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日本バレエに見る若者と教育(2017)

日本バレエに見る若者と教育
Saven Satow
Dec. 04, 2017

「チントンシャンテントン」

1 集中力と緊張
 選挙の投票行動をめぐって今どきの若者が保守的か否かについて論じられています。もちろん、若者論は今に始まったことではありません。若者を扱った小説や評論は、坪内逍遥の『当世書生堅気』を始め近代に入って以来、継続的に示されています。ただ、今日は社会調査を詳細かつ広範囲にさまざまな機関が実施しています。若者を論じるのであれば、その結果を照らし合わせて科学的に分析する必要があります。ところが、中には、内田樹のように、新聞の見出し程度の情報を元に直観的に自説を語る人もいます。それは「這般の奥義」(坂口安吾『教祖の文学』)にすぎません。

 言うまでもなく、自らの経験に基づき、その範囲内で述べられる若者論には傾聴に値するものもあります。30年以上も教壇に立ち続けた高校教師が時代の変遷と共に見てきた生徒たちの変化について語ることはそうした好例です。長期に亘って共通の課題をめぐって行われる社会調査は極めて少数です。また、そういった証言は定量的調査では捉えられない時代や社会の気分を伝えてくれます。それは、当然、奥義などではありません。

 そうした示唆に富む指摘として牧阿佐美新国立劇場バレエ研修所所長の回想を挙げることができます。鈴木晶法政大学教授が、放送大学講義『舞台芸術の魅力('17)』の「第5回バレエの現在」の中で、牧所長に日本バレエの過去と現在についてインタビューをしています。牧所長はバレエ・ダンサーであり、振付家です。日本バレエ界の重鎮で、生きられた伝説と言って過言でありません。

 牧所長は、1933年、東京に生まれています。父の牧幹と母の橘秋子はいずれもバレエ・ダンサーです。二人は日本バレエの母と呼ばれるエリアナ・パヴロワに師事していますから、彼女は孫弟子にあたります。1954年米国に留学、アレクサンドラ・ダニロワ、イゴール・シュヴェッツォフに学んでいます。帰国後の56年、母と共に牧阿佐美バレヱ団を結成します。1999年、新国立劇場舞踊芸術監督に就任、2,010年まで務めています。

 牧所長は、このように、長年に亘ってバレエ界に携わり、指導者や振付家としてバレエに臨む若者に接しています。そういった経験に基づき、今と昔の子どもたちの違いについていくつか述べています。

 牧所長は、昔に比べて、スタイルがとてもよくなっているけれども、今の若者には集中力がなく、緊張しやすいと指摘します。集中と緊張は違います。集中力はよいパフォーマンスを引き出しますが、緊張は逆効果です。緊張は周囲が見えなくなり、余裕を失ってしまいます。

 牧所長は、その一因として、保護者が子どもに競争心を煽る言動を挙げています。他の子に負けるなと発破をかけたり、他の子の方がうまいと責めたりすると、プレッシャーが加わりますから、どうしても子どもたちは緊張してしまいます。

 同じ月謝を払っているので同じ結果を出して欲しいと思う気持ちはわかると牧所長は理解を示します。けれども、子どもたちにはそれぞれ個性があります。習熟過程も心身の特徴も違います。伸びていく姿を個性に応じて受けとめ、見守ることを保護者に牧所長は望んでいます。

 集中力には自分を信じることが前提となります。自己肯定していれば、結果を気にせずその過程に全力を投入することができます。しかし、過度の競争心に囚われていては、結果ばかり気になってしまいます。他と比較するばかりで、自分を信じることがおざなりです。 

 この二つは「自尊感情(Self-esteem)」と「自尊心(Pride)」の違いから説明できます。前者はありのままの自分を受け入れる心情です。ルサンチマンを抱きません。他方、後者は他との比較によって自分の優越感、あるいは自意識の優位性を感じようとするものです。自分自身を大切に思う気持ちが弱く、「どうせ自分なんかダメさ」と投げやりです。ところが、それと反対に、自尊心の方がやたら強いのです。いわゆるキレやすくなります。自尊感情の不足を自尊心で補っているとも言えます。

 自尊感情の弱い子が増えているという実感は教育関係者の間で共有されています。その理由は確定しているわけではありません。ただ、牧所長の大人が子どもに競争心を過度に強いているのではないかという指摘は傾聴に値します。自尊感情が十分に育っていないのは、親がその子をあるがままに受け入れず、競争の結果で評価してしまうからだという可能性もあるのです。最も身近な親が認めてくれなければ、子どもが自尊の感情を持つことは難しいでしょう。そういった子は、親と同じように、結果に囚われ、他との比較によって自分を認知します。集中力が続かず、緊張しやすくなってしまうのです。 

2 暗黙知と明示知
 しかし、こうした変化にかかわらず、多くの日本人ダンサーが海外のコンクールで優勝を含め上位の成績を収めています。牧所長は、確かに、かつてに比べて、日本のバレエ・ダンサーの技術が高くなったと述べています。ただ、課題もあります。

