【読書録】『ペスト』カミュ
まずは、預言者か?と思った。
アルジェリアのオランという街で、ペストの流行が始まり、やがて大惨事となり、そして落ち着いて行くまでの流れを描いている。複数の登場人物の心理や行動の変遷を詳しく描写しているが、現在のコロナ禍の動きや、世間や人々の反応と大変よく似ている。これが、1947年に書かれたフィクションであるというのが信じられない。ナチス占領下のヨーロッパの状況の隠喩だと言われているらしいが、それにしてもカミュの想像力に驚嘆するばかりである。
コロナと似ているところ
以下は、コロナ禍の現在と似ていると感じた箇所を挙げてみる(頁数は、冒頭の写真の新潮文庫のもの。)。
ペストかどうかが分からないが患者が増えてる段階で、保険委員会が開かれた。ペストであると信じている主人公の医師リウーが予防措置を講ずべきだと主張したのに対し、県庁が世論を不安にさせないためにトーンが弱まった。(70~78頁)
今年のコロナ禍でも、最初は、皆、軽く考えていたような気がする。確か、コロナ初期の頃は、サービス業で接客する店員に、マスク着用を禁じていたというニュースを見た記憶がある。今では考えられない話だ。
いよいよ市が閉鎖され、突然、市外の家族との別離の状態に置かれたとき、陳情者が急増して、それぞれの個人的事情を申し立てて、例外を主張して移動しようとした。しかし、きわめてすみやかに、ペストの虜となっていた人々は、移動すると近親者を危険にさらすことを理解し、別離をしのぼうとした。(96~100頁)
今年のコロナ禍でも、少なくとも私の周りでは、似たような動きがあった。初めは、そこまで自粛をする必要はないのでは?と考える人が多かったが、次第に、多くの人が、コロナの感染リスクを防止する重要性について理解を深め、我慢をするようになったと思う。
妻をパリに残してオランで足止めを食った新聞記者ランベールの話。何とか禁を破って市の外に出ようとする。合法的な手段では町から出られないと分かり、別の手段で逃走をはかろうとしたが、いよいよ逃走できるというときに心変わりし、街に残ることを決めた。(120頁から309頁あたりにかけて断続的に)。そのときの彼の台詞:「自分1人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです。」(307頁)。
白状すると、このランベールの心理状態は、私の心理状態とかなり近い。
私は単身赴任で一人で東京に住んでいるが、コロナ前までちょくちょく地方の家族の元に帰っていたし、仕事が立て込んでいてしばらく東京にカンヅメだったので、ゴールデンウィークには有休を足してしばらく家族と過ごす予定でいた。そこに緊急事態宣言が出て、都道府県の移動を自粛せよということになった。会社からもそのような指示が出た。
最初は、とても精神的に耐えられるとは思わず、あくまで自粛であって、法律などで禁止されているわけではないし、新幹線も動いているのだから、帰ってもよいはずだと考え、帰省を強行するつもりで準備をしていた。
しかし、他にも社会のために寂しさや辛さを耐えている人たちがたくさんいることに気づき、自らが恥ずかしく思えてきて、帰省を取りやめた。上記ランベールの心理状態の描写は、私の心にグサリと突き刺さった。
商店が次々と店を閉じていった。(113頁)
市場に欠乏している必需品が投機的な高値で売られ、貧富の差ができ、不公平な感情がますます先鋭化された。(350頁)
次第に医療崩壊の状況になってゆき、医師も極度の疲労状態になった。(中盤を通じて)
その後、ある時期から突然、潮が引いたように終息に向かってゆく。(396頁以降)
こういうのも、現在のコロナ禍とよく似ている。
カミュの伝えたかったことは?
以下のいくつかの表現(抜粋または要約)が、大変印象的であった。
極度の孤独のなかでは、何人も隣人の助けを期待することはできず、めいめい自分一人でその屈託ごとに対しているばかりであった。自分の感情上の何かのことを話そうと試みたとしても、その話し相手と自分は同じことを話していなかったことに気づき、傷つく。(109頁)
ペストは、抽象と同様、単調であった。(132頁)
自分の目で見ることのできぬ苦痛はどんな人間でも本当に分かち合うことはできない。(204頁)
ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということ。(245頁)
ペストは、病疫の初めに医師リウーの心を襲った、人を興奮させる壮大なイメージとは同一視すべき何ものももっていなかった。よどみなく活動する、用心深くかつ遺漏のない、一つの行政事務であった(265頁)
市民たちは事の成り行きに甘んじて歩調を合わせ、自ら適応していった。そのほかにはやりようがなかったからである。不幸と苦痛の態度を取っていたが、その痛みはもう感じていなかった。まさにそれが不幸であり、絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪い。(268頁)
ペストは各種の価値判断を封じてしまった。人々はすべてを十把ひとからげに受け入れていた。(272頁)
住民たちは、彼らを近づけ合う温かなものへの要求を、深く感じていると同時に、しかもまた彼らを互いに遠ざける警戒心のためにすっかりそうなりきることもできないでいる。(290頁)
自分の愛するものから離れさせられるなんて値打ちのあるものは、この世にはない。しかもそれでいて、やはりそれから離れている。なぜという理由もわからずに。(308頁)
(隔離された愛する人々を)出所させることばかり考えている結果、もう出所させる当人たちのことは考えていない。最悪の不幸においてさえ、真実に何人かのことを、考えることなどできない。なぜならば、刻々と心を紛らわせるものが常に存在するから。(356頁)
誰でもめいめいのうちにペストをもっている。うっかりと病毒を感染させてしまう。決して気をゆるめないのが立派な人間。そして、それはずいぶん疲れること。(376頁)
心の平和に到達するためにとるべき道は、共感。(379頁)
ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもない。(458頁)
ペストのような大惨事になってしまったら、人々が絶望や不条理に慣れ、単調な現状を追認してしまい、平常時のように思考することが難しくなるから、誠実さや、共感を大切にしなければならない、ということだろうか。そして、ペストのような害悪は、決して外部からくるものばかりではなく、人々の中にも存在するから、気を緩めてはならない、ということだろうか。
上記で取り上げた医師リウー、新聞記者ランベールのほかにも、旅行者タルー、犯罪者コタール、作家志望の役人グラン、神父パヌルー、予備判事オトン、など、立場や性格の異なる登場人物が、ペスト禍の下、各人の葛藤のものとにそれぞれ独特の言動をしてゆくのに引き込まれた。
なお、書評などを読むと、反ナチス、反キリストという、カミュの思想が反映されているらしい。
終わりに
この本を読むのには、本当に時間がかかった。全体を通じて、心に刺さる言葉があまりにも多すぎて、その都度立ち止まり、意味を考え、消化、咀嚼するのに時間がかかった。いや、今でも完全消化はできていない。
この本は、コロナ禍の下、一躍有名となり、皆がこぞって買い求めて読んだと聞く。私が最初に欲しいと思ったときは品切れ状態だったが、その後、出版社が増刷してから購入できるようになった。私が買ったのは、令和2年4月25日の90刷版だ。ちなみに初版発行日は昭和44年10月30日。
このコロナ禍の中でたくさんの方がお読みになったと思うが、アマゾンの書評などを眺めていても、評価が大きく分かれる。また、読者に刺さった箇所も、千差万別であったようである。これが、名著の奥深さだろうか。
コロナ禍がなかったら、この作品を読む機会がないまま一生を終えていたかもしれない。よい機会に恵まれたことに感謝したい。