私は、これです」
 理花は本を取り出し、全員に見せる。
「複眼人!」
 全員の声が揃う。
 青山が驚いていると、参加者全員がカバンをさぐり、自分の本を取り出した。
 雨降る大地の下に、海とクジラの描かれた表紙。
 全員が同じ本を手にしていた。
「前に、桐間さんがご紹介されていて」
 理花の言葉に、そうそう、と全員がうなずく。
「僕も読んでるよ」
 マスターがふたたび店内の書棚を指さす。
 美瑠がとっさに立ち上がると、書棚から本を取り、マスターに手渡した。
「じつは僕も今日、紹介しようと思ってました」
 青山も自分の本を取り出す。
「もうお話しすること、ないですかね」
 理花がおずおずと本をしまおうとする。
「そんなことないよ。理花ちゃんがこの本をどう感じたか、聞かせてほしいですよ」
 青山は手を振り、理花を促した。
 理花はうなずき、ふたたび本をカバンから取り出す。
「呉明益(ご・めいえき)さんの書かれた『複眼人』、KADOKAWAから出ています。物語は、ワヨワヨ島で生まれた少年、アトレの話から始まります。この島の描写が素敵で、一気に引き込まれちゃいました。
 現代社会から隔絶された島で、島民は古来の生活を守って暮らしています。海の知識が豊富な掌海師(しょうかいし)とか、山や大地に詳しい掌地師(しょうちし)が出てきたり、神の化身の魚を食べるとヘソにうろこが生えるとか、島にまつわるいろんな話が本当におもしろくて、わくわくしながら読みました」
「現代版ファンタジーとして、よくできてるからね」
 と青山が補足する。「島で生まれた次男は、大きくなったら島から出て行かなくちゃいけない。自作の船でアトレが海に漕ぎ出し、台湾に住むアリスのパートへとつながっていくところも見事です」
「アリスはかわいそうな人なんだよね」
 と、萬田の口調も熱い。「彼女は当初、夫のトムとの間に子供をもうけるつもりはなかったんです。この時代に子供を作るのは子供を苦しめるだけだからって」
「トムはトムで、危険なことばかりしたがるしね」
 と粉岡は非難めいた口調だ。
 萬田も大きくうなずく。「トムは台湾に来てから登山を始めて、それも危険な山ばかり選びたがる。岸壁を登ると生の実感を得られるんだとか言うんだけど、アリスは心配でしょうがない。読書会でやった『消失の惑星』にも通じますよね。あの中のエピソードにありそうな感じ」
「僕も同じこと思ってました」
 マスターが割って入る。話に入りたくてうずうずしているようだ。「前に青山君にも言ったんだけど、自分の背負った事情や起きてしまったどうしようもないことを受け入れるという点で、この二つの小説は似ていると思ったんです」
 青山はうなずき、
「健矢さんはいかがでしょう」
 と話を振った。
「ワヨワヨ島の変な風習がありますよね。次男が島を出て行くとき、草むらで待ち伏せしてる女性全員と交わるっていう。おーすげー、とか思いました」
「お前なあ」
 と桐間が呆れた声を出す。
「感想は人それぞれですから」
 と青山はなだめた。「桐間さんはどうですか。そもそも、最初にご紹介くださったのが桐間さんでしたが」
「いろんな問題を含んでますよね。アトレがゴミの塊に流れ着いて、その塊ごと台湾にたどり着く。ゴミの塊は現代社会の批判になってるんだけど、単純に自然がいいとも言ってない。台湾にトンネルを掘った技術者にも光を当てて、現代人の言い分も認めています。映画の『もののけ姫』や、漫画版『風の谷のナウシカ』に通じるものを感じました」
「ワヨワヨ島の中にも対立がありますよね」
 と粉岡が話を引き取る。「アトレのことが好きな少女ウルシュラは、島の中でも現代的な考えを持っています。女は海に出ちゃいけないという島の掟を破り、自分で船を作ってアトレを探しに行きます。ずっと反対していた母親も最後はウルシュラを助けて、海へ出ていく彼女を祝福するんです。美しくて崇高なシーンでしたね。
 ほかにも、アリスの友人とかトンネル技術者とか、脇役にも確かな物語を与えているのがこの小説の特長です。そういうリアリティを積み重ねることで、作品世界ががっちり作られているんですね。そういう意味でも『テスカトリポカ』に通じるものを感じます」
