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ACT.60『その果てに』

しばらく置いて、旭川

 朝を迎えた。雑魚寝ばかりの人々が集うライダーハウスのような場所…だったが、目覚めは何となく家庭的というか。人の家で朝を迎えた感覚にさせられる。少し寂れた雰囲気が体を包んだ。
「そういえば、寝る前に話し込んだ韓国人家族はどうなったんだろう?」
と押し入れ付近に寝転がっている親子を見つけた。
 昨日話し込んだ。駅弁を食事しながら様々な話を交わし合った韓国人家族だった。今日は富良野を更に回るのだったっけ。
 何か御礼でもしようか…と思ったが、気の利く言葉も何も浮かばなかったのでそのまま出発する事にした。チェックアウトの作業は特に不必要らしい。そのまま自宅を出ていく感覚になった。北海道滞在もいよいよ後半戦へと入っていく。
 最初は小樽方面だったが、いつしか北海道を周遊する事が主目的になった感覚だ。自分は何処に向かっていくのだろう。そんな気分にもなった。
 そして、しばらくはこの旭川方面と北海道の道東付近が自分の拠点だ。観光客で賑わい、最北の都会が自分の居場所なのかと改めて感じる。
 それにしても、今自分は北海道という遠い遠い場所にいるのだと解放的な朝を迎えて。気怠げなライダーハウスの中で更に思うものだ。バイクで来訪した宿泊人に混じって、自分も先へ向かう準備をする。

 前回の記事読者がどれだけ居るか…の話は置いておくにして。
 自分の宿泊していた場所を掲載しよう。
『他人の家に転がり込んだ』『修学旅行の男子部屋のような』
という表現を作中では何回も使用したが、何かこう自宅のような。それでいて大きな寄宿舎のような雰囲気の漂う建物だと思う。
 この宿に向かう最中は恐る恐る。そして路側帯をはみ出てそのまま車に轢かれてしまおうものなら確実に死亡する…!などの覚悟だったが、改めてその宿の外観を把握した。
 本当に自分でも解放的なというか牧歌的というのか。自然に囲まれた朝だと思って迎えたが、それは逆に自分が
「よく頑張って持ち堪えたな」
という感動と驚愕と感嘆の裏打ちであった。こんな場所に少なくとも灯りなしで向かうような自爆行為は、絶対に真似しないように。
 近くのセイコーマートも。そして近隣の建物は何事もなかったかのような朝を迎え、日常に溶け込んでいる。旅人が1人。北海道に使命を追いかける男が1人、トボトボ歩いていく。
 向かうは旭川市…と今回は特別な場所だ。

朝を詰める場所

 冒頭の快晴な駅…の様子の逆アングルだ。旭川市、千代ヶ岡駅。この駅がしばらく。旭川市の自分の拠点になる。
 この駅からは朝の6時頃にも列車が旭川方面に向かって発車していたが、自分は少し待機して通勤通学の時間帯の列車を選択した。旭川市で待ち時間を余して目的にあぐねても仕方ないし。
 として、列車が入ってきた。
 北海道の主流気動車・H100形。電気式のハイブリッドな気動車である。
 遠くの先から、4灯の煌々とした自慢の前照灯を光らせて入線してくる。晴天の中にしっかりと溶け込んだ銀色の車体。揺れる中から。蜃気楼の中から列車の足取りを感じた。朝がやってくる。
 千代ヶ岡駅には、自分の他にも乗客が片手で数えるくらいにいた。宿検索でも引っかかったように、この場所は富良野線付近でも一定に栄えている場所のようである。街の関係を考えつつ、列車に向かっていった。

