さとくら

小説やエッセイを書いています。 姫路市在住。何者でもない成人男性です。 お問い合わせが…

さとくら

小説やエッセイを書いています。 姫路市在住。何者でもない成人男性です。 お問い合わせがあればsikisato0501@gmail.comにまでご連絡ください。

マガジン

  • 観光客として住む、歩く、そして書く。

    短いエッセイをまとめています。姫路に住んでまだ一年弱。結婚してまだ一ヶ月。あらゆることが新しく見えるさとくらのエッセイです。

  • エッセイ

    さとくらのエッセイをまとめています。

  • 日記2024

    さとくらの2024年の日記まとめています。

  • 日記2023

    さとくらの2023年の日記まとめています。

  • 西日の中でワルツを踊れ

    「西日の中でワルツを踊れ」をまとめています。

最近の記事

  • 固定された記事

32歳の男が今まで読んだ本から100冊を選別してみる。

 なにかを選ぶ作業をしたかった。   「1万時間の法則」というものがある。「1つの分野でプロレベルになるためにはおよそ1万時間の練習を必要とする」とのこと。  学生の頃、小説家は「1万冊の本を読めばプロレベル」になると聞いた。  僕はまだ1万冊の本を読めていない。  ただ、1万冊を読み切るための途上にはいる。長い山頂への道を歩いている中で、ふと立ち止まって後ろを振り返って自分が進んできた道を見る。  そういう作業を今回してみたいと思い、今まで読んできた本の中で特に印象に残っ

    • 勘違いも、恥も大人になると悪くないと思える日。

       子供の頃、僕は運動ができると勘違いしていた。  この勘違いの発端は自転車だった。今となっては疑わしいけれど、僕は三歳にして補助輪なしで自転車を走らせることができた。  自転車は乗り物だから当たり前だけれど、徒歩iよりも早く遠くへ行ける。この実感は僕を高揚させ同時に恐れさせた。  教科書に載っていた芥川竜之介の「トロッコ」は調子に乗って遠くまで行ってしまった結果、ひどい目に遭う。僕は自転車でどこまで行けるかと思った時、けれど帰れなくなったらどうしよう? と反射的に考える。

      • 月に一度の往復書簡集2024【郷倉四季⇒倉木さとし】小説家になりたいと思った日。

        【概要説明】  以前、カクヨムにて僕(郷倉四季)と友人の倉木さとしで往復書簡集というお互いに質問をして答えていく、という企画をしていました。  三〇代前半も半分が過ぎつつ僕は悩みが尽きないお年頃。漠然とぼんやり抱えている悩みを形にすると、スッキリすることに気づき、人生の先輩である倉木さとしさんに聞いてもらって、アドバイスまでもらおう。  というのが、今回の僕の出発点です。一応、毎月一回の更新をしたいと考えています。  お付き合いいただければ幸いです。  ちなみに、僕と倉木

        • 執筆には役に立たない「社会性」と「才能」のバランスについて。

           二十歳そこそこの頃の僕は小説を書く才能もなければ、社会性もなかった。  僕が見てきた小説家志望は「社会性がなくても仕事ができそう」という理由から小説家になりたいと言う人がちらほらいた。  小説家は面白い小説さえ書いていれば多少の社会性がなくとも生きていける。  今もこの幻想が蔓延しているのかは分からないけれど、少なくとも僕が小説を学ぶ学校にいた頃の教室には、そのような空気が流れていた。  小説家はフリーランスであり、個人事業主だ。  会社の所属することで免除されるあらゆ

        • 固定された記事

        32歳の男が今まで読んだ本から100冊を選別してみる。

        • 勘違いも、恥も大人になると悪くないと思える日。

        • 月に一度の往復書簡集2024【郷倉四季⇒倉木さとし】小説家になりたいと思った日。

        • 執筆には役に立たない「社会性」と「才能」のバランスについて。

        マガジン

        • 観光客として住む、歩く、そして書く。
          14本
        • エッセイ
          128本
        • 日記2024
          5本
        • 日記2023
          4本
        • 西日の中でワルツを踊れ
          28本
        • 掌編小説
          13本

