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酔いどれ雑記 10 サラエヴォのバラ


20代後半は旅をしまくって、35か国くらい行ったのですが、その話をすると「一番いいと思った国は?」という質問の次に訊かれるのが「その中で一番変わった国ってどこ?」ということです。変わった国、というのも色々な意味があるかと思いますが、あんまり観光客が行かないような場所と解釈して「う~ん、ボスニア・ヘルツェゴヴィナかなぁ」と答えるのですが「ああ、内戦があったところね」って返ってくればまぁいいところで「何があるの?何しに行ったの?」「そんな国あるの?」と言われたらどこから話していいのか分からないんですよね......旅の話をするのも聞かれるのも好きなのですが、どうしたら魅力や体験を伝えられるだろうか?って考えてしまうのです。

というわけで、今日は私が15年前にボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都、サラエヴォに行った話です。2泊しかしなかったので大した話はないのですが、それなりに濃い滞在でした。

私は日本から直行便のない国に行くときは、まず経由地で1泊あるいは数泊してから目的地に向かい、復路も同じく経由地で数日過ごしてから日本に帰っていました。私がサラエヴォに行ったときはオーストリア航空を利用し、ウィーンで前後泊しました。ウィーンは何度も行っておなじみで、ある程度土地勘がありますし、知っている街というのは何しろ安心感があります。

それにしてもなぜボスニア・ヘルツェゴヴィナなどに行ったのか?という話ですが、もともと私は東欧が好きで、全部の国をいずれ回る予定でいましたから、なんとなく次はボスニアかなぁ、って感じでパッと決めてしまいました(実際、思い立ってすぐに予約して10日後には出発でした)。子供の頃から地理の図鑑を読むのが好きで、特に東欧、それもユーゴスラヴィアという響きには特別なものがあり、いよいよ子供の頃から憧れた風景にたどり着ける、そんな気持ちでした。

ウィーンにまず着き、荷ほどきした後はすぐに散策しました。ちょうどヨハネ・パウロ二世が亡くなったばかりだったので教会には黒い幕が掛けられ、追悼のミサが行われたりしていましたが、街中はいつも通りでした。ウィーンの中心部はそう広くないし、地下鉄もわかりやすいので方向音痴の私でも安心して歩けます。

↓国立オペラ座付近の環状道路(旧市街をぐるっと一周しています)。やはりウィーンといえばこの赤いトラムの走る風景です。

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この旅はまずウィーンに2泊してからサラエヴォに向かう予定でした。和書ではボスニアの情報はせいぜい地球の歩き方の「中欧」に申し訳程度に載っているくらいで、心もとないので旅行書籍の専門店に行き、購入したのがこちらの地図と本です(ボスニア関連の本はこれ以外には独語で書かれた分厚い歴史の本しかありませんでした)。たった2泊しかしないのだから地球の歩き方だけでもいいや、なんとかなるだろうとも思ったのですが、有益な情報が載っていたので結果的に買って良かったです。

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ウィーン2日目はエゴン・シーレのお墓参りに行きました。その話は先日の「酔いどれ雑記 8」に載せましたのでご興味ある方はご覧ください。

さて、いざサラエヴォに出発です。ウィーンの空港は実に分かりやすく、迷うことはありません。非EU諸国行きのエリアの喫煙スペース(当時は仕切りもなかった......ちなみにオーストリアは世界一喫煙率が高い国だったはず)で居合わせた人と談笑......どこ行くの?と中年のご婦人に訊かれ「サラエヴォです」と答えたら「えっ、サラエヴォ?」ととても驚いていました。そんなところへは旅行で行く人が少ないからでしょうか?

