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義叔母の戦争

昭和19年1月、東京に住んでいた私たち姉妹は、母方祖父母の住む篠村に疎開をした。
祖父母には母のほかに、3人の息子がいる。当時は、みな出征中で家には長男の嫁、私とっては義叔母と3歳になるその息子がいた。義叔母は物静かな人で、何のわだかまりもなく、すぐに私たちを迎え入れてくれた。

祖父母の家はもともと米屋を営んでいたが、統制販売店の枠にもれて廃業、2年前より、見よう見まねの農業を始めている。
『植えとけば、何なっと採れる』
義叔母がこまめに苗を植えるおかげで、毎年、季節ごとの野菜と多少の米が採れた。日中は農作業に精を出し、夜は灯火管制の下で、針仕事をするという働き者の義叔母である。

疎開してきたその年の4月、私は国民学校(後の小学校)に入学する。
防空頭巾や上履き袋、ランドセル代わりの背嚢や入学式用の洋服まで早々と準備してくれたのも義叔母である。当時、物資は全て配給制で日常生活は貧困を窮めていた。そういう時代のなかで、材料など、どう工面していたのだろう。
20年に入ると、戦況はいっそう悪化し、本土決戦も囁かれるようになる。
この村でも『英霊のご帰還』と称して、戦死者の遺骨を抱いた行列をたびたび迎えるようになった。私たちはみな沿道に並び、深々とお辞儀をしつつ、役場までの道のりを見送った。

6月のある雨の日、日頃、慣れ親しんでいる村長さんが、この日ばかりは身なりを正して家にこられた。
何かを手渡されると祖父の表情は一瞬にして凍りつき、同時に側にいた祖母の甲高い声が田植えに行っている義叔母にすぐ帰るように伝えてこいと、私をせかせた。
大変なことが起こったのだと察しつつ、私は一目散に田に向かって走った。蓑笠をつけて1人、田植えをしている義叔母に向かって大声で叫ぶ。
『おばあちゃんが、すぐに帰ってこいと言うてはる。村長さんが来てまってられるから、、、と』
『ーー判った』
そう言いつつ、いったん上げた腰をまた、ゆっくりと下げた。
待っても、まっても義叔母は帰ってこない。もう一度行って来いと祖父が言う。私はふたたび走って行った。
今度は腰も上げずに、『すぐ帰ります』と言うだけであった。しかし、義叔母は帰ってこない。
また、行く。
これで何回目だろうと思うほど、何度も私は走って行った。
田の真ん中で、顔も上げずに田植えをしている義叔母の姿に苛立ちさえ覚えた。蓑着る背中に降り続く雨を見ながら、なんでやろう?と私はぼんやり考えていた。
とうとう義叔母は帰ってこず、村長さんは何かを置いて帰って行かれた。

結婚をして1年8ヶ月目、生後3ヶ月の赤子を残しての応召であったと聞く。
子どもを育てながら、夫の無事だけを祈りつつ時代を乗り越えようとしていた義叔母。

戦争が終わり、夫が還ることのみを願って生きていたその人にわ届いた報せは見ずとも察せられたのに違いない。
体の底からあふれる悲しみの涙を抑えることなく雨に隠して泣き続けていた義叔母は、きっと田の中から出られなかったのだろう。
大人へのとば口に立ってはじめて、私は、あの日の義叔母を理解したような気がした。

第二次世界大戦もまた、この国のすべての人の幸せを踏みにじって終わった。
ウクライナの実情が頭をよぎる中、負けても勝っても、庶民を犠牲にしない戦争はないのだと知る。

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