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【読書録】『日本人は「やめる練習」がたりてない』野本響子

今日ご紹介するのは、編集者であり文筆家でいらっしゃる、野本響子氏のご著書、『日本人は「やめる練習」がたりてない』(2019年、集英社新書)。

この本については、昨年、私の「【ブックカバーチャレンジ】断捨離系」という記事でもご紹介したことがある。

しかし、この本については、学ぶところが本当に多かったので、改めて詳しく取り上げたいと思った。

野本氏は、noteでもたくさんの記事を執筆していらっしゃり、たくさんのフォロワーさんをお持ちだ。

マレーシアへ移住され、子育てをされたご経験から、マレーシアの、多様性に富み、かつ、寛容な社会の特徴を紹介してくれる。そして、マレーシアと日本との違いを浮き彫りにしながら、同調圧力の強い日本の社会について、疑問を投げかける。全体を通して、野本氏の鋭い観察力に感銘を受けた。

以下、特に心に残ったくだりを書き留めてみる。

マレーシアでは、人々は、何かを辞めることに躊躇しないようだ。子どもの教育においては、学校をバンバン転校する、習い事も、同じことを続けない。そういう「辞める練習」を小さいころから行っているから、大人になっても「辞めぐせ」がついているという。

…マレーシアでは多くの人に「辞めぐせ」がしっかりついている。
 その後、マレーシアで就職した私が働き始めて驚いたのは、人々がすぐに辞めてしまうことだった。(中略)
 しかし、それは悪いことなのだろうか。これは単なる「トライ&エラー」の大人版に過ぎないのではないか。結局のところ、適性なんて実際にやってみないとわからない。頭でいくら考えたところで、自分が本当に好きか嫌いかは、大人だって理性だけではわからないものだと私は自分の経験から学んできた。特に職業の持つ嫌な面や、環境に耐えられるのかどうかは、想像力で補うのが難しい。それに辞めてみないと、新しいことを始めるのは難しい。(以下略)(p83-84)

辞めることは、トライ&エラーで、新しいこと、自分の好きなことを見つけるためのプロセスなのだ。

それに対して、日本では、本書のタイトルどおり、辞める練習が足りていないという。それは、なぜか。

 私が、「日本ではいじめや過労死で自殺する人がいる」と言うと、マレーシア人にはなかなか理解してもらえない。必ず聞かれるのが「そんなに辛いのに、どうして辞めないのか」ということだ。(p85)

 …「合わないな」と思ったら辞めるという選択肢はあった方がいいと思う。
 私の場合、今思えば小さいころの「挑戦」「挫折」の経験が少なすぎた。中学、高校、大学と、寄り道や途中で辞める経験もない。自分で「何かを選んで失敗する」という経験もほとんどしていない。「自分と向き合うこと」を小さいころに済ませておかなかったツケは大きかった。(p86 太字は著者)

 勉強もいいが、「自分を知ること」はとても大事だ。魚に木登りを教えてもしょうがない。そしてそれには、遠回りなようだが、実際に本人がいろいろやって感じてみる他ない。そのうえで合うものを選んでいく、合わないものは捨てていく作業をした方が、人生はよりハッピーになるのではないだろうか。(p87)

 以前、日本の大学関係者に「なぜ日本の大学では全員卒業させることを前提とし、落第や留年をさせないのですか」と質問したら、「中退した人たちの受け皿がないんです」と言われたことがある。社会の側が途中で辞めることを想定していないため、辞めさせられないのだ。
 これは日本社会の大きな特徴だ。一斉に入学し、一斉に卒業し、一斉に就職する。入学して途中で辞めると、受け入れ先の選択肢が極端に少なくなり、多くの場合は不本意なところでも行かざるを得なくなる。こうした社会では学校ですらトライ&エラーができない。(p87-88)(太字は著者。)

みんなが同じレールを歩む社会であり、そこからのドロップアウトの受け皿がないからだということが書かれている。だから、自分と向き合い、自分で判断して自分に合うものを選択することがしづらい、と示唆する。

次の記載もショッキング。日本の学校が教えていることの本質を突く。辞める練習の、正反対である、我慢する練習、であるというのだ。

 日本の学校は「辞める練習」は教えてくれない。では、教えていることは何かといえば、「我慢の練習」なのではないか。あるいは「自分がやりたくないこと」や「非効率なこと」に耐える練習だ。(p92)

マレーシアと比較して、日本が完璧主義であることについても指摘する。

 日本の職場がなぜ大変かというと、要求が高い上に完璧を求めるお客さんが多すぎるからだろう。お客さん全員に怒られないように仕事しようとすると、手間が増えて、結局、労働時間が長くなる。(p111)

 この現状を変えていくには、私たち一人一人が、サービスや品質に対して寛容に、テキトーになっていくしかない。もちろん、古き良き日本のサービスもどこかに残せばいい。けれど、全員がそこにこだわる必要も余裕も、もうないのではないか。もっと気楽に、東南アジア流にいきたいという人のためのオプションはあっていい。(p112-113)

