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4. 【心の中のかけら】 ことばの先にあるもの

早朝、深い眠りからふっと現実に帰る。どうやらお気に入りのソファの上で一夜を過ごしていたようだ。(休みの前夜は時間も気にせず好きなことに没頭しすぎてしまうため、ついソファでうたた寝をしてしまう。)

まだ夜の続きのような感覚のまま窓を開けると、世界は軽くて爽やかな空気が漂っていることに気づく。少し思いを巡らすと、夜のうちに雨が降っていた記憶にたどり着いた。どうりで陽は明るく、空気は澄んでいるはずだ。


明るい日差しを眺めていると、ふと昨日いただいた“やさしいものの言い方”という言葉が浮かんでくる。

わたしは、言葉をそのままありがたく受け取ることが苦手(強い抵抗感を覚える)、もしくは他人事のように感じてしまうということが度々起きるのだが、この言葉は心が喜んでいるように感じた。

いただく言葉をそのまま受け取ることができないというのは、その言葉が生きている空間にいる自分と、本当のわたしとの間に隔離があるからだと考えている。

主にわたしを通り抜けていく言葉は姿形や目に見えるものに関することが多く、そう考えると形(ここではわたしに相当する)に隔離を感じていても、その形が発する言葉には隔離がないということなのかもしれない。言霊というのはうまくいったものだ。


同時に、わたしが言葉に対してどのように接しているのかについてふと考える。以前このnoteにも綴ったように、わたしは言葉にも美しさを感じたいが故に、音やリズム、その言葉が醸し出す雰囲気までを、口に出しながら後を追ってバランスをとるような感覚で形にしている。



これについては特段取り組んでいるというわけではない。思い返せば、物心ついたころにふと自分が相手に対して発した言葉を自分自身でも受け取ったときに、心の違和感(恐らく自分が伝えたいことと言葉のニュアンスの差)を感じた頃から、言葉と感覚をチューニングするようなイメージで行っている。

自分では何気なく行っていることでも、きっとそこには色々な積み重ねがあり(実際にとても神経を使うような感覚がある)、それを見つけてくださったこと、そして言葉にして伝えてくださったことがとてもうれしかったように思う。


ここまで深めたところで、このごろのわたしが他者と関わる世界において、ありのままの言葉を発することができていると気づく。以前のわたしは、姿形どころか、考えや言葉ですら架空のものを作り出して生きていたはずだからだ。

わたしはこれまでもうずっと、幽体離脱をしているような気持ちで生きていました。日々を過ごす現実の自分を、もう一人の自分が冷めた目で見ているような感覚です。今思えば、このように自分の感情を無視して生きていたので、本当の自分が冷めた目で現実の自分を見ていたのだろうと分かります。

ただ、そのほかの生き方なんて知らなかった当時のわたしは、この術が間違えているなんて疑いもしなかったのです。


そのわたしが、心から湧き出るものを、自分が美しいと感じる言葉で相手に届けられている。

そういえば、半年ほどから取り組んでいるセッションでも、自分の気持ちを言葉にすることへの抵抗感や罪悪感が薄まっているように感じているのだ。


世界に希望なんてひとつも見つけられなかったわたしが、今微かな光を感じられている。南フランスで自分として生きたいと涙したわたしも、ひたすら自分と向き合った辛い1年間も、教会のような場所を作りたいと初めて人に打ち明けた自分も、そのためにはるか異国の地にいる方に勇気を出してコンタクトをとった自分も、すべてこのときに繋がっていたのかもしれない。

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