ブルマン一座の読書会 (第3話/全10話)

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

(三)青山


 大成功だった。
 初回にしては人が集まり、議論もおおいに盛り上がった。課題図書の分厚さや、自分と同じように楽しんでもらえるかなど不安はいくつもあったが、今ではこの本を選んでよかったと胸を張って言える。
 夜には祝杯をあげ、美瑠に頭を下げた。
 今回の読書会の成功は美瑠が人を集めてくれたおかげだ。あらためて彼女の交友の広さと人望の厚さを思い知った。あの差し迫った状況でこれだけ人を集めるなど、普通はできるはずがない。
 何か特別な理由でもあるのだろうか。
 ふと参加者の奇妙な言動を思い出す。店に入ってきた時のそぶりからして普通ではなかった。
 たとえば、萬田という女性。
 妙にコカインにこだわっていたが、どうしてだろう。
 麻薬捜査官? 喫茶店が売買の温床になっていないか調べに来たのか? 誰かが店でコカインを使ったら、自分も逮捕されるのだろうか。そうなると店はどうなる? 美瑠との暮らしはどうなる?
 最悪じゃないか。
 思わず口走りそうになり、慌てて思い直した。
 そんな馬鹿な話はない。
 桐間という青年はどうだろう。やけにカネに執着していた気がする。
 銀行への返済は滞っていないが、店の将来に不安はある。経営状態を確認に来た査察官だろうか。帳簿を見られれば、この先の見通しが明るくないことがばれてしまう。店は差し押さえられ、読書会どころではなくなる。日々の生活さえままならなくなる。
 最悪じゃないか。
「なに考えてるの」
 美瑠の言葉で我に返る。
「また、しなくてもいい心配でもしてたんでしょ」
「そんなこと」
 ビールをあおった。
「次の課題図書はどうするの」
「そこなんだよ」
 グラスを置き、真顔に戻る。差し迫って考えなければならないのは、まさにそこだ。
 初回の開催前から、第二回の課題図書も検討していた。次はもうすこし薄い本がいい。小説だけではなくノンフィクションとかエッセイでもいい。そう思い、書店やネットを探していた。
「なかなかこれというのが見つからなくてさ。そしたら今日、参加者さんの口からいくつか本の話が出て、『消失の惑星』という小説が気になってる」
 美瑠はスマホを取り出し、検索をかけた。
「ジュリア・フィリップス。初めて聞く名前だね。これがデビュー作なんだ」
「参加者さん、今年読んだ海外小説でベストって言ってた」
「きれいな表紙だね」
 スマホの画面には、読書会でも見せてもらった本の書影が映っている。
「そう。なんか手触りもよくて、本としての存在感があるんだよ。でも、僕もまだ読んでないから」
「いいんじゃない? 第一印象は大事だよ。自分が好きな本だって、読書会で盛り上がるとは限らないし」
「その逆もあるしね」
「早く告知しないと、参加者の読む時間がなくなっちゃうよ。あなたの準備のためにも、早めに決めて読み始める必要があるんじゃない?」
 美瑠の言葉で、課題図書は決まった。
 その日のうちに次回のお知らせメールを作り、初回の参加者全員に送った。
 翌日は遠出をした。
 学生時代を過ごした街に降り立ち、向かったのは一軒の喫茶店だった。駅から二十分ほど歩くと、シャッターを下ろしたままの雑貨屋や和菓子屋の並ぶブロックの一角に目指す店がある。
 読書喫茶「レトル」。
 人生のとば口に立ったばかりの青山に、道を示してくれた場所。
 大学生の頃、毎日のように通い、博学のマスターから読書の喜びを教えてもらった。カフェを開店し、読書会を開催しようと思い立った気持ちの原点はここにある。
 大学の友人に連れて行ってもらったのがきっかけだった。濃いめのフローリングに、シンプルな木製テーブルと椅子。書棚に並ぶ本の背表紙が店に彩りを添えている。
 当時四十代半ばだったマスターは、コーヒーについての造詣が深く、書物の知識も豊富だった。
「気になる本は、片っ端から読んでみるといい。どんな本でも、読めば自分の血肉となる」
 その言葉に、気になった自己啓発本やタレント本を手にすると、
「そんなの読んでもためにならんぞ」
 と叱られた。
「理不尽ですよ」
 と反発すると、さりげなくマスターが紹介してくれたのは、古典か海外の文学だった。
「時代や国の違う小説をたくさん読むといい。いろんな体験ができる」
