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短編小説『Hurtful』 第10話 「ダンスフロアー妄想、銀メッキピアス」

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「俺はね、今年三十五で、嫁がいるんだけど。俺のほうは、離婚したくて、最悪別居でも良いからとにかくそうしたいんだよね。嫁は、嫌だ。って言ってて。俺が仕事、休職するようになったとき、入院したいって言ったら、今はダメだ。とか言うんだよ。嫁は、証券会社で働いててバリバリのキャリアウーマンだから、俺が休職してからは全部、俺が家事してたんだよ。嫁が帰ってくる時間に合わせて飯作ってたしね。あと、子どもの幼稚園の送り迎えね。子どもは、冬馬って男の子で、今三歳なの。俺が名前付けたんだけど、あ、冬の馬って書いて冬馬ね。良くない?まぁ、なんとかしてここに入れるように説得するまで、大変だったよ。一応十日間の入院予定にしてもらってるんだけど。それ以上はダメだって嫁が言ったからさ。もうさ、全然、感謝とかないんだよ俺に。コーヒー淹れても、ありがとう。もないしさ。子どもできる前も、今はまだ子どもはいらないねって話し合ってたのに、証券会社の同僚が子ども生んだらしくて。それの対抗意識?みたいなのができたのか何なのか知らないけど、急に子どもほしい、とか言い出したんだよね。よく分かんねぇよ。だからさぁ、子どもつくる時は完全に、作業だったね」


黒田さんはこのような話を、果てしなく私に喋る。

私は「あ~そうなんですか」とか、「へぇ~」とか、「あぁ…」とか、「成程」とか相槌を挿みながら、たまに同意の意を表したりして、黒田さんの話に付き合った。
他にも、自分の不遇、とにかく嫁への不満、「もちろん、どんな形になろうがサポートはするよ」、「別居する準備としてペット可のマンションももう探してあるんだよね、二子玉川あたりに」云々。
長い。黒田さんの話はとどまることを知らない。

こんな時に他の喫煙者はどうしているかというと、あろうことか誰もかれもこっちには目もくれない。笑いもしない。いつも通りクールに盛り下がっている。由美子さんでさえ助けてくれそうもない。
煙草を吸い終わった彼らは、一人、また一人とどんどん出ていってしまった。

「とにかく、今の俺のストレッサーは、嫁と、嫁の母親なんだよね」
黒田さんがそう言った。

とにかく、でまとめた割にはこれがまた延々と続いた。

幼稚園に通っている息子、冬馬くんが、なにやら特殊なアレルギーを持っているらしいのだ。だから幼稚園でもしも何かがあった場合には、すぐに駆けつけなければならない。黒田さんは入院前にあらかじめ主治医にその旨を相談したらしく、許可を貰って、入院中はハピネス・ウィルのすぐ隣の駐車場に車を止めているということだった。私の知る限り、入院中に車の使用許可が出るというのは、前代未聞だった。


黒田さんがこぼす愚痴の内容、嫁への不満などは、次第に非喫煙者にも知れ渡ることとなった。

「でさぁ、子ども生まれたばっかりの頃、嫁がさ、俺が夜寝てたら、あんたばっかりグーグー寝て!とか言って、俺のこと急に殴ったんだよ」

私と黒田さんは丁度、喫煙所を出たところだった。

子どもが生まれてまだ二か月だというのに、躁うつ病でやむを得ずここに入院することとなったのんちゃんという子が、黒田さんのこの台詞を耳に入れて、私にこう言った。

「私、あの人の言ってること、信じない。だって、あの人の奥さんの言い分は分からないじゃん。あの人の言ってることが全てだとはおもえない。あの人絶対、躁うつ病だよ」

あぁ。なるほど。確かにそうかもしれない。人間関係に於いてどちらかが絶対真理であるということはあり得ない。
普段、優しくて可愛い顔ののんちゃんが、その顔を歪めてこう言い放った時、のんちゃんカッコいい。と、おもわず感心してしまった。




さとみはさぁ
或る時から、私への呼び方はさとみちゃんから「さとみ」になった。
いつの間に。そして相変わらず、
「俺のことは『まもる』で良いし、ほんと、タメ口で話してよ」
と求めるのだった。
しかも、由美子さんや他の喫煙者がそこに居る場合には「さとみちゃん」と呼ぶ。意外と抜かりない奴である。

「さとみはさぁ、可愛い系にもなれるし、綺麗系にもなれるよ」

「全然、私なんかそんな風になれませんよ」
また、つまらぬことを言ってしまった。
黒田さんは「連れて行きたいところがあるんだよねぇ」と言って白い歯を見せた。「どこですか」と問うと、以下抜粋。


