ロード激走
一旦、遠征が終了した。
成果を完全に纏めてネットにあげている時間…で完全に遠征が終結したと自分は思うのだが、まだまだその時間は遠いのだろう。
最後は波乱のような形で終了した東京の遠征。
やはり行く時はさっさと行って、帰る時になったら荷物を畳んでさっさと帰る遠征が1番潔いのだと今は感じる。派手なアクシデントを経験している傷の痛みが響いているからこそ、こんなことを今になって思うのかもしれないが。
帰ってきたら、祇園祭が終了していた。
そしてこの後は祇園祭の1つの行事、神幸祭が行われるようで街が交通規制にかかろうとしている。7月を通しての行事なので、祇園祭は中々終わらない。
普段生活に利用しているバスも今日はその為に経路を変えているので、ここからの移動や帰宅はどうしようかと画策しているところだ。
そして、帰ってからの道中で思うのだが個人的にバスは早朝に発車する便の方が何となく乗り心地が良かった。
夜行のバスに乗車する…勿論それは1つの移動、時間を潜って街から街へ向かう1つの手段であるが、車中で安らぐ時間というのは中々来ない。ここまで精神が落ち着かない乗り物もそうないと思うのだが。
そうした精神の摩耗などを考えると、早朝から朝にかけて発車するバスの移動のしやすさ。
麗かな日差しを高速道路の上で浴びているとポカポカとした車内に心地よく寝落ち、気がついた時には到着しているのだから。
今度からこの手段で帰阪しようかと既に自分は頭の中にビジョンを描いている。
それだけ、遠征で疲弊した自分の心には安息の場所となり、響いた移動手段だったのだろう。
次からはもう1泊して早朝のバスを堅実に予約し、そのまま帰阪しようかと思う。乗車した車両にトイレがないのは億劫だが、細かく2回は済ませれば楽に移動できる。
帰る最中…
アクシデントのあった最中には、池袋サンシャインシティ近辺のネットカフェで1夜を越した。
山手線もまだ店じまいせず、夜のかなり遅い時間まで走っていたので移動はかなり楽だったけど。
そのネットカフェの向かい側に、こうした店があった。
「あぁ、確かこの店見た事ある…」
と自分の中で心が動き出した。誰かのYouTuberが投稿した動画の1つだったろうか。今でも若干記憶している。
小学生に戻った気分で居酒屋を楽しめる…という店だったような。
『入店したお客さんが童心に帰れるような』
店になっているとの事だったような気がする。
この店を見た瞬間に、店の看板や佇まいが何かを自分に訴えているような気分になった。
「キミの小学生時代は楽しかったか?」
と。
答えてみると、
「別れ際が色々あったけれども、自分にとって少なくとも人生の役に立たない事はなかった」
というレベルかもしれない。一体どんな回答なんだと思うかもしれないが。
自分の小学校卒業の時期は、奇しくも寝台特急『日本海』の大阪行き最終列車が大阪駅に到着した日と同じ日に終了した。
自分の中では、6年間共に青春を過ごした友との別れよりも日本海のラストランの方が断然悲しかったのを覚えている。
そこまで誇れなかった小学生時代、自分はさっさと忘れたいものだが。
自分の中では、小学生時代の同級生や友人に会いたいという気持ちは殆どない。
むしろ、何をしているのか考えたくもないというか。
小学生の時期に一時的に作った人間関係は、互いの中学受験を機にして一気に崩壊し、それぞれが完全に中学への道に歩んで行った。
小学生の時期にあった思い出…何が印象的だろうか。う〜む、難しいなぁ。
自分の中で、正直に言うと
「この学校で6年間を過ごしたい」
という気持ちは全くなかった。自分にとっては何故この学校に入れられたか全くわからなかったし、親の育児方針の中に沿って入った結果がこれだったのだから。
幼少期から、とにかく勉強を嫌う少年だった。特に2〜6年生の時期からは泣いてまで勉強するのを嫌がった少年でもあったほどである。
と、これは小学校に入ったその後の話であって…
自分にとっては、小学校の話。
この時期には自分で『はい』・『いいえ』の判断も正常に出せなかったので(権限がなかったと言っても良いのか)、全く自分の意思が聞き入れられなかったような気がする。とにかく親の良いと思った方向にしか行けないのだ。