 小説など気晴らしだと思っていたが、マスターに促されて読むうち、次第にのめりこんでいった。
 ときおり、会話を楽しみたい女性達や騒がしい学生連中が来ることがあり、マスターはわざと不愛想に彼らをあしらった。
「ああいう客はノーサンキューだけど、断るわけにもいかないしな」
 不相応な客が帰ったあと、マスターは顔をしかめ、店を維持するのがいかに大変かを語ってくれた。
 大学を出て違う街に越したあとも、機会を見つけては訪問した。店に入ればマスターは、変わらない静かな表情で迎えてくれた。
 ところがある日、一枚のおしらせが扉に貼られていた。
「店主の体調不良により、しばらく休業いたします」
 A4の紙に書かれていたのはその一文だけだった。電話やメールをするのもはばかられ、その場を立ち去った。
 ウェブサイトが更新されることはなく、ある日とつぜんアクセスできなくなった。それから何年かが過ぎ、店の存在は心から薄れていった。
 ふたたび店名を発見したのは、読書会の三日前だった。
 何気なくグーグルマップを開き、駅前の懐かしい風景を表示させていると、「読書喫茶レトル」の文字が見えた。
 店名は、かつてと同じ場所に表示されていた。ネットで検索すると、シンプルなデザインに一新されたウェブサイトが出てきた。
 ページの下方には、「初めてご来店の方へ」という見慣れない注意書きがあった。この店は静かに読書を楽しみたい人の場所です、という説明のあと、三つのルールが記載されていた。
 1.私語厳禁。
 2.入店は二名まで。
 3.中学生未満のお子様連れはお断り。
 一読、おお、と思った。
 かつてマスターが、やりたいんだけど実際は難しいと話していたことばかりだった。逡巡の末に決断したのだろう。ついにここまで踏み切ったかと感心するが、経営として成り立つのかという心配もある。
 もともと客の入りは少なく、だからこそ居心地がいい店だった。これでさらに客層を狭めたら、来る人には都合がよいが、店が立ち行かなくなってしまう。
 もちろんそんなことはさんざん考え抜いての決断だろう。その苦悩を思うとすぐにでも駆けつけたい衝動に駆られた。いまマスターと会えたら、話したいことは山のようにある。
 もう少し落ち着いてからと思っていたが、読書会が終わって一気に緊張が解けると、あの店のことが気になってしかたがない。カフェを開業したことや読書会の報告もしたい。矢も楯もたまらず、美瑠に無理を言って店番を代わってもらい、翌日早朝の新幹線に飛び乗った。
 雑居ビルの二階にある店は、昔はスナックか何かだったようで、外から店内をうかがうことはできない。入口の壁に店名が書かれているだけで、最初に入る時は勇気がいる。だからこそ客を選ぶのか、本当の読書好き、コーヒー好きの集まる店だった。
「OPEN」の文字を確認し、緊張しながら扉を開く。
 照明を落とした店内から、コーヒーの芳香が流れてくる。以前はジャズがかかっていたが、いま聞こえてくるのは環境音楽のような無調の響きだ。
 勇気を出して足を踏み入れる。
 テーブルと椅子は以前のままだ。胸の奥から懐かしい思いがこみ上げる。壁や床は、年月によるくすみが濃くなった気がした。
 カウンターの後ろに白髪の男性が立っていた。下を向いてコップを拭く姿は、記憶の中にあるマスターよりも小柄な気がした。
 歩み寄ると、男性は顔を上げた。
 胸が熱くなった。記憶の像と現実とが重なり合う。顔も体も細くなり、首にはたるみが目立つけれど、たしかにあのマスターだった。
 せきたてられるように声をかける。
「すみません、昔、ここによく来ていた」
「わかるよ」
 と男性は笑みを浮かべた。
「名前が、ええとね、覚えてると思うんだけど」
 マスターは手を止め、自分の目の奥を見つめるような表情をした。
「青山くん?」
 マスターが上目遣いにこちらを見る。
「そうです! ありがとうございます!」
 何に対してのお礼か自分でもわからず、次の言葉が出てこなかった。
 しばらく見つめ合ってから、互いに空気が抜けるように表情を崩した。
「どうぞ」
 マスターがカウンター席を指さす。
「どうも」
 青山は頭をさげながら座る。「店、再開されてたんですね」
「なんとかね。一時は店どころか、命がどうなるかって状態だったから」
「ご病気だったんですか」
「だったというか、今も終わってはないんだけど」