「私は、詩の心を感じました」
 待ちわびたように茂方が口を開く。
「セリフもそうですが、地の文でさえ、詩情豊かで美しいんです。アリスの友人がボブ・ディランの『はげしい雨が降る』を歌うシーンも印象的でした」
「ありがとうございました」
 全員が意見を披露したのを確認し、青山は頭を下げた。
「あの、すみません」
 萬田が手を挙げた。
「さっき途中になっちゃって。アリスの話ですけど、彼女、本当に辛かったと思うんです。夫と息子を同時に亡くして、絶望して自殺も考えて、それでも生きていこうとがんばってます。『消失の惑星』にも夫を亡くした女性が出てきますけど、あたしなら、子供を亡くして生きていけるかどうか自信はありません。でも彼女たちは、夫や子供がいない道の上を、どうにかして生きていこうとします。あたし、なんていうか」
 萬田が言葉を詰まらせる。隣の理花がさっとカバンに手を入れ、取り出したハンカチを萬田に押しつける。連携プレーのようにハンカチが受け渡されるが、どちらも無表情のままだ。
 二人の様子を全員が見守るなか、マスターが口を開く。
「あなたの娘さん、でしたっけ?」
 マスターは理花を手で示した。目尻を拭いつつ、萬田が不審げにうなずく。
「すばらしい娘さんですね」
 マスターは満面の笑みを浮かべた。「こういうところで立派に自分の意見が言えてる。なかなかできるもんじゃない」
 理花が顔を赤らめてうつむく。
「そしてあなたも、立派な母親です。萬田さん、あなたの本の読み解きには、あなたの人生がありました」
「え?」という顔で萬田が顔を上げる。なにか神々しいものを目にしたように、マスターの顔を凝視し動かない。青山はその光景に、不思議な感動を覚えていた。
「それともうひとつ」
 マスターが意味ありげに参加者を見渡す。
「皆さんのご意見には、大事なポイントが抜けていると思いました」
「どういうところですか」
 青山は、これまでの議論を頭で反芻する。ひとつ気づいたことがあった。
「それはね」
 マスターが次の言葉を発しようとした瞬間、参加者が一斉に叫んだ。
「猫小説!」
 わははは、と大爆笑が起こる。マスターはしてやられたという顔で苦笑している。
「だって、さっきと同じセリフなんですもん」
 茂方が笑いにあえぐ。
「ばれてましたか。わざとらし過ぎたかな」
 マスターも恥ずかしそうに笑った。
「猫のオハヨですね」
 桐間の言葉に、マスターがうなずく。「『泡』でも猫は大事な存在でしたけど、こっちのオハヨはさらに重要な役割を果たしています。悲しみが癒えないアリスに、生きる意味と希望をさりげなく示してくれるんです。オッドアイっていう、左右の眼の色が違う珍しい種類で、物事を多視点から見るたとえにもなってる。アリスの新しいパートナーといえるんじゃないでしょうか」
「たしかに」
 青山がうなずく。見ると、他の参加者たちも神妙に聞いていた。
「もう少しだけいいですか?」
 理花が手を挙げた。
「ウルシュラがアトレに渡す、チチャ酒ってあったじゃないですか。女性がイモの根を噛んで口の中で発酵させるんですけど、唾液の成分は人によって違うから、味も噛む人ごとに違います。ウルシュラの作るチチャ酒は島一番のおいしさでした。私、そこを読んで思い出した本があったんです」
 理花はカバンから別の本を取り出した。
「小泉武夫さんの書いた『最終結論「発酵食品」の奇跡』という本で、文藝春秋から出ています。発酵学者である著者が、世界中の珍しい発酵食品を食べ歩くドキュメンタリーです。
 スウェーデンに、ニシンを発酵させたシュール・ストレンミングっていう缶詰がありますよね。世界には他にも、川ガニを潰してどろどろにして発酵させるとか、カエルやトカゲの肉をお米と一緒に発酵させるとか、とんでもない食べ物がいっぱいあるんです。著者いわく、どれもすごく臭くて、すごくおいしいんですって」
「あんたほんと、変てこな本読んでるよね」
 萬田が鼻をつまむ仕草をした。他の参加者たちも同じく臭そうな顔をしている。
