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ACT.55『総員、メインルートを目指せ!』

公園離れて

 栗山公園を離れて、栗山駅方向に戻って行く事にする。
 アイスクリーム屋さんのコテージ(ログハウス調の)があったが、外観を覗くだけ覗いて帰る事にした。確か、この店では名産となっている夕張メロンをフレーバーに使用したアイスも販売していたような気がする。もうそこまで覚えていないが。
 北海道では珍しい?セブンイレブンが見え、その斜め向かいにコミュニティバスのバス停があった。このバス停から、栗山町のコミュニティバスが発車している。駅方面。そして町の各施設を循環する小さな車体のバスだ。自分が訪問した平日は偶々の運転日だったが、どうやら運転しない曜日、期間もあるらしい。そういった意味では自分は幸運なる日にこの栗山町に訪問できた。
 しかし、肝心の時刻表に辿り着いても時刻表が見づらいのが問題である。長年の風雨だろうか。そうしたものに晒されて完全に見えなくなっている。
「なんだこりゃ、読めん…」
思わず声に出そうになったが、なんとか10の桁だけは解読が可能だった。それでも掠れているのは掠れているのだが。
 そうしてやってきたバスが、冒頭の写真の緑色のバスである。
 車両は、緑色の(黄緑系の)日野・ポンチョであった。しかも、前後乗り降りのタイプ。個人的な感想になるが、この前後乗り降りの方式に関しては初の乗車だったかもしれない。
 車体には『くりやまコミュニティバス』と表記されている。それ以外は緑色の車体が特徴的なシンプルなデザインである。

 栗山公園を発車してすぐ頃のバスの車窓だ。
 明るい夏空。そして雄大に広がる緑。
「自分は北海道にいるのだなぁ」
と少なくとも言葉の正気を失ってしまう感覚がなんとなくあった。
 コミュニティバスで栗山公園を発車したスグの頃、近くにラーメン屋の看板を幾つか発見した。時間があれば。都合が良ければ行っておきたかったか…と思ったのだが、ラーメンに関してはその後何度か訪問する事になるのであった。
 そして、栗山公園の近くには日本の里山を象徴する蝶である『オオムラサキ』を扱ったとされている記念館的な場所もあった。こうした施設も、次回はまた行っておきたいものである。しかし、『次回は』と余念を押して強いピンを刺しておけば刺しておくほど行かないのだろうなぁ。
 コミュニティバスはそうしているうちに、緑いっぱいの栗山町をのんびりと走っているうちに、役場に到着した。役場で複雑なバック&ターンをし、ここからまた駅を目指して進んでいく。
 栗山町シャトルバスの車中では、ずっと町内ラジオだろうか?バスの車内放送ではないまた別の音声が流されていた。
「コレもコレでノンビリした車中だ」
と感じたが、日中のゆったりした街中を眺めながらバスの中で聴くラジオはまた面白いものだ。しかも、バスのスピーカーから直接流れている。
 また、栗山町コミュニティバスには面白い停留所名が存在している。
 『しゃるる』という停留所名があり、個人的にはその手の人。ネットが分かる人には面白さとして伝わってくるのではないだろうかという感慨があった。
「一体何があるんやろうか」
と真っ先に思ってしまったのだが、まずそれは秘密だ。

栗山は今

 コミュニティバスで、なんとか駅に到着した。途中、乗客の出入りがあったが北海道言葉。北国関係の訛りがあった中に自分の関西響きな言葉で
「ありがとうございましたー。」
と伝えてバスを降りた。
 その後、バスは再び栗山駅で待っていた乗客を拾って町中に飛び出して行った。しかし乗客の乗車はなく閑散としている。車社会の厳しい現実を目の当たりに感じてしまった。
 さて、写真に掲載したモノは現在の『夕張鉄道』の姿である。
 現在の夕張鉄道はバス事業会社に転換し、第2の生涯を歩んでいるのだがその様子がこの写真である。
 栗山駅前で休憩に佇んでいる姿を捉えた様子だ。
 改めてだが、夕張鉄道は昭和49年以降に廃止され現在はこのバス事業だけが生存している。そのバスも、現在はこうして綺麗な塗装になって町に彩りを与えているのである。個人的には前面の虹を描くようなライン採りが好きだ。
 そしてよく見てみると、ライトケース付近に関して言えば江若鉄道バスのような雰囲気さえする。当の江若鉄道のその塗装のバスはもう引退したのだったっけ。

