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短編小説『Hurtful』 第3話 「マサ兄の登場、そして松葉杖」

第1話前話
薄ら目で腕時計を見ると、十七時だった。
となると、私は四時間も昼寝してしまったことになる。
部屋の洗面台で寝癖を撫でつけてから、よろぼい喫煙所に行くと、由美子さんが一人座っていた。

そして例の死角スペースに、見慣れない男性が一人。
しかし煙草を吸っていない。ただ立って、由美子さんと喋っているだけである。
どうやら私が昼寝している間に入院してきた人のようだった。

その人はキョドってるというか、ハイになってるというか、自分が何なのかもよく分からないといった様子で、ひたすらまくし立てていた。由美子さんに向かって、

「俺さぁ、服、全然持ってきてないんだよ」
と、可笑しくもないのにヘラヘラ笑い続けている。


「服なんかさぁ、スエットとかトレーナーとか、全部寄付しちゃったよ。寄付、寄付、寄付。こういうので困ってる人が居るんなら、俺としては少しでも役に立つんならと思ってさ。
あーやばい。ここに居ることバレないようにしなきゃ」

と言ってガラス戸から外をチラチラと様子を伺いつつ、ヘラヘラ笑っている。

どう見ても如何わしいというか、悪(ワル)。髪型も決まっている。一目で、その筋すれすれの人間か、その筋すれすれの人間の使いっ走りかといった風貌。

「いやーここに居ることバレたら。ふふふ。俺、いま『煙草禁止』にされちゃってるから。ここの副流煙を吸ってようってわけ。スーハースーハー。ふふふふ。由美子ちゃんが居て良かったよ。変わりない?俺はもう、ヤバイヤバイ」

そう言ってガラス越しをしきりに見ては引っ込んでいく。

「今さぁ、下のモンに電話して、ある程度必要になる物持ってきてもらうように頼んだんだよ。そろそろ来るかも。だからさぁ、菓子折り包んで持って来いよって言ったわけ。これからここで世話になるわけだし。看護婦にもね、ちゃんと挨拶しなきゃだよ。あーもう、見られてないかなぁ。ふふふ。俺なんか、こういう隅っこに居るのが一番いいの。俺なんかはこの隅っこで静かーにしてよっと」


「マサ兄、大丈夫?」
 由美子さんが言った。
「何か不安なの?」

「大丈夫大丈夫大丈夫。俺なんか、この隅っこに居ればそれでもういいの。満足満足満足」


マサ兄、と、由美子さんが呼ぶからには、前からの顔なじみなのであろう。以前にも同じ時期に入院していたことがあったのかもしれない。

マサ兄。名前はマサトなのかもしれないしマサキかもしれないしマサヒトかもしれないが、私もその日以降、この人のことを「マサ兄」と呼ぶようになっていった。

マサ兄の喋ってることは、さっぱり訳が分からなかった。
とりあえず彼の頭の中はカオス。エキサイトしまくっていた。
ヤバい奴が来てしまった。
もはや何で入院してきたのか、この人に限っては本当に分からない。うつなのか、躁なのか。でも統合失調症ではないだろうな。と私は勝手な判断をしたが、もしかしてひょっとして、クスリか何かやって、病院に送り込まれてきたのかも。

しかし、マサ兄がこのカオスを発動したのはせいぜい一日か二日で、だんだんと落ち着きを見せて、本当は慈愛に満ちた、この上なく優しい真面目な人であることが後々分かった。

ここにやって来る人たちはみんな、それぞれ困っているのかもしれないが、自分の個性を捨てきることができない真面目さがある。




「これね、本屋に行けば必ず置いてありますよ。店員に言えばタダでくれるから。俺、何読んだかこうやって印つけとくんだよ」

登郷さんが新潮文庫の目録をめくりながら、喫煙所のみんなに見せている。
この人は昼も夜も、だいたいいつもデイルームの机に向かって原稿用紙に何か書いている。
この前、コップを置いたまま喫煙所を出ていこうとしたので慌てて、
「これ、とうごさんのじゃないですか」と呼びかけたら、