「でも、いちばんすごいなと思ったのは、北極圏で作られるキビヤックですね。冒険家の植村直己さんもこれが大好きで、常備してたんです。アザラシの肉を食べ尽くしたあと、空洞になったお腹の中に、小さな鳥を二百羽くらい詰め込むんです。それからアザラシの腹を縫い合わせて、土に埋めて三年間発酵させます。アザラシの中で鳥は発酵して羽根以外ぜんぶドロドロになっています。現地の人はその鳥のお尻に口をつけて、中の体液を吸うんです」
「もういや。やめてよー」
 萬田が悲鳴をあげる。
 その姿を見て、理花はいたずらっぽい笑みを浮かべる。「日本にも負けないくらい珍しい発酵食はあるんです。ヒヨドリの内臓の塩辛とか、シャケの腎臓の塩辛とか。ナマコを使うコノワタは有名ですよね。でも著者が世界で最も珍しい発酵食品と絶賛するのは、フグの卵巣の糠漬けです。フグの卵巣には大人五十人を殺せるくらいの猛毒があります。これに塩をくわえることで少しずつ毒抜きをして、糠に漬け込むんです。完成まで三年くらいかかるそうです」
「人間の執念を感じるね」
 粉岡が感心しつつ呆れたような声を出す。
 はい、と理花が得意げな表情で続ける。「そうやって各地の発酵食が紹介される中に、口噛み酒も出てくるんです。歴史はすごく古くて、播磨国風土記にも記述があるそうです」
「すごい」
「複眼人からそんなとこまでいっちゃうんだ」
 理花は全員から尊敬のまなざしを浴びていた。
「そういえば、『消失の惑星』のペトロパヴロフスク・カムチャツキーも出てきました」
 理花は本のページを繰る。
「小説に出てきたコリヤーク族が、独自の発酵食品を作ってるんです。地面に掘った穴に魚を落としていって、粘土で蓋をする。これで春になる頃、発酵して食べられようになります。あの読書会で話そうと思ってて、忘れてました」
「ありがとうございます」
 青山の言葉に、理花は満足そうに本をカバンにしまった。
 他の発言がないことを確認してから、青山はあらためて口を開く。
「今日はみなさん、ほんとうに長い時間、ありがとうございました。だいぶ予定時間をオーバーしてしまいました。マスターの体調のこともありますので、これくらいにしたいと思います」
 ふと隣に目をやると、マスターは美瑠が持参したケーキの二個目をばくばくと食べていた。
 青山の視線に気づき、マスターは気まずそうに手を止めると、
「発酵食品の話を聞いてたら、急に腹が減って」
 と言い訳をした。
「お元気そうで何よりです」
 参加者から笑いが漏れた。
 この店に入った時からずっと、幸せな気持ちが続いていた。
「なんか元気が出てきたよ」
 とマスターは最後の一切れを口に入れ、フォークを皿に置いた。
「青山君」
「はい?」
「今日は最高のプレゼントをいただいたよ」
「ケーキですか?」
「違うよ。この読書会だよ」
 マスターは参加者に目を向けた。「なにより、参加者の全員が素晴らしい。こんなメンバーに恵まれて、僕はうらやましいです。本当にみなさん、素晴らしいクリスマスプレゼントを、どうもありがとうございました」
 マスターは席から立ち上がり、参加者に頭を下げた。
 青山が手を叩くと、参加者全員がそれに続き、大きな拍手の音が店内に響いた。
 座が落ち着くのを待ってから、青山は参加者に向き直る。
「今日の読書会は、場所が違うというのもあるんですが、なにかこれまでの集大成的な内容になったんじゃないかと思います。お一人ずつ、なにか感想をいただければと思うのですが」
 一番に手を挙げたのは萬田だった。
「『歌うように伝えたい』の時に桐間君が、過去の自分が今の自分の手本になる、って言ったじゃないですか。あたしあれ、本当に感動しちゃって。あのとき以来ずっと考えてました。過去の自分が今の自分を助けてくれるなら、未来の自分のために、今をちゃんと生きなきゃなあって」
「そんなこと言ったっけ?」
 と桐間がうそぶく。
「あんたねー」
 と萬田が睨むと、
「うそうそ、覚えてますって」
 と桐間が笑う。「僕もあの読書会で、気づくことがたくさんあったんです。〈私の思いが深く強ければ、その行く道は荒地ばかりではない〉というラストの言葉が胸に残ってます」
