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疎開もん


ウクライナに向けてロシアの軍事侵攻が始まってから、一年三か月が過ぎた。美しい街が次々に爆撃され、犠牲になった市民の数はすでに七千人を超えたという。
 いまだに終わりの見えない消耗戦が続き、現在、数百万のウクライナ人が国内外への避難を余儀なくされ、右往左往していると聞く。
 テレビに映し出される惨状を見ていると、かつて日本も第二次世界大戦の後半、日夜を問わず何百機という「B29」が本土上空に襲来し、つぎつぎに街を破壊したことが甦る。
 
昭和十九年の年明け早々、主たる都市に学童疎開の指令が下る。地方に縁者がある者は、即刻縁故疎開をはじめよ!と言うのだ。
に疎開をした。
東京に住んでいた私たち姉妹は、いち早く、母方祖父母の住む亀岡町篠村に疎開した。
 
昭和二十年一月、二月、三月の空襲で東京は下町の殆どが焼け野原になり、死傷者、すべて合わせると十二万人であったという。続いて四月十三日、「B29」百七十機の襲来で、それまでかろうじて残っていた山の手界隈が焼け落ちた。続いて、五月二十四、二十五の両日、敵機五百機の襲来をうけ、東京
は壊滅状態になる。二十四日、二十五日の両日を合わせて死傷者は三千六百五十一人。罹災者全てを合わせると犠牲者は百万人を越えたと記録されている。これが後に言う東京大空襲である。
 
いち早く縁故疎開をしていた私は、難をのがれ疎開先の国民学校(後の小学校)で二年生になっていた。
村には爆撃こそなかったものの、灯火管制がしかれ、空襲警報が頻繁に鳴り響く。その都度、防空頭巾をかぶり、上級生が掘ってくれた防空壕へ走り、避難するという学校生活であった。今から思えば、四角く掘られた穴に二年生の生徒が何人かに分かれてその中に入る。上に薄い板が載せられるだけという粗末なものであったが、先生はじめ皆にとっては唯一、安心の拠りあったのだろう。
 親元を離れた疎開生は一学級に三、四人はいた。誰もが無口で見るからにおどおどしている。それに比べ、土地の男の子たちはのびのびとしていて頼もしくさえ見える。彼らはなかなか馴染もうとしない疎開生に近づく手立てが判らず、ときには「疎開者、疎開者」とはやしたてて、いっそう隔たりを作るのであった。こんなからかいが、子ども同士のコミュニケーションの始まりだと気付いてとりなしてくれる大人もいなければ、泣く子を励ます人もいない。
それでもいつのまにか、疎開生もみんなに交じって遊べるようになる。友達付き合いもでき、親元のことも一時忘れてみんなと過ごせるようになった矢先、その年の夏、終戦を迎えた。
 人々は敗戦後の不安におびえ、混沌の坩堝に陥った。
 すこし馴染めるようになった疎開生たちであったが戦争が終ったとたん、さようならも言わずにいち早く親元に帰っていった。それ以来、繋がることは二度となかった。
 淋しく、つらいことの多かった疎開生活であったのだろう、振り返っても懐かしさの湧かないのは、当然と言えば当然かもしれない。
 私たち姉妹といえば、東京を焼け出され、埼玉に避難していた家族のもとへは帰らず、いつまでも祖父母の家で過ごしていた。それほど居心地がよかったのだと、後になって思い出している。

子供たちの命を守ろうと大人たちがとりはからってくれた縁故疎間ではあったが、突然、家族と別れて馴染みの薄い土地や親戚の家で生きていくのは、たいていの子どもにとって、たまらなく辛かったことだろう。
「死んでもいいから、お母ちゃんたちと一緒におりたい」
と、小声で話してくれた朝ちゃんの言葉を思い出し、今重く受け止めている。

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