東京都内に、ダンスフロアーのごとき娯楽施設があるらしく、そこでは毎夜、洒落た身なりをした男や女が集い、音楽に合わせて踊るという場所で、まあ踊りに飽きたらちょっと横のほうで洋酒でも飲んでいればいいらしいのだが、「それってクラブですか?」と訊くと「いやいや全然ちがう」と言う。

で、一体どういう踊りを踊るのかとおもい、「私、踊ったことないんです」と正直に言うと、どうも、踊るというよりかは体を揺するくらいでいいらしく、しかも黒田さんの口ぶりだと、そのくらい適当にやるのがかえって粋で、また、抜群に楽しいのだと説明するのでますます訳が分からない。
また不思議なのは、「そこはデートの場所なんですか?」と訊くと、「そういうつもりとかじゃないんだけどぉ」、なんとなればそこは社交の場でもあるようで、色んな知らない人達と出逢えるのもまた醍醐味である、というようなことを言う。

どうも曖昧でよく分からない。
なぜ私が、そんな社交の場に行く必要があるのか。
それに私は、踊りというのは必ずしも芸術じゃなくていいとおもうが、そんな適当にやるのが踊りだとはおもえない。
で、おそらくは着飾っていくような場所なのだろう、と予想して、「私たぶん、そういうとこに来ていく服、持ってないとおもいます」と言うと、「でね」、黒田さんは楽しそうに続けた。

要約すると、あれは何ていうのだろうか、着付け、みたいなのを専門とする店があって、そこではドレスの貸し出しなんかもやっていて、そのドレスを黒田さんと選び、ドレスアップ、メイクアップ、ヘアアレンジなんかもプロが何でもやってくれるらしく、私は何もしなくてよいとのことで、記念に写真の一、二枚でも撮ってもらった後、例の社交の踊り場に黒田さんが連れて行くから「大丈夫」とのことである。

「シックに装った女性っていいよね。さとみは絶対、似合うよ」

黒田さんはたぶん、私が髪をピンクや紫に染めているのが自分好みではなく、気にいらないのであろう。

私は自分の耳を触ってみた。
いま、そこにはいかなる飾りもついていなかった。ピアスは入院時に没収されることを知っているから最初から外してきた。

普段、私の両耳にはだいだい五、六個の銀メッキが刺さっており、指輪や腕輪もゴツゴツしたものが多く、ベルトにも服にも金属のとんがりが付いてたりする物が好きだ。全部家に置いてきてしまった。
自分の普段のいで立ちをおもうとそれは明らかにシックではなかった。

けれども、こういうのはけっこう自分でも気に入ってやっていることだった。
私は鼻白む。


「いいよね、いいなぁ、連れて歩きたいなぁ」

黒田さんのはしゃぐ声が喫煙所にいつまでも漂っていた。




黒田さんが診察に行き、デイルームと喫煙所を留守にしているしばしの間、私は自販機で珍しくチョイスした豆乳を片手に、だらしない格好で孤独な煙草時間を満喫していた。

私もだんだん疲れてきていた。
日を追うごとに黒田さんの情熱はほとばしり、誰にも止められないこの想い、君が居るから僕が居る。みたいな錯覚を起こし、しかも、さとみも俺に少しは気がある。的な自信を身に着けているらしく、甚だ迷惑であるが、ともかく、私のことを恋愛対象として見ていることを、もはや隠そうとしなかった。

奥さんの存在はどこへいってしまったのだろうか。その概念は撲滅されてしまったのだろうか。そんなんでいいのか。

黒田さんはノリでエロい発言もする。
本人は楽しそうであるが、単なるセクハラである。
「ドキがムネムネしちゃう~とか言ってみてよ」
とか、平気で言ってくる。

喫煙所で、私が床に置いてある飲み物を取ろうとした時は、
「え!今さとみが屈んだ時、胸が二割くらい見えちゃった」
と、楽しげに言う。
こんなんで楽しくなれるんなら、こんな病院来てるんじゃねぇよ。
「え、結構見えてました?」
「いや、二割くらいだよ。五割見えちゃったら、もう俺ヤバいよ」
と言って笑う。ただのおっさんである。

