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それぞれの折り合い


 東京に住んでいた私たち姉妹は昭和十九年一月、京都、亀岡に住む母方祖父母のもとへ疎開をした。
 祖父母には、母の下に三人の息子がいるが次々に出征し、家には長男の嫁(私たちにとっては義叔母)と三歳になる男の子がいた。
 一度に増えた二人の娘に戸惑うことも無く、みなは穏やかに迎えてくれる。
 空襲警報が鳴り響き灯下管制がしかれて、戦争はここにも色濃くあったが、それでもまだまだ気持ちに余裕がもてた。
 その年の四月に、私は村の国民学校に入学する。やはり姉と一緒にいることが私を心強くしていたのか、共に学校に行けることが嬉しかった。
 不自由や不安を抱えながらも、新しい生活に慣れ始めたその年の六月、私は思いもしなかった悲しみに出会う。
祖父母の長男であり義叔母の夫である叔父が戦死したというのだ。
 お国のためとは言いながら息子三人を出征させ一日も気が休まる日は無いと言っていた祖母は、悲しみにうちひしがれて床についた。
 しかし、義叔母はちがったように思えるほど、人前で泣くこともなく気丈である。
 "英霊のご帰還日"
 街道筋を村長さんの先導で、白い布に包まれた四角い箱を抱く兵隊さんの列が役場に向かう。その後ろを、黒い羽織を着た義叔母と三歳の従姉弟、続いて祖父がゆっくりと歩いている。この日のご帰還は五人でそれぞれの家族が出迎えていた。私と姉も門口に立ち、深々とお辞儀をして迎えた。
「立派にお勤め、ご苦労さんでございました」
「有難うございます」
行列の間をぬって、小声の挨拶がときに聞こえた。
 夕方近く、義叔母が遺骨を抱き、祖父が従姉弟の手を引いて帰ってきた。
四年ぶりの無言の帰宅を近所の人びとが涙ながらに迎えている。
 白木の台に祭られた遺骨の箱は意外に大きい。中に何が入っているのだろうといぶかしく思っていると、
「叔父ちゃんや、拝んであげて」
と義叔母が言う。写真でしか見たことがない叔父であるが、その人が箱のなかにいるのだとは思えず私は、しばらくの間混乱した。
 村の戦死者は、後日、村葬がおこなわれる。それまでは家族の一人として一緒に過ごすのだ。
「お父ちゃん、お父ちゃん」という言葉が、久しぶりに家の中を飛び交う。
そのとき、はじめて叔父は此の家の人で、大切な家族なのだと強く思えた。
一か月ほどして、村の合同葬儀が行われた。
「チーン・ドーン・ジャバラン」
 多くのお坊さんが列を成し、白い箱の葬列が野道をゆく。沿道に並び別れを惜しむ人びとは、みな馴染みの人ばかりだという。
 忍び泣きこそすれ、声高に愚痴を言う人は誰もないほど当時、国体護持のための管理は徹底していたのだと後になって気づいた。
義叔母はこの悲しみを、どう乗り越えようとしていたのだろう。人前で涙を流すこともなく、淡々と、ただ、たんたんと毎日を過ごしているように、子どもの私には見えた。
 そんな義叔母が、めずらしく着替えをして何処かに出向いていく日があった。そして、その夜、日中にあった一部始終をみなに話してくれる。
「小栗栖に何でもよう当たると言う"拝みやはん"があると聞いて、おとうちゃんの最後がどんなんやったか聞いてきたんです」という。
『『輸送部隊に所属していたと言わはるあんさんの旦那さんは、中支(支那と呼んだ時代の中国中央部)に在る大きな河を輸送船で渡っているとき、敵機の襲来を受けて、船もろとも沈んでしまったように卦(八卦)にでてます』と言わはった。その河は、対岸が見えんほどの大きな河やそうなーー」
義叔母は、話しながら、このとき初めて声を出して泣いた。
 それからというもの、叔父は中支の大きな河を輸送船で渡るとき、敵の爆撃に会い戦死したのだと誰もが思うようになっていた。
 遺骨のない白木の箱だけが届けられても、心がざわつく。
人びとはそれぞれ、無理矢理にでもそれなら仕方がないと思えるような何かを見出し、折り合いをつけて辛さや悲しみを乗り越えていたのではないだろうか。
ほとり
 いつしか私も、大人に成ったら必ず義叔母を、その河の辺に連れて行ってあげようと本気で考え、その時を過ごしていたように思う。

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