 現在の栗山駅は、鉄道の路線網に関しては室蘭本線の普通列車のみでしかも非電化のローカル線だけになっているものの、バスに関しては多くの路線がこの駅周辺を出入りしているのであった。
『◯時◯分発、◯番のりばから新夕張行き…』
と鉄道が来ない時間でも、バスは盛んに走っている。
 その中に響き渡る、委託管理の女性の声の響きが非常に美しかった。あまり聞き取れないモノではあったが。(かろうじて新夕張行きとだけは判別できた)
 中には、札幌行きの高速バスの運転もなされているようで、北海道の道路網を駆使した交通の盛況ぶりが遺憾なく鉄道の周囲に張られている状況を黙りつつ眺めていた。しかし、道内フリーを持っているのでそのまま待機。駅構内で暇潰しになりそうな事案を探してみる。

 ここで改めて、『栗山駅のレール展示』をご紹介しよう。
 しかし、自分の認識が異なっていたので同時に訂正も加えさせて頂く。
 かつて、日本の鉄道建築物(世界もそうだし現在の日本もそうだろう)では、車輪の摩耗に耐え続け永きに渡って使用され続けたレールの再活用方法として
『建築物への再利用』
を行っていたのである。
と、このレールはかつて栗山駅での駅舎内で使用されていたレールである。日本国内では珍しいモノである、との事であるがその理由には
『4カ国の廃レールを同じ建造物内で使用している事』
の珍しさである。
 その4カ国は
・イギリス
・アメリカ
・ドイツ
・日本
である。現状発見されたのはこの分であるが、もしかすると他にも使用されていた国のレールがあったのかもしれない。
 しかしながら、真ん中の明治38年製、アメリカはカーネギー社製のレールに関してはかなり有名な会社なので、その名前を何度か聞いた事がある人ももしかしたらいるかもしれない。

飯にありつく

 栗山の駅に戻って、次の追分方面の列車に乗車するまでまだまだ時間があったのでここで食事の時間とする。
 向かったのは、駅構内にある『マミーズショップ』という地元の喫茶店のような。道の駅のフードコートのようなスペースだ。
 この場所では軽食の販売。そして僅かながらにして麺類の販売も実施しており、その販売のラインナップは少しだけではあるにしても往時の鉄道で反映した『駅そば』の世界を思わせる。
 という事で、閑散としたコート内できつねそばを注文。麺も『そばらしい』太さの中。そしてつゆの方も北海道らしくない…(地域性が濃くない)中であり、きつねあげに関しては甘く染み渡る味であった。
 やはり、こうして見知らぬ土地や自分の活動範囲を少し離れた場所で鉄道に絡んだ『そば』を食している時間こそが、自分にとっては1番鉄道に乗車している。鉄道で旅をしている時間だと感じさせられる。
 関東では到着して先にそばのつゆを口に含んだ瞬間に
「あぁ、自分は遠い場所に来たモノだなぁ」
と思ったり。
 九州では少し甘い出汁に食文化を感じたり。日本の様々な土地を映し出している食べ物だと自分は思っている。
 栗山の駅構内にある『マミーズショップ』では他にも『きびだんご』や地元食品を使用した土産商品など、様々な売り物を扱う場所のようだった。
 だが、自分の中でこうして待ち時間にそばを食して列車を待機できた事は何かそれこそ
『駅そばがこの駅に染みている』
感覚が残っているというか。そうした気分で嬉しくなった。
 この『マミーズショップ』周辺には喫茶コーナーとしてアイスコーヒーや紅茶の販売もしており、そうした飲み物を飲みつつも読書を出来るようにと文庫本などの図書コーナーも増設されていた。
 前回の宮崎・都城の立ち寄りの際は偶々であったが自宅で保管している文庫本である『聖の青春』が列車文庫に収蔵されている感動があり、思わずパラパラ開いて立ち読みしてしまったが今回は何か推理小説や歴史物?が多かったイメージがある。そして今回の列車文庫では自分の想像する出会いはなかったのだった。
 再び、駅を物色。列車まで時間を持て余そうとせん。

