見出し画像

インドネシアの孤児院の子どもたち

いま、ライターとしてモンゴルのマンホールチルドレンの話を紐解いている。だいたい1ヶ月に1冊本を書くのがブックライターとしての私のペースだが、この書籍は編集者さんと話し合いを重ね、じっくり時間を取らせてもらった。何度も何度も書いては消し、書いては消ししている。それは、子どもたちの表情やそこにあるだろう心を少しでも確信を捉えた表現で伝えたいからだ。
この挑戦はとても難しいものだけれど。なんとか無事に原稿のゴールを迎えた暁には、また丁寧にnoteを書かせてほしい。

マンホールチルドレンの話と向き合う中で、どうしても書きたくなってしまったことがある。4年前インドネシアでの孤児院「Bukit Karmel」での1ヶ月泊まり込みで行ったボランティアの経験だ。
マンホールチルドレンのインタビューをスタートした時、どんなに荒んだ子どもたちの話が登場するんだろうと私は思っていた。しかし、話に出てくる子どもたちは、すごく人懐っこくて、優しかった。
インドネシアでの孤児院でもまったく同じことが言えた。

私は、孤児院に行く前にビクビクしていた。
「けっ。日本でのうのうと暮らしているお前になにがわかるんだよ」とか、
「ヘラヘラしてんじゃないねーよ。気軽に話しかけるなよ」とか、
そんなことを思われるんじゃないかと怯えていたのだ。私の想像力はひどく乏しかった。
直前になると、孤児院で暮らす子どもたちに対して、「ふつうに」平和で、「ふつうに」家族がいて、「ふつうに」学校に通って、「ふつうに」ゴハンを食べている自分に罪悪感すら覚えはじめた。
真実を知らなければいけないような気がして、好奇心だけで機会に飛びついた自分を責めはじめてもいた。「本当に私なんかが行っていいの?」、子どもたちと会うその瞬間まで。

◆私の存在も意味がある

実際に会う孤児たちは、私の想像とはまったく違っていた。
孤児院に着いた瞬間に、子どもたちに囲まれた。そして私の両手は奪い合いになった。ボランティアといっても、自分にできることは少ない。孤児院のスタッフは別にいるので、彼らの生活のサポートは事足りているのだ。
「なにをしたらいいのだろう?」と到着前にはモヤモヤしていたが、実際にいってみると、子どもたちから次から次へとオーダーが来た。暇を持て余すようなことはなかった。
彼らは、「大人に遊んでもらう経験」がほとんどなかった。だから、日本人の私たちは彼らと遊ぶ珍しい大人となること=ボランティアだった。

子どもたちが知っている遊びは少ないので、日本から持って行った遊びを毎日いろいろ行った。例えば、長縄跳び。一本の縄さえあれば延々にできるので、その後も子どもたちのよい遊び道具になった。
ちなみに、インドネシアで長縄跳びという遊びはないらしい。保育士さんや小学校の先生など、たくさん子どもたちが喜ぶ遊びを知っている方が来てくれれば大活躍だろう。

他にも、折り紙をしたり、女の子と日本の雑誌を見てキャッキャしたり。
一緒にカレーを作ってもりもり食べてくれる姿や、スーパーに買い物にいったりすることも、子どもたちにとっては新鮮だった。
生活のサポートはスタッフがする。お金で雇われているスタッフなので、子どもが「家庭」の中のように料理をお手伝いすることはできない。スタッフも、子どもたちとコミュニケーションを取りながら料理をする余裕を持ち合わせていない。
また、子どもたちは学校以外に外に出ることはほぼない。スーパーで買い物する経験もほとんどないが、孤児院を出て自活するようになれば当然ひとりで買い物をしなければならない。日常的な生活力を鍛える機会がなく、孤児院を出てもひとりで生活できないという、負のサイクルに陥ることも少なくない。孤児院では、「普通の暮らし」をなかなか経験できない。
「スーパーなんてスタッフが連れていけばいいじゃないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、スタッフはギリギリの人数で業務を回している。子どもたちをスーパーに連れて行くとなれば、人数も時間もかけなければならない。スタッフには、その余裕がない。
だから、「大人と一緒にスーパーに行く」という経験は子どもたちにとってスペシャルなものだった。