 マスターは水とおしぼりを出したあと、顔をしかめつつ背筋を伸ばした。
 膀胱ガンで、余命一年と宣告されたという。マスターは、発病から手術、抗ガン剤治療に至る経緯をかいつまんで教えてくれた。
「今も通院で治療は継続中。体調が悪い時は休むし、今後もどうなるかわからない。でもね、店、続けたいんだよね」
「それは僕らもありがたいです。ネットからも情報がなくなって、もうこのままかなあと思ってましたから」
 青山は店内を見渡す。書棚にはあいかわらず魅惑的な背表紙が並んでいて、思わず手に取りたくなる。
「店の中、ぜんぜん変わってないですね」
 マスターは少し変わりましたけど、という言葉は言わずにおいた。
「休んでる間に他の喫茶店とか行ってさ、仲のいい店主と話すと、いつも同じ話になるんだよ。好きなことじゃないと続かない、好きなことしかできないよって」
「ですよね」
「コーヒーが好きで店を始めたのに、流行りでパンケーキだタピオカだって出してたとこ、全部潰れたよ。儲かるのかもしれないけど、振り回されて、疲れて自滅していくんだよね」
「チェーン店の並んでる通りとか、ショッピングモールとか、そういうの多いですよね」
「うちに来る人でさ、二店舗目のカフェを出した人がいるんだよ。本店は怪しげなアジアン雑貨とかオブジェを並べてて、その店主はそういうのが好きなんだよね」
「こことは正反対ですね」
「でも二店舗目はオフィス街だし、クールでおしゃれなイメージがいいって言われたらしくてさ。無地の白壁に現代アートを等間隔に並べて、昼はパスタランチとかやってたんだよ。でもある時、もう限界だ、やめるって言いだした」
「流行りそうだけどなあ。ランチの固定客もつくでしょうし」
「結局、性に合わなかったんだよ。ランチは手間もかかるし、思ったほど売り上げも伸びなかったらしい。それで一週間ほど店を休みにして、アジアン趣味全開でジャングルみたいな店にしたんだよ。最初は怪しい店に思われて人が来なかったんだけど、最近見に行ったらえらい繁盛しててさ。聞いたらほくほく顔で、ようやく売り上げが伸びてきたんだって」
「そういうもんですか」
「そういうもん。だから二人で確認しあったんだよ。好きなことしかできないし、思うようにやるしかない。結果的にそれが一番うまくいくって」
 青山はうなずきつつ、自分の店はどうだろうかと自問した。
「だから俺も、自分の趣味を徹底することにして、店のルールも決めた」
「そうだ。私語は駄目、でしたっけ?」
 と青山は声を潜めた。
「いいのいいの」
 とマスターは笑った。
「あれは他の客がいる時だけ。俺ね、前からずっと歯がゆい思いしてたんだよ。読書とコーヒーを楽しんでほしい。その思いは店を出した当初から変わらないし、実際そのとおりになってた」
「僕もそういうとこが好きでした」
「でもさ、中には大声でしゃべる客もいるわけ。だからって注意するわけにもいかない。喫茶店で話すのが好きな人もいるからね。そうすると静かに本を読みたい人には迷惑だし、どうすればいいのかわからなかった」
「しかたがないけど、難しいですね」
「正直、客を減らしたくもなかったし」
「当然ですよ」
「だからなんとなくそのままにしておいたんだけど、自分が病気になって、さっきの店主の話とか聞いて、やっぱり自分の好きなようにやるしかないって思ったんだよ」
「それであの注意書きを」
「私語厳禁。入店は二人まで。中学生未満のお子様連れはお断り」
「どうですか。前と変わりました?」
 そこが一番の懸念だった。
「変わったよ」
 マスターは明るい声で答えた。
「ネットですごい評判になった。ここには最高の空間があるって。読書好きの聖地だと言ってくれる人もいる。ここまで徹底してる店は珍しいんだろうね」
「それは良かった」
「でさ、客層を狭めて、売り上げがどうなるだろうって思うじゃない。一番そこが不安だったんだけど」
「僕もそこが心配でした」
「それがなんと、売り上げも増えたんだよ。過去のどんな年より、今が最高の売り上げ更新中」
「ほんとですか」
「だからさっきの言葉どおりなんだよ。自分の好きなことしかできないし、それが一番うまくいくって」
 マスターの言葉は重く胸に響いた。
 そのあと、注文した深煎りコロンビアを飲みながら、自分が店を持ち、読書会を始めたことを打ち明けた。
「それはいい」
 マスターは満足そうにうなずいた。