出発ロビーに移動して搭乗の案内を待っているとそこには旅行者らしき人は皆無......。俯いている家族らしき人たち数組、NATO職員の札を首に掛けている人、ジャーナリスト風の集団............。東洋人らしき人すら一人もいない(ここから以後、サラエヴォを発つ日の空港まで東洋人を一切見かけることはありませんでした)。なんだかとんでもないところに行く人の気分になってきました。ウィーンからはわずか1時間ちょいの場所なのに......。航空機に乗り込むと空席がちらほら。私の隣はボスニア語(ボスニア語という表現が適切か否かはここでは論じません)の新聞を読んでいるおじさま。窓の外をずっと見ていると、段々山がちな地形になってくるのがわかりました。

サラエヴォに到着。かなりあっさりとした入国手続きでした。パスポートにスタンプ押されただけ。質問もなし。↓こちらが入国時のスタンプですが見づらくてすみません。詳しい事情等は省きますが、ボスニアではラテン文字とキリル文字が使われているので併記されているのがわかりますでしょうか(日付の下、左側がラテン文字でSARAJEVOと書かれていて、右側がキリル文字でサラエヴォと書かれています)。日本のパスポートの場合、観光目的の短期滞在ならヴィザも不要です。

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外に出る前にしなくてはいけないこと......両替です。ウィーンで買った本には「イラク戦争以来、ボスニアではドルの価値が下がっているから両替はユーロが無難」と書いてありましたしレートを見るとその通りでしたので迷わずユーロを替えました。とりあえず100ユーロだけ。そんなに使うかな?と思いつつ。ボスニアの通貨は兌換マルクです。旧ドイツマルクと等価だったのでこの名がついています。

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普通というか、一般的な観光地ならば空港から中心部に行くには空港バスやらメトロやらありますが、サラエヴォにはそんなものはない!今は知りませんが。移動手段はタクシーしかありませんでした。ここでも事前学習が役に立ちましたーー私はこう見えてもかなりの臆病者ですので、いろいろ用心しておいた方が安心なのです。タクシーにはメーターがないのも普通で、いわゆる白タクも多いけれどほとんどが常識的な値段で行ってくれると例の本には書いてありましたが......大丈夫か!?変なところに連れて行かれたらどうしよう、けどもうどうしようもない、ままよ!と空港の外に出るとタクシーが数台止まっていて、私と同じ飛行機だったジャーナリスト風集団がそのうちの一台に乗り込んでいきました。「空港の外」とは言っても、田舎町のバスターミナルみたいな広さ(狭さ)、雰囲気です。私は乗るしかない......とタクシーに近づき「ホリデイ・インまでお願いします」と言いました。するとドライバーのおじさまが降りてきて荷物を後ろのトランクに入れてもらい、いざ出発です。さぁ、無事に着くことができるでしょうか。なお、東欧の多くの場所ではタクシーは客1人の場合、助手席に乗るという決まり(?)があるのでそれに倣いました(今もそうなんでしょうかね?)。後部座席はドライバーの荷物でいっぱいということも多く、客が2人以上の場合は急いで片付けるという場面に何度も遭遇しました。

助手席に座って、まず目に入ったのはフロントガラスのあちこちにある被弾した痕......蜘蛛の巣状に割れていました。メーターがついてないとかそんなことよりなにより。なんていうか、おお、本当にボスニアに来たんだなぁという緊張感と実感が一気に......。そして灰皿が山盛りになっているのに気づき、このおじさまもきっとヘビースモーカーだろうとにらんだので「煙草吸っていいですか?」と訊いたら無言でどうぞ、とうなずき手を灰皿の方に向けたので「もしよければ、日本の煙草どうですか?」とハイライトを勧めたら「日本?あんた中国人じゃないのかね」というので「日本人ですよー」と答えるとおじさまはありがとうと言って煙草を一本取り、火をつけて、2人でプカプカ...........ああ、なんかこういうの、いいな......と思いました。

どうやら車は無事に中心部へ向かっているようで、ホッとしながらホテルへ着くまでの間、2人でプカプカ......空港から30分くらいでしょうか、ホテルに到着するとちょうど例のジャーナリスト風集団のタクシーも着いたところでした。さて問題の料金は......例の本に載っていた相場通り。おじさまにありがとうと言うとにっこり笑って手を振って去って行きました。

