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こんにちは。satomiです。 このnoteは、80代の母の文章を代筆しています。 …

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こんにちは。satomiです。 このnoteは、80代の母の文章を代筆しています。 母は、長年看護師として働いてきました。 家庭のことをしながら夜勤をして、精神科の患者さんに寄り添い、70代まで看護師人生を走ってきました。 そんな母が書いた文章が大変面白いので見てください。

最近の記事

風評の中の二年生

1945年8月、4年近く続いた太平洋戦争が終わる。その時私は、国民学校(後の小学校)の二年生であった。 終戦直前の戦況や、戦争終結に至る経緯などまったく知らないまま、大人たちが混乱する様子を見、聞きして、私たちは不安だけをつのらせていたように思う。 なかでも、『アメリカ兵が攻め入ってきて、女、子どもをなぶり殺しにする』という話はいち早く広まり、1人で外が歩けないという友達が増えはじめた。 その年の2学期は、10日ほど遅れて始まったか、もう隊列を組んでの登校は無くなり、決まった

    • 疎開もん

      ウクライナに向けてロシアの軍事侵攻が始まってから、一年三か月が過ぎた。美しい街が次々に爆撃され、犠牲になった市民の数はすでに七千人を超えたという。  いまだに終わりの見えない消耗戦が続き、現在、数百万のウクライナ人が国内外への避難を余儀なくされ、右往左往していると聞く。  テレビに映し出される惨状を見ていると、かつて日本も第二次世界大戦の後半、日夜を問わず何百機という「B29」が本土上空に襲来し、つぎつぎに街を破壊したことが甦る。 昭和十九年の年明け早々、主たる都市に学

      • それぞれの折り合い

         東京に住んでいた私たち姉妹は昭和十九年一月、京都、亀岡に住む母方祖父母のもとへ疎開をした。  祖父母には、母の下に三人の息子がいるが次々に出征し、家には長男の嫁(私たちにとっては義叔母)と三歳になる男の子がいた。  一度に増えた二人の娘に戸惑うことも無く、みなは穏やかに迎えてくれる。  空襲警報が鳴り響き灯下管制がしかれて、戦争はここにも色濃くあったが、それでもまだまだ気持ちに余裕がもてた。  その年の四月に、私は村の国民学校に入学する。やはり姉と一緒にいることが私を心強く

        • コロラドの月

           太平洋戦争が終って三年が経ったころでも、世の中はまだまだ疲弊していた。そんななか、帰還兵として戻ってきた二番目の叔父は、以前の職場に復帰できず祖父が始めた二反ばかりの田畑で農業をしながら村の山仕事についた。戦争で多くの若者を失った村の山は、荒れ放題である。  叔父の仕事は冬から春にかけて雑木を間引き、山の下草を刈りして、赤松の根元に風と日光を当てることであった。そうして赤松林を甦らせ、秋には松茸が生える土壌を作るのである。  間引いた雑木は束にして薪にするが、枝先や葉はその

        風評の中の二年生

          義叔母の戦争

          昭和19年1月、東京に住んでいた私たち姉妹は、母方祖父母の住む篠村に疎開をした。 祖父母には母のほかに、3人の息子がいる。当時は、みな出征中で家には長男の嫁、私とっては義叔母と3歳になるその息子がいた。義叔母は物静かな人で、何のわだかまりもなく、すぐに私たちを迎え入れてくれた。 祖父母の家はもともと米屋を営んでいたが、統制販売店の枠にもれて廃業、2年前より、見よう見まねの農業を始めている。 『植えとけば、何なっと採れる』 義叔母がこまめに苗を植えるおかげで、毎年、季節ごとの

          義叔母の戦争

          黒い兎

          裏庭のにわとり一羽きえたころ 九人家族は満腹だった 2022年の読売歌壇『年間賞』にえらばれたという岩瀬悦子さんの短歌にであう。 それぞれ、まんぷくになったという九人の心の内に思いを馳せているとき、昔飼っていた黒い兎のことを思い出した。 東京大空襲の直前、六歳で母方祖父母の住む亀岡の篠村に疎開してきた私は、終戦後もそこに住み小学校3年生になった。 戦中から続く食糧難や住宅難は戦後二年が過ぎても変わらず、世の中は疲弊しきっていたように思う。 そんななか、戦争で焼け出された

          私の東京物語

          スカイツリー。 『東京と言えば、やはりここでしょう』と言う孫娘に誘われて登塔をすることになった。 世界で1番高いこの塔は、足元は三角形、しだいに円錐にかわり、すらりと伸びて地上に現れ出る。見る方向によって『そり』と『むくり』を見せるという姿は、イブニングドレスを着た貴婦人のようだ。電波塔の役目が大目的で造られたというのに、ときどきドレスの色を変えて、時世に合わせたメッセージを送ってくれるという優しい塔である。  スカイツリーを中心にして、足元につくられた 5階建ての巨大な

          私の東京物語

          青い目をした人形

          K新聞、ある日の夕刊で 『青い目の人形・平和問う』言う見出しを見つける。 (『青い目をしたお人形はーー』歌になったあの人形?) 私はむさぼるようにして先を読んだ。 ーー昭和初期『青い目の人形』と呼ばれる 約12,000体ものアメリカ人形が日本に贈られた。両国の友好の架け橋として子どもたちにかわいがられたが、太平洋戦争が始まると一転、敵勢の対象として次々と破棄させられていった。 京滋に今もわずかに残る人形は、平和のあり方を私たちに問いかけてくる。とある。 時代背景や、贈り主

