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短編小説『Hurtful』 第9話「新たな彼との出会い」

第1話前話
杏ちゃんが隔離室に入れられてから、デイルームにはひっそりとした重苦しい静けさが立ち込めていた。その単純な事実がもたらす濃密で重たい空気だった。殊に、喫煙所の雰囲気は歯が抜けたように味気なかった。

杏ちゃんのこの一件に於いて、他の患者達はだいたい二種類のグループに分かれていた。
一つは、杏ちゃんが隔離されようがされまいが、特段気にならないというか、彼女にもともと興味があった訳でもないので泰然自若としている人達である。
もう一つのグループは、この一件によってもろに動揺し、何日経っても時折この内容の会話をしたりヒソヒソしたり、自分の精神状態が変になったりする人達である。

私はと言うと、このどちらでもなかった。
しかし正直、いつまでも大袈裟な湿っぽいムードを漂わせてはそれをばらまいている人達にはうんざりした。舞台設定に感情が動かされるのが好きなのだ。私はいつも人に合わせるように生きているにも関わらず、自分とは関係ないとおもった途端、急にドライになる側面があった。それは自分でもよく分からない特徴だった。

杏ちゃんが隔離されてもちろん動揺はしていた。杏ちゃんが居なくて寂しかった。しかしそれはそれだった。自分の心を、外界からの刺激と区別して簡単に崩されないようにする能力を、少しは持っているつもりだった。
結局は崩されるとしても。冷たいかもしれないけれど、自分の身は自分で守っていくしかなかった。

「あの日、さとみちゃんが居たら、こんなことになってなかったとおもうんだよね」

由美子さんがしみじみとした声で真顔で言う。他の何人かもそれに頷いている。

え、そういうこと言う?
私だってほんとはちょっとそうおもってたよ。皆の若干冷たい視線も感じつつね。
「あんた、あの肝心な時に居なかったでしょ」みたいなね。
杏ちゃんがあの日、丘先生も看護師も捕まえられなくて不穏になっていても、私が居たら、なんていうか彼女の気も紛れるし、一緒にジュース買って煙草も吸えたし、愚痴も聞けたしね。私のことだから、励ましたしね。

でもさあ、私自身の精神状態はそうやっていつも多少なりとも犠牲になっていたわけよ。え、で、おたくは何?片時も離れないようにしろと?そこまでしろと?そんなこと言ったら、由美子さんまで私に頼ってる依存者になっちゃうよ。


杏ちゃんには悪いのかもしれないけれど、たとえ断腸のおもいだろうがなんだろうが、私は彼女の一件は頭の隅のほうに追いやるしかなかった。
私とて、この頃はもう深刻に、自分の精神状態がちっとも良くならないことについて思い悩んでいたのである。
言葉に置き換えるのはなかなか難しいが、ざっくり言ってみようとおもう。

・私はうつになり、絵が描けなくなり、更に絵が描けなくなり、更にうつになった。

・九月からはまた学校がある。十月には自分の個展もある。この入院によって全てバッチリ良くなりたい。この入院に全てをかけている。

・それなのに大久保先生がマジで使えない。放っておかれてる。薬を変える提案もしてくれない。

・そんな女医と立てた退院予定日まであと二週間くらいしかないのに、こんなんじゃ退院しても何もかもうまくいかない。地獄でしかない。


こんな感じだ。時間は着実に流れてしまっていた。いつも余裕だった訳じゃないのだ。酷い有様の日もあった。ただ、それは自分の問題だから誰かに共有してもらおうとはおもわなかった。私はこの病院以外にも、カウンセリングにも通っていた。こことは全然関係ない場所だ。こころの話は、いつもその先生に聞いてもらえればよかった。

一人で煙草をふかす。隔離室のほうへ目をやると、看護師が一人、杏ちゃんのお昼ご飯のお膳を引き上げて出てくるところだった。
お膳には全ての食事が残されたままだ。
杏ちゃんは今、体重を気にしているから食べないでいる訳ではない。こうやって故意に拒否感を表しているのだ。もし、私が杏ちゃんの居る隔離室に入ることが許されたとしても、今の彼女は私のことも拒否するだろうとおもった。
私は私で、あと二週間で自分をどうにかするしかないのだ。


喫煙所に、誰か男性が入ってきた。

確か二日程前から、ごくたまーに、煙草を吸いにやって来る人だった。
名前も名乗らなければ会釈もない。ただ入ってきて、一本吸い、黙って出ていくだけである。そちらから話をしないのだから、私も話はしない。
なかにはこういう人達も居るのだ。入院の場は確かにコミュニティーではあるかもしれないけれども、無理して関わりあいたくないし、また、関わりあう必要もないし、あなたたちの誰にも興味がない。という人達。
でも、そういう各々のスタンスは大事にしなければならない。
私も、本当ならばこう在りたかった訳だけれども。

あ。しまった。
というのは、その人と目が合ってしまったのである。
その、三十がらみの大柄な、額から汗、眉間に皺のおそろしげな男性は、私と目が合っても超然としていた。するとどうなるのかと言うと、こちらのほうから何か言わなくては、という気持ちになる。しかもなるべく早く。

「あ、どうも。先日からお目に掛けていました」
この日本語は正しいのだろうか?

