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【考察】村上春樹『ノルウェイの森』はなぜ売れて、なぜ難しいのか、そしていつ読むべきなのか。

・『ノルウェイの森』って有名だけど本当に面白いの?
・そもそも『ノルウェイの森』ってなんで有名なの?
・実際のところどんなタイミングで読むべきなの?

村上春樹作品の中で最も売れた小説、そして最も有名な小説である『ノルウェイの森』を紹介していきます。

この『ノルウェイの森』という小説は、村上春樹の中で最も売れた小説として認知されていますが、その人気も災いし、村上春樹のイメージをちょっと悪くしかねない悪名高い小説と捉える人も少なくないでしょう。そうなんです、この小説は日本でも相当売れた小説なのに、とっても不思議な小説でもあります。

その理由はなぜか。またなぜそもそも1000万部という驚異的な売り上げを獲得したのか。

なぜ『ノルウェイの森』のキャッチコピーは「100パーセントの恋愛小説」なのか。

そして『ノルウェイの森』はどのタイミングで読むのが適切なのか。

頑張って解説してみたいと思います。

先にお伝えしておくと、『ノルウェイの森』は個人的にも非常に好きな作品。間違いなく5回~10回は読んでいます。毎年寒くなりそうな時期に読みたくなるのです。

また村上春樹作品は他にも解説しているので、よかったら下記作品も覗いてみてください!

1,あまりにも売れすぎた『ノルウェイの森』

まず基礎情報から整理していきましょう。作品数が多い作家さんなので、今まで書いてきた他の小説と比較して、どのような立ち位置なのかも記載しております。ある程度、背景を理解した方が間違いなく読みやすいので、ぜひ読んでみてください。

さて、『ノルウェイの森』が発売されたのは、1987年9月4日。講談社から発売されています。村上春樹の中では5作目の長編小説です。村上春樹がデビューしたのが1979年なので、デビューしてから8年が経過し、ある程度職業作家として生活リズムが固まってきた頃の小説です。実は村上春樹って朝5時くらいに起きる&毎日ランニングで10キロ走る、タバコも吸わないというスーパー健康人間なんです。

この村上春樹の完璧すぎる生活リズムが生まれたのが、1982年に生まれた『羊をめぐる冒険』あたりなので、村上春樹の作家人生の中でも、最も健康的で、かつ何のしがらみもなく小説に打ち込めたのがこの時期だと密かに思っております。また執筆場所も日本ではなく、ギリシャとイタリアで書いたみたいです。やれやれ。

そんな『ノルウェイの森』ですが、なんと言っても売り上げがすごい。国内累計発行部数は1000万部を突破。上巻は、片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』に抜かれるまで、日本における小説単行本の発行部数歴代1位を記録していました。

なぜそこまで売れたのでしょう。私が生まれる前の話なので正直憶測なのですが、想定できる理由は下記の4点。

・「100パーセントの恋愛小説」という時代とマッチしたキャッチコピー
・赤と緑というクリスマスカラーのお洒落な装丁
・「ノルウェイの森」というビートルズ好きにはたまらないタイトル
・前作で読売文学賞を受賞し最も期待値が高い時だった

中でも印象的なのは「100パーセントの恋愛小説」という村上春樹自身が考えたキャッチコピー。

赤と緑の装丁と相まって非常に美しいですよね。また当時はバブル景気が始まり日本経済の絶頂期。大企業にはお金が潤沢にあり、テレビも今と違ってやりたい放題。日本人が一番元気だったのはおそらくこの頃。また今のような草食系男子なんて知らないかのように、恋愛も相当張り切っていたことでしょう。

そんな時代にこのキャッチコピーとカラフルな装丁。かなりイケてますよね。当時の小説の装丁はこんなにカラフルではないですし、今でも赤と緑の小説は普通に目立ちます。またこの作品は恋愛小説。時代のニーズとも非常にマッチしています。

