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The Tower 第1話【創作大賞2024 応募作品】

あらすじ

京都駅の壁面には、京都タワーが映る。
あの偽物のタワーは、まるで俺自身だ…。

塾の教室長を務める匡之は、かつて教育に熱心だった過去を捨て、持ち前の要領の良さと口の巧さで適当に仕事をこなし、時々仕事を抜け出してはセフレと会ったりパチンコを打つ日々を送っていた。

ある日、塾のバイト時代に教えていた生徒・楠村と再会する。当時不登校だった楠村は、顔も声も明かさず、オンラインチャットだけで授業を受けていた特殊な生徒だった。

初めて楠村の顔と声を知った匡之は、彼の口から語られるこれまでの経緯と感謝の言葉、そして深い人生観を聞き、自分自身を見つめ直していくのだが…。

教育を通して、生きる意味とは何かを見つめた物語。




 高瀬川の水面に、木漏れ日が揺れている。
 川沿いの喫煙所の石段に腰掛けて、匡之は虚ろな眼でその光を眺めていた。
 ふと空を仰ぐと、緑の天井が視界に広がる。川べりに並ぶ木々が、枝葉を豊かに茂らせて作ったものだった。
 ぬるい風が天井を揺らし、一枚の葉を川面に落とした。葉は、匡之の手元から昇る煙と同じスピードで、川下へと流れていった。その行方を見送ったのち、匡之は再び、水面で踊る木漏れ日を眺めた。

 この喫煙所は、京都の中心街である四条通りしじょうどおりのすぐ脇にある。都会のど真ん中にも関わらず、壁による仕切りのない開放的なつくりとなっていて、昨今の禁煙ブームで肩身の狭いスモーカーたちにとってのオアシスとなっている。
 梅雨明けの京都は異様に蒸し暑く、四条通りには人々が額や首筋に滝のような汗を流しながら行き交っている様子が見える。あまりにも喧しい蝉時雨の中、そんな光景を川辺の木陰から眺めていると、別世界にいるような感覚を覚えてくる。
 まるで仄暗い場所から世間を覗き見している、山椒魚のようだな、と匡之は思った。
 あれは、いつ読んだものだったか……。
 井伏鱒二のその名作は、確か高校生の頃に教科書に載っていたような気もしたが、今はもう話の内容もほとんど覚えていない。自分は生徒たちに「名作は読んでおけ」と偉そうに語る癖に……。所詮、大人なんてそんなものだ。
 匡之は煙草を消して立ち上がると、オアシスから抜け、砂漠のような世間の中へと紛れていった。


 河原町から四条大橋を渡り、京阪電車に乗り換える。
 個別指導塾に勤めている吉見匡之よしみただゆきの出勤時間は、通勤ラッシュとは無縁の12時で、毎日確実に電車の座席に座ることができる。ブラックだなんだと言われる塾業界だが、匡之にとっては朝がのんびりできるだけでこれ以上ない仕事だった。
 七条駅しちじょうえきで降り、七条大橋を渡ってすぐの雑居ビルの一階に、匡之の教室はある。
 鍵を開けて中へ入り、エアコンのスイッチを入れてからデスクへ向かう。椅子に座り、パソコンの電源を入れ、ぐうっと身体を伸ばす。
 仕事に入る前に、パソコンのradikoでFMをかける。女性DJが、今日の暑さについて大袈裟な口ぶりで文句を言いながらも、軽快なトークを繰り広げている。それではどうぞ、という合図の後、ポルノグラフィティの『ミュージック・アワー』が流れてきた。ベタな選曲だが、匡之にとって青春ど真ん中の曲で、思わず口ずさむ。
 「さ、ぼちぼちやりますかね」
 大きく一人ごちて、匡之はパソコンのキーボードを軽快に叩き始めた。

 京都七条教室の教室長であり、唯一の社員である匡之は、毎日こうして一人で仕事をしている。
 彼が勤めているのは、関西圏に100以上の個別指導塾を展開する教育系の会社である。各教室に一人、規模の大きいところで二、三人の社員が配属されていて、一人だけの教室は当然その人が教室長となる。
 教室長の仕事は、生徒の授業計画の作成、保護者対応、アルバイト講師の採用面接のほか、教室運営に係る様々な業務があった。授業を行なうのはアルバイト講師なので、匡之が教えることはない。
 社員が一人きりの教室運営は一見過酷に見えるが、教室長を勤めてから3年が経つ匡之は、気楽に働いていた。夏期講習や冬期講習などの繁忙期には多少バタバタすることもあるが、普段の業務は小慣れたものであった。
 他の教室長に話を聞くと、一人はきつい、人手を増やしてほしいという声がよく上がるが、匡之はそうではなかった。一人きりという点が、彼にとっては逆に都合がよかった。やることさえやって結果を出しておけば、ある程度手を抜いてもバレることがないからだった。

 教育というものには正解がない。
 一人ひとりの生徒と真剣に向き合えば、どこまでも突き詰められてしまう。
 授業方針や教材はどうするか、週に何回、どの科目を受けるのか、相性のいい講師は誰か……。
 教室長が考えることは山ほどあり、そのどれにも明確な答えはない。
 入社後、匡之が最初に配属になった教室に、三島みしまという教室長がいた。
 彼は教室長になったばかりの熱意に溢れた男で、毎日何時間も残業をして業務に励んでいた。一人ひとりの生徒の授業を見て回り、成績表とにらめっこし、講師と話し合い、授業計画の作成に時間をかけていた。
 しかし、どれだけこちら側が完璧と思えるものを用意したとしても、保護者や生徒が納得しなければ意味がない。

 三島は、そこが下手だった。
 熱意はあるのだが、顧客のニーズを汲み取れず、仕事に時間をかけている割には成果が少なかった。クレームも多く、その対応に追われているうちにどんどん他の業務が溜まり、休日出勤が避けられなくなっていた。
 そして日に日に顔がやつれていき、匡之の配属から3ヶ月が経った頃、精神を病んで退職した。匡之が彼のことを思い出す時に浮かんでくるのは、いつも保護者