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あいづちとトランシーバー——言語学っぽい話


Twitterを見ていたら、英語と日本語の言語的特徴について、こんなツイートが目に入った。


なんというか、日本語という言語が持っている特徴と英語が持っている特徴をここまで上手に言い表しているのは、素直にすごいと思った。
ぼくはこのツイートにインスパイアされて、2言語の特徴を以下のように言い換えたい。


日本語は”あいづち文化”
英語は”トランシーバー文化”


そして、
日本語には”あいづち文化”という特徴があるとどんなことが言えるのか。
英語に、”トランシーバー文化”という特徴があるとどんなことが言えるのか。
つまり、それぞれの言語の奏者であるぼくたちに、いったいどんな影響が出ているのかということについて考えたい。
——HTMLやCSSに特徴や得意なことがあるように、
日本語でも英語でも、言語には、それぞれ特徴と得意なことがあるわけだ。そして、日本語・英語という言語の奏者は、いったいどのような思考の癖があるのかについて考えた。

あるいは、ギターやベースのように楽器ごとに、手にできるマメのかたちが異なるように、そのマメに着目して、これはなんなのかということについて考えた思考の痕跡である。



ここでいう「文化」という言葉のニュアンスを掴んでいただくために、紹介しなければいけない文化人類学者がいる。
ルース・ベネディクトである。

かつて、ベネディクトって文化人類学者が『菊と刀』という本の中で、日本民族の特徴を、<罪の文化>ではなく<恥の文化>と評価したことで、(主に西欧諸国が)日本文化を理解する材料として一斉を風靡したことがある。
——特にこの本が刊行された時代(1946年)は、第二次世界大戦の直後で、日本がもつ”カミカゼ特攻隊””沖縄戦の集団自決””天皇制”など、キリスト教文化圏に属する西欧諸国には理解できない異質性が際立つ時代だった。
※地球学園の「あの転校生ヤバくない(ヒソヒソ・・)」状態であったため、余計に<恥の文化>という斬新かつ鋭利な理解は、日本民族というワケワカラン民族を理解するのに大いに役立ったそうだ。

<罪の文化>と<恥の文化>とは

「罪の文化」では、個人が自分自身の行動を評価し、その行動が正しいか間違っているかを決定します。例えば、ある人が嘘をついたとします。この人は、嘘をつくことが道徳的に間違っていると自覚しているので、嘘をついた後に罪悪感を感じます。つまり、この人は自分の内面の声(良心)に従って行動し、自己評価を行います。このような考え方は、主に西洋文化に見られます。

一方、「恥の文化」では、他人の目や社会全体からの評価が自分の行動を決定する要素となります。例えば、ある人が嘘をつくとします。しかし、この人は嘘をついても自分自身は罪悪感を感じません。その代わり、他人に嘘をついたことがバレてしまった場合、その人は恥ずかしさや面子を失ったと感じるかもしれません。つまり、この人は他人の意見や反応によって自分自身を評価します。このような考え方は、特に東洋文化(例えば日本)に見られます。

ただし、この二つの区分はあくまで一般的な理論であり、全ての人や文化が厳密にこの分類に当てはまるわけではありません。また、一人の人間が両方の観点を持つことも可能です。さらに、これらの文化的特徴は時間と共に変化したり、あるいは個々の状況によって変わることもあります。

ChatGPT-4より引用

すなわち、本記事における「文化」という言葉が放つニュアンスは、
日本文化の固有性と英語圏文化の固有性という、それぞれの言語から形成される文化の青写真のプリントアウトである。


あいづち文化とは


”あいづち文化”を明らかにすることで、日本文化の青写真がプリントアウトされそう!という直観にしたがって持論を展開する。

まず、あいづち文化とは、協調性と忖度のことである。
つまり、日本語にはそもそもから忖度や協調性を前提としているところがある。

もう少しわかりやすく説明する。


その特徴をもっとも端的に表しているのが漫才である。
漫才というアーキテクチャは、言葉の掛け合いだが、ボケという非常識がツッコミという常識に導かれながら、ひとつの主張をするという形式をとっている表現技法である。

日本には、漫才という世界独自の文化※がある。
漫才の特徴は、ボケとツッコミが掛け合いながらひとつの会話するというものである。
これはメインの話者が話しやすいように、うんうんあいづちを打って、主張が主張として成立しやすいようにコーチングしているのだ。
※たぶんです。漫才は日本独自の文化じゃなかったらごめんなさいw