※現在の長万部駅を発車する1両の列車

 さて、少しだけオマケ話。
 北海道で『駅そば』の文化が誕生し鉄道の食事に弁当と並ぶようにして立ち食いの麺類が進出したのは、明治39年の事になる。
 それは長万部駅の事であった。ちなみに、同時に函館本線の森駅でも同様に立ち食い形式でそばが提供されている。
 明治時代。新橋〜横浜の開業を機にして東西両京間の鉄道を中心とした日本の鉄道ネットワークが早くも形成されようとしていた。その中で、北海道にも鉄道が進出してきたのであった。北海道の鉄道史に関しては一旦割愛し、ここでは明治期の鉄道事情について記しておく事にしよう。
 鉄道という乗り物は、現在のように当たり前のようにして存在し気軽に乗降が可能な交通手段ではなかった。新橋〜横浜では現在でこそ540円近い値段で移動が可能だが、明治期には5,000円から10,000という(現代の貨幣価値に換算して)推移で利用する乗り物であった。
 時の鉄道。明治の頃には鉄道に『富国強兵』・『国威発揚』のスローガンを掲げ鉄道を建設していった。その勢いは止まらないものである。
 そんな中にして、鉄道に重要な役職が当時与えられていた。『駅長』である。当時。明治期の駅長職は市町村長と同等の権限や職業価値が存在しており、如何にして鉄道の存在が大きかったかを伺わせてくる。そして、そんな中でも
『鉄道開業に貢献した名士』
たちには駅長や鉄道職内で重要な職務が与えられ、待合室内での商売権限が与えられたのであった。
 これが『駅そば』の始まりとされている。

過密都市への出戻り

 バスターミナルのアナウンスを聞きつつも携帯を操作して待機し、列車の到着を…とホームに向かうと、1両のキハ150形が入線してきた。
 室蘭本線の岩見沢〜苫小牧に関しては本当に特急・貨物の勢いもなく静かな状態が続く。絵に描いたようなローカル線。基本的には1両の列車たちに移動を託し、あとは列車に乗車すれば身を任せるだけの列車本位の旅である。
「長い事滞在しとると、何か変な愛着が湧いてくるもんやな…」
そんな気持ちを抱きつつ、栗山から列車に乗車した。次に夕張鉄道の残照を感じる時には、由仁付近で下車しての事になるのだろうか。またいつか、黒い宝石の思い出に触れられる事を楽しみにしつつ。そして栗山町への思いを噛み締めつつ、エンジンを渇かせた列車に乗り込んだ。

 再び、1+2の座席配置とロングシート掛けのキハ150形に乗車して室蘭本線をひた走る。
「北海道の雄大さとは、こうした情景にあり…」
なんて改まった気持ちを再び拓いていると、何か涼しく心地よい旅路になるものだ。思わず、その車窓に魅了され写真を何枚も撮影してしまうのであった。もちろん、列車内からの撮影と分かるようにして列車内の情景を混ぜて記録する。少しは雰囲気が出ているだろうか。
 キハ150形の座席は1+2の座席配置…であっても、向かいあった状態になっている。空白の旅人はリュックサックに任せて穴を埋め、その先を進んでいくのであった。
 そういえばこの付近だったろうか。夕張鉄道の廃線跡か何かがあると宿予約手前の電話で聞いた記憶がある。しかし全く何も見つからなかった。
 列車は伸び伸びとしたストレートの光景を、息継ぎするように停車して苫小牧方面に向かっていく。自分の目的地は追分。
 由仁、古川、三川と停車し、列車は北海道鉄道の聖地であり現在はジャンクションでもある追分に到着した。