 煌々とした光。メタリックな車体。H100の斜体がが洗練され光る姿の気動車が入ってくる。
 到着した姿で判明したのだが、どうやら完全に前照灯を全て光らせた姿ではないらしい。あの煌々とした姿はまだまだ不完全という事だったのか。全部で8灯も前照灯がある。全て光らせると、どれだけの圧力に目力を感じるのだろうか。
 あまりにも圧倒される顔である。2両編成で入線した朝のH100形による列車は千代ヶ岡の駅に停車し、扉を開けて自分たちを乗せていった。
 白いコンクリの駅舎。そしてその駅前を飾っている大きな大木とは暫くの別れである。自分はこれから、更に長い場所に向かって進んでいくのだ。
 列車に乗車すると、車内は多くの通学客で溢れていた。車椅子ゾーンにもビッシリの学生たち。田舎らしい?光景とでも言うのか、何か車内はまるで通学の為に走っていると言っても過言ではない空気が漂っている。座席から溢れんばかりの学生たちを見ていると、自分の旅姿に少し違和感なども感じ始めてしまった。再び旭川まで戻って、今回は北を更に目指していく。
 朝の心地良い空気を感じて乗車中。車内の溢れんばかりな通学客の中に着席の場所を発見し、どうにか着席する事が出来た。そのまま列車の心地良いサウンドに耳を傾けていると、走りが気持ちよかったので車窓もあまり見ないままにずっと寝てしまった。気がついたら、旭川に到着していたような。列車の平凡な田舎風の景色もそのままに、あの建築美しき旭川に戻ってきた。
 制服調の衣装を着ての旅だが、今回向かうのは学校…ではなく、鉄道と起因する北の町だ。旭川駅を下車した自分は、
「なんとか間に合うか…」
と少し安堵した気分に落ちていた。

鉄道を探して〜今から乗るのは?〜

 旭川にて、そのまま食事の時間にした。
 宿付近のセイコーマートでの食事でも良かったのだが、そのまま列車に乗車してこの旭川まで一旦出てからの食事にした。
 ビジネスホテルのルートインの直下にセイコーマートを発見したので、店内物色のついでに朝の食事を買って近くのベンチで食べる事にした。この写真に映っていないチョコレートも込みにして、382円。パンとチョコレートにジュースだけ、というシンプルに極まりない食事に設定して北を目指していく。金銭的な節制もあったが、しかし今から思えば非常に少なく空腹さえ感じ物足りないものであった。
 ベンチに腰掛けて朝の情報収集。そして食事を摂っている間に少年野球チームの人々がやってきた。
「インターハイでの来訪か…?」
と思ったが、中国系の言語で話し合っていた。どうやら台湾か中国からの来訪だろう。親善試合でもあったのだろうか。
 しかし、自分の中では中国語が飛び交っているという不意な思いの他に、その中国系のチームが着用しているユニフォームがオリックス・ブルーウェーブのユニフォームのような色味に見えた事だった。
「なんちゅー青波やねん…」
そんな感じで少しニヤけそうになりながら、自分の入ったセイコーマートに少年チームの選手たちが入っていくのを見届けた。こんな場所で白・青・黄色の(しかも整った感じというか色味的には溌剌とした色)ユニフォームで青波的な感情になるとは思わなかった。
 そのまま、朝の食事も済ませたので駅前に戻る。今回は初っ端から鉄道を利用しない旅が始まる。今回は午前中、バスを利用して向かっていくのだ。

 乗車するバスの時間まではまだ少しほどある。それまで、旭川近辺に入ってくるバスの撮影に打ち込んだ。
 時間までは十分にあったのだが、北海道を走る交通機関なら一旦なんでも撮影して記録にしておこうという単純な気持ちでカメラを向けていた。
 北海道のバスに関しては、撮影していて個人的な思いになったが新旧問わず様々な種類のバスが行き交っている印象だ。中には中央バスのような赤系の濃いバスも混じっている。
 北海道を走行するバスの基本的な感覚は、赤系か緑系のどちらかの印象だ。札幌は除外すると一旦して。

 旭川駅の周辺には、多くのバスがやってきていた。この近郊の地区では、バスの行き来が多いというか様々な場所までバスのアクセスが広いのだろう。回送になる車両。送り込まれる車両も含めて多くの車両を撮影できた。
 先ほども記したように、この駅前ロータリーでは車両の新旧を問わずして多くの車両を撮影できる。しかしあまりにも古い車両は居ないが。
 柱の林立する洗練されている駅も含め、よくこの駅を見ていると旭川は街の中にあるんだなという気持ちにもなる。札幌がかつては最北の都市だと感じていた自分の中では、少々の驚きだった。
 そういえば、駅の構内にも
『旭山動物園はバスのご乗車を』
と記されていたので、この周辺はバスによる支えが非常に大きいのだろう。そしてバスのラッピングのラインナップを見ていても、非常に撮影に関しては撮りごたえのある場所であった。
 この写真の中には、広告車両ではあるがかつて旭川市内の交通手段として栄えた電鉄会社である『旭川電気軌道』のバスが映り込んでいる。
 車両としての塗装は通常。銀色をベースにして水玉のようなカラフルな塗装が印象的な車両なのだが、この駅周辺には広告車両を含めて多くの『旭川電気軌道』のバスが入ってきた。
 通常色の撮影もしたのだが、今回は写真の映えが良くなかったので落とし込む事はせず、広告車両が映り込んだだけの写真を使うだけにした。
 関西ではバスフォーラムのイベントだったかでMR430という旧型バスのレストアが話題のバス会社なのだが(しかも船舶航送で来訪した事もある)、通常のバスに関してもこうした機会があって見る事が出来たのでなんとなく良い成果になった。