ホリデイ・イン、サラエヴォ。ボスニア戦争勃発時には各国のジャーナリストが詰所としていたホテルです。私はサラエヴォに行くなら絶対にここに泊まりたいと前から思っていました。サラエヴォにはもっと立派なホテルや(宿泊費はホリデイ・イン並でした)、伝統的なボスニア風の雰囲気のよい小さなホテル(安く、なにより旧市街の中にあり観光に便利)もあるのですが、私はホリデイ・インにどうしても泊まりたかったのです。↓こちらの黄色い建物がホリデイ・インです。
※写真はすべてフィルムカメラで撮り、性能の悪いスキャナーで取り込んだものですので画質が悪いです。そして、東洋人女性の一人旅は珍しいのか、いたるところで注目を集めまくり、写真の撮りづらいことったらなかったので、残念なことに適当なものしかありません。

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ここまで書いておいてなんですが、本当は白タク(?)のおじさまと煙草を吸った話+ちょこっとサラエヴォの話をするだけの予定だったのですが、なんだか長くなってしまっています。そもそもこの『酔いどれ雑記』は毎日300字でも書こうという趣旨で始めたはず......でもここで終わるのも中途半端ですので、適当に続けますね。こんな風に旅の参考になることは一切書いていないのが私の紀行の特徴ですのであしからず......。

さすがに(?)この私もサラエヴォには知人はおりませんので、滞在中はずっと一人でした。また、若い(そうです、当時はまだ若かったのです)女性の一人旅にはありがちですが、ナンパをされることも一切ありませんでした。好奇の目を向けられるか、訝しがられるか、空気かのどれかでした。好奇の目はまぁともかく(嫌ですが)、暴言を吐かれたり差別を受けるのは困りものです。一度喫茶店に入ったとたん「チャイナ!」と言われただけですみましたが、当時(旧)共産圏の東洋人の労働者がボスニアに入ってきており、彼らがボスニア人から仕事を奪っていると目の敵にしている人々がいるという話を聞いていたので特に警戒していました。尤も、これといって防衛する方法もないんですけどもね。

画質が悪くて本当に申し訳ないのですが、サラエヴォが盆地だということはお分かりいただけるでしょうか。このように四方、山に囲まれてるのです。

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↓こちらは街のいたるところで見られる、通称「サラエヴォのバラ」。内戦時の着弾痕を赤いペンキで埋めたものです。

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ヘッダー画像はサラエヴォ事件、第一次世界大戦勃発のきっかけとなった、オーストリア大公夫妻が暗殺された現場です。この橋はラティンスキー(ラテン)という名前ですが、ユーゴスラヴィア時代にはなんと狙撃した犯人の名前が付けられていました。

僅か2日の滞在で私が最も切なくなったのはホテルの朝食ルームです。朝食ルームというとどんな部屋を想像するでしょうか?もうそれは物悲しいものでした。旧共産圏のホテルにはよくある、体育館か?というくらい広い部屋に一流レストランのようにビシッとした格好をした男性の接客係が数人いて、客は私のほか男性が一人だけ。シーンと静まり返ってるところにわずかに聞こえる食器の音。そしてもう泣きそうになったのが、皿やスプーン、フォーク等のカトラリーに五輪のマークが描いてあることですよ......。ご存知かと思いますがサラエヴォは1984年の冬季オリンピック開催地です(冬季では共産圏で初)。当時、世界各国から集まる人々のためにあつらえた食器がまだ使われているーーということは90年代前半、ボスニア紛争の際はここを詰所にしていた各国のジャーナリストたちも使ったということです............。なんか、自分がその場にいてはいけないような気がしました。決して好奇心から訪れたわけではないけれど、自分は何しにここに来たのだろう?という気持ちがこみ上げてきて、思わず持っているナイフを落としそうになりました。オリンピックの賑わいも紛争時の緊迫も、この部屋、この食器、給仕たちは見てきたのだと思うと、クラクラしてきました。自分だけよそ者なのは当然ですけれども、よそ者という言葉では表せない感情......孤独ともまた違い、疎外感とは全然違って...........。