しかしです。『ノルウェイの森』で繰り広げられているのは、非常に哀しく、静かな恋愛。そしてちゃんと読み解かないといけない複雑な小説なのです。「恋愛小説だ!」「村上春樹って人気みたいじゃん!」って買ってみたものの、その内容は非常に高度な純文学。

そのため、このお洒落な装丁&キャッチコピーと内容とのギャップにより、「村上春樹って何が言いたいのかわからん」「セックスの描写が多い官能小説じゃん」「こんなジメジメした小説のどこが面白いの」って人が続出。

マーケティング(収益が上がったという意味で定義)としては大成功したのですが、本人としてはこのように述べています。

「小説が十万部売れているときには、僕はとても多くの人に愛され、好まれ、支持されているように感じていた。でも『ノルウェイの森』を百何万部も売ったことで、僕は自分がひどく孤独になったように感じた。そして自分がみんなに憎まれ嫌われているように感じた。」

本を売るのって非常に難しいですね。。

2,なぜ100パーセントの恋愛小説なのか

このようにお洒落な装丁とキャッチコピーや、広告宣伝などにより非常に売れた『ノルウェイの森』ですが、「100パーセントの恋愛小説」って結構意味深なフレーズですよね。「100パーセントってなんだよ。。」って思いません?

このキャッチコピーは村上春樹自身で考案されたもの。また元々は違うキャッチコピーを考えていたそうです。それがこれ。

『これは100パーセントのリアリズム小説です』

ノルウェイの森を読んだことがない人はチンプンカンプンだと思いますが、ある程度村上春樹を読んだことがある人は納得のキャッチコピーだと思われます。ただ、これだとあまりにも大衆受けしないので、村上春樹自身で「100パーセントの恋愛小説」に変更したそうです。
※『夢のサーフシティー』朝日新聞社、1998年7月、読者&村上春樹フォーラム93(1997年10月27日〜10月30日)

では「100パーセントのリアリズム小説」とはどういう意味か。結論からお伝えすると、「ノルウェイの森は今まで書いてきたファンタジー要素が強い作品とは違い、100パーセントのリアリズムで書いて、徹底的にセックスと死についてに言及しますよ」って意味だと思っています。

この証拠に、『村上春樹全作品1979~1989⑥ノルウェイの森』の別添冊子「自作を語る」で下記のような文章を残しています。

『ノルウェイの森』を書くときに僕がやろうとしたことは三つある。まず第一に徹底したリアリズムの文体で書くこと、第二にセックスと死について徹底的に言及すること、第三に『風の歌を聴け』という小説の含んだ処女作的気恥ずかしさみたいなものを消去してしまう「反気恥かしさ」を正面に押し出すこと、である。

「全然、100パーセントの恋愛小説じゃないやん。。」と思ったそこのあなた。半分正解で半分違います(笑)。あらすじは後ほど記載しますが、このお話は「恋人の死」や「恋人とのセックス」「残された恋人の心情」に対して、リアリズム(ファンタジー要素なし)で語ってくる小説。ちゃんと恋愛小説としての役割は十分果たしていると思われます。

ただ村上春樹の思惑に対して、大衆は想定外の受け取り方をしてしまったことは事実だと思います。また普段から小説を読まない人にとって、ここまで察した上で読むのも非常に酷ですよね。。

このように『ノルウェイの森』は、キャッチコピーや認知度、また村上春樹しかできない読みやすすぎる文体(あえてこう表現します)など売れる要素は完璧なのに対して、ストーリーは頑張って理解しないといけない複雑な構成なので、買ってみたものの「何が言いたいのかわからん。。」ってなる典型的な小説なのです。

3,あらすじ:セックスと死について徹底的に言及した恋愛小説

それではあらすじを解説していきましょう。今回もWikipediaのあらすじをちょっと改良してお届けしております。

またここから先はネタバレしているので、もしネタバレをしたくない人は、あらすじの部分は読まない方が良いかもしれません。ただ『ノルウェイの森』の場合は、ある程度あらすじを知っていた方が読みやすくなりますし、結論を知っていたとしても十分楽しめますよ!

