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奢られてきた私は割り勘派

男性と出かけたとき、「割り勘」というものをしたことがない。

私は九州生まれ九州育ち。いわゆる「九州男児」がいる環境で幼少期から大学生時代を送った。だからなのか、たまたまなのか、もしくは私の態度がなにか問題があったのか。

これは恋人だけじゃない。友人としての長い付き合いで、「私達ナイよね」と互いのポジションを明確に確認し合っている男友達ですら、「割り勘」ではないのだ。

さすがに全額支払ってもらうことはないものの、食事へ行けば、男性側が千円札を多めに出すとか、食事は割り勘でもそのあとのカフェやコンビニは彼が全額払うとか。

特段、男性の顔を立てようとか(そもそも多めに払うことで立つ面子ってなんだ)、そういった意図は私にはない。けれどもなぜか男性が多めに払うというのが常で、私も私でそういうものだと受け入れてきた。

たのしくヘルシーなデート

同い年の男性とデートする機会があった。と言っても、仕事終わりに食事をするだけ。気の置けない友人の紹介ということもあり、義理もかねてという気持ちだった。

結論、とてもとても楽しかった。話は弾む、会話の中で価値観の引っ掛かりはない、お互いの線引き(例えば食べ物やドリンクのシェアの許容範囲とか)もほぼ同じ。

私がずいぶん前に「酒のあとはアイス!」と言ったことを覚えていてくれたらしく、食事のあとは夜カフェでパフェを食べ、自宅付近まで送り届けてもらって解散。

ヘルシー。

ある一定の時間を過ぎれば明日の仕事を思い、引いては明日の起床時間を思い、デートがやや面倒になる私にとってこのくらいがちょうど良い。

健全過ぎて「デートに誘ったは良いものの私に興味がなかった」というオチではなかろうかと思ったものの、手元には帰り際に貸してもらった本がある。気のない相手にわざわざ本は貸さないだろう。次回はこの本の感想会を開く口実で会えばいいわけで、その後もやはり何度か食事をした。

この健やかすぎるデートでなにより驚いたのは、デート後の私が全く疲れていないことだった。いくら気が合ったとしても、他人とカフェでお茶をするだけですら疲れる性分だというのに。

いったい彼のなにがそうさせたのだろう。

「割り勘」で責任から解放された気分

これまでも”気の合う良い人”はいた。なんならもっと楽しいデートだってあった。でも家に帰るとどっと疲れが押し寄せて、そのままベッドにダイブする。

さっきまではあんなに話すことがあったのに、お礼のLINEを打つことすら面倒くさい。デートしていた自分と家にいる自分が完全に乖離して、家に付いた途端相手への興味を失ってしまうこともしばしば。

思い当たるのはひとつ、お支払いが割り勘だったこと。これまでと異なることと言えばそれしかない。

食事、カフェ、彼の車を停めていた駐車場の料金に至るまで綺麗に折半。残った200円のお釣りをふたりで分ける。私にとっては初めてのことで、とても清々しく感じた。

そこで、はたと思い至った。

もしかすると「奢ってもらう」と、「私からもなにかGIVEしなければ」という意識が働いていたのかしら。「女性=奢ってもらう/男性=全額または多めに支払う」というジェンダーバイアスを無意識のうちに嗅ぎ付けて、ストレスが蓄積していたのかも。

「割り勘」の正直な気持ち

感覚だけのお話をすると、会計を前に「別々で」と言われたとき、「あら、恋愛対象判定は無しだったのね」と瞬時に思い、ほんのちょっとガッカリはした。だって、奢る=あなたを女性として扱いますよ、気がありますよという合図だと、いつの頃か誰かにそう教わって来たから。

一方で、収入も生活も大して変わらない男女、私は女性としてキャリアを積みたいと思っている中で、それでも男性に奢ってもらうべきという考えの自分がいたことにぞっとした。しかも、これまで私はそうした自分の考えに気づいてすらいなかったのだ。

恋愛対象判定の真偽はさておき、私達が対等である以上、どちらが多く奢らなければならないなんて馬鹿馬鹿しい。

むしろ、奢られることで発生する、ある一種の女性としての責任(例えば可愛らしくいること、相手を楽しませるために笑うこと、気のあるそぶりをすること、その他すべてのこと)から逃れられる。世間の女性像に則った立ち振る舞いをせずに済むというのは、私にとってとても居心地が良かった。

これは、私にとって大きな発見だった。

世間ではデートの割り勘についてしばしば議論になるけれども、私は割り勘派として生きていこうと思う。

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