君は幾つ知っているかい?〜小休憩も兼ねて〜

 日本には、8つの追分駅が存在しているという。
 北海道は安平町の追分駅は、そのうちの1つである。
 札幌へと向かう為。千歳方面への乗換として下車し、この看板を発見したのだが幾つか知っている駅。そして存在を認知している駅があったので驚いた。
 しかし、追分という駅名はよく聞くなと感じていたが、こんなにも数があったとは。意外と知らなかったというか見落としていたというか。新たな発見もあるものである。
 ちなみに自分の場合になるのだがこの中で言うと『京阪京津線・追分駅』の存在を追分駅では最も最初に知った。私学の小学校に受験で通学し、京阪京津線での通学で友人たちがこの駅から通学していた事でこの追分駅の存在を知ったのだが。
 そして、小学校を卒業して鉄道や蒸気機関車について見聞見識を深めていくうちに、この北海道は追分駅の存在を知る事になる。この存在を知ったのが、
『追分駅が複数存在している』
という事象をはじめて認知するキッカケの出来事でもあったのであった。
 皆さんはこの中だとどの追分駅に行った事があるだろうか?もし宜しければ探して遊んでみるのも楽しいのではないだろうか。

 追分という駅名は、当初からこの土地に存在していたわけではない。
 鉄道がこの町に馴染んではじめてこの土地に『追分』の2文字が浸透していったのだ。
 『追分』の2文字の由来は、夕張線との分岐駅としてこの場所から線路が分岐する事。道が分かれていった事。道が追加された事から『追分』と呼称される事になったのである。関所としての地名で、日本では古来から中山道近辺で使用された言葉である。
 さて。そんな『追分』の周辺だが、この土地はもう1つの大きな歴史を背負っている。
 それが、『国鉄最後の蒸気機関車終焉の大地』という事である。
 国鉄最後の蒸気機関車旅客定期運用は室蘭本線で終了。そして、そんな室蘭本線の後を追うかのようにして追分機関区で入換運用で使用していた9600形とD51形蒸気機関車の使用が終了したのである。
 そんな歴史の残照を讃え、駅周辺のマンホールには蒸気機関車が彫られている。思わず、この場所の歴史を象徴するものとして撮影してしまった。
 この話に関しては、旅のラストスパートで再々度の安平町訪問をしているのでその際に記そう。もうしばらくお待ちいただきたい。

のりもの撮ろーぜ!!

 追分駅の近くには跨線橋がある。
 この跨線橋。宿を発って岩見沢方面に向かう際に
「またこの近くを通るならこの場所から撮影したいもんだ」
と思った場所だったのだが、自分の旅路の暇つぶしでかなり早く叶ってしまった。予想外すぎたアクシデントというかサプライズだったが非常に嬉しいものである。
 というわけで、跨線橋の手摺を縫っている作業員氏に頭をヘコヘコしつつも上がっていく事に。すると、こうして非電化の駅が綺麗に見渡せる場所に到達するのである。架線がないという事はこんなにも美しいのか。撮影した写真を見ても思うが、驚嘆するものがある。
 この広大な追分の駅周辺は、かつて先ほどの項にも記したように『鉄道なき時代は何もない大地』であった。この大地の隆盛は、鉄道の発達と共に進行して行ったのである。
 明治時代からの鉄道建設。そして鉄道の国有化によって現在の鉄道路線の基礎の完成。鉄道はこの町の発展を形成してきたのであった。
 追分の鉄道発展の歴史は、それだけではない。追分駅の設置…というのは、駅の建設。機関区の設置を契機にして保線区や車掌区などの乗務員関係もこの駅周辺に集ったのである。鉄道全盛期の頃。そういった影響から、追分の町は一時期
『ご近所さんも皆国鉄関係者』
という状態で、そう呼ばれるような町だった。これが追分が『鉄道の町』として発展していく1つの基礎なのである。
 1つの駅の写真から、多くの話が派生してしまった。申し訳ない。しかし、追分駅の成長を語るにこの記録は欠かせないものがあるのだ。これだけは留めていただきたく。現在は追分駅の近くにあった最後の鉄道の象徴・追分機関区も廃止になってしまいその姿は無くなってしまったが、その足跡は駅から先の小高い坂を登った先にある『あびらD51ステーション』が語っている。その訪問はラスト・スパートにて。

