月に一度の往復書簡集2024【郷倉四季⇒倉木さとし】小説家になりたいと思った日。
【概要説明】
以前、カクヨムにて僕(郷倉四季)と友人の倉木さとしで往復書簡集というお互いに質問をして答えていく、という企画をしていました。
三〇代前半も半分が過ぎつつ僕は悩みが尽きないお年頃。漠然とぼんやり抱えている悩みを形にすると、スッキリすることに気づき、人生の先輩である倉木さとしさんに聞いてもらって、アドバイスまでもらおう。
というのが、今回の僕の出発点です。一応、毎月一回の更新をしたいと考えています。
お付き合いいただければ幸いです。
ちなみに、僕と倉木さんでの企画は他に二〇一〇年代に実写化された映画について語っているものもあります。合わせて、読んでいただければ嬉しいです。
【人物紹介】
郷倉四季
三〇代前半。小説家になりたいと言っていきたい人。最近、結婚した。住居地は姫路で職場は大阪。執筆を新快速の電車の中でおこなう(半分くらい寝てる日もある)。本は寝る前に読む。映画は電車の待ち時間。倉木さんと出会った時が18歳なので、ずいぶん長い付き合いだなぁとしみじみ思っている。
倉木さとし
三〇代後半。三〇をこえたあたりから、年齢をきかれてもすぐに答えられなくなっている。最近は子育て優先のため、創作物のインプットがおろそかになりがち。アウトプットでつくった作品が育児費用にあてられるように、なんか頑張ろうかと思っている。宝くじを買うより現実的だろうしね。ちなみに、ノベライズで倉木佐斗志の名義で出版の機会に恵まれた。郷倉くんと出会って一年後の夏だったので、かなり昔の話。
【質問0 まえがきのような質問】
小説家になりたいと思ったのが、いつだったか覚えていますか?
僕はおそらく十七歳の頃でした。そこから考えると、少なく見積もっても十五年もの間、僕の日常の横には「小説」がありました。
個人的な言い方になりますが、十五年という月日の中で「小説」が分かったと思ったことは一度もありません。
むしろ長いこと眺めすぎたせいか「小説」というものを捉えれなくなっている気がします。もしかすると、僕はこの先の人生の中で、これが「小説」なんだと分かる時は来ないのかも知れません。
死ぬその瞬間まで「小説」とは何だったのだろうと思うわけです。
なんとヘンテコな人生でしょうか。
とはいえ「小説」でも分かるものはあります。
例えば、ジャンル小説です。
本屋さんへ行けばジャンルが棚で分けられているので分かります。
ミステリー、ホラー、SFなど分かりたいジャンルの棚へ行けばいいのです。
ジャンル小説において、見逃せないのが雑誌です。
ミステリーを知りたければ「このミステリーがすごい!」を、SF小説を知りたければ「SFマガジン」を買えば、ジャンル小説の今のトレンドが紹介されています。
その紹介に従って、分かりたいジャンル小説を10冊くらい読めば、ある程度のルールが分かってきます。
ただ、ここで分かるのはジャンル小説(ミステリー、SF)の現在のトレンドにおけるルールだけです。
東浩紀が「訂正する力」の中で以下のように語っています。
ジャンル小説もまた、存続するかぎりルールは変更されていきます。この点でスポーツと異なる点は、明確にルールブックの書き換えが行われるわけではないことです。
最前線でジャンルを引っ張る作家の新刊や出版社が刊行する雑誌をチェックしていくことでしか、トレンドの変化を確認することはできません。
とはいえ、じゃあ常に新刊と雑誌をチェックしていればいいのか、と言えばそういう訳ではありません。厄介極まりますね。
ここでも、東浩紀の「訂正する力」を引用させてください。
ジャンル小説は自然科学というよりは、人文学寄りでしょう。
であるならば、過去の著作を不要とするわけにはいかず、過去を学んでいく必要があります。
東浩紀が言う「じつは……だった」の理論は、今のトレンドのジャンル小説自体がまったく新しい理論というより、過去の理論の再解釈によって「じつは……だった」によって描かれていると見ることができる、ということでしょう。
シェイクスピアが言うには物語には36通りに分類できるそうです。どんなに新しく見える物語であっても、過去の類似作品や系譜を辿ることは可能で、それを「じつは……だった」の理論と言われれば、否定することは難しいでしょう。
つまり、あらゆる物語が語り尽くされた今、小説家としてデビューする方法を模索するのであれば、この過去の理論を復活させ「じつは……だった」と見せることなのかも知れません。
倉木さん、僕はさすがにそろそろ小説家としてデビューしたいと思うんです。
けれど、どうすれば良いんでしょうか?
