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歌、甦る

 戻り梅雨のような雨が降ったりやんだりしていた。
 京阪宇治駅前から南へ緩やかな上り坂を行くと、木立を背にした高台に宇治キリスト教会がある。この日、礼拝堂で『男声3人、独唱会』が催されるのだ。曲名を見た時から、ぜひ聴いてみたいと楽しみにしていた。独唱者が、私と同時代を生きてこられた人たちだと言うのにも親近感が湧く。

 2時オープニング。
『小さな空』に始まり『君に口づけを』『千の風になって』『出船』『わすれな草』へと続く。
(あぁー、私はこの歌を知っている。あの時、あの人と、あんなにして歌っていた)
 歌はことごとく思い出を呼び覚まし、その折々の時代に私を引き戻していく。


私は少女時代を田舎の小さな村で過ごした。
昭和25、6年のことである。

 娯楽が何一つ無い冬の夜は、長い上に寒い。
暖房は、小さな火鉢が1つあるだけであった。
姉と私は火の近くに寄り、よく歌を歌った。
女学校に通っていた姉は覚えたばかりの歌を私に教えてくれる。『帰れ ソレントへ』もその一つである。
 甘酸っぱく、切ない人恋うる歌詞と旋律に心を奪われながら、いつも口ずさんでいた私は、異性を意識するとば口にいたのかもしれない。
 姉が看護学校入学のために家を出る。私も高校卒業後、京都市内の看護学校に進む。もう2人で歌う事はなかった。

広い礼拝堂に『帰れ ソレントへ』の歌が流れると突然、懐かしさと、切なさが胸を押しつぶす。
息苦しい。こみ上げてくる涙をうかつにも流さないように天井を見上げると高い窓から、揺らぐ木々の緑が見えた。


看護学校の3年間は全寮制であり、地方から来ている人が多かった。

 初めて親元を離れた淋しさと、看護の道の険しさを知り始めた18歳の娘達20人は、夜になると図書室と称する畳の部屋に集まる。持ち寄りのおやつを食べながら、よく語らい、よく笑い、歌を歌って絆を深めていった。
 哀愁を帯びたロシア民謡やイタリア民謡を覚えたのもそのころだ。なかでも『フニクラ フニクラ』は、それぞれの辛さを吹き飛ばし互いを励まし合うように、力強い大合唱となった。
『埴生の宿』『琵琶湖哀歌』『出船』、そして『わが子よ』などを歌うと、もの悲しさがつのり
Sさんは、すぐに楽譜で顔を隠し声を詰まらせた。
彼女は奄美大島の出身であったが、夏休みになっても家に帰れないと言って泣く。
 今にして思えば、子を遠くに旅立たせた親の気持ちなど判る由もなく、ただひたすら家を恋しく思う私たちであった。
『看護婦(現在、看護師)なんて、大嫌い』とうそぶいていた同室のYさんは、いつも私の横で眠りこけてしまう。最後は担ぐようにして部屋に帰ったものだ。彼女は仲間の歌う歌の中にあって日常の憂さをいっとき忘れることができていたのではないだろうか。国家試験だけは受けるようにと勧められ、いやいや受けたのが合格。『資格が取れたのはみんなのおかげ』と言いつつ故郷、長崎に帰っていった。


 会場に最後の歌が流れると、過去の幻影から解き放たれて、私は元の私に帰る。
 テレビも携帯電話もない時代であったればこそ、折々の思い出に裏打ちされた多くの歌が、今も深奥に残っているのかもしれない。
 その日の夜、ネットで検索して、『出船』の歌詞を引き出してみた。あんなに好きであったこの歌を、もうすっかり忘れてここ何十年、鼻歌にも出てこなかったのだ。

今宵出船か、名残りおしや、、、、

一節見つけて手繰り寄せると、するする、するすると歌詞が出てきて、私は歌い始める。よろよろとゆっくりゆっくり。声はか細く、息継ぎの仕方が分からず息切れがする。時の隔たりを感じながら、声を大きく何度も繰り返す。と、そのうち自然に口から歌が流れ出した。郷愁のごとき懐かしさである。

 長い年月、私はなぜ声を張り上げて歌わなかったのだろう。看護の世界にどっぷりはまり込み、それしかできないと言う不器用な私であったからか。過ぎたことは、もう言うまい。

思い出に思い出が降りつもっていく中で、しばらく忘れていた歌がここにきて甦った気がする。

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