 のりもの撮ろーぜ!!について。
 なんやってんコレ!!でしょうけど、この場所から偶々こうしたものが撮影できたんです。なのでタイトルをこうしたモノにして掲載。
 新千歳空港を離陸した飛行機である。快晴の大空を飛び立ち、何処かへ飛んでいった。時間すら考えず。エンジンの音が上空から聞こえてきただけなので撮影しただけなのだが、この写真だけで機種特定できそうな人がいれば是非とも機種特定をしていただきたい。そして、良ければ
「どこ行きか?」
の推測もお待ちしている。(そこまでするものか)

 しばらく待っていると、石勝線の線路から列車がやってきた。
 貨物ヤードのように複雑に組まれた線路を、トコトコと静かに走ってくる1両の列車。朝から何回も世話になっている車両、キハ150形である。車両番号を確認すると『101』となっており、
「縁起が良いもんだなぁ」
と思いながら撮影後の充実に浸っているのだった。
 だがまぁ、見ていると本当にこの追分の配線というのは見ているだけで正に『魅了』の単語が突き刺さるモノをヒシヒシと感じる。
 現在こそ、車両のバリエーションが限定され北海道の車両は洗練を受け近代化を一定迎えた中であるが、叶うならば、生を受けるのが早ければ。この場所で編成の崩れしキハ183系や長編成のキハ283系なんかも撮影してみたかったものであった。
 呆気ない切なさのようなものも。言葉では語れない風のような侘しさも。そこには漂うのであった…

 列車が到着し、駅員の声が響き渡る。空気が澄んでいる北海道の町に。そしてかつては国鉄職員たちで発展を遂げたこの町に、駅を越えて響く駅員の声は非常に美しいこだまとなって消えていくのだった。
「ありがとうございました。追分、追分です…」
石勝線の南千歳の分岐点を全力疾走で走ってきたであろうキハ150形はそのまま、急いで折返しの準備に入っている。
『普通列車、千歳行きです。』
ダンディで温かみのある大橋俊夫さんの北海道ボイスとは異なり、機械に近いような無機質な案内放送が折返し準備を終えて車両から響く。鉄道隆盛の時代が終了し。現在はこうして車両自身の機能でカクカクと動作する。
『普通列車、千歳行きです。』
時間が経つと、また聞こえる。
「そういや、この列車に乗って札幌の方に向かうんだよな…」
そう思いつつ、跨線橋で作業員に萎縮しつつも頭を下げてまでしてここに来た目的を考えていた。
 駅を出た際に発車標に掲載されていた特急列車・とかち号の撮影に向かっていたのであった。

 跨線橋で特急とかちを待機しているまでの時間の事であった。
 跨線橋のゴム地面の塗装(あの表現はなんと言ったら良いのだろう)をしているをしている作業員の姿と塗料の油脂・ゴム系の匂いを嗅ぎながら懐かしの列車の姿を発見した。
 キハ183系を改造したジョイフルトレイン、クリスタルエクスプレスである。実車は令和元年に運行開始30周年という節目を迎えた段階で引退してしまったが、まさかこうして図鑑や写真以来の対面をしてしまうとは正直不意にも思っていなかった。完全な驚きと偶然である。
 特急とかち号の到着までもう少しの時間があるので、このジョイフルトレイン(もうその言葉が死語であるが)の話を少しだけ記そう。

※©︎ゆりかもめ。クリスタルエクスプレス実車現役の頃の写真である。かつては運転台を上に嵩上げし、乗客に展望の視界という極上の景色を提供する列車でもあった。
展望席は平成22年以降に踏切事故発生以降安全性考慮で使用停止を受けている