漠然とした質問になってしまいますが、僕は何を書いてデビューすべきなんでしょうか? 言い方を変えれば周囲から見て、僕は何を書けば小説家になれると思われているのでしょうか?
そんな曖昧な問いを真ん中に据えて、今回の往復書簡集を始められればと思います。
さて、冒頭に戻ります。
倉木さん。
小説家になりたいと思ったのがいつだったか覚えていますか?
【質問0 回答】
倉木さとしが小説のようなものを初めて書いたのは、高校一年の二学期でした。
けど、あの頃は別に小説家になりたい訳ではなかった。
初期衝動は、あくまでも何かしらの創作がしたかったというものだった。本当は漫画を描きたかったしね。現在のように、手元にiPadがあって、それにクリップスタジオが入っていれば、漫画は無理でもイラストを創作していたかもしれない。
それぐらい、お絵描きのツールってすごいぜ。物書きが原稿用紙への手書きから、パソコンやワープロでの執筆に道具を持ち帰るのと、便利さは同じぐらいやろと思ってたら、レベルが違いすぎて驚いた。小説では、せいぜい書き直しや推敲や誤字脱字のチェックがはやくなるぐらいだったのに対して、マジですげぇや。
こんなことをほざいてる理由は、紙とペンの手描きでは絵を創れないイラストレーターでも、お絵描きツールを使って仕事を得ているのを目の当たりにしたからです。ツールを使って、トレースしたものを組み合わせて作り上げた『キメラ』が商品になる。創作したくてどうしようもないって衝動や熱がなくても、金はうみだせるのだ。
思うに、依頼された仕事をこなすのに一番重要なのは、形にして締切を守ること。ノベライズの仕事が依頼されて、作品に我を出しすぎたがために、出版前に一度流れた経験のある倉木が思う戯言です。その後、ノベライズで三冊出した倉木よりも、同じ時期にノベライズの仕事を受けて、後に死のうとするまで思い悩んだ男の方が、よっぽど小説家になりたかったのではないかとさえ思っている次第です。
前書きが長くなったのは、小説家になりたかったのがいつかを答える前に、言いたいことがあったからです。
倉木の考える前提として「小説家になる」と「デビューする」は、決してイコールではない。
少なくとも、ノベライズなどの依頼された仕事でのデビューではね。という話です。オリジナル作品でデビューなら、小説家になるとイコールなのかもしれないと期待している。
さて、あらためて「小説家になりたいと思ったのがいつだったか?」の回答にうつります。
前述した通り、創作したかっただけの高校生の倉木には、技術だけじゃなく足りないものはいくつもありました。書きまくることで、足りないものは後から身についていった。それこそ作品が完成してからテーマがわかるなんてこともままありまして。
そんな奴なので「テーマありきで作品をうみだした瞬間が、小説家になりたいと思った時」のように考えます。
もっと具体的に言えば、出版社の新人賞に応募したときですね。
初めての応募作品を通じて、どれだけ本気で小説家になりたいのかを、自らに問いかけていたような。
締切一日前に、思い立って小説を書き始めた。原稿用紙換算で五〇枚の作品を描いたのかな。プロットもなしに、一発書き。パソコンも持っていなかったので、手書きでした。そのため、作品は応募して手元に残っていないので、何枚書いたのかもうろ覚え。
天才ならば、それで受賞して、若くしてデビューし、ドラッグに浮かれて、いまごろ自殺していたかもしれない。そんな夢物語は起きることなく、マイホームに妻と猫と子供がいるという暮らしを三〇代でしているのが現実です。
