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風評の中の二年生

1945年8月、4年近く続いた太平洋戦争が終わる。その時私は、国民学校(後の小学校)の二年生であった。
終戦直前の戦況や、戦争終結に至る経緯などまったく知らないまま、大人たちが混乱する様子を見、聞きして、私たちは不安だけをつのらせていたように思う。
なかでも、『アメリカ兵が攻め入ってきて、女、子どもをなぶり殺しにする』という話はいち早く広まり、1人で外が歩けないという友達が増えはじめた。
その年の2学期は、10日ほど遅れて始まったか、もう隊列を組んでの登校は無くなり、決まった時間に教室に集まればいいと連絡を受ける。たったこれだけのことにも、やっぱりそうなのだ。アメリカ兵は子どもを一人歩きさせようとしている、と思い込み通学は3、4人が誘いあって隠れながら裏道を走っていくというありさまであった。

 私が初めてアメリカ兵を見たのは終戦後一、二カ月たってからであったように思う。
私の疎開先亀岡町篠村は、老の坂峠を境にして京都市と別地域となる。
篠村は小さな村であったが、その真ん中を「国道九号線」が通っていた。道路は山陰地方を経由して下関に至る西の動脈だとも言われていた。
 
 ある日、その道を進駐軍のトラックが、列を成して西に向かって走っていく。初めて見る光景であった。家の中からそっと見ていると、ホロをかけた荷台に、進駐軍の兵士ーー私はアメリカ人だと思っていたーーがいっぱい乗っている。
 彼らは一同に鼻が高く、日本人に比べて色が白い。そのうえ眼がどんよりとしていて、奥まっている。ホロ付荷台に座っていると大男に見えて一瞬、"怖い"と、怯んだほどだ。しかし、アメリカ兵に対する関心は強く、その後も、家の中からトラックの列をくいいるように見ていた
 この移動は何日間か続いた。噂によれば舞鶴の駐屯地に行くのだという。
 笑顔で楽しげに喋りつつ揺られて行くアメリカ兵を毎日見ていると、この人たちが本当に女、子どもをなぶり殺しにするのだろうかと思えてくる。何時、何処で、どうして?
など、次々に疑問が湧いてくるが、実際には何事も起こらず、くる日も来る日も渋滞しながら西に行く。それを見ていると、あれほど怖かった思いが、いつの間にかほぐれて、街道筋に出て眺めることができるようになっていた。ときには、笑顔でこちらに手を振る
兵士もいたりして、小さなコミュニケーションが生まれる気配すら感じられえた。
「進駐軍が手を振ってくれたぁー」と喜ぶ従姉弟をみて、義叔母が叱りつける。
「あのアメリカ人が、多くの日本人を殺したんや。忘れたらあかん!」
(そうや、忘れたらあかんのや)
私も、慌てて先の戦争を思いかえし、またもや心を引き締めた。
当時、GHQの占領下におかれた日本は、学校教育もまた、完全に間接統治されており、教育界は混乱をきわめていたのだろう。生徒たちの素朴な質問ですら、先生を苛立せるように見えた。
「アメリカ兵が、私たちをなぶり殺しにするというのは本当ですか」
聞きたかった私の疑問も、その後、何も起こらないことで自然に消えていった。
 そして、いつの間にかアメリカ兵と日本の子どもたち、トラック移動時のわずかな出会いのなかで、笑顔を交わし、小さく手を振るまでに互いの距離を縮めていた。
 日本人も、アメリカ人も一人ひとりはみな同じ。誰が起こすのか、国と国の戦争になれば、人間の尊厳などみな忘れて、人びとは平気で殺し合いをする。そして、互いのなかに多くの犠牲者をだすのだと判りはじめたのは、もっともっと大きくなってからであった。

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