        記事

          どこにも行きたくない僕の新婚旅行の悩み。

           新婚旅行はどうするの?  と入籍してから聞かれる。個人的にはあまり興味がない。あくまで個人的に。  妻は旅行が好きだと公言している。けれど、新婚旅行について今まで言及してこなかった。それは単純に妻の仕事が休みを取るのが大変ということもあるだろうし、僕がそれほど前向きではないことを察知してからかも知れない。  その分、妻から「誰々とどこどこに行って来ても良い?」と言うことは増えた。  僕は基本的に良いよと返す。別に許可を求める必要はないと思うけれど、おそらくこれは「だから、

          どこにも行きたくない僕の新婚旅行の悩み。

          結婚は「こわれた茶碗」だと言うけれど、良いもの。

           結婚が「こわれた茶碗」だと丸谷才一が書いたのは一九七二年に発表した「たった一人の反乱」だった。  ちなみに、その際の文章は以下である。  令和となった今も結婚という制度以外に「差し当たって代案がない」ように僕は感じる。家族になる、作る場合は「いろいろ具合の悪いところがある」けれど、結婚する他ないのだろう。  ある女性作家が昔、雑誌の対談で結婚は男性としかできないことが絶望という旨の発言をしていた。そんな女性作家も結婚していて、それをまとめたエッセイを出版していた。内容は

          結婚は「こわれた茶碗」だと言うけれど、良いもの。

          しがみついた子泣きじじいも亀のように首を伸ばすとは思わなかった。

           肩に違和感がある。  けれど、痛くて眠れないわけじゃない。朝、起きた瞬間少し痛む程度だ。  大丈夫。そう思って朝、部屋を出た。職場についた時点で肩の違和感は痛みと重みに変わっていた。肩に子泣きじじいでもしがみついているのだろうか。  少し泣きそうになる。  以前、エッセイで肩が痛いと書いたところ「出来れば肩こり専門の病院に行ったほうがいい」とマジレスされたのを思い出す。  三十代を超えてから友人たちが立て続けに身体的な問題を抱えていった。僕も三十三歳。良い大人だし、そろそ

          しがみついた子泣きじじいも亀のように首を伸ばすとは思わなかった。

          不機嫌が通貨になった世界で考えること。

           内田樹が「下流思考」の中で家庭内の通貨は「不機嫌」だと書いている。  いかに自分は会社で学校で理不尽な目に遭って疲れているか、という主張として不機嫌でいることが有用となる。その結果、家庭の中で自分こそがもっとも家族に貢献していると態度で示すことができる。  というのが簡単な要約になる。  この不機嫌の通貨は今や社会全体に浸透して、如何に不機嫌で損をしているかを伝えることで如何に自分たちが社会に貢献しているか(あるいは、損害を被っているか)を示すゲームになっているように見え

          不機嫌が通貨になった世界で考えること。

          正解のない自己紹介の流儀と葛藤。

           三十三年間生きて思うことに自己紹介を上手になりたい、がある。  思い返す限り上手に自己紹介できたなと手応えを得たことはなく、いつも不完全燃焼というか、もっとできたのではないか? という気持ちになってしまう。  そんな僕だけれど、一つ自己紹介において決めていることがある。 「じゃあ、自己紹介しましょう。誰からします?」  というシーンにぶつかった時、僕はなるべく「自分から良いですか」と手を上げるようにしている。  とはいえ、どんな場面でも自分からするわけではない。幾つかの

          正解のない自己紹介の流儀と葛藤。

          泣き言と共に二度寝する六月の土曜日。

           テレビで夏は長袖で寝た方が汗が逃げないので体を冷やしすぎないので良いと言う話を見た。今まで半袖半ズボンで寝ていた。  夏はいつもゆるく体調が悪かったのは、寝る時の格好だったのかも知れないと思って、ここ数日は長袖で寝ている。少し前に風邪をひいたこともあって、汗をかいた方が体の悪いものが出ていく感覚が残っていたのもあるだろう。  起きた瞬間、汗ばむ体に不快感よりも爽快感がある。テレビで言われた通り、体が冷えすぎていない。かと言って、暑すぎるというわけでもない。  程よく汗をか