それが、『私学小学校への入学』である。
何故、自分は小学校に進学するにあたって試験を受けたり教頭先生に会って自己紹介し、両親と一緒に挨拶をしなければならないのかが分からなかった。
小学生の時代は、親によって敷かれたレールの上をトロッコのように黙って進むだけだったのだ。
母の育児の方針に従って
「虐めのないような場所に息子を」
という思いが結局そうなったのだろうが、個性も強ければ発達で全てを跳ね返してしまう自分にはどんな集団環境で暮らしても、それは結局足枷や重積に変化するのであった。
全く、小学生の時代は今と異なる趣味や性格だった。
今でこそ、野球などが大好きな多趣味人間になっているがこの当時に周囲が好きだったもの…クラスの流行などには全くついていけなかった。
ただ、とにかく鉄道が大好きでどんな人にも鉄道の話しかしなかった。先生とも…である。
今のようにして、プロ野球を好きになったりするのにはこの時期の自分を思えば完全に縁遠い。
当時、自分のクラスの中に阪神が好きな少年がいた。
その少年は、『代打の神様』として多くの虎党から崇められる事になる伝説の選手『桧山進次郎』が大好きだった。
自分は方や、何も知らない。
そして家系ではずっとオリックスを応援しているような家庭だったので阪神の話には微塵もついていけなかった。
今のようにして野球を好きになるなんて、数奇なものだなと今はむしろ思ってしまう。
当時は祖父母のお出かけの同行として京セラD・神戸に行くような間柄であったもので、野球は全然興味がなかった。目の前で繰り広げられているスタジアムの熱狂には
「どうして自分のクラスにいる人達はこの熱狂が大好きなんだろう」
という数奇な目でしか見れなかった。
結局、祖父母との野球観戦の最後は10年近く前に神戸で開催されたオリックスvs楽天が最後の機会となった。これ以降はしばらく野球を見なくなる。
全く、何を記しているのだろう。
小学生時代を思い出すようなことがあれば、こうして書く文字が幾度も洪水のように溢れ出るのはもう止められないのだろうか。自分の人生の宿命だとしたら、あまりにも残酷な運命ではないかと思う。
小学生の時期から中学生の時期…
というのは、つとめて家族での遠出に縁がなかった。
出かけるにしても祖父母の家がある三重県が精一杯だった自分に、今の行動の軌跡は半ば自由を振り切った一種の『ハイ』な状態になっていると思う。
高校生になって、ようやく遠出する習慣が自分にやってきた。
最初は何処だったろうか…
夜行バスで行き来してそれで終了みたいな行程ではあったものの、すぐに終了するラフな状態からスタートし、後に友人の家族の家で宿泊する形で宿泊を込みにした1人の遠出もするようになった。
最初、宿泊を込みにして遠出したのは何処だったろう…と思ったら、友人に誘われ参加した四国への道だった。
徳島県阿波踊りの開催期間中、友人が帰省すると言うので同行したのが最初であったと今でもしっかり記憶している。
そしてここから少しづつ遠征距離が拡大し、東京の大都会や日本の端である稚内と多くの場所に自分から足を動かすようになった。
気がつけば、国内は大体制してしまい、都道府県を出されただけで様々な話が通じる人にまでなってしまったのだった。
家族の旅路に出ない習慣がしわ寄せになったとしても…。自分の趣味が影響しているとしても、完全にあの頃と比較すれば大きな成長と飛躍をしている中だと思う。
家族の制約によるブランクがあるとはいえ、自分はよくやっているのではないだろうか。
そしてこの文字の羅列も、いよいよどの方面に向かっているかわからなくなってきた。
ここで終わらせてしまおう。
京都の湿った暑さ…
漫画で言って仕舞えば、それこそ『ムワッ』や『じめっ…』といった擬音のしそうなくらいの猛暑の中、自分の京都への現実は幕を開けた。
試合の経過も既に勤務先にて話し、
「せっかく行ったのに負けたんかいなぁ」
なんて笑いの言葉も頂いた。
次は秋くらいに鉄道で何処かに行ってみたい。
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