五輪マークの入ったお皿やカトラリーの写真を間違いなく撮ったはずなのですが、どうしても見つかりませんでした。ネガはあるのでいつか載せたいと思いますが、こんな写真↓なら見つかりました。ホテルの正面に五輪のマークが刻まれています。

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こちらはホテルの向かいにある、行政評議会ビルです。砲撃の痕がわかりますでしょうか。

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そして、↓こちら、ホテルや行政評議会ビルのある通りは通称「スナイパー通り」。内戦時にはここにいる動くものはすべてセルビア兵の標的にされたことからこう呼ばれています。

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↓こちらはミリャツカ川沿いにある、芸術アカデミーです。

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↓こちらは旧市街です。「東西の交差点」「〇〇の十字路」と呼ばれている街はいくつかありますが(イスタンブルとか......)、サラエヴォは彷徨っていると一体自分がどこに存在しているのか分からなくなる、不思議な街でした。

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2日間、サラエヴォの街を散策したわけですが、地雷がまだ埋まっている恐れがあるからと住民が戻ってこられず、半壊した空き家だらけの一角あり、オリンピックではスケートリンクとして使われていた建物を改装した小さなショッピングセンターのようなもの(小さな商店の集まりで、閑古鳥が鳴いていました)あり、とにかく哀愁が漂っているどころではなく、着いた時から帰る時まで何とも言えないずっしりとくる重みと「なんだかすごいところに来てしまったな」という思いがつきまとっていました。再訪するかどうかはわかりません(したいですが)、けれど行ってよかったと思っています。

これまた見づらい写真で申し訳ないのですが、ホテルの部屋の前から向こう側を撮ったものです。サーカスのテントみたいな屋根がロビーの一部を覆っています。吹き抜けになっていて、ロビーをぐるっと一周囲むように部屋が並んでいます。内戦時のこのホテルについて「まるで巨大で豪華な収容所」とルポルタージュ『サラエヴォ・ノート』でフアン・ ゴイティソーロが書いていましたが......。

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帰りに空港で何か面白いものはあるかなと免税店を見ましたが、コーヒーとその他数品くらいしか売っていませんでした。煙草すらなし。前述の通り、当時はヘビースモーカーでしたし、いつも旅の記念に現地の煙草を買うことにしていましたからがっかりでした。けれどそういうこともあろうかとホテルの売店で3箱買っておいたのです。「ボスニア産で、一番強いのを」と頼んだら↓これが出てきました。行きのタクシーのおじさまが吸っていたのと同じ銘柄です。しかし私の苦手な味でした。日本の煙草でいえばキャビン系......。しかもハイライトを吸っていた私としては強いとは感じませんでしたね。

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ウィーン行きの飛行機を待っている間、ウィーンが恋しくて恋しくてたまりませんでした。ウィーンの空港から中心部行きのバスに乗り、さらに地下鉄に乗って(少々面倒くさいけれどサラエヴォのようにタクシーを使う理由がないですからね......出来るだけ節約したいですし。ウィーンは物価が高い!)、階段を上って自分の知っている場所に出た時の感動といったら......!ああ、わが愛しのウィーン。

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帰りはウィーンで5泊くらいしてから日本へ戻りました。ウィーンは何度も来ていましたので、きまぐれに隣国のスロヴァキアの首都、ブラティスラヴァへ列車でふらっと半日行ってみたりしたけれど(片道2時間もかかりません。なおこの時は2度目の訪問でした)、やっぱり途中でウィーンに帰りたい!ってなるのです。思い入れも思い出もありすぎて、ウィーンは私にとって特別な街の一つです。最後に行ったのはもう9年前。次いつ行かれるかわかりませんが、ウィーンに恥じないような自分を取り戻して、颯爽とケルントナー通りを歩きたいです。

最後に......ボスニア(と、ボスニアを扱った)映画は良作が多いのですが『サラエボの花』は特にお勧めしたい作品です。

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