          泣き言と共に二度寝する六月の土曜日。

          執筆には役に立たない「書くこと」と「読むこと」の関係性について。

           本を読んでいるか?  と問われれば自己認識では読んでいないと答える。ただ、読むことは大事だと思っているし、書くことと読むことは繋がっていると思っている。  本日は休日だった。妻も珍しく一日オフとのことで、妻の実家へ行ったり、買い物をしたりして過ごしても時間は余った。二人でだらだらする時、僕は本を読むかX(旧Twitter)をぼんやり眺めている。  そこで、X(旧Twitter)にて『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』の抜粋という文章が目にとまった。  あ

          執筆には役に立たない「書くこと」と「読むこと」の関係性について。

          雨だったり曇りだったり、時々晴れだったり。

           二〇二四年五月二六日に台風一号が発生した。その影響もあって五月の終わりは雨が多かった。暑いよりは少し肌寒い日々が続いた。  僕は一度、薄着で仕事に行ってしまい、そこでしっかりと風邪をもらった。電車に乗っている間、ティッシュが手放せなくなった。コロナ禍の頃は一度も風邪をひかなかったのに、日常が戻ってきてから僕は風邪をひくようになってしまった。  妻が気を使ってくれて夕食を温かくて栄養価が高いものにしてくれた。一度、鍋を作ってくれたのだが「風邪が伝染るよ」と言った。 「大丈

          雨だったり曇りだったり、時々晴れだったり。

          僕を守ってくれるものは分からないまま、日常は肩の痛みと共に続く。

           肩が痛い。  少し泣きたくなるくらい痛い。  昔から意味がないと言われながら、休日に寝溜めするタイプだった。学校や仕事、特別な用事がなければ僕はずっと布団の中にいて、二度寝三度寝を繰り返し、眠ることに疲れてまた寝るを繰り返していた。  ちなみに僕の夢は多様で、どれも内容は薄いのだけれど、実際に見たことある場所に連れていってくれる。妻いわく寝言も多いらしい。  一度、ずーっと敬語でなんか喋っている時があったとのこと。  上司と飲んだ時の記憶でも再現したのだろうか。  僕は

          僕を守ってくれるものは分からないまま、日常は肩の痛みと共に続く。

          習慣が歩いてきた道の軌跡を証明してくれると信じて。

           実家の前が農家だった。  その農家の息子さんが僕より四つ年上で、同じ登校班ということもあって弟と一緒によく遊んでもらった。大きく古い家で、古いドラマのセットの中に紛れ込んだと錯覚するような場所だった。  そんな家やビニールハウスの並ぶ畑で僕たちは本当に自由に遊ばせてもらった。  親同士も面識を持って仲良くなり、ある時期は息子さんのお姉さんが我が家によく遊びにきていた。うちの両親にむかって、お姉さんが恋愛相談をあーでもないこーでもないとしていたのをよく覚えている。  農家は

          習慣が歩いてきた道の軌跡を証明してくれると信じて。

          どこにもたどり着かない泣き言。

           エッセイを書いていると小説が書けない。そう思っていた時期があったし、今もちょっと思っている。  であるなら、エッセイを書くことをやめれば小説を書けるようになるんだと思った。けれど、未だに僕が望む量の小説を書ける日々を過ごせずにいる。  僕は小説を書くことをしんどい、辛いことだと感じているらしい。  いつからそう感じるようになったのだろうか?  僕が初めて小説のようなものを書いたのは十七歳の時だった。村上春樹の「ノルウェイの森」を読んで結末に納得ができず、僕が納得のできる結

          どこにもたどり着かない泣き言。

          観光客として住む、歩く、そして書く。

           安田謙一の「神戸、書いてどうなのか」というエッセイを読んでいる。一つ一つのエッセイが短く見開き一ベージで終わる。この短さが気軽な感じで良い。  章は五つに分かれており、一章目が「食べたり呑んだり、神戸」で次が「ぶらぶら歩く、神戸」となっている。  僕は姫路に住んでいて、神戸にはたまに行く。友達とご飯とか、休日に妻と遊びに行くとか、そういう時に神戸に赴く。ちょっと特別な日に行く街。  そんな印象がある。  考えてみれば、初めて妻とデートをしたのも神戸だったし、妻の両親と初め

          観光客として住む、歩く、そして書く。