 自分の乗車する車両がようやくやってきた。
 沿岸バスによって運営されている路線である、旭川から留萌方面に向かうバスだ。
 今回は。この日の午前中は留萌方面に向かってバスに乗車するのである。かつては深川から留萌に向かって『留萌本線』が増毛・留萌まで伸びていたのだが現在は沿岸バスを中心としたバス会社に託され、鉄道は遂に深川〜石狩沼田までになってしまった。留萌方面に向かうとしたらば。旭川まで向かってそこからバスに乗車する以外ないのだ。
 殆ど強行的な計画になってしまったが。鉄道は間に合わなかったのだが、結果としてバスに乗車して留萌方面に向かう事になった。
 自分の中では路線バス形状の車両がやってくるのだと勘違いをしていたが、まさかのやってきた車両は観光バス形態の…高速バス形態の車両だった。一体どんな長距離を。一体どれだけの走りをするのだというのだろう。逆にそれが気になってしまった。

 自分が乗車する事になった、留萌旭川線のバスである。車両は高速運転の車両。
 高速バス車両での運転ではあるものの、車両としては特に予約システムやサイトの設置はない。バス乗車はただ並んで先着順になる…という方式であり、車両だけが高速バスという状態だ。
 しかもこのバス。乗車して車内でよく分かったのだが携帯電話の充電も可能な優れものだった。(USBタブだったが)ここまでハイスペックな車両だとは思わず、自分の中では一定の衝撃が感じられた。それにしても、ここまでハイクオリティな車両がやってくるとは思ってもみなかった。朝早くからよく分からないというか不意な感動をぶつけられ、そのままの勢いで留萌方面に向かっていく。
 最初は旭川市内を進み、順々な足取りで○条○丁目…と北海道らしい。街中らしいバス停を進んでいくが、次第に景色は山に分け入って少しづつ自然が増えてゆく様相になってきた。少しづつ、高速型車両としてのスペックが発揮されてきたようである。

 自分は何回。こうした景色に北海道らしさを感じた事だろうか。滞在時間はそれなりに重ねて馴染んでいるつもりなのに、まだこうした解放的な車窓が目に飛び込むと
「北海道らしい場所を走っている」
と体が体感してしまうというか反応を示してくる。
 旭川滞在時は晴れたり曇ったりの状況だったが、バスの乗車中にはキッパリとした晴天の車窓が目に飛び込んできた。何回も車窓を撮影してしまう。もう旭川駅の空気は、その場所にはない。鉄道からは少し少しと遠ざかり、その車窓には雄大なる景色を見張るだけになってしまった。
 233号線、秩父別を更に更に進んで。
 この場所にはかつて鉄道が存在していたが、もう既に消えて遠ざかってしまった。かつては増毛まで貫いていたその存在も、現在は石狩沼田までを残しているのみである。
 時々、この留萌旭川の路線バスに乗車していると車窓に廃線になった。JR北海道の管轄した2度と列車のやって来ない隔離され閉鎖になった線路が目に映るのだが、その景色が目に飛び込んでくる度に
「この線路を鉄道で越えたかった」
と願うばかりになってしまう。
 そしてまた、関西方面にて。廃線の知らせを聞き。留萌本線のバス転換のニュースで
「やっぱり鉄道の方が良かったねぇ」
と感慨も深く頷くお婆さんの取材の様子も浮かんでくる。
 北海道の経営が歪み、鉄道の姿が徐々に消えていく様の切なさ。鉄路の衰退とこの場所にあとどれだけその痕跡が残ってくるだろうかという感情にもさせられる。経営の歪みが残した光景は、あまりにも感情を抉ってくるものであった。
 そのまま北へ北へ進んでいく。
 時に運賃表の方も目に飛び込んでくるのだが、運賃表は町中で軽く乗車するバスから見ると信じ難い値段をつけている。
 サイトの方で計画中な段階で総合的な運賃については知っていたが、改めてその金額を目に映すと
「なんだ、コレは…」
という気持ちにしかさせられなかった。高速バス形状の車両で運賃箱を使う事になる衝撃もそうだが、やはり計上してくる運賃が1,000円以上になるバスに実際乗車し、区間の大半を攻めている事実は信じ難い。近郊から外れた場所を目指し。自分がそうした場所に居るのだと改めて思わされたのである。