「考えさせられる言葉ですね」
 と青山が同意する。「受け取る人ごとに違った意味を持つ気がします」
「私は、看護師になった時のことを思い出しました」
 と茂方が口を開く。「塩見さんが見かけた女性で、病気の子供に『レディー、ガガ』と声をかける人がいたじゃないですか。『レディー、ゴー』の代わりの、お母さんなりのユーモアなんですけど、どんなに酷くて辛い状況でも、ユーモアって大きな力があると思うんです。人を泣かせるのは簡単でも、笑わせるのは難しいことです。私、自分が乳ガンで片方の胸を失ったあと、どうしても暗い方向にしか気持ちが向かなくて、それをどうやって乗り越えたのか思い出したら、たぶんいくつか要因はあったと思うんですけど、一冊の本を思い出したんです。紹介させてくださいね」
 茂方は文庫本を二冊取り出した。
「これ、漫画なんです。業田良家さんの書いた『自虐の詩』っていう作品で、文庫版だと上下二巻になってます。読んで頂くとわかるんですけど、ほんと、くだらない四コマ漫画なんですよ」
 茂方は二冊を参加者に渡す。
 上巻のほうを手に取ると、たしかに週刊誌に載っていそうな四コマ漫画が続いている。絵も上手くはない。アル中で暴力を振るう男性が妻を困らせるネタばかりで、正直、さほど面白いとも思えない。
「どうです? なんかしょうもない感じでしょう。私も、病院で退屈しのぎに読んでただけなんです。そしたら、下巻くらいから学生時代のエピソードが混じり始めて、一気に深刻な内容になっていくんです。四コマ漫画なのに、ストーリー性を帯びていくんですね。それでラストにもう、とんでもないところに連れていかれる。奇跡のような四コマ漫画だから、読んでない方には心からお勧めします」
「ほんとに?」
「この内容で?」
 疑問の声があちこちから上がる。
「この作品、終始、笑いを忘れないんです。どんな深刻で辛い状況でも、笑いが全てを救う力があることを教えてくれます。この前も久しぶりに読み返して、笑いながら大泣きしてました。最初にこれを読んだ時も、だから思ったんです。私は看護師になりたいって。人を笑わせて、力づけられるような存在になりたいって。それで社会人入試で看護学校に入って、三十五歳で看護師になりました」
「すごい」
 マスターが拍手をし、全員がそれにならう。
「ありがとうございます。ほんと、看護師になってよかったと思います。粉岡先生のような、尊敬できるお医者さんにも出会うことができましたし」
「僕なんか、そんな」
 と粉岡が手を振る。
「粉岡先生は、『歌うように伝えたい』について他に感想はお持ちですか?」
 と青山が尋ねる。
 粉岡は斜め上を見上げ、考えるそぶりを見せた。
「下積み時代に、何度もチャレンジをされているでしょう。そこに共感しました。誰もが人生のどこかで、うまくいくかはわからないけどチャレンジする時があると思うんです。それを思い出しました」
「先生にもそんな時があったんですか」
 茂方が意外そうな顔をする。
「そりゃあ、ありますよ」
 と粉岡が笑い、すぐに真顔に戻る。
「『アウトレイジ・最終章』も、チャレンジだったんでしょうね」
 と、健矢が割って入る。「まだ杖をついて歩く状態なのに、『最終章』では主役クラスの出演量ですから。でも、やってよかったっていうのがすごく伝わってきて、ジーンときました」
「ありがとうございます。理花ちゃんはどうですか、年齢差があるから、今一つわからなかったって言ってたけど」
「あれからもう一回読んでみたんです。同じ本を二回読むと印象が変わる、というお話をお聞きしましたけど、確かにそうだと思いました。最後のほうに、メメント・モリという言葉がありますよね」
「死を思う、とか、死を忘れるなっていう」
 マスターが即答する。
「はい。それが人生の終わりに凄く大切だって。私、死というものをそれほど感じたことがなくて」
「そりゃそうだよ」
 萬田が口を出す。「その年で身近に感じるほうがおかしい」
「でも、この本を読んで、そういう意識が芽生えました。だって誰でも絶対いつかは死ぬし、私だって、明日死んじゃうかもしれない」
「やめてよ」
