「どうせ幸せになれない」、自己肯定感の低い私が自分にかけた呪い
「誰でも幸せになる権利があるんだよ」
関連会社の送別会に参加させていただいたとき、退職するメンバーにかけられたその言葉に、まったく関係のない私が号泣してしまった。「誰でも幸せになる権利がある」、その使い古された表現に心からの愛情を感じた。
そして、まるで自分が言われたかのように、心にズシンときた。
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『自分を好きになりたい。 自己肯定感を上げるためにやってみたこと』というコミックエッセイを読んで、唐突にその送別会の場面が思い出された。ずっと心にあったモヤが、このエッセイを読んで形を捉えられるようになったのだ、と思う。
なぜ、「誰でも幸せになる権利があるんだよ」がズシンときたか。それは、自分自身が「どうせ私は幸せになれない」と思っていたからだろう。
著者のぽんさんも自分を好きになれなくて、「どうせ私なんて」と思って生きてきた。それは、小さい頃に母親からやりたいことを「ダメ」と否定され続けたから。そして、「なんでできないの!」「どうしょもない子!」「あんたなんて産まなければよかった」などという言葉を投げかけられ続けてきたから。
私は、社会の目が怖くて「やりたいこと」を我慢し、抑え続けてきた部分はある。しかし、親からここまでひどい恫喝をされたことはない。
しかし、ぽんさんは「辛いことまで人と比較しなくていいよね」と言っている。そして、同じ経験をしても、心が傷つきながらも笑顔でいる人がいるし、思いっきり落ち込んで動けなくなる人もいる。つまり、経験からどのようなダメージを受けるのかは人次第。
だから、たとえ虐待やネグレクトを受けたわけではないとしても、自分がダメージを受けたという事実は事実として受け止めていい。というか、受け止めるところからはじまるんだろうと思う。
ぽんさんは、自分を受け止めた後に、子どもの頃の自身と対話して「これをしたかったけれど、止められてできなかった」「あれが欲しかったけれど、似合わないと言われて諦めた」「こんなこともできない自分はダメなやつだと思った」ということを一つずつ実践して解決していった。
子どもの頃の自分の最大の味方になることで、少しずつ自分のことを見直していったのだ。
最初は誰かに言われたトゲが、その後自分で自分に呪いを掛けていくことにつながるという法則に気づく…。「どうでダメだ」「どうせかわいくない」「どうせ幸せになれない」、そうした呪いは自分が掛けていたのだとわかったのだ。
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以前、大学入学時はじめて上京した友人に、「まったく知り合いもいない状態で出てくること、怖くなかったの?」と尋ねたことがある。そして彼女は、「うーん。まぁ心配はあったけれど、一番の味方である自分がいつも一緒にいるから大丈夫って思っていた!」と答えた。あまりに衝撃だったので忘れられない。
自分に対して「どうせダメだ」と自分の最大の敵になるか、「どこにいっても自分と一緒だから大丈夫」と最大の味方になれるかで、幸せの充足度がまったく違うように思う。それに、「自分がいれば大丈夫」って、究極的にどこでも生きていける無敵の存在だ。
「誰でも幸せになる権利があるんだよ」
今私は、その言葉を心から信じてみたいと思う。そして、「どうせ私なんて」と自分を呪うのではなく、「どこに行っても私がいるから大丈夫!」と思って生きていきたい。
たぶんお金持ちになるよりも、イケメンにちやほやされるよりも、美味しいものに埋もれるよりも、ずっとずっと私を幸せにするために必要なことだと思う。
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