時間を見つけて、ちょっとずつでも小説を書いている現在の倉木は、当時の自分を褒めてやりたい。想定枚数で終わらせて、完結させたというだけでも、一歩踏み出したのは間違いない。たとえそれが、うんこのついたトイレットペーパーみたいな完成度だとしても、自画自賛してもいいじゃないか。シャーペンの芯を擦り付けてうんこみたいな文字を綴ったとしても、その原稿用紙はうんこ紙とは違うはず。
いまにして思えば、創作意欲が先行してテーマをおざなりにしていたのも悪くない。どうしても伝えたいテーマがあって創作を始めていたら、小説ではなく音楽で表現していただろう。
たしか尾崎豊が、音楽を選んだ理由ってそんなだったはず。伝えたいことがある。でも、絵では見てもらえる人が限られているとかなんとか。だから音楽にしたとかなんとか。
と、ここまで語っているうちに、一つの問題が浮き彫りになった。じゃあ、最近は賞に応募していないから、小説家になりたいと思っていないのではないの?
はいそうです。なんて言おうものなら、往復書簡を再開する価値はないよね。安心して。ノベライズではないオリジナルでデビューしたいという気持ちは、二次創作にかまけていた頃だって忘れてはいなかったので。
そういや、倉木がオリジナル作品へのリスペクトをこじらせて二次創作を楽しんでいた頃、デビューとかを本気で狙わずに書いている人たちと絡むことがあった。
考えてみればおかしな界隈なのだ。二次創作の上位連中は、オリジナル創作の下位連中よりも、金を儲けられる土壌がある。たとえ金に興味がないとしても、SNSでいいねを貰いたい承認欲求モンスターにとっても、心地よいぬるま湯だ。二次創作はオリジナルよりも、人の目にとまって簡単に評価されるからなぁ。
などと二次創作に本腰を入れたことで気づいたことはいっぱいあります。せっかくなので言語化していく機会として、往復書簡を利用しようなんて勝手ながら考えております。
さて、初回のスペシャル特番ではないけど、もうちょっと続けようと思います。
郷倉くんが投げかけてくれた「曖昧な問い」の部分に関しても、せっかくなので回答を。
現時点で思っていることなど、往復書簡の回を重ねるうちに意見が変化していくかもしれない。という程度で聞いといてくださいな。
郷倉くんが、何を書けば小説家になれるかっていう問いですが、小説を他の人よりも読んでいる、小説以外も読んでいるという経験をいかすべきでしょう。得た知識を下地にして、幾つものエッセイを書いているだけでは勿体無い。
ちなみにエッセイなんですけど、個人的に既存の本や記事からの引用がない回が好きです。
小説を書いていない時の郷倉くんを倉木が知っているから、そっちの方が面白いだけじゃね? と言われそうなので、そうじゃねぇと、それっぽいことをこれから書いていきます。
まず、引用することに利点があるのを、二次創作をしてきた倉木も理解しております。
例えば、引用の元ネタを最初から共感していた人、あるいは引用元の作家を知っていた人なんかは、なんの引用もない時より興味を持ってもらえるという点は大きい。まずは、読んでもらえなきゃだから。そんな引用を、一行目から書き綴ったら特に目を引いて、そのまま最後まで読んでもらえるかもしれない。素晴らしい戦略です。
さらには、引用することで、エッセイ一本分の何割かの文量が稼げる。忙しい中、数を作っていこうぜという状況では、自らの拙い文章の完成度を上げるよりも、自分の心に留まった素晴らしい言葉を書く方が、楽だし読者の心に響くはず。
他にも引用をつかうパターンとしてありがちなのは、導入は自分の身に起こった事から入るけれど、その問題の解決のヒントとして、他人の言葉を借りてくる。それこそ、オチにあたる部分を引用すれば、終わりよければすべてよしじゃないけど、一本筋が通ったものになるでしょう。
これ実は、郷倉くんのことを書いてると見せかけて、二次創作をはじめたての頃の自分を批判しているだけだったりする。
二次創作でいうところの引用は、オリジナル作品で、公式が供給してくれた史実を利用することかな。
