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積もり積もった失敗の上で生きる

先ほど、noteを開いて驚いた。過去、私のページ上で見たことない数のいいねが押されている。noteをよく書いている人たちや、言葉や文章が上手な人達からしたらなんてことない数だろう。でも、私からしたらとても大きな一歩だ。本当にうれしい。私の書いた文章を読んでくださった方、そしていいねを押してくださった方、ありがとうございます。一生懸命私の中から外側へと送りだした言葉です。うれしい。これからもぜひよろしくお願いします。通りすがりで出会ってくれたみんな、ありがとう。通りすがりって悲しい言葉だと思っていたけど、通りすがりも悪くないね。


昨日書いたnoteでも触れたけれど、私はとにかく自己開示が苦手、そして恥ずかしい。だけど少しずつ少しずつ、自分のために書いていきたいし話していきたいと思う。


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私の人生を振り返っても、そして今の私を考えてみても、失敗だらけの人生だなと思う。一番の失敗を教えて、といわれても困る。たいていが失敗だから。そして恥ずかしい経験だったり自分の中で隠したいことか忘れたいことか、そんなことばかりだ。気づいたら全てを失敗ととらえるようになっていた。マイナス思考が抜けない。

小さなころから、なんだか周りになじめない人間だった。おそらくずれていたんだと思う。自分ではそれがよくわからなかった。そんなことに気が付いたのも大人になってからで、むしろ気が付いてからのほうが最新の私だ。小学校や中学校の頃の友人は片手で足りるほどしかいない。(いわゆる知り合いはたくさんいるのかもしれないが)。空想の世界を生きているようで、そしてとにかく自分勝手な人間だった。いわゆる厨二病といわれる時期もたしかにあったと思うけれどそれを省いても、とにかく勝手で自己中心でなんか変な人間だったのだ。きっとそれでも周りはなんとなく合わせてくれていたし、静観してくれていたと思う。これを話すのはすごくしんどいけれど、いじめられていた、とはっきり認識できる時期もある。無視されていたり、馬鹿にされていたり、陰でこそこそなにかされたり。このことは本当につらくて今ここで、人生で初めて自分の外に出した。悲しいし恥ずかしいし何より屈辱だった。とにかく普通の人間になりたい私は、いじめられていた過去があるなんて誰にも言えなかった。変なところでプライドが高いのだ。もちろん、夫にも言っていない。うまくなじめなかった、いじめられていた。これは私にとって自分の人生の失敗になる。そしてこの失敗を、消化できる方法を私は今もわからない。どす黒い気持ちとなって今もずっと自分の体内にこびりついている。


そのほかにもたくさんある。高校時代は仲のいい友人がたくさんできた。今でも連絡を取ったり、お互いの近況に喜び合ったり、人生のターニングポイントや悩みによりそうのは大抵高校時代に出会った友人たちだ。本当に高校時代の三年間は宝物だった。それでも、高校時代の過去にも影はある。仲のいい友達はみんな容姿が整っていてモテていたことに自分が劣等感を感じ続けていたこと、塾の先生に恋をしていたこと、自分とタイプの違う人間への接し方がわからなくて話しかけられてもうまく笑えなかったこと、できない勉強があったこと、周りの友達が推薦で大学に入学してものすごく焦って嫉妬までしたこと。数えきれないほどある。これも私の中で失敗になる。なぜうまくできないのか、なぜ普通ができないのか、なぜ私はこんなに劣等感や嫉妬心ばかり抱くのか。

大学生になった私は地元から離れて、一人暮らしを始めた。少し気持ちはすっきりしていた。今までの私を知る人間がいない土地にやってきたこと。ここでなら、新しい人生と言ったら大げさだけれど、変われるのではないかという淡い期待を抱いていた。実際は違った。相変わらずなんだかなじめない私がいて、数えるほどの友人と過ごして、ぱっとしない毎日を送る。サークルに入ってみたしそこで熱心に活動もしたけれど、そこでも人間関係に悩んで体調を崩したし、メンヘラ女と馬鹿にされた。就職したのはいいけれど、大学時代に発症させたうつ病で体調を崩し続けてびっくりする速度で仕事を辞めた。結局失敗が増えただけの大学生活だった。

そんななかでも幸福なことに私と恋をしてくれる男性がいた。とても優しくておおらかな人だった。こんなに人のことを大好きになれるのだと思ったし、誰かに愛されることがこの上ない幸せだとも知った。だけどこれもまた、ある意味失敗だった。失う恐怖を覚えてしまった。ただでさえうまくいかない私の生き方は、さらにうまくいかなくなった。必死にその男性にすがるようになってしまったし、甘え方も間違えるようになった。困った顔を見ることも増えた。もう関係を終わりにしようといわれた。行きずりの関係のような、だらだらとして煮え切らない日々を過ごすうちに私は妊娠した。いわゆるデキ婚。世間ではこれも失敗に入るのだろう、よく非難の対象にされるし、実際非難されたし友人に縁を切られたこともある、私も当時は失敗した、と感じていた。


そう簡単に人間は変われない。一度落ちた影や抱いた違和感は形を変えてずっと自分につきまとう。悲しみや怒りや不安、嫉妬や懐疑心。今でも私の横にいる。数々の失敗をえさに、ほらまた今に失敗するよ、と。


結果から言うと、今の私の生き方も失敗にあふれている、といったけれど私の人生はかなり良いものになった。妊娠を機に付き合っていた男性と結婚して、無事に子どもも生まれた。子どもを愛せるのだろうかという大きな不安はどこかへ行くくらい、娘はかわいかった。その後、家族の関係はとても良好、二人目の娘にも恵まれた。仕事も始めたし家庭生活も、衝突は多々あれど毎日を懸命に生きていられる。忙しさにまかせて余計なことを考えることのない日もあるし、子育てに悩んで自分のことなどなりふり構っていられない日もある。だけどそれが私の失敗の影を薄くしてくれる。当時は失敗だと思ったけれど、そんなことはなかった。新しい家族が私にできたこと、これは人生で一番の成功と言っても過言ではないかもしれない。もちろん予想外の出来事だったから、当時の私にはそんなことはわからなかったわけだが。


昨年、ADHDや双極性障害が発覚して、これもまた自分にとってはマイナス、失敗であると強く感じた。そしていろんなことができない私は、部屋を散らかし、物事を中途半端に終わらせ、何を考えていたか忘れ、突然落ち込んだり、怒ったり、いろんなことに失敗しながら毎日を生きている。人をうらやんだり、妬ましく思ったり、嫌いだと思ってみたりすることもある。相変わらずの人間だ。


だけどそんな相変わらずの私は、今までの失敗の積み重ねの上に立って生きている。失敗でできている、劣等感の塊が私という人間であること、これは変わらない事実。きっとどの失敗が欠けても今の私は作られなかった。本当は自分のことを自分が一番愛してあげたいけれど、きっとその日はまだ先だ。それでもこうしてすこしずつ自分の話をするようになったこと、これが大きな一歩になっていると信じたい。これがまた、失敗になる日も来るのかもしれない。それでも失敗を積み重ねて生きていく私には、この一歩もなくてはならない失敗なのだ。






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