 初回で取り上げた『テスカトリポカ』は、当たり前のようにマスターも読んでいた。
「いいの選んだじゃない」
「本当ですか?」
 胸が熱くなる。「マスターにそう言ってもらえると安心します」
「なんで? 実際、盛り上がったんでしょう?」
「まだ不安はゼロではないんです」
「誰でもそうだよ。何をやっても、うまくいってるように見えても、これでいいのかって悩み続ける。それが自営業ってものだ」
「肝に銘じときます」
「イシドロみたいにならないようにな」
「『テスカトリポカ』の?」
「リベルタ婆さんの長男だね。父親や家政婦に甘やかされて、何でも他人に頼る男。おかげで最後、えらい目に遭う」
「あれはたまったもんじゃないです」
「酷いこと書いてあったぞ」
 マスターはカウンターから出てくると、書棚から本を抜き出し、ページを繰った。
「リベルタが息子を称して、〈それを持ち、それを持たぬ〉者と言うんだよ。〈胸に宿った聖なる心臓を、ぼんやりと運んでいる〉〈自分が何をしているのか知らず、生きる意味を知らず、ただ遊び歩いているばか者〉だと。自分の息子を、よくそんな風に言えるもんだと思うけど」
「そこだけ読むと、現代人への教訓にも聞こえますね」
「リベルタ婆さんの理屈って、筋が通ってるからね。そこがあの小説のすごいとこで、バルミロ達の行動原理に説得力を持たせてる」
 マスターはまたページをめくる。
「他にもあるよ。〈彼らは恐怖から多くのものごとを学び、恐怖を知ることで現実に立ち向かう知恵を身につけた〉〈滅びた王国の血と神話をとおして、四人は宇宙の秩序と現実の残酷さに触れ、光と闇について考え、意志の力の重要さを知り、おたがいの絆をより強固なものにしていった〉。じっくりストーリーを語ってからこういう言葉でキメられると、どすんと読者の胸に響く。いい小説だよ。よく課題本に選んだよ。こんなに分厚いのに」
「そうなんです。参加者がなかなか集まらないのは、この分厚さのせいだと思ってました」
「だから、自分が思うようにやるしかないんだって」
 マスターは肩で笑った。その痩せた体を見ていると、気持ちが引き締まる思いがした。
「次の課題図書は?」
「昨日決めて、告知を出しました。店のホームページをお伝えしときますね」
 青山はスマホを手に取り、URLを書いたメッセージをマスター宛に送った。マスターもスマホを取り出すと、眼鏡をはずし、目を細めた。
「『消失の惑星』だね。俺もこれ好きだよ。最近読んだなかでは抜群に出来がよかった」
「読書会の参加者さんが教えてくれたんです。その人も今年読んだ海外小説ではベストだって」
「ミステリー小説としても読めるし、純文学としても一級品だと思う」
「僕はまだ読んでないんです。誘拐事件の犯人捜しと、それにまつわる人たちの群像劇、みたいに思ってますけど」
「そんな感じかな。でも、今あんまり詳しく言わないほうがいいね。先入観を持たずに読んだほうがいい」
「ちょっとしたポイントとかあれば、それだけ聞いときたいかな」
「横着しないほうがいいぞ」
 とマスターは笑い、ふたたびカウンターを抜けて書棚の前に立った。
 目当ての本を書棚から抜き、思い出したように別の数冊を手にして戻ってきた。
「ポイントとしては」
 と、マスターはページを繰る。
「フェミニズムをあんまり意識しないほうがいいかな。それから、悲しみは人を近づけるってあたり」
 青山は手にしたスマホにメモを残す。
「それだけ聞いてもわからんだろうけど」
「覚えておきます」
「犯罪をめぐる群像劇という意味では、この小説によく似てる。読んだことある?」
 マスターが見せてくれたのは、『つまらない住宅地のすべての家』という小説だった。
「津村記久子さんの作品ですね。すみません、読んだことないです」
 マスターはまた別の本を出した。
「さっき思いついたんだけど、この本にもテーマが通じる気がする」
 マスターが、クジラの描かれた表紙の本を青山に見せた。
「『複眼人』ですね。これは知ってます。読書会の参加者さんが言ってました。『テスカトリポカ』からこの小説を思い出したって」
「どんなとこだろう」
「待ってください」
 カバンを探り、メモを取り出す。
「テスカトリポカの分身の少年が美少女と交わるシーンを見て思い出した。ワヨワヨ島で生まれた次男が島を去る時に似たような儀式がある、と」
「たしかに。それは気づかなかった」
「それともう一つ、ボルダリングも重要な要素だっていう」
