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教育虐待を考えてみた。

おおたとしまささん著の『教育虐待』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んで、心がキリキリとした。なぜか。それは親に加害者意識がないままに、むしろ「よかれ」と思って、子どもが深く傷つけられているから。
親が「愛」の名の下に子どもを追い込んでいる現実に、その問題の深さと残酷さを感じずにはいられなかった。簡単には解決しない。せめて、今思うことを書きとめようと思う。

◆子どもにも差異がある

「この勉強法で東大に入りました」

テレビ番組がこんな話題で盛り上がっているのを見ると、顔がこわばる。また安易な勉強法に飛びつく親があふれるかもしれない。
飛び道具的な学習の成功法はその子にとっての成功法であり、万能なものではない。当たり前の話だが、子どもの特性によって向き不向きがある。

大人は自分たちの差異は容認しているのに、子どもたちの差は心穏やかに受け入れられない。
「私は事務処理が苦手。あなたは得意でいいよね〜!」
「人前で話すのは緊張するな。あの人、全然緊張しないよね」
そんな人間的な差があることを子どもの話になると忘れてしまう大人が多いのはどうしてだろう。

ひとつの勉強法で効果が出る子もいれば、出ない子もいる。理由はその子が怠けていたからではなくて、人間だからだ。

◆教育虐待は「子どものため」から生まれる

おおたとしまささんの『教育虐待』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んだ。

私は以前、「親以外の大人が、できることは?」 というnoteを書いたが、ここで目の当たりにしたのもいわゆる教育虐待だったのではないかと思い返していた。

私のnoteでは、親を責めるのではなく、他人である私たちができることは何かを考えたいと締めた。なぜならば、「親は子どもを虐待したいと思ってしているわけではない」「親もギリギリの精神状態だ」と感じたからだ。

『教育虐待』のルポには、私の想像どおり自身も追い詰められた親たちが登場した。でも、それだけではない。多くの親が、「子どものため」と信じ、その結果、子どもを追い詰めていた。
子どもへの「愛」が「虐待」に変わる瞬間がある。それを思うと、私は人間という生き物が恐ろしくなる。

◆なぜ愛は条件つきになるのか?

最近、甥っ子が生まれた。親族一同からの、問答無用の猫かわいがり状態 が続いている。「なにができたから」かわいがっているわけではない。ただただ、存在してくれることに感謝し、同じ時間を過ごせることを幸福に感じる。

おそらく、ほとんどの親が子どもが生まれた当初はそうした感情を抱いているはずだ。しかし、いつからか愛情が条件つきとなっていく。

「◯◯ができたら」
「◯点とったら」
「◯◯学校に入ったら」

そして、子どもはこうした条件つきの愛情を敏感に感じ取り、親に嫌われないように必死で勉強をする。『教育虐待』には、その果てに、摂食障害や非行に陥り、自殺を選んだ子についても語られた。

「ただただ生きているだけで嬉しい」という気持ちをなぜ親は忘れてしまうのだろう。なぜ愛は条件つきのものへと変容していくのだろう。
それは、親自身が自分のことを「ただただ生きているだけで価値がある」と思えていないからなのかもしれない。

◆教育虐待はどの家庭でも起こりうる

教育虐待は、親の子に対する期待に起因する厄介な問題だ。

そして、親が子どもに期待することはごくごく一般的な話で、それだけならばむしろ子どもの成長にとってプラスの方向に進むこともある。

まずは期待が虐待に変わる可能性があるということをすべての人が知っておくことが必要だろうが、その上で親は何をできるのか。

 おおたさんは、本書の最後に「いっしょにオロオロするだけでいい」と伝えている。

親も子も人間同士。
”わからないね、どうしようかね、心配だね、でも、生きているからせっかくだから挑戦して人生を楽しもうか。”
そんなふうに、オロオロしながら、支え合って歩いていけばよいのかもしれない。

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