それとは対照的に、マレーシアでは、人々は寛容で、嫌がらせはしないし、怒る人が少ない。SNSで炎上することも、ほとんどないようである。

...彼ら(サザヱ注:マレーシアのインフルエンサーたち)に会うと、「読者から嫌がらせされたり、ストーカーされたりすることはないのか?」と聞いているが、その結果わかったことは、ビックリするほど嫌がらせが少ないことだ。(p113-114)

さらに、以下のくだりも、新鮮だった。マレーシア式のクレームの入れ方は、とてもスマートだ。

…中華系マレーシア人の講師によれば、クレームはできるだけスマートに入れなくてはならないそうだ。
「…クレームのメールを書く場合は、日頃の感謝をまず伝えること。そしてクレームは短く、事実だけを伝えること。でも一つ改善して欲しいところがあるとしたら、それはこういうことです、と遠回しに書きなさい」と指導していた。
 なるほど、これがマレーシア式なのかもしれない。あくまで相手に動いてもらうためには、怒りという道具を使わずに交渉しなさい、と華人の先生は教えてくれた。(p125-126)

日本では、SNS上の誹謗中傷は、目も当てられないくらいひどいものが多いい。また、いろいろな企業のお客様センターに寄せられるクレームも、怒りや不満を丸出しにするものがとても多い。

日本社会全体として、ものすごくネガティブな気に包まれていて、国として大きな損失となっているのではないか。これは、皆がすべてを同じように完璧にできなければいけないという、完璧主義の副産物なのか。

次のくだりでは、マレーシアが、過度な期待をしない社会であることが書かれている。そのような社会が、人々が冒険することや失敗することを許容することにつながるという。

 とにかく、この国の人たちは、他人や社会に対して過度な期待をしない。他人に期待せず、自分で動く。こういった寛容な社会では、人々は冒険的になる。そして、何かうまくいかないときに「だから言ったでしょ」的に責め立てる人、高見の見物を決め込んで「お手並み拝見」と言う批評家みたいな態度の人、冷笑的な人が少ない。すると、人はいろんな挑戦ができるようになる。(p127-128)

そもそも、正解は1つではないことや、お互いがわかりあえないことを認めることが、日本人には訓練できていないのかもしれない。他民族国家のマレーシアとは異なり、単一民族であり、相手も自分と同じだと思いがち、ついつい単一の物差しで測りがち、ということが根底にあるのかもしれない。

 なまじっか、「わかり合えるはず」「同じ日本人なら察してね」という期待が大きいものだから、相手がちょっとでも違うとイライラする。「以心伝心」は、おそらく幻想なのだ。(中略)それならいっそのこと「私たちは絶対にわかり合えないんだ」と認めてしまったらいい。(p139)

「話せばわかるはずだ!」と相手の領域に踏み込んでいったら、たちまち暴動になることをみんなわかっているのだ。だから、わかり合えないけれども、お互いに認める。
「あなたの考えはさっぱりわからないし、わかりたくもない。けれどもあなたの考えはそのままで良いし、あなたを人間として尊重する」
 という感じではないか。(p139-140)

「言わなくても察して欲しい」と相手に期待していないで「あなたはどうして欲しいの?」と聞く、または「こうしてほしい」と言えばいいのである。すると、その態度は異文化理解にも役立つし、多様性のある社会でも武器となって活躍するはずだ。(p140-141)

とはいえ、最後のほうで、著者は、同調圧力=悪というわけではない、と述べる。集団に身をゆだね、みんなと同じレールで走る人がいてもよい、と言う。

 良いところと悪いところは表裏一体だ。日本のように集団で協力することで安心感を得る子供は、実はとても多い。彼らは日本風の「連帯感」「一体感」が何よりも居心地が良いのだ。
 大人もそうで、自分で決めるのが面倒な人は少なくない。多くの日本人は(子供含めて)なんだかんだ言って同調圧力が好きなのではないかな、と思う。(中略)
 猫も杓子もグローバルというが、全員が地球市民みたいになったら、かえって多様性のないつまらない社会になってしまう。その意味で反グローバリズムの人たちがいるのは良いことじゃないだろうか。(中略)
 結局のところ、自分のことは自分しか分からない。他人の目を気にせずに、「人それぞれ自分がハッピーになる」道を行くしかない。同じ日本人にもいろいろいる。私はみんながみんな、グローバルになる必要はないと思っている。(p177-178)

これは、とてもフェアな記述だと思った。個性を追求せずに、皆と同化して過ごしたい人もいてもよい。それはそれで多様性の一つ。ついつい、多様性論を大展開してしまいがちな私にとっては盲点ともいえ、戒めにもなった。

個人がそれぞれが自分で判断して、自分の思う道に進み、それぞれの幸せを追求すればよい。そして、他人の判断や生き方を尊重し、ひとつの物差しで測らないこと。完璧を目指すばかりではなく、寛容になることも学ぶこと。

一言で片づけてしまいがちな「多様性」という概念を、多様性のお手本のような国、マレーシアとの比較で深掘りしてくれた、素晴らしい本だった。

ご参考になれば幸いです!


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