幸か不幸か、私はこの程度の発言にはあまり動じないタイプの女であった。
あ、そう。みたいな感じで冷静に対処できてしまうのだ。
その態度が、更に相手を調子に乗らせる隙間を生じさせるのだろう。
ちょっと可愛い女子みたいに、なんでそんなこと言うんですかぁとか怒ってみたり、泣いたりすればよかった。
しかも黒田さんは、あざといというか小利口なところがあって、こういう下ネタを、やはり、由美子さんや他の喫煙者が居ない時に言うので腹が立つ。

ほとんどの場合、黒田さんが一方的に色々な話をしたが、私も自分の話をするタイミングが、あるにはあった。

例えば、私はそもそも昔から精神科に通院しているということや、美大に通っていて、現実面のことも絵のことも上手くいかなくなって、うつで、今回この病棟に入って来た、云々。
自分には彼氏がいて、私が卒業したら結婚しようということになっている、云々。
彼氏がいることだけはよくよく念入りに強調しておいた。

「実はその彼に対してもジレンマがあって、卒業を待たずに私のことを早く貰ってほしいんだけれども、精神的困難を抱えている自分にはやはり云々」と、そこまで言う気は更々なかった。

「でも彼氏は、私がどん底まで落ちていてどうしても死にたくなったりして、助けを求めてる時、それが夜中であっても群馬から車を飛ばして、会いに来てくれるんですよ」

これは事実であった。私達はだいたい毎週末会っていたものの、遠距離恋愛でもあった。
それを話すと黒田さんが、
「ああ。すごいね。その彼のことは大事にしたほうがいい。本当に信頼できる人だとおもう」
と、意外にも真剣な顔で言ったので安心した。


「俺も、その立場だったら必ず会いに行くよ。岩手からでも行く」

え、今なんて?岩手?どうして岩手?距離的な問題を持ち出してきた。



私には、この病院の外側に、気を許せる人が何人かいる。けれどこの人の場合、今の状況では外側には誰も味方がおらず、最も気を許せる人は、私なのであった。
「依存」は度を越えていた。
しかし、なぜこの依存が明るみに出ず、対処もされないのかと言うと、そこには三つの要因があった。

第一に、黒田さんは一見まともだ。言動・病状が看護師から見て明らかにオカシイというわけではない。

第二に、他の患者が発見してない。黒田さんは他の患者を配慮しているつもりになってるが、その実、計算高い。人が見ている時にあからさまなことは言わない。白い目で見られることもなければ注意されることもない。
せいぜい、「この人喋りすぎだ」とおもわれる程度である。

第三に、私が密告をしていない。

「実は、困ってるんです」
と、看護師や担当医に報告さえすれば自分の身が守られるというのに、これをやっちゃうと黒田さんは大ダメージを受け、
「さとみから嫌われていたなんて」
というショック状態に陥り、精神的にヤバくなり、結果的に私も、
「私があんなことしたからいけなかったんだ。卑怯者。黒田さんの傷イコール私の傷」
みたいな、訳分かんない状態になりかねないので、私は出来れば穏便に事を運びたいといつものごとくおもい、この最終手段には手を付けられずにいた。



「へぇー、そうなんですか」
私はだいぶ疲れてしまっていた。
だんだんと、このやり方は間違っているのではないかとおもい悩むようになった。
こんなことになるんなら最初から、「入院中だから、自分も人と話す時は話すけれども、落ちている時や自分の問題のことで辛い時もあるので、そういう時はそっとしておいて下さい。上手く話せない時があったらごめんなさいね」と、あらかじめ線を引き、しつこい場合には「楽しんでないでもっと自分の問題をおもい悩め、なんのための入院だよ」と率直な意見を言うべきだった。

他人を優先させる偽善者。或いは、そうせざるを得ない弱者。
『鳴宮・煙草事案』や杏ちゃんとの癒着の問題で、私はもう随分衰弱したわけだし、黒田さんのことなんか放っておけば良かった。
けれどももう遅かった。単なる依存ではなく、そこにもっと深い感情があると、彼を遠ざけるのは容易ではなかった。目には見えない線を、黒田さんはいつも易々と超えてきた。



ここでは、言葉や常識が時に何の意味も持たなくなる。そこには限界がある。それを黒田さんはまだ知らない。私は、黒田さんがそれに気付いて、やがて失速していくだろうとおもっていた。でも、なかなかそうはならなかった。

黒田さんの社会通念はここでは通用しないだろう。しかし黒田さんからすれば、精神科病棟のルールだとか、患者間の距離感の大切さだとかいうものは通用しないのだった。
患者同士という皮を一枚はがせば、当たり前だがそこには個人というものが存在して、さらに言えば、そこには男や女などの性別が、ちゃんとあるのだった。


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