          青い目をした人形

          一人で、、、初めて、、、

           子供も4年生になれば交通機関を利用して一人歩きができるようである。  少し遠くに住む孫がこの春休み、バスと電車を乗り継いで1人で我が家に遊びに来た。  挨拶もそこそこに『おばあちゃん、次、うちに来る時のバスに乗るとき、これ使って』 と紙幣大の紙をくれる。 『『大人の半分の料金だと思って間違えて100円を入れてしまいました』と運転士さんに言ったら『これから気をつけてね』と言ってこれをもらったの』 『投入金額預り証明書』であった。 金額20円上記金額をお預かりしたことを証

          一人で、、、初めて、、、

          パフスリーブ

          (今年のポイントはお袖だな)  流行に疎い私にも判るほど、この夏の女性上着は、袖に多くの変化がある。  ドロップショルダースリーブをはじめ、ラッフルスリーブ、ノースリーブ、ドルマンスリーブ、パフスリーブなどに加え、肩山だけが大きくカットされたものなど種類が多い。  素材に合わせて優雅なものや、奇抜なもの、 キュートさを強調したり、スポーティーで若さが溢れているものなど、千差万別である。 袖の横中央に切り替えを入れ、レースを挟んだものは昔も、あるにはあった。しかし、今はレース

          パフスリーブ

          大漁日

           この正月、お笑い芸の大好きな孫息子が東京からやってきた。中学2年生、高校受験までちょっと間があり、今は自由奔放に過ごしている。 『本場のお笑いを見に、吉本漫才劇場行かへん?帰りに串カツ食べて帰ろうよ。』母親である娘と私に声をかけてくる。 『行く、行く!』 彼を惹きつけているお笑い芸の魅力はわからないが、一緒に行くことで何やら楽しいことが共有できそうな気がして、二つ返事する。  近鉄難波駅地下道なんばウォークを経て、一歩地上に出ると、そこは道具屋筋。 土産物屋、食べ物

          大漁日

          雪の日の勇気

          この頃、とみに思うことだが親切にするということがなくなり、受けることがやたらに多くなった。 乗り物に乗れば、『どうぞ』と言って立ち上がり、私を座らせてくれる。遠慮する暇もなく礼を言って厚意に甘えている。『座られますか?』と一言かけて立ち上がろうとする人には 『いえいえ、大丈夫ですから、、』とちょっと辞退するが、それでも結局は代わってもらうことになる。 写生旅行に行けば、全員同じだけ道具を持ち運びしなければならない。それでも若い人が一緒だとすかさず、私の荷物を担ぐようにして運

          雪の日の勇気

          歌、甦る

           戻り梅雨のような雨が降ったりやんだりしていた。  京阪宇治駅前から南へ緩やかな上り坂を行くと、木立を背にした高台に宇治キリスト教会がある。この日、礼拝堂で『男声3人、独唱会』が催されるのだ。曲名を見た時から、ぜひ聴いてみたいと楽しみにしていた。独唱者が、私と同時代を生きてこられた人たちだと言うのにも親近感が湧く。  2時オープニング。 『小さな空』に始まり『君に口づけを』『千の風になって』『出船』『わすれな草』へと続く。 (あぁー、私はこの歌を知っている。あの時、あの人と

          歌、甦る

          温もりのおすそわけ

           とある田舎の大型スーパーが、会員を招待して売り出しをしている。招待券をもらったこともあって、私たち夫婦も出向いていった。  最終日のためか、広いフロアに、商品と人が溢れかえっている。 (きっと安いのだろう)店員の勇ましい掛け声が早くも買う気充分の私に拍車をかけた。あれも必要、これも欲しいと次々買い物かごに入れていく。 安いものもあるが日ごろの値段と変わらないものも大多数である。しかし、私の感覚はみな売り出し所商品と同じであった。 『何でそんなものを、こんな遠いスーパーで

          温もりのおすそわけ

          ひまわり

          列車に乗るとすぐにスマホの着信音が鳴った。嵯峨野線二条駅の近くに住む従姉妹からである。 「ーーーー二十時の列車で帰るんでしょう。先ほど田舎の家に電話したら教えてもらったの。 二条駅でいったん下車してよ、ホームで待っているから」車内のこともあってすぐに電話は切れた。 亀岡にはいつも夫とともに車で行く。嵯峨野線に乗って、一人で行くのは久しぶりのことであった。妙な開放感と、ちょっとした里帰り気分を味わう。満たされた一日の終わりに乗る夜汽車はノスタルジックで、懐かしい昔をつぎつぎ

          ひまわり

          野ねずみ

          バス停に行く道の横に、手入れの行きとどいた 貸し農園がある。美しい畝に季節ごとの野菜がほぼ一年中成長をみせている。作り手の、そこはかとない野菜への思いが感じられ、立ち尽くしてつい眺めてしまう。  四月中旬、隆々と、紫紺の葉を突っ立てた玉葱は土から白い両肩を見せつつ、取り入れのときを待っている。見ているだけで包丁を入れたときに飛び散る乳白色の汁とともにツンと目鼻にくる辛みまで感じられる。エンドウ豆は花盛り。じゃがいもの芽も出揃った。 そんな畑で、最近よく野ねずみに会う。体調が

          野ねずみ