「あ、どうも。黒田といいます」
その人が名乗った。

「あ、相原といいます」

「あの、すいませんでした。実は自分、三日前に入院して来たんですけど、入院前日に熱出しちゃって。風邪で。で、皆さんにうつしては申し訳ないから、食事を含め自分の部屋で過ごしてたんです。たまにはここに吸いに来ちゃってたんですけど。なのでこうして皆さんに挨拶するのが遅くなって、失礼しました」
と、黒田さんは流れるように叙述した。

「あ、そうだったんですか。それで、お体のほうはもう大丈夫なんですか?」

「あ、もう熱も下がって。看護師さんにも相談したら、もう治ったでしょう、みたいに言われたので。なのでたぶん、うつすことはないとおもいますよ」

「あ、良かったですね。そういえば、昨日とかはマスクしてらっしゃいましたもんね」

「あ、そうですね。もう外しちゃいましたけど。一応ここ病院だし。うつされても大迷惑ですからね」

どうして人は、誰かと話す時、会話の初めにあ、を付けるんだろう。付いてしまうんだろう。ともかく、この黒田さんがとても常識的な人であるということは分かった。もしかしたら紳士的と言っても良いのかもしれない。

一瞬時が止まり、断片的な映像が脳裏によぎった。
けれどもそれは思い出すことの出来ない夢のように、具体的な意味をなさなかった。ただ不穏な感覚が私を通り過ぎていっただけだった。


「マスクちゃんとつけるなんて偉いですね。風邪でも、つけない人はほんとつけないですしね」
口下手な私はこういう普通のことを言うのが精一杯だった。

「ええ。ほんとそうですよ。電車なんか乗ってて、隣の人がマスクもつけないでゲッホゲッホやってると、おぃ、勘弁してくれよ~って気になりますもん」

私は自分の脳のおおよそ半分を使って黒田さんとの会話を続けながら、もう半分の脳で、先程から感じている違和感について考えていた。
この常識的な会話はなんだろう。この病院に似つかわしくない。
なんなんだ?この現実的な会話は。

私は、もし相手がたわけたことを言ってきたり奇声を発しながら襲い掛かって来るなどした場合、それ以上この人と関わり合いになるのをよせばいい、と決心して挨拶に踏み切ったのだった。
しかしそうはならないでマスクだの電車だのと言っている。

「電車って言えば、エスカレーターを、ヒールでカンカンカンカンとか、駆け降りる女性いるじゃないですか。あの音も相当うるさいっていうか。ちょっとは気を使ってほしいですよね」

私もそんなことを吐かさず、気が触れたことでも言っておけばよかった。一言、変なことを言えればなんでもよい。そうすれば私の今後の入院生活は、ある程度守られるはずであった。



その日以降、黒田さんはちょくちょく喫煙所に入ってきて、私とよく話をするようになった。他の喫煙者とも、既に仲良くなったみたいだった。

「いやー、相原さんとは話が合うよ」

「ははは」

「俺ね、相原さんの隣の個室に居るんだよ」

「そういえば名札かかってました。黒田…えっと、『ゴ』っていう字、こうでしたっけ?」

「あ、俺、まもるっていうんだよ。そうそう、『護』っていう字」

私達は空中で人差し指をくねくねしながら、名前の確認をした。



精神科の入院とはそんな楽しいものではなく、結構しょうもないという私の経験則とは裏腹に、黒田さんは今回初めての精神科入院で、他の数名の患者と爆笑を交えつつ、ここでの生活をエンジョイし、リフレッシュな気持ちになり、もはや「なんて良い場所なんだろう」みたいな勘違いを起こし、日々充実しているようであった。

「俺はね、適応障害って、先生に言われてね」
「はい」

黒田さんはよく自分の話をしてくれた。喫煙所に座り込んで、主に私に、なんでも話してくれた。

「あ、あのさぁ」

私は自然と隔離室のほうを見ていた目を、黒田さんに向けた。
「はい?」

「さとみちゃん、って呼んでもいい?」

「あ、べつにいいですよ」

「俺のことはまもる、って呼んでね。あと、全然タメ口にして」

私は、黒田さんが欲するこういうフランクな感じに附いていくのにも躊躇いがあった。

「いやいやいや~…」
と、取り繕う笑いで柔らかに言うと、もともと熊みたいな風貌の人が「え…」と、真正面にこちらを向いて傷ついた小動物みたいな顔をしたので、
「まあ、徐々に、出来るように頑張ります」
みたいな言葉で乗り切った。


黒田さんは私に気を許している、と言うよりはむしろ好意すらあって、それは日を追うごとにあからさまになっていった。


第10話へ続く



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