当時、心が折れて会社員を辞め、ほぼほぼ無職状態だった私は「自分にできることなんてなにもない」とすぐに思う傾向があった。
しかし、こうした子どもたちと一緒にいることで、自分にもできることがあると少し思うことができるようになっていった。ほんの小さなことであっても、人から必要とされる経験は、生きる勇気になるということを、子どもたちから学んだ。

◆それぞれの子どもたちが抱えた物語

孤児院の子どもたちには、それぞれが抱えている物語があった。ボランティアリーダーがオーストラリア人だったために、残念ながら私の英語ヒアリング力では断片的にしか理解できなかった。
しかし、それでも子どもたちの経験してきた物語を聞くと、心が痛くて、苦しくなった。

彼は、河原で警察に保護されて、孤児院に連れてこられた。孤児院に来る前は、母親と2人暮らしをしていた。しかし、貧しさからか母親は精神を患い、彼に悪魔が宿っているという幻想を抱きはじめる。そして、事件が起きる。
母親は、河原で穴を掘り、彼をそこに落とし、上から土をかけはじめた。息子を生き埋めにしなければいけないと、狂った強迫観念にとらわれていた。
彼は半分埋められた状態で、救出された。もう少し警察が駆けつけるのが遅ければ、彼の命はなかっただろう。

彼とは孤児院で毛糸と折り紙でブンブン駒を作って遊んだ。そして、こんなふうにおちゃらけた笑顔を見せてくれた。

孤児院には、こんなに小さな赤ちゃんもいた。「産まれたての子が孤児院に預けられたの?」と尋ねると、「この子の母親は、妊婦の状態で孤児院にきたのだ」と教えられた。どうしてその母親がひとりで孤児院で出産することになったのか、その理由は語っていなかったけれど、かわりにインドネシアという国の状況を伝えてくれた。
インドネシアは人口の80%以上がイスラム教徒の国だ。宗教の影響もあり、女性が低い地位に置かれている。だから、望まぬ妊娠をする女性があまりにも多いのだという。そして、女性一人で産んでも育てていく経済基盤がないために、子どもを手放す母親もいる。

妊娠した状態で孤児院に来て、そこで出産。そして自身の赤ん坊を里親に出した女性が、そのまま孤児院のスタッフとして働き続けているという話も聞いた。彼女は、どんな思いで自分の赤ん坊を見送ったのだろう。そして、どんな思いで目の前の孤児たちと向き合っているのだろう。

右側の少年は、孤児院で一番学力が高い子だった。英語も少し話すことができるので、言語的なコミュニケーションを取ることもできた。彼は学校の成績もよく、将来は宇宙飛行士になりたいと私に語ってくれた。

彼が孤児院に来た時、顔が腫れ上がり、今とはまったく違う状態だったという。親に虐待されて、ひどく殴られた状態で保護されたのだ。

孤児院の子どもたちがお菓子を食べられる機会は多くない。彼は、イースターでもらったお菓子を握りしめて、「ともはもらってないの? じゃあ、これあげるよ」と私にキャンディをひとつくれた。私はそれを握りしめて、動けなくなった。彼は優しさを分けることをどこで学んだのだろう。

◆答えが出ない

私は、あれからインドネシアにいけていない。1ヶ月まるまる休めるというタイミングがない。WiFi環境も悪いので、向こうで仕事というのもなかなか難しい。(もしかしたら、数年で大幅に改善されたかもしれないけれど。)
でも、そんなことは言い訳なのかもしれない。

4年前、私は彼らの存在を知り、そこから今の私にできることは何かないのだろうかと考えあぐねてきた。しかし、結果はどうだ。一度も子どもたちのもとを訪れることができていない。

世界には私たちには考えられない境遇の子どもたちがたくさんいる。世界どころか、日本においてもあまりにも辛い状況に置かれている子どもたちはいる。
その子どもたちが「生きていても悪くないな」と思える社会にしていくにはどうしたらいいのだろう。少しでも前に進むために、今回noteに私の経験を記してみることにした。小さな小さな一歩だけれど。


いつもありがとうございます!スキもコメントもとても励みになります。応援してくださったみなさんに、私の体験や思考から生まれた文章で恩返しをさせてください。