 最終的に、バス運賃はここまでの値段を計上した。1,620円と来たか…。かなりの衝撃であるが、やはり北海道の広さ、またバスの司る距離に関して気持ちを思うものである。
 先客の支払いがつっかえた状態をその隙に、記念として運賃表を記録した。多分、路線バスとして乗車した距離ではこの旭川〜留萌駅前が最もの最長距離かつ最高額の運賃ではないだろうか。(高速バス運転を除外して)
 関西方面でも時に高額な路線バスは存在しているが、実際に乗車してこうした表示を目にするのは。こうしたイベントに遭遇するのははじめてだったので、思わず感動も。そして財布の紐が萎んでいく音も間近に感じそうになった。本当に長い距離だった。ようやく到着の時間である。
 気がついた時にはもう2時間近くも経過していた。

 高速バスタイプの車両で、留萌に到着した。
 改めてだが、この場所にはかつて鉄道が走っていたのである。しかし、来たる改正とJR北海道の経営改革によってこの町から鉄道は消えてしまった。
 かつては増毛まであった線路も、今や石狩沼田まで。電源搭載で快適になったとはいえ、やはりレールを離れての旅路は流石に線路を打ち付ける鉄道の独特な音。そして過ぎ去る景色にと様々なものが恋しくなってしまうものだ。
 実際のサイトでは沿岸バスに関する情報が多く出ていたが、車両は実際にやってきたのが『道北バス』の車両だった。共同運行なのだろうか。留萌下車の乗客の中に高齢のお婆さんが乗車していたので、留萌までの乗車車両の撮影をその隙に済ませてしまう。体力ない中、ごめんなさい。
 バスは杖をつき、ヨボヨボになったお婆さんを降車させるとその先の増毛まで走って行った。留萌本線の消滅の近さを、ある意味ではあるが肌で感じてしまった瞬間だ。こうして北海道の鉄道は世代交代を迎えているのだろうか。
 さて。ここにやってきた目的は
『日本にここしかない』
 ある保存蒸気に出会う為である。町の廃墟たる雰囲気。そしてあまりにも鉄道の背負っていた大事な使命を感じながら、一歩を踏み締めていく。

さよならの跡に残ったものと

 歩いている最中に、寂れている庁舎…のようなものを発見した。
 JR北海道・留萌本線の令和までの終端駅であった『留萌』である。かつてはここに留萌機関区まであり、この周辺は大いに鉄道を通し栄えたのであった。しかし、時の流れは非情とでも言おうか。留萌本線は令和5年の3月31日に役目を終え、その本線は留萌から姿を消してしまった。
 自分も『いつかは』鉄道での訪問を願っていたのだが、今回時間切れとなりバスでの訪問になった。かつての炭鉱・ニシンで栄えた町は隆盛を語る廃墟となり、現在は遠目で見るも寂しい状況になってしまった。
 改めての情報であるが、町の議論に討議をJRが限界まで重ねた結果として、留萌本線は石狩沼田までが存続となった。現在、この場所に鉄道は来ない。
 地図情報で『留萌』という場所が出ない事に、自分は本当に大きな哀しみと虚脱感を感じたものであった。北海道の鉄道が去った後を、こうして見る事で『鉄道の隠と陽』を刻み旅の大きな成果に出来たのは間違いない。時間がそこまでなく、今回は駅周辺をじっくりと見れなかった事に大きな後悔を背負ってしまったが駅周辺はそのままになっているのだという。現在も旅人の訪問写真として情報が流れてくるが、その度に気分は寂しくなるものだ。
 そのまま、廃墟の街を背にして。北海道の鉄道が抱える影を背にして、自分は留萌の目的地に進んで行った。
『さよなら留萌本線』。
その文字が書かれた建物に施設が至る場所で見られた事に。そして鉄道のデザインをその場所で目にする事に。大きな無念をも抱えてしまった。
 ニシンで、炭鉱輸送で。蒸気機関車の煙が絶える事なく。クロガネの血がこの場所を流れる血流だった時代からの終点が、こうして覗いていたのだろうか。
 そして街中を歩き、公園に辿り着く。遂に留萌を支えた黒鉄の役者に出会う事が出来た。
 全国で、ここしかいないと言われるその姿に…!