 コンクールの審査員は技術を評価します。技術は、ダンサーと指導者が時間をかけて反復練習を積めば上達します。日本人ダンサーは欧米に比べてバレエが好きなのではないかと牧所長は指摘します。バレエへの情熱があるからこそ、つらい練習も長続きできるからです。

 初級者が教室である動作技法を習得するとしましょう。まず教師が模範演技を見せます。その際、技法の特徴や流れ、難しいポイントを教えます。次に、生徒がゆっくりとそれを演じてみます。うまくできなかったら、動作を分解し、それぞれを反復練習します。十分にパートができるようになったら、再構成して動作全体をゆっくりと演じます。この間、教師が必要に応じてアドバイスをします。流れをつかんだら、滑らかになるように繰り返し練習し、徐々に速度を上げていきます。

 この前に、もちろん、身体を最低限動かすために必要な柔軟体操・基礎練習があります。単調なものが多いですけれども、それを欠かすと、身体をうまく動かせなくなったり、怪我につながったりします。

 けれども、芸術性は練習だけでは身につきません。日本のバレエ・ダンサーにはこの付加価値が全般的に不十分です。牧所長は、その理由として、公演数の少なさとバレエ学校の不在を挙げています。

 日本にはバレエ専用の劇場がありません。新国立劇場が主に公演を担っています。公演数は年間30程度で、欧米の約100回に比べて、少ないのが実情です。公演数が多ければ、多様な演目を披露できます。個性に応じてさまざまなダンサーが役を得られます。技術と別に、それぞれのダンサーに向き不向きの役があるものです。けれども、公演数が少なければ、演目も限られます。特定のダンサーによるお決まりの配役になってしまいます。個性を生かすダンサーが育ちにくくなるのです。

 特に、新国立劇場の公演では、牧所長によると、日本人のダンサー・振り付けを使うことが望ましいとされています。外からの風が入ることで、日本の関係者に新たな発見がもたらされるものです。そうした刺激が芸術性向上には必要です。

 技術を習得・向上するには練習が欠かせません。技術の高さは練習量に比例すると言って過言ではありません。上手いダンサーは練習時間も長いものです。しかし、付加価値のためには、実践が大切です。練習は必要ですが、それに偏重していては、付加価値が得られません。練習と実践のバランスが大切です。

 また、日本にはバレエ学校がありません。学校であれば、練習時間以外に学友や指導者とバレエを始めいろいろな話題の会話ができます。悩んでいる課題を打ち明けたり、他の人のパフォーマンスについての感想や意見を述べたり、技術性・芸術性向上につながる知識を得たりすることができます。こうしたコミュニケーションを通じて自分を対象化できたり、教えられないことを学んだりするのです。

 こういった問題を解決しているのが宝塚です。歌劇団は自前の学校・劇場を運営しています。2年制の宝塚音楽学校を始め育成・昇進が組織化され、関西のみならず東京にも専用劇場を保有しています。このシステムもあって、宝塚が高い質を保持しつつ長きに亘って人気を博しているのです。

 バレエの教育は伝統芸能のそれと異なっています。伝統芸能では、概して、幼い頃から修行に入ります。弟子は師匠の技を見習って学習します。師匠は手取り足取り教えたり、言語化して指導したりしません。師匠は、稽古の際に、弟子のパフォーマンスに気になるところを見つけると、「違う」と指摘します。けれども、具体的な問題点や改善方法を明示することなどしません。しかし、長い時間をかけて繰り返しているうちに、指摘がなんとなくわかってきて身体が覚え、考えなくても技や芸が流れとしてできるようになります。・

 それは母語の体得に似ています。子どもは家族を始め周囲が話すことを聞き習います。大人は子どもに文法の規則をほとんど教えません。ただ、子どもが真似て話し始め、文法や語彙、用法など間違いを見つけると、大人は「違う」と指摘します。これを繰り返しているうちに、人は母語を体得し、誤りかどうかを内省だけで判断できるようになります。

 体得した知識を言語によって他者に説明することは困難です。この学習法で身につけた知識を伝えるには、他者にも自分と同じ過程を模倣することを求めるほかありません。「習うより慣れろ」というわけです。こうして得られた知識を暗黙知や身体知と言います。

 「違う」の指導は、実は、希少性仮定に基づいています。各言語には発音や文法、語彙、表現などに固有の区別があります。それができていれば、残りは裁量の範囲内です。

 日本語において「シッポ」と「ポンプ」の「ポ」の音を区別しません。しかし、中国語人がこの二つを聞いたら、違う音と認知します。日本語を体得する際には両者の識別が不要ですが、中国語では必須です。音は無限にあります。その中で特定の言語においての区別は極めて限られています。そうした希少なものだけができていれば、会話が通じますので、それ以外は気にしない方が合理的です。

 ただ、伝統芸能の技や芸の体得法には時間がかかります。伝承が世襲など狭い範囲で行われる場合にはさほど不具合がありません。しかし、後継者不足や社会的普及など継承するために門戸を開放しなければならない場合、「習うより慣れろ」は効率が悪く、その目的を叶えられません。