●上巻(プロローグ)
0, 主人公のワタナベは37歳。ハンブルク空港に到着した飛行機のBGMでビートルズの「ノルウェイの森」を聴き、激しい混乱を覚えた。そして学生時代のことを回想する。
1, 直子とはじめて会ったのは神戸にいた高校2年の時。直子はワタナベの友人でありキズキの恋人。
2, ワタナベ、スズキ、直子の3人はよく遊んだが、キズキは高校3年の5月に自殺。その後、ワタナベはある女の子と付き合ったが、彼女を置いて東京の私立大学に入学し、右翼的な団体が運営する学生寮に入った。
  
●上巻(1968年)
3, ワタナベは、中央線の電車の中で直子と1年ぶりの再会。直子は武蔵野の女子大に通っており、国分寺のアパートでひとり暮らしをしていた。二人は休みの日に会うようになり、デートを重ねた。
4, 10月、同じ寮の永沢と友だちになる。永沢は外務省入りを目指す2学年上の東大生。ハツミという恋人がいたが、女漁りを繰り返す。

●上巻(1969年)
5, 4月、直子の20歳の誕生日に彼女と寝た。その直後、直子は部屋を引き払いワタナベの前から姿を消す。
6, 7月、直子からの手紙が届き、京都にある(精神病の)療養所に入っていることが伝えられる。
7, 夏休みのある日、小さなレストランで同じ大学の緑から声をかけられる。演劇史のノートを貸したことがきっかけで、それから緑とときどき会うようになる。
8,直子から手紙が来て、ワタナベは京都の山奥にある療養所まで彼女を訪ねた。そして同室のレイコに泊まっていくよう勧められる。

●下巻(1969年)
9, ある日曜日、ワタナベが緑に連れられて大学病院に行くと、そこでは彼女の父親が脳腫瘍で入院していたが、父親は数日後に亡くなった。
10, 永沢は外務省の国家公務員試験に受かり、ワタナベはハツミとの就職祝いの夕食の席に呼ばれる。
11, ワタナベの20歳の誕生日の3日後、直子から手編みのセーターが届いた。冬休みになり、再び療養所を訪れ、直子、レイコと過ごす。

●下巻(1970年1月~6月)
12, 学年末の試験が終わると、ワタナベは学生寮を出て、吉祥寺郊外の一軒家を借りた。
13, 4月初め、レイコから直子の病状が悪化したことを知らせる手紙が届いた。
14, 6月半ば、ワタナベは緑から2か月ぶりに話しかけられ、恋人と別れたことを報告される。ワタナベはレイコに、全てをうちあけた正直な手紙を書く。

●下巻(1970年8月~)
15, 8月26日に直子は自殺。葬儀の後でワタナベは行くあてもない旅を続けた。1か月経って東京に戻ると、レイコから手紙が届いた。
16, 彼女は直子の遺品の服を着ていた。風呂屋から戻ると彼女はワインをすすり、煙草を吹かしながら直子の葬式をやり直そうと言い出す。
17, 50曲目に2回目の「ノルウェイの森」を弾いた。そのレイコとワタナベは性交をして、直子の葬式を終える。
18,翌日、旭川に向かうレイコを上野駅まで送った。ワタナベは緑に電話をかけ、「世界中に君以外に求めるものは何もない、何もかもを君と二人で最初から始めたい」と言う。

いかがでしたでしょうか。あらすじだけを読むとかなり重たいですよね。またセックスの描写もかなり多いですし。前述にも書きましたが、この小説は「セックスと死について徹底的に言及した恋愛小説」です。

「小説とかは読んだこともなけど、有名作だし、恋愛小説だったらちょっと読んでみようかな〜」って思った当時の人は、相当頭の中が混乱したことでしょう。

下記から具体的な解説に入っていきますが、『ノルウェイの森』に関しては主題(テーマ)が結構多いです。なので今回は名フレーズを引っ張ってきて、「死」「恋愛」「成長」という角度から解説していこうと思います。