 姿としては、通常の北国仕様のD51形蒸気機関車に近い…いや、そのものではないだろうか。
 かつてはこの場所にも屋根があり、この役者を風雨から防護していたそうだ…が、屋根も取り払われてしまった。
 しかし。撮影を目当てにしてこの場所に来るなら、この方が絶好のロケーションではなかろうか。広大な緑の場所を前にして。自分は確かなる感動に惹かれていた。
 このD51形のような…機関車。それは留萌の為に。北海道の鉄道の為に造られた偉大な車両なのである。

苦心の役者に出逢って〜手が届いた日に〜

 遂に、手が届いた。保存機・保存蒸気・保存車。これらの車両観察・視察の趣味を積み重ね・資料を何度も手繰っていくうちに、出逢いたいと願った車両…蒸気機関車に遂に出会う事が叶った。やはり留萌は遠い。北海道は難しいんだ。本州の真ん中にいたら。
「叶った…!遂にこの時が来た…!」
鉄道では訪問できなかった場所。留萌本線の名残乗車では叶ったかもしれない場所。ようやく着いた。
 そして、この機関車は一体何なのか?
 実は、D51形蒸気機関車のように見えて『D51形蒸気機関車ではない』特別な機関車なのだ。そもそも、現役での活躍両数。使命を帯びての存在両数が少なすぎた為
『マイナー』にも『マイナー』すぎる希車
 であった。
 ようやくだ。この機関車の解剖に進もう。
 この機関車は、『D61形蒸気機関車』という。D51形という存在から眺めると、『兄弟』のような存在だ。
 写真としてまず冒頭に、この『D61形』と解説の看板を並べた写真を掲載した。さて。ここから様々な写真を交えて『D61形』を見て行こう。

 改めて、全景。見た目は『普通のD51形』に見える。そして切り詰めのデフレクター(煙除け)が北海道・北国での活躍を語っている。
 しかし、この機関車の大事な部分はこの場所ではない。看板のおかげで肝心な場所が隠れ、しっかりと佇まいだけでは『D51形』のらしさを出していいる。
 威厳のD51形らしさに関しては、種時代の面影がしっかり残っている。種?種車?そう。このD61形は
・改造された蒸気機関車
なのである。その存在は本当に『珍しい』存在となり。いつしか鉄道ファン・蒸気機関車の愛好者からは
「留萌にはあの希少機が居る」
と言わしめた程には、この機関車の存在は大きかった。しかし本当に現存数がこの1機しかないのは非常に淋しき部分である。

※昭和の30年代に入り、中津川機関区のD51形が改造の選抜に抜擢された。写真は中津川機関区の管轄していた路線。中央西線の藪原付近に保存されているD51形である。

 時は昭和34年の事だ。
 この時期になり、木曽方面に所属しているD51形に改造を施す事になった。中津川機関区に所属しているD51形に、
・丙線への入線を可能にした軸重許容改造
が施行される事になったのである。
 当時の国鉄では、路線によって。そして車両の走行範囲を選定する為に。管轄する全国の線路に対して
・甲線
・乙線
・丙線
・特別丙線
の範囲を設けていた。特別丙線が最も線路の弱い路線で、甲線が最も地盤の固まった路線である。こうして国鉄は線路の区分を施行し、管理に役立てていたのであった。
 丙線を走行する為には、D51形の場合だと更に改良を加えなくてはならない。その為の改造として昭和34年に中津川から1機の選抜が行われたが、翌年の昭和35年にも深川機関区の所属D51形が丙線改造の対象選抜として改造を受ける。そうして、D51形の転用改造は進行していったのである。

 そして、選抜されたD51形に改造が実施された。写真を留萌に戻そう。この蒸気機関車が『D51形』ではなく『D61形』として形式区分された背景には『この事情』が大きく関係しているのである。
 そう。D61形は
『D51形に従台車を装着して重量を分散させた』
蒸気機関車なのである。コレがD51形との大きな差異だ。
 写真のように接近して車両を観察し、動輪を眺めるとその特徴がよくわかる。動輪が3つに、従台車が付属しその舵を握る。
 こうして、D61形はD51形から進化した軽量化を実施し、更に運用の可能な範囲が増えた。元々が『日本という国土に対して大きな適応をした』蒸気機関車が進化を遂げ、新たなる適応に馴染んだのであるから衝撃は大きいものだ。汎用性も増え、D51形の製造両数である1,115両の中に大きな家族がまた1つ誕生したのである。
 だが、実際は限界まで軽くした蒸気機関車にD51形のボイラーがそのまま積載されているだけ。そういった事情を考えて眺めてみると、D51形から継承されたとはいえD61形ではオペレーション操作に相当な難しさを要していたのだろうか。

