見出し画像

愚痴というメディア——他者理解に不可欠な「わたし」の組成

口を開けば愚痴を言う人がいる。
イヤなことがあった、イヤなことをされた。
このような出来事をシェアする目的はなんだろう。

ぼくは最初、イライラしているからそのストレス発散なのだと思っていた。
実際、ぼく自身が誰かに愚痴るときの目的はこれなのだ。
そうして愚痴るとスッキリする。なにか心のもやもやが晴れ渡るような爽快感が得られる。
しかし、それをして気持ちいいのはぼくだけで愚痴られたその人は、けっこうイヤな気持ちになっていたりするらしい。
それを知ってからは、愚痴をコントロールするようになった。
「愚痴ったってなんも変わらんよな」それからぼくの誰かに話すトークテーマから愚痴の数は減っていった。


愚痴の克服には、『嫌われる勇気』でも紹介されている三角柱のエピソードを知ることが役立った。
「かわいそうなわたし」と「悪いあの人」よりも「これからどうするか」の方が今語るべきことであるという考え方である。


そういう考え方を学ぶと今度は、愚痴をいう人間に耐えられなってしまう。ただの『嫌われる勇気』の読者でしかないのに、伝道師を気取って、したり顔で「『これからどうするか』の方がよっぽど重要じゃない?」と言ってみたりする。
(まったくはずかしい話である。自分で書いておいていたまれない気持ちになる。本題から逸れるが、先進的な考えやアイデアに感化された人間というのは、どうしてこんなに厄介なのだろう。自分の中でそう思っておくことは自由なのだが、人に強要を始めるといよいよ厄介である)


そういう考えが自分の中に染み込むと、愚痴られることが苦痛になっていく。ストレス発散のサンドバッグにされている感じがして、あまり心地がいいものではなかったので、愚痴を言う人とは意識的に距離を取るようにもなっていった。


しかし、そうではなかった。
彼ら・彼女らが語っているのは、愚痴ではなく相互理解のためのきっかけだった。

彼ら・彼女らはイライラをぶちまけているわけではなく、「わかってもらいたい」のだ。
愚痴を通して、「わたしはこういう人間でこういう価値観を持っている」ことを伝えているのだ。
つまり、愚痴はメディアだったのだ。


しかし、近年はアドラー的・ホリエモン的な言説があまりにも覇権的だ。
愚痴が劣勢な時代である。
「自分の機嫌は自分で取る」というマインドセットが覇権的で、「それができない人」というレッテルを貼られてしまう時代だ。
たしかに、愚痴や陰口はネガティブな感情を惹起するので、人に話さない方が効果的である。
しかし、愚痴るという減点ひとつで、愚痴者の評価を下げて、「自分とは不釣り合いである」と距離を取ってしまうこともまた、早計なのではないだろうか。
そのため、本記事は時代にやや逆行して愚痴に寄り添ってみるのである。


愚痴はメディアである。
愚痴を通して、鏡写しにされるその「嫌いな対象」は、実は「わたし」そのものである場合がある。
多くの人が語る「嫌いな人」の特徴というのは、「過去の嫌いだったわたし」や「(直視したくないけど)現在の嫌いなわたし」のことである。

そのため、愚痴は自己紹介のひとつであると捉えることができるのだ。
そうすると、その自己紹介を封鎖してしまうことはあまりにも他者理解から遠ざかってしまうのではないだろうか。
もう少し愚痴に寛容になったほうがその人を理解する上では重要なんだと思う。

とりわけ現代社会は、愚痴を言える関係性を構築することはむずかしい時代になっている。
なぜなら、タイムライン上には機能的に「わたし」を脅かす対象は、早々に「リムる」ことができるからだ。
InstagramやTwitterというフィルターバブルな世界では、「リムる」という機能が実装されている。
タイムライン上には、「わたし」を組成する要素だけを意識的に配置することができる。
「リムり」続けることによって、「わたし」の周りには一見するとキレイなもので満たされることになる。
ブロックは角が立つけどリムーブならば、そうそうのことがなければ相手にバレない。こうして自分の内側で完結した世界ができあがるので、わたしのメンタルの平穏は約束される。
こうして「わたし」の清潔で整列した世界はできあがる。
しかし、「リムる」ことによって、人生から偶然性はなくなっていく。
AIによって好きそうなものの提案力が高くなればなるほど、「わたし」の周りには好きなもので満ちていくが、「(最初は嫌いだったけど)好きになるかもしれない」ものも同時に、「わたし」の周りから「リムら」れてしまう。
この予想外だけど実は面白いみたいな出会いが偶然性である。
こうした偶然性がなくなっていく人生を想像するとぼくは息がつまってしまうのだが、みなさんはどうだろうか。

転じて、愚痴を言う人はたしかに不快かもしれない。
しかし、その不快にあえてポジティブに耳を傾けてみることで、見えてくる新しい出会いが生まれる可能性があるかもしれない。
覇権的な言説に対してあえて逆行してみることで見えてくる価値観もあるのかもしれない。
合理化された人生にあえて不合理を取り入れるのである。

愚痴というメディアで鏡写しになっているその人の「嫌いなもの」に耳を傾けることで、そこにわたしが意識的に距離を置いている「わたし」がいるのかもしれない。
「嫌い」だけど距離を置くのではなく、「嫌い」という市民権を与える懐の深さがあってもよいのではないか。

そうしたまだここにない出会いを求める作法が、愚痴に耳を傾けるという行為なのではないかと、ぼくは思う。





この記事が参加している募集

#noteの書き方

29,133件

#振り返りnote

84,756件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?