 クリスタルエクスプレスは平成元年の12月に登場したJR北海道のジョイフルトレイン第5弾にあたる車両である。この他にもJR北海道は『アルファコンチネンタルエクスプレス』や『フラノエクスプレス』などを送り出してきたが、クリスタルエクスプレスはその中でも平成の開始と同時期に登場した北海道リゾート列車の最高傑作のような存在であった。
 後に平成2年。編成内に2階建ての車両を組み込んで引退まで4両編成で活躍する事になるのであった。
 2階建て車両を挿入し完全で極上なサービスを提供する事になった列車…として活躍。その車内設備は、個室席・セミコンパートメント・ラウンジ・ビュッフェなどを設置した。そして、車両の全ての座席は写真でも分かるようにハイデッカー座席での設計で行われたのであった。
 そんな贅を尽くした列車だった一方で、この列車の最上級車両であった2階建て車両であるキサロハ182-5101の台車は変わり種の経歴を持っている。本州では猛烈サラリーマンの如くに活躍した寝台電車・583系の台車を履いて走行していたのであった。こうした車両の変わった経歴に関しては調べてみると非常に沼を極めてくるので深みがあるだろう…
 さて、そんなクリスタルエクスプレスであったが令和元年の9月に引退をしてしまった。現在ではもうすでに廃車され、存在していないのが悲しいものである。

 そうして昔のリゾート列車に思いを寄せていると、本命の特急列車がやってきた。これだけ線路が広大な状態で待機していると
「一体どの位置で構えたら良いんだろうか」
と思ってしまいそうになってしまったが、駅の構内放送が漏れ聞こえる位置に居たので安心して撮影する事が出来た。
 帯広行き。とかち5号が到着した。列車としては4両の実に短い短編成。キハ261系で運転される。同系での特急運用としては最も短い編成運用である。TOMIXのスターターパックで3両の状態で販売されているが、あと1歩の状態というのが非常に惜しい感触だ。
 しかし架線のない状態で出迎えるとこんなにも綺麗なのかと改めて感心するところがある。鉄道員宿舎らしき建物と線路。そして架線柱の僅かな並びだけを背にして堂々と進路を歩む姿は短くとも立派な花形列車の姿だ。

 そのまま、後方の撮影にカメラを回して。
 特急とかちは後尾車がグリーン車になっているようだ。(合造のグリーン車かもしれないけど)
 やはり鉄道の街として整地され、かつては汽笛や乗務員で富を築き上げたこの広大なる駅には何両か繋げた特急列車の姿が絵になって非常によく似合うと感じさせられるものだ。
 後方の空は少し曇っている状態であるが、それでも列車の華々しい姿を引き立てるには充分だろう。ジオラマのように見下ろした写真を撮影して、この跨線橋を去った。
 特急とかち5号は車掌の合図を高らかに、そのまま石勝線の線路を新夕張へ向けて走り出していった。

※追分には駅を少し歩くとセコマがある。徒歩宿へ行く前にも世話になったがまた行くとは。

ここだけは負けまして。

 あ、忘れました的な。そうした話を書いておこう。
 …で、いきなりなんで夜中のセコマの写真出してきたの?と思った方。写真を撮影していなかったのです。旅のミスです。
 と、実は先ほどのペンキ塗りの作業員が居る最中の跨線橋。ここだけの話であるが、
『セコマのソフトクリーム』
を食べながら上って撮影していた。絶対に殴られるし、何をしていたの?と思われそうだろうし。ちなみに、溶け切る前に全部完食しましたとさ。
 味はメロン味。道中のテレビでは
「ヒエヒエのトウキビも良いよね!!」
とタカトシのCMでアナウンスされていたようにトウキビソフトなるものがあったのだが、今回は
「ま、北海道だし」
とメロン味を選んで跨線橋で食していた。
 味は本当に美味しく、濃いというかコンビニアイスらしからぬ(良い意味で尖っている)味だった。これは全国ガイドに乗るんだな、と。
 えぇ、そんな話でした。メロン味のアイスなら本当に推します。セコマのメロンソフト。

総員、走り出せ!!