 日本においてバレエはお稽古事として始めます。教室に通い、既定の練習時間を送り、体系的なカリキュラムに則って、段階的に学習していきます。月謝を払えれば、誰でも学べます。動機も目標も能力も個性も人それぞれです。今日のバレエの定着には、先人たちによる草の根の育成が大きな影響を与えています。伝統芸能と違い、新たな芸術を普及させるには、バレエをめぐる暗黙知をできる限り明示化し、教育内容・方法を言語化する必要があります。この草の根が世界的なバレエ・ダンサーを輩出する土壌です。

 人は言語によって構成された理論を通じて理解を共有します。言語を利用して得られる知識を明示知や形式知と言います。先に挙げた暗黙知は身体化されていますから、その人に依存しています。一方、明示知は言語化されていますので、共時的・通時的に共有することが可能です。

 先に言及した練習過程はこの形式知によるもので、それはバレエに限らないでしょう。スポーツや楽器演奏など身体を使うこと一般に見られます。ゴルフのレッスンやピアノのお稽古、自動車運転教習など挙げればきりがありません。

 近代教育の課題の克服のために、伝統芸能の伝承法にそのヒントを見出そうとする教育学者がいます。また、近代性の相対化として暗黙知に着目する人類学者もいます。言語化できない奥義の伝承に、理性中心主義の西洋近代を超える、ないし見逃したことを発見すると期待しています。しかし、身体の対象化が不十分なために、言語化できていないだけです。バレエの課題は実践とコミュニケーションの不足が原因で、それを伝統芸能の教育法によって改善するなど期待できません。

 柔道は国内で最も競技人口が多い武道で、世界的にも広く普及しています。それにはいくつかの理由があるでしょう。ただ、嘉納治五郎による柔をめぐる暗黙知を明示知にする革新が大きかったことは間違いありません。彼は他の伝統芸能・武術に先立ち、言語によってその体系化に取り組んでいます。

 嘉納治五郎は、東大生の頃に二流派の柔術を学んだ時、どちらも言語による指導をせず、「習うより慣れろ」で上達するという認識であることに不満を覚えます。型稽古中心も乱取り中心もありますが、その理論を尋ねても、「稽古あるのみ」と言うだけです。

 そこで、嘉納治五郎は言語による指導を体系化し始めます。技を命名・分類し、その際に禁止技も指定しています。各技を解剖し、力学の重心の考えを導入、相手の体勢を崩してからかけることを理論化します。よく知られる「柔よく剛を制す」はてこの原理の琴です。また、熟達度を段級制によって整理します。さらに、黒帯の誕生です。稽古に蛇竹位湖や乱取りだけでなく、試合形式も取り入れます。

 バレエで言うと、これはクラス・レッスンに当たります。バレエには練習のための練習はありません。練習は舞台で作品を演じるためのものです。舞台で示されるダンスは技の組み合わせです。指導者は、クラスの生徒の間で、即興で技の模範演技を見せます。よい教師はこの組み合わせが巧みです。生徒はそれを模倣しなければなりません。その際、ピアノの安相が奏でられます。これも即興です。また、教師は演じずに、言葉で指示するだけのこともあります。基礎の身についた生徒は何をすればよいかわかっているからです。

 嘉納治五郎は、従来の柔術と区別し、言語によって体系化された柔を「柔道」と命名します。柔術から柔道への進化は暗黙知から明示知への革新です。彼に従うなら、「道」は奥義ではなく、むしろ、言語化=理論化です。明示知にすれば、新たなものと接触した際、それを取り入れて進化することもできます。

 嘉納治五郎は柔道をエリート主義的奥義と捉えず、普及を重視しています。「道」を極めるとは暗黙知を明示知にすることの探求です。明示知ですから共時的・通時的な共通理解が形成しやすくなります。柔道をするには、その言語化された体系を受け入れなければなりません。五輪の金メダリストも白帯も理解を共有しています。それにより量的拡大と質的向上を両立できます。こうした言語化が柔道の国内外での伸長の重要な理由の一つでしょう。

 嘉納治五郎は組織が大きくなり、柔道が勝利至上主義へと矮小化された時に、精神性を説いています。抽象性は具体的な文脈に依存せず、汎用性があります。巨大な組織をまとめるために、理念が必要となります。なお、嘉納治五郎は沖縄空手や合気道の普及にも尽力しています。非常に広い視野を持った人物です。

 日本のバレエは、柔道と同様、明示知の体系を整備しています。世界的に競技人口が多く、国際コンクールで優秀な成績を収めています。牧所長を始め先人の工夫や努力の成果です。しかし、付加価値が十分ではないという課題もあります。それは、牧所長によれば、公演数の少なさとバレエ学校の不在が原因です。実践とコミュニケーションを増やしていくことが必要です。

 以上の通り、牧阿佐美所長のインタビューには示唆に富みます。自らの体験に依拠しつつ、根拠に基づきながら、意見を述べています。それはバレエの指導を思い起こさせます。若者を語るにしろ、教育を論ずるにしろ、奥義に頼るべきではないのです。
〈了〉
参照文献
青山貞文、『舞台芸術の魅力』、放送大学教育振興会、2017年
魚住孝至 、『道を極める』、放送大学教育振興会、2016年
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2008年

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