「とうごうです」

と、苛々した声で一睨みされてしまった。

「ここにねぇ、いつか自分の名前が載るわけ」
登郷さんは目録を指でつつきながら大々的に笑った。いつもいそいそとしていて、人と喋る時は、偉そうというか結構な乱暴さもあって、いつも物書きをしているが一人で笑ったりもしており、知的なのかどうなのかいまいち判別しにくい。

私が珍しくデイルームのテレビの辺りをうろうろしていると、例によって丹野さんが話しかけてきた。丹野さんは、七十歳過ぎくらいのおばあちゃんで、愛らしいのだが、話しかけられたら最後、延々に捕まってしまう。

「私の娘がねぇ、二人居るんですけどねぇ、次女がね、モデルのコンテストで準優勝を取ったの」

これが丹野さんの自慢である。もう四回聞いた。

「今日ねぇ、娘が来るの。まだかしらねぇ。電話してもねぇ、まだ時間が分からないって言うの」

丹野さんは、結婚をしているその娘さん達にいつも朝の七時から電話を掛けまくり、娘の亭主が必然的に電話に出るらしいんだけれども、「今日は来てくれるのか」「いつ来るのか」と毎日、悪意のない電話を鬼のようにかけまくるのであった。
後に丹野さんのテレフォンカードは「預け」の対象となり、一日の中で電話を掛けていい回数が制限されることとなった。

「あなた、とっても綺麗だわぁ。羨ましいわ」
丹野さんは私に言った。

「丹野さんも綺麗」
と私が返すと、嬉しそうに笑って、テンションが上がるのであった。
ただ、丹野さんには上の歯がなかった。入れ歯がまだ出来上がってないということらしかった。


その日、杏ちゃんの身体に異常事態が起きた。

「膝が壊れた」
床に倒れた杏ちゃんが呻いた。
就寝前の、皆が団らんするひと時であった。
杏ちゃんは昔、柔道をやっていて、その時の怪我によって膝をもともと痛めていることは私も聞いて知っていた。今日も日中から、なんだか膝の調子がよくない気がする、と言っていた。夜、急に、右膝が猛烈に痛くなり、立ったり歩いたりが出来なくなってしまい、杏ちゃんは声を上げて苦しんだ。

聞くに、自分用の装具を持っているらしいのだがそれは家にあるということだった。だがしかし、とりあえず松葉杖がなければどうしようもない。急遽必需品であった。
杏ちゃんは、「どしたどした?」と、駆け寄ってきた男の看護師に、松葉杖を貸してもらえないかと頼んだ。だがしかし。

「それは、先生の許可が取れないと、できないんだよね」

「え、じゃあお願いします」

「今は先生、もう病院に居ないし、丘先生が来るのは明日の午後だから」

これには、杏ちゃんを取り囲む皆も、え?、とおもった。
そんなこと言ってないで早く松葉杖出せよ。
人だかりはだんだん大きくなった。杏ちゃんはもう、喋るのもキツそうである。
「そういう判断は、僕らが勝手にできる事じゃないんだよ」

こいつと、もう一人遅れてやって来た男の看護師二人が、今日の夜勤担当らしいのだが、二人とも全くもって使えない。私を含め何人かは苛々し、少し離れたところでは誰かがメソメソしはじめた。

「貸してあげてください」
と、私を含め二、三人がおもわず声を揃えた。
その夜は、デイルームに居合わせた人達みんなに動揺が走り、少なからず各々の感情にさざ波を立ててしまうこととなった。

ふと、マサ兄が私の横に静かに来て、
「あんまり言わないほうがいい。今日はもうしょうがない。みんなビビってるから。もう静かにしてたほうがいい」
と、いつになく冷静に呟いた。

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