 D61形を反対から撮影した写真である。この記録では、テンダー側から撮影したD61形を見てみる…として。
 この記録では絶対に分からない(本当に後悔が多い)のだが、実はD61形。この写真の3号機を含め、2号機〜6号機のキャブが密閉化改造を受けているのである。
 その理由が、この留萌と大きく関係してくるのだ。D61形は1号機での軸重分散の軽量化改造を実施した後に、2号機から順次改造が着手されていく。
 軸重改造とキャブ密閉を実施したのは、D61形を北海道に配置する為である。後に訪問する場所でもこの事は詳細に記していくのだが、北海道では蒸気機関車の時代が日本で最も長く続いた場所だ。本州では既に電車・気動車の時代が到来し動力近代化も目前である。そんな中で誕生した、D61形。
 配置は全て北海道…と決まり、種車時代の中津川から大胆な配置転換をされた者もいる。そんな中、D61形は北海道・留萌機関区に配置された。全機が北海道での活躍。そして留萌を拠点にし、羽幌線からの鉱山輸送に留萌からのニシン輸送に大活躍したのだ…が、D61形の存在は呆気なかった。

 D61形はその後、仕事として従事していた羽幌線での仕事が昭和45年に羽幌鉱山の閉山で終了してしまう。これによって、D61形は深川機関区に疎開されD51形との共通運用に入る。
 軸重の軽量化によって丙線の軸重重量に対応。D51形の種車時代では軸重が15tだったのを従台車搭載で重量分散。そして13.7tに軸重を減らして貢献したのも束の間の時代であった。
 しかし。そんな希少機として。珍車として。D61形がそのままの姿で保存されているのは素晴らしい事であり、D51形という蒸気機関車に兄弟が存在し日本に更なる適応を目指した結果と言っても過言ではない。
 北海道にだけ配属。しかも改造されてからも留萌機関区だけに希少な存在として配され、羽幌に増毛に鉱石。ニシンなどの海産物を運び続けた質実剛健たるクロガネの役者である。
 蒸気機関車を愛する人々に。鉄道を愛した人に。そして留萌という北の場所で、D61形がしっかりと
『留萌の功労者』
として褒め称えられているのは、この保存がしっかりと語って残している。
 いつまでも大事に語り継がれてほしいものだ。

記憶の網膜から

 筆者の中で。自分の中でこの軸重改造機としての特異性は抜きにして、D61形という蒸気機関車に遭遇したのはいつなのだろうかと考えてみる。しかしその出会いは、通常の人には早すぎた出会いだったのかもしれない。そして、この出会いが今の自分を突き動かしたのかもしれない。
 自分がD61形という機関車を知ったのは。この蒸気機関車を知ったのは、NHKで深夜帯に放送されていた映像番組(そう呼ぶんだろうか)の『昭和のSL映像館』であった。この番組内に、D61の姿は何度か登場する。NHKは留萌にもカメラを担いで向かい、希少な蒸気機関車の働きを追跡していたのだ。
 軸重改造で誕生した貨物用の蒸気機関車は決して多い存在ではない。そして、更に突き詰めれば保存機も決して恵まれし存在ではない。
『留萌にしかいない』
という中で、非常にマイナーな映像・マイナーな蒸気機関車の活躍が捉えられたものだと思う。
 その番組をはじめて見たのが、中学生の頃。現在のNHK深夜帯では放送がないが、中学当時にはそれこそこの番組を探す為に番組表のAM0時以降を必死に血眼で探していたものだった。時は平成の25年以降になる。
 で、当時はどのようなD61形がオンエアされていたのか。それははっきりと記憶している。
 映像に記録されたD61形は、多くの石炭列車を牽引し、留萌機関区の僚友として共に苦楽を過ごした大正の貨物名機・9600形と重連で映像に入っていた。どのような9600形だったかは忘れたが、北海道らしい重装備な9600形だった。中学生の時代にはそこまでの注視もしていなければそこまでの観察眼もなかったので、
「D61って何…?」
くらいにしか考えていなかった。その価値は10年以上経過して刺さるのである。
 今になっては、そのD61形と9600形による重連を組んだ石炭列車が
『羽幌方面からの。または羽幌に向かう石炭列車だろう』
とまで考察できるが、当時はそこまで全く考えていなかった。当時といえば、
「鉄道だけの映像番組が放送されていたから」
ずっと見ていただけだった。今となっては読み込み、その出会いは大きなものだったと判明するが当時の認識は少年期ならではの甘く苦いものだった。