【死】:死は生の対極としてではなく、その一部として存在している

まずは「死」について。おそらくこのフレーズは『ノルウェイの森』の中でも最も有名なフレーズではないでしょうか。このフレーズは作中で唯一太字で書かれています。いわば一番注目して欲しいフレーズ。しかし読んだこともない人にとっては、何が言いたいのか全くわからないですし、一度読んだだけでもわかりにくいフレーズでしょう。

ではこのフレーズはどういう意味か。理解するために、このフレーズの前後を振り返っていきましょう。

まず1回目。文庫本の53~54ページの前後を振り返ってみましょう。これはスズキが自殺した後、ワタナベが思ったことを述べていくシーン。

東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかった。あらゆる物事を深く考えすぎないようにすることーそれだけだった。<中略>しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気の固まりのようなものが残った。<中略>僕はそのかたちを言葉に置き換えることができる。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

<前略>文鎮の中にも、ビリアード台の上に並んだ赤と白のボールの中にも死は存在していた。<中略>その時まで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えていた。<中略>しかしスズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。<中略>生のまっただ中で、何もかも死を中心にして回転していたのだ。

このnoteを読んでいるみなさんは「大切な人を失くした経験」はありますでしょうか。私も知人や祖父などを「失くした」経験があるのですが、そのような時は、その人の記憶だったり、思い出だったりが妙にこびりついたりしませんでしたか。

このシーンで言いたいのはそういうこと。その人が死んでしまい、この世界からいなくなってしまう(対極に行ってしまう)ことがあったとしても、残された人々の記憶の中には、その人が生きていた記憶が「その一部として」一生残り続けるのです。

村上春樹は『ノルウェイの森』に関して次のように述べています。

「この話は基本的にカジュアルティーズ(犠牲者たち)についての話なのだ。それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話であり、あるいは僕自身の中で死んで失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話である」
※『村上春樹全作品 1979〜1989』第6巻、付録「自作を語る」。

そうです。主人公であるワタナベトオルは、本作でいう「この世界に残された側」の人間。そして『ノルウェイの森』は大切な人がどんどん失っていく中で、ワタナベトオルはどのように考え、次に進んでいくのか、というお話、としても捉えることができます。

【恋愛】:直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

お次は「恋愛」に関して。こちらのフレーズも冒頭から抜粋しています。

こちらも前の文章を見てみましょう。文庫本の22〜23ページ。

何故彼女が僕に向かって「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうことを。だからこそ彼女は訴えかけなければならなかったのだ。

「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。

そう考える僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。

どうでしょう。こちらもネタバレになってしまい恐縮ですが、ワタナベは直子のことを愛していました。しかし、この小説から察するに、ワタナベと直子で「愛すること」の定義が違っていたのかと思います。詳しく解説していきましょう。

まず前提として、直子は亡くなったスズキのことをずっと引きずっています。無理もありません。直子とスズキは3才の頃からずっと一緒に遊んでいて、今までずっとお互いのことを理解し合っていた関係です。いわば恋人以上の関係ですし、お互いが未熟なところも補完し合う完璧な恋愛をしていました。またそれはワタナベも知っている内容です。

ではなぜワタナベは、わざわざ「愛してさえいなかった」ことにたまらなく哀しくなったのでしょうか。

これは私の仮説ですが、、

ワタナベは、自ら直子を愛するためにできることは「与えること」「救いあうこと」「直子が回復こと待つこと」と思っていた。そしてワタナベなりに与え続けていた。しかし直子はワタナベに対して、自ら与えられるものが何もなく「公正さ」にかける。だからこそ直子はせめて「忘れないで」と言ったことを、ワタナベは悟ったため。
※公正さ=かたよりがなく正当なこと。

だと思っています。引用した文章だけを読むと、直子が「そのうち忘れてしまう」と思われたことにワタナベががっかりした、と読めると思いますが、全文読んでみると、その解釈だと明らかに違うように思えます。

