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コロラドの月


 太平洋戦争が終って三年が経ったころでも、世の中はまだまだ疲弊していた。そんななか、帰還兵として戻ってきた二番目の叔父は、以前の職場に復帰できず祖父が始めた二反ばかりの田畑で農業をしながら村の山仕事についた。戦争で多くの若者を失った村の山は、荒れ放題である。
 叔父の仕事は冬から春にかけて雑木を間引き、山の下草を刈りして、赤松の根元に風と日光を当てることであった。そうして赤松林を甦らせ、秋には松茸が生える土壌を作るのである。
 間引いた雑木は束にして薪にするが、枝先や葉はその場に積みあげて堆肥にし、山に戻す。
 休日になると、叔父はいつも姉と私を山に連れて行き、山中で作った薪を荷車の通る道まで運ばせた。山の中腹から下まで十往復する。十四歳の姉が二束、十歳の私が一束背負っての遅々たる作業も、道まで下ろせば大きな嵩に見えた。
 真冬とあって、時には横殴りに粉雪が吹雪く。滑る足元を気遣いながら山を下り、荷を下ろしてまたすぐ登る。
 途中で足を止め顔を上げると雑木を切り払った山肌に、赤松の木がたおやかに伸び、枝を広げていた。あちこちに山つつじのすべすべした木が白く見えるなか、粉雪が舞う。
「きれいやなぁー。まるで座敷から見る庭先みたいや」
 私たちは、五回目を運び終えると中腹にある大きな岩の陰で昼食をとる。
凍りついたようなご飯の上にかつおが載り、たくあんが添えられただけのお弁当がおいしかった。
耐え難いほどの寒さのなかでも、やはり休憩はうれしい。二人はいつものように「コロラドの月」を歌う。二回も歌うと、もう、じっとしてはおられない。歯をカチカチといわせながら、また、登りはじめた。
 夕方には、もうクタクタである。
電灯の下に家族が集まり、揃って摂る夕餉はほのぼのとしていて温かい。
叔父も私たちも、昼間の疲れを忘れていくような時空にあった。

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