※北海道で活躍した9600形としての代表機・倶知安機関区の79615。こうした重装備の蒸気機関車が、北海道は多かった。

 留萌機関区では、D61形はD51形。そして9600形と共に活躍し羽幌の鉱石。そして増毛方面からのニシン輸送にと大活躍だった。その中には、中学生時代に眺めた重連列車のように9600形との存在も必要不可欠だろう。
 何せ、D61形は9600形の老朽化。そして大正時代生産というハンデを背負って活躍したそんな老兵の置換えとしても検討されていたのだから。
 9600形に近い重量として、軸重分散を実施して重量を分散する。そうした中で9600形という偉大な大御所との活躍にもなったわけだが、やはりコレもD51形を軽量化してバークシャースタイルにした功績が大きいのだろう。
 この他にも、D51形をベースにしたプロジェクトとして『軽量』『牽引力向上』『高速化』とD51形の一族は大きな使命を背負った。
 この課題を以て、旅客用に改造したC61形。牽引力向上でボイラーを大型化までさせたD52形。そうしてその使命を背負った一翼に、D61形は存在していたのであった。
 しかし蒸気時代の晩年ともあって、終戦からの復興の途上とあって生産・改造が少量に終わり。また稀少な存在になってしまったのは非常に惜しい事である。

今思いて〜希少機に対峙しての記録と〜

 3月には留萌本線の部分廃止にて、留萌からは鉄道が消えた。それは即ち、留萌本線の余命でありかつて暮らした古巣の消滅をも示す。D61形は、鉄道が消えた後の留萌をどのように思い見つめているのだろうか。
 さて。この日。北海道にしては非常に快晴の快晴であり、暑さもささる日であったこの日。近くでは親子が遊んでいる。この機関車は静かに、遊ぶ家族を見守っていた。そんな家族以外だと、この公園にやってきたのは自分だけ。なんとも静かすぎる場所だった。
 そして、快晴だったという事実の大きさからこの機関車も様々な角度で記録ができた。屋根がない事は機関車の状態を心配してしまったり、定期的なメンテの頻度が向上する事の表れであるが『スカッ』とした天気の中に映える蒸気機関車ほど美しいものはないだろう。少し逆光がちになったり。緑で隠れたりと様々にはあったが、D61形の余生とかつての映像での遭遇を思うには十分すぎた。

 快晴だったので、花壇に植る花との記録もこの日は出来たのであった。やはり晴れに勝るものというのはない。行動派、そして様々なアングルが浮かぶ公園では。
 機関車の色は欠けてしまうが、赤く光るロッドが。銀色に挿された角部の色が美しい。ここまで光り輝くクロガネの役者も、全国探しても少ないのではないだろうか。屋外機にしては綺麗すぎる。あまりにも大袈裟な表現かもしれないが、このまま火を入れて仕舞えば蒸気がこの機関車の身体を伝って美しい機械の魂を放つのではないだろうか。そうも考えさせられる。
 そして、この写真で分かるかもしれない…?のだが、D61形は少し小高い場所にその身を置いている。まるでこの公園がこの機関車の功労を称えるために用意されているかのようだった。
 美しい花々は、今日も留萌を輝かせたクロガネの戦士と共にその美を放っているのだろう。

 少し小高い場所…という恩恵は大きすぎる。
 お陰でこうした写真も撮影が可能なのだ。少しカメラを天に掲げるようにして見上げるアングル。
 あまり保存機だと余裕のある環境。柵の都合なども…であるが、この場合は逆に開放的過ぎて撮影の自由にかなり身を委ねる事が出来た。
 先日…というか少し前の岩見沢市での突発的なあの雨が未だに悔しい?のか、この場所では大いにカメラのシャッターを切りまくって。希少機に出会えた喜びを爆発させていた。
 しかしこう見ても、機関車を見上げるような縦のアングルで撮影しても、D61形の特色として健在し続けたキャブ下の従台車のインパクト。従台車の魅力はさり気ないながら残るものだ。
 圧縮しつつも、この作はこの作としてバークシャー機として改造されたD61形の個性をなんとか詰められたと思う。
 本当にそれこそ、昔の自分のように蒸気に疎い。蒸気機関車を何も知らずにして見た世代に関してはこの縦アングルで撮った写真で機関車の圧縮表現を見せても
『何が違うのか分からない』
で終わりそうなのは非常に苦いところなのだが。