 こんなに短い距離の普通列車があるんだろうか、的な気持ちでの乗車だったような気がする。
 追分から南千歳まで、再びバイパスか高速道路のジャンクションのように継ぎ足された高架橋の石勝線を貫き千歳に到着した。ここからは北海道屈指の都市区間の始まりである。
 そもそも南千歳で降りてエアポートに乗り換えて札幌に行っても良くないか?
 というのもあるかと思うが、個人的に札幌市内は最後にまとめてドドンっ!!と捲り上げたかったので今回は千歳方面へ。そして、千歳駅前には自分の持っている銀行口座のATMがあったのである。そしてこの日はなんと。手数料無料の日。旅の資金が枯渇する中日には(決してお米断ち球団ではない)絶対に立ち寄りたいオアシスなのである。そうした理由から千歳を選択した。
 また、札幌は何よりも面倒くさい。こんな走って歩いてだと。まぁこの後もあるんですけどね、様々に。

 自分が乗車したキハ150形が、千歳駅構内で再び小休止して石勝線方面へと折り返す。
 キハ150形は小柄な存在だが、この千歳方面・札幌都心では
『都心と夕張方面の結節』
という重要な役割使命を司っている頼もしい車両だ。慣らされたスラブ道床の駅に追分駅でも聞き慣れたエンジンが再び耳に取り込まれてきた。
 写真は既に用事を終えて(旅資金確保)の後だが、小柄な車体の頼もしさ。そして特急に負けじとしての存在の逞しさは健在だった。
 そしてどんな形で撮影しても。どんな状態で撮影しても、この『サッポロビール』の駅名標がよく似合うのだ。非常に格好良い。シブい。

 千歳の駅前にあるATMで、現金を下ろした。
「ん〜、このくらいあればええんかなぁ」
と思いながらATMで現金を下ろしてロータリーに出ると、飛行機が飛んでいる。新千歳の空港が近いと悟る瞬間だ。しかし、自分の機材の反射でも間に合わない。そりゃあ、飛行機は鉄道より速いし鉄道よりも遠い場所にいる時があるんだもの。
 として、駅ビルの中から再び千歳駅に入って行った。
 再び現れる、ダンジョンか異世界アニメのような防雪防寒の扉。もうココに手の力をかけるのも慣れてしまった。
 自分も北海道の滞在に少しずつ慣れてきたのだろうか…。何となくそんな事も考えてしまう。冬の時期なんかにはこの扉の重要性を強く強く感じるのだろうけれど。
 写真は、そうして旅の仕切り直しを終えて駅ホームに戻ってきた際に撮影したキハ261系の特急北斗の姿である。
 千歳線に入って今は本気の走りではないが、ここから徐々に力を貯めて。そしてその本気は室蘭本線に入ってから発揮し、遠く遠く先。青森の近い函館に向かって行くのだろう。
 追分で見た同形式・とかちとは異なり8両の特急列車の姿は迫力のある姿をしている。現在では保存車としてしかその姿を道内で留めていないが、キハ80形の長大編成にキハ183系の複雑怪奇なファン歓喜の編成に関しては、もっと大きなインパクトを持っていたのだろうか。何となく、雑誌や写真集などでそんな先人たちの記録を見てからこのキハ261系北斗の姿を見かけると何かあっさりした空気も同時に感じてしまう。

都市凱旋

 何かこう、少し離れた集落的なモノを見てから札幌都市圏に帰ってくるとそれこそ脳内に潜む兵士たちの
「明るい場所に帰ってきたぞぉぉぉ!!」
という叫びのようなものさえ聞こえてきそうな予感さえするものがある。それだけ、千歳市の拠点である千歳駅の喧騒・駅前の賑わいは自分のアドレナリンを爆発させるのに十分すぎた。
 さて。ここからは再び千歳線に乗車して北海道鉄道に欠かせないとある場所に少しだけ寄り道をして札幌に向かう。
 旅の時期が夏場。そして日照時間の長い時期だったからこそ出来たボーナスタイムであった。この記事に向き合っている秋時期の北海道ではこの夕暮れの時間ならそういったことは難しいのではないだろうか。
 しかし、自分でも中々うまく進んだものだと改めて感動した。室蘭本線のスローペースに根負けしているようじゃあ、まだ旅慣れしている人間ではないのかねぇ…
 写真は特急・北斗の後打写真。丁度、新夕張へと折り返す自分の乗車してきた普通列車と通過待ちのような状態の写真になった。
 ここから少し、札幌近郊の鉄道メインルートである千歳線を体感する。もう少し、目的地は先なのだ。

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夏の思い出

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