 と萬田が理花に顔を向ける。本当に心配そうな顔をしている。
「死なないよ。でも、そうなるかもしれないと思って生きることが大事っていうか、それでまた生の実感が変わるかもしれないって、それこそ実感はまだないんですけど、なんとなくですけど、そう思いました」
「えらいねえ、その年で」
 と青山は思わず口にする。「みなさん、本当にありがとうございました。僕もこの本の、死についての考察のあたりはぐっときました。同じページに書いてある、〈少しぐらいは周りに迷惑もかけ、人の助けを借りることも良いのではないか〉という言葉も、すごく響きました。読書会も自分一人では成り立ちません。皆さんの協力を得て、助けてもらうことでうまくいきます。そうすると、今度はまた少しでも皆さんの力になりたい、さらにいい会にしたいと思う。すごくいい循環になっていくと思うんです。この本を仕事に利用しているみたいで恐縮ですけど」
「いいと思うよ」
 マスターの笑顔があった。
「いいですかね。こうしてこれからも続けて」
 青山が尋ねると、もちろん、とマスターが力強くうなずく。
「僕は今日、本当に感動しています。自分がガンだと知った時には、情けないほど取り乱したんです。あそこにいる妻はよく知ってますが、とてもこの場では言えないほどでした。この一カ月もかなりひどい状態になって、一時はもう駄目かもしれないって思いました。今も実は、痛みをコントロールしながら暮らしてるんです。
 『歌うように伝えたい』は、僕には特別な一冊です。塩見さんも、ずっと続く闘病の様子を赤裸々に書かれていて、そういう自分を否定していません。病気が発覚した際の、もがき苦しんで乱れていたみにくい自分を忘れない、と書かれています。その後の闘病を通して、人生の深い部分を見つめてらっしゃいます。最後にいくつか、僕の印象に残った部分を引用してもいいかな?」
「マスターさえよければ」
 青山がこたえると、マスターは自分の本を取り出して開いた。
「〈生き残った時間は壮絶であったが、また心の奥深く芯まで温まる時間でもあった〉〈どんなに今を取り繕っても私は取り乱したあの半年を忘れられはしない。引っ掻いた傷のかさぶたは、かえって今を生きるための大事な処方だったとさえ思える〉〈以前は健康ではあったが私の生命の力みたいなものは意外とボンヤリとしていて、すり減り、弱っていたのではないだろうか〉」
 マスターは手にしていた本を下ろした。
「以上です」
 ふたたび誰からともなく拍手が湧き起こり、それはしばらく続いた。
「この読書会、これからもずっと続けてください」
 マスターの言葉に、青山は力強くうなずく。
「これを機に、なにか名前をつけたらいいんじゃないかな」
「名前、ですか」
 青山は首を傾げた。
 考えたこともなかったが、たしかに名前をつけることで魂が宿るような気もする。
 どうしよう、と思っているところに、
「青山一座、みたいなのでいいんじゃないですか」
 と粉岡が提案した。
「青山さんが主宰なんですから」
「それは」
 青山は首を振った。「恐縮すぎますよ」
「これはどうですか」
 マスターがコーヒーカップを持ち上げる。
「青山という名前は、じつはコーヒー屋には重要な名前なんです。青山、すなわちブルーマウンテンですね」
「たしかに」
 全員が同意する。
「コーヒー豆の王様とも言われる有名な品種です。だからそれをもじって、ブルマン一座の読書会、ってのはどうですか」
「それ、いい」
 と萬田が即答し、他の参加者も笑顔でうなずく。
「そうしますか。まだ少し、気が引けますが」
 青山も内心、悪くはないと思っていた。
「自信を持ってください」
 とマスターが肩を叩く。
 青山はあらためて姿勢を正した。
「わかりました。それでは今後はそう名乗ることにします。ブルマン一座の読書会、クリスマス特別編は、これにて終了といたします」

(了)

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

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