 柵も何もない…として非常に澄み切った環境だからこその写真として、こうした絵のような記録にも成功した。
 当日は遊びに来ていた親子が『女の子』であり、母親とボール遊びに熱中していたのでこの場所に来て機関車に着目しているのは自分だけになった。
 機関車に接近し、それこそ蒸気機関車と戯れているような親子ではなくて少しだけ胸を撫で下ろした瞬間である。非常に余裕を持っての撮影ができた。
 なんだろう。こうして未だに撮影の戦果として並べて見ても、このD61形の保存場所というのは夢のような…いや、言語化できない感想がある。
  まるで絵画のような。イラストでの表現のような。模型でしか見ることのないような。そんな表現が適し過ぎている丘だった。柵もなく。そしてキャブへの階段が装着されていないのはあまりにも美しすぎだ。ここまでの美しさを感じて良いのだろうか?

 更に、更に。引き離した場所からの情景を見てみる。
 いや、完全にコレはマンガか何かでしか見ないような綺麗すぎる情景…ではないだろうか。撮影していても、思わず言語化の時間を失ったくらいであった。蒸気機関車が織りなす光景としてはあまりにも美しさがすぎる。(何度も使用してしまう)
 マンガのような、の感想と少し類似しているかもしれないが、この場所から撮影した写真はそれこそ丘への角度がアニメのEDなどでもありそうなというか。鉄道保存の場所にしては絶景がすぎた。
 そして木の植わり方というか盛り方も何かあまり言うことがないように思える。緑との陰影にここまでのグラデーションが完成するなんて、パソコンの初期設定画面でしか。電子機器の初期設定画面でしか知らないような情景だ。
 そんな場所に佇み、四季の移ろいに身を任す蒸気機関車の姿は正に『余生の暮らし』のようである。

 この場所に佇み、今は何を考え思っているのだろう。
 今でさえ。京都にデータを回収して広げている段階でも大きな後悔になってしまうのだが『遠くでの撮影もヨシ』『引いての撮影もヨシ』『接近アングルも可能』『更には各部分詳細を見つめて資料写真の撮影にも没頭できる』ような、野球選手で例えるなら
『走攻守全てが揃った』
ような場所であった。少し時間や場所としては日陰っぽさなどは気になってしまうが、場所としての絶好な環境は変化しないだろう。
 是非とも自らの目で視察し、カメラを1台携えてこの環境でD61形に向き合ってみてほしい。到達難易度は高すぎる上、気軽に訪問が可能な場所ではないのだが。
 実際に行ってみたが、バスの時間を考慮して引いてしまったのが。1人だけで荷物が手放せない状態が勿体ないくらいには絶好の機関車撮影環境だった。
 蒸気機関車の撮影には『爆煙』『動輪の動く機械美』『石炭の香りや人海戦術で走る機械の巧みな姿』と動く姿に写真の重きを要求している人も多いイメージだ。
 しかし、この場所での撮影は静態保存機の印象を大きく変化させる事間違いなしのイチオシの場所である。ぜひとも車などがあれば、その手段で寄り道してほしいものだ。

 バスでそのまま深川方面へ戻る為、撮影を終えねばならない。っとそして、道の複雑さから早めに向かっておきたいとの事でこの段階で切り上げた。
 短い間にかなり詰めて撮影したが、大きい成果は得られたように思っている。
 実際、この接近撮影写真でもそうなのだがこの機関車はそもそもが綺麗な状態なので撮影ヶ所には欠かない。そして『軸重軽量改造機』という異端性をも持ち合わせた特殊な蒸気機関車として。
 また、この写真でも少し分かるのだが副灯に切り詰めデフレクター(煙除け)を搭載した北国用の北海道向け蒸気機関車としての観察もアリな。スポーツ選手で例えれば(?)ユーティリティのような場所である。
 鉄道での訪問には時間切れで間に合わなくなり、バスで向かった形にはなったのだが実に良い体験だった。
 鉱山の閉山。鉄道の消失と燈が少しづつ霞んでいく中に、このD61形は一筋の光彩を差すような存在だ。この機関車を取り巻く環境が、更に栄えん事を祈って。留萌からこの役者の記憶が消えないように、ただただ祈って戻ろうとしていた。

 さようなら!北の大地に眠り余生を過ごす希少役者よ。
 旅はまだ、終わらない。

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夏の思い出

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