毎週一本は短い二次創作の物語を書いてネットにあげていた倉木は、公式のストーリーを引用して掘り下げるだけで、随分と楽をしてきたものです。一定水準のストーリーラインになるのも当たり前で、これなら忙しくても無限に書けるとさえ思いました。
ですが、同人誌即売会でネットにあげていた小説を製本するにあたっての大量に削る作業に入ったときのことです。削るのは、引用してきた箇所ばかりで、オリジナルで書いたところばかりが残りました。
倉木さとしが創作したのだから、書いていて面白い部分や、伝えたい部分は、やっぱり引用した部分には存在しない。当然と言えば当然の結果でした。
どうやら自分は、SNSで誰かの意見にいいねをつけて、その考えにのっかかるだけの思考停止はできないようです。他人の意見は完全に自分の意見と同じではないから、自分の意見はきちんと言語化しなければと切に思いました。
いいねの意見にのっかかる方が楽なのはわかりきっているので、茨の道です。言語化なんてしてしまったら、いいねの元が批判された際に、自分は手のひらを返して逃げるなんて、絶対にできなくなるのだから。
でも批判されようとも、言語化して責任をとれなければ、オリジナル作品なんざ苦しんでうみだせない。そして、そこに創作の面白いところがあるような気がする。
さて、隙あれば自分語りをしてしまって、話が逸れたのを反省し「郷倉くんが何を書ければ小説家に?」の回答に戻る。
ちなみにエッセイなんですけど、個人的に既存の本や記事からの引用がない回が好きです。
ここまで戻ってきた。
郷倉くんほど色んなものを読んで引用元のネタが増えたものならば、引用したものを噛み砕いて結論を導き出してきたのか怪しいと疑ってしまう。うがった考えなのはわかっているが、実は結論を先に考えておいて、その結論に説得力を持たせるために、色んな引用を用意しているのではないかと思う時もあるのだ。
引用ありきの結論を出すエッセイがベストだとしたら、結論ありきで引用するエッセイはベターと言ったところか。結論すら引用を使ったら、綺麗に終わってもそこに、郷倉くんを感じられない。
だからこそ、エッセイでオチがまとまらんかった回とか地味に好きなんよね。
しかも、そういう時って、郷倉くんが言語化できてないけど、読者には伝わってる時もあるから。
そもそも、小説ならば分かりきった結論ならば、描かないという手法もある。
てなわけで、様々な作品に触れてきた郷倉くんにこそ書いて欲しい小説は、今まで読んできた作品の勝手な続編です。映画とかでも、続編が作られるにあたって、監督や脚本家が変わってるのに公式の続編が作られるあの感じ。ああ、うまく言語化できないのが歯がゆい。
暴力的に言ってしまえば、郷倉くんが読んできた小説で、オチが納得いかなかったものの続編を勝手に作って欲しいのだ。これ以上は蛇足だと思って作者が終わらせた物語でも、その作品を受け取った読者が納得しているものばかりではない。そういう作品の続編を自分なりに書く技術はあるはず。引用してきたものからエッセイを組み立てられる郷倉くんならば、蛇足だと思われていたものを龍にすら進化できると思うのだ。ちょうど、今年は辰年じゃねぇか。
あくまで、こういうイメージという伝え方しかできなくて申し訳ない。
だからこそ、具体的にどうするかはこれから考えていこうぜ。
それこそ、詳しいジャンルとかストーリーラインについては『シェイクスピアの36』を掘り下げていくかね。
でも、アレってシェイクスピアが発表した数がそれぐらいだからとかじゃなかったっけ? シナリオの勉強してた時、もっと物語は少ないって教わったけど。
サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。