ボケが放つ非常識をツッコミという常識が、交互に掛け合うことによって、観客である私たちに商品という形でお届けしているのだ。

ツッコミの役割は、ティーチング的ではなく、コーチング的なのである。
※このことについてはまだぼくの中で未整理なのでこのテーマについても今後挑みたい。


忖度と協調性

忖度と協調性も出処は同じだ。

あいづち文化の特徴である忖度と協調性は、日本語話者同士がもっている大縄跳びのようなリズムとテンポだ。

日本語の会話は、細切れな意思疎通の連続で、ゴールへ向かっていく構造をもっている。

どういうことか。
「うんうん」「わかるわかる」のようなあいづちがあると——聞いていてくれる誰かがいると——自分のイイタイコトがすらすら言えてしまう文化なのである。

昔、1年間イギリス留学をした神戸大学生と会話した時、電話なのにあいづちが一切なくてすごく話しにくかった経験がある。
これは”あいづち文化”が剥がれた他者と会話の不成立をよく表してるエピソードである。

そのため、日本語で会話するときには、”あいづち”が不可欠なのだとぼくは思う。

トランシーバー文化とは


対して、英語圏では”あいづち”は主張の邪魔になる。
英語は、長いセンテンスを”トランシーバー”で「どうぞ」と「どうぞ」をつなぐような文化構造をもっている。

トランシーバー文化とは、個性を尊重し自律的なのである。

どういうことか。
力強いメッセージであり、人目を引く言葉であれば、立ち止まって聞いてもらえる文化構造なのである。
漫才のように、非常識(ボケ)を常識(ツッコミ)によって咀嚼しながら説明する必要がない。
ある意味、話者の独壇場だし言い切り型なのだ。
そのため、西欧文化圏では、”あいづち”は公道の駐停車のように疎まれる。


だからこそ、西欧諸国の人と会話をするときには、あいづちは禁物なのだ。
これが日本人の”あいづち”が、国際社会から嫌われる根本的な原因ではないだろうか。

この点において、日本語に比べて英語話者の主張は自律的なのである。

一方で、英語に比べて日本語のほうが思考の形成に他律的だと言える。

日本語は”あいづち”を前提にクリエイティブが発達していく文化構造であるため、会話のキャッチボールがひじょうに重要だ。

——これは余談だが、昔イギリスに1年留学へ行っていた大学生と電話した時、
あいづちが一切なかったのですごく話しにくかった記憶がある。
これもあいづち文化圏からトランシーバー文化圏に行ったことによって、トランシーバー文化に正された結果である。

日本人にあったクリエイティブの創出方法


ここからはぼくの飛躍なのだが、
日本語から”あいづち”を失われることが、日本のビジネス的競争が著しく送れる根本原因なのではないかと思う。
発展を遅らせている要因なのではないかと思う。

日本語はチーム戦に適した言語構造をもっている。
だから、会社の会議はプレゼンを聞かせ合うのではなく、
もっと「うんうん」「わかるなぁ」という”あいづち”であふれた雰囲気の方が日本文化に合っているのではないだろうか、と筆者は思うのだ。

大陸的な、カリスマ的司令塔が先導するのは英語という文化がもっている特徴だ。
だから、日本語は国際社会に足並みをそろえるのではなく、
つまり、あいづちを減らすのではなく、日本語奏者同士の侘び寂びある”あいづち”を打ち合えるようなチームという組織構造の方が、日本に適してるのではないか。
日本語には、そういう自己受容が必要だとぼくは思う。

今は、追いつけ追い越せと焦っているので、
日本語という言語の特徴に合わない方法で戦おうとしているから、上手く行かないだけで、
日本文化に合っている”あいづち文化”から生まれるクリエイティブがもっと増えた方が、日本固有のクールジャパンなコンテンツは生まれるのではないだろうか。
——断定口調が鼻につくかもしれないが、就職の経験がないフリーランス(マージナルマン)としてのイイカゲンな物言いである。

マージナルマンとは
文化を異にする複数の集団(または社会)に属し、その異質な二つ以上の文化と集団生活の影響を同時的に受けながら、そのいずれにも完全には所属しきることのできない者。 各集団、各文化のいわば境界に位置している人間。 境界人、限界人、周辺人などとも訳す。

コトバンクより引用

※また、こんなことを書くと「外国人排斥」「外国人差別」みたいな話につなげて、ぼくを極右に仕立て上げられてしまうのだろうか。別にそんなことは言ってませんのであしからず。









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