「ボルダリングは終盤で効いてくる。すごいね、その参加者さん。さっきと同じ人?」
「また別の人です」
「いい参加者さんが集まったね」
「本当にそう思います」
 答えながら、美瑠の顔を思い浮かべていた。
「マスターが思いついた共通点は、別のところですか?」
「起きてしまったどうしようもないことを受け入れること、かな」
 ふたたびスマホにメモをとる。
「こっちも、これだけ聞いてもなんのこっちゃだろうけど」
「次の課題図書の参考にさせていただきます。あいかわらずすごい読書量ですね」
「量じゃないから、読書は」
「そっちのは何です?」
 マスターが持ってきたうちから、まだ話を聞いていない本を指さした。
「これはなあ」
 マスターは長いため息交じりに本を手にし、表紙を見せた。
 藍色の空に三日月がかかり、男性らしき人物が後ろ向きに歩いていく。人の優しさがにじみ出るような、シンプルだけど心をつかまれる装丁だ。
 タイトルは、『歌うように伝えたい』。著者は塩見三省。
「この人、俳優さんですよね」
「『アウトレイジ・ビヨンド』とかに出てるね」
 マスターは本を手渡してくれた。
 サブタイトルに、〈人生を中断した私の再生と希望〉とある。表紙をめくり、最初のページを読む。
「そうか、脳出血で」
 ページに目をやったまま、思わずつぶやく。
「二〇一四年かな。『ビヨンド』公開の二年後くらいだよ」
 青山は最後までぱらぱらとページをめくってから、本をマスターに返した。
「二〇一四年だと、マスターが発病された時期と同じくらいですか」
「それもある。さほど期待もせずに読んでみたんだけどさ。もう、刺さる刺さる」
 マスターがこれほど激賞するのも珍しい。
「なんかさ、俺も今まで、割と突っ張って生きてきたわけよ。君らも思ってたでしょ? プライドの高い野郎だって」
「そんな」
 顔の前で手を振る。
「いいんだよ。俺だって自分のプライドをもてあましてたからさ。で、いざガンになってみると、自信なんて見事に消えてなくなるんだよ。これまで頑張って保ってきたプライドがずたずたになる」
 そんな姿は想像もつかない。青山にとってのマスターは、博覧強記で無敵の人だった。
「そんなに、ですか」
「そんなに、だよ。体力がなくなって、仕事も生活もできなくなって、みんなに迷惑ばっかりかけて。何のために生きてるんだろう、生きてる価値なんかないって思えてくる。そういうことがたっぷり書いてあって、めちゃくちゃ共感するんだよ」
「闘病記ってことですか」
「半分はね。残りの半分は、これまでの俳優人生の振り返りだね。誰と共演したとか、誰にお世話になったとか」
 青山はざっと最後までページをめくり、本を返した。
「違うな」
 マスターが急に大きく首を振る。
「どうしたんです?」
「さっき俺がしゃべった内容、ぜんぶ忘れて。あれだとなんか、普通のタレント本みたいに思われる。違うんだよ。そういうたぐいじゃなくて」
 マスターはいら立ちを隠さないまま、大事な文章を探すようにページを繰った。
「じゅうぶん伝わってきましたよ。普通のタレント本じゃないってことも」
「ほんとに? ならいいけど」
「マスターがそこまで褒めるのは、よほどのことだろうって」
「この本さ、貸してあげるからいっぺん読んでみてよ。俺、じつは自信ないんだよ。自分の病気のことで感傷的になって、必要以上に褒めてるのかもしれない。それを見極めてほしい」
「大役ですね」
「とにかく一回読んで感想聞かせてよ。よければ読書会の課題本にしてもいいし」
「次回のその次は決まってないので、それも考えて読んでみます」
 マスターは礼を言い、もう一杯、おごりでコーヒーを淹れてくれた。青山はカップに口をつけながら、マスターの衰えた体と心に思いを向け、どこか寂しい気持ちを感じていた。

~ 目次 ~
( )あらすじ
(一)第一回読書会『テスカトリポカ/佐藤究』
(二)萬田
(三)青山
(四)第二回読書会『消失の惑星(ほし)/ジュリア・フィリップス』
(五)桐間
(六)第三回読書会 『歌うように伝えたい/塩見三省』
(七)粉岡
(八)第四回読書会『つまらない住宅地のすべての家/津村記久子』
(九)青山
(十)第五回読書会『泡/松家仁之』+お勧め本紹介

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