この本を読んで学べるのが、恋愛は「与える」だけではダメなんだということ。同時に「弱み」を見せて、お互いが補完し合わないといけないんだと。直子には自身の現状から、ワタナベとお互い補完し合う関係ができないことを悟っていたし、ワタナベは今になって直子の気持ちに気づいたんじゃないかと思います。

文脈をわかりやすくすると、ワタナベは、自身が考える「愛する」を実行し続けたが、直子の「愛する」と定義が根本的にずれていた。そして「忘れないで」の一言でそのことを悟り、たまらなく哀しくなった。

直子が自殺した理由も、この本でいう「公正さ」が保てないと悟ったためじゃないでしょうか。そしてスズキの元にいけば、またお互い弱みを補完できる「公正さ」が保たれた恋愛ができると思ったため、だと私なりに解釈しています。
※「公正さ」というキーワードは、直子がワタナベに送る手紙で出てくるワードです。

恋愛って本当に難しい、、「与える」だけじゃダメなのです。男性は特にそうなりがちだと思います。お互いが弱みを理解して、一緒に支え合う。そういう間柄こそが直子でいう「愛する」だったのではないでしょうか。

【成長】:もっと成長して大人になりなさい。

3つ目はこのフレーズ。亡くなった直子の葬式を二人きりでやった時後に、レイコが言ったフレーズ。全文を載せるとこんな感じ。

「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生を通してずっと感じ続けなさい。そしてもし学べるものがあるのなら、そこから何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしのつかないことになるわよ。だから辛いだろうけど強くなりなさい。もっと成長して大人になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまで来たのよ。はるばる棺桶みたいな電車に乗って。

さすがレイコさん。非常に含蓄のある言葉ですね。スズキや直子が死んで絶望に感じたとしても、またワタナベの人生は続いているんです。

そしてその痛みはワタナベしかわからない。いかにワタナベが痛みを感じようとも、周りの人間には関係のないこと。残された人間は痛みをずっと抱えながら、そしてその痛みから学びながら生き続けなければならない。

村上春樹は『ノルウェイの森』に対してこのように語っています。

この小説はあえて定義づけるなら、成長小説という方が近いだろうと僕は思っている。僕が結局のところ、『ノルウェイの森』という小説を、当初の予定通り軽い小説として終えてしまうことができなかったのは、それが原因である。ある程度書き進んでいくうちに、「これをこのまま途中で放り出すことはできない」という思いが自分の中でたかまってきたのである。

私も『ノルウェイの森』は恋愛小説というよりも成長小説かと思っています。

おわりに:『ノルウェイの森』は大切な人を「失くした」時に読むべき作品なのかもしれない

以上、『ノルウェイの森』の解説でした。少しばかり保険をかけますが、『ノルウェイの森』はストーリーが難解なため、いろいろな解釈が繰り広げられる作品。教授や読書家の方が頑張って自分なりに解説しています。私もその一部でしかないですし、私の解釈も1意見として捉えてくれたら幸いです。

実際にどの解釈や解説も非常に面白いですし、この解説を読んだ人は下記の解説本を読んでみるとさらに『ノルウェイの森』『村上春樹』の奥深さに気付けるかと思います。

そしておわりにお伝えしたいのが、『ノルウェイの森』は大切な人を「失くした」と時に読む作品なのかもしれない、ということ。

人生を生きていれば誰しもが、両親や恋人、友人を失う経験がやってきます。そんな中、大切な人を失くした痛みから何を学ぶのか、そしてその後どのように生き続けるのかを考える。その人達の死は、生の対極としてではなく、その一部として存在している。そのように残された人々は生きていかないといけない。

中には弱くなってしまう人もいるでしょう。そんな中、その「弱さ」を支え合うことが「愛する」なのではないかと、考えさせてくれる一冊なのではないでしょうか。

小説の価値を感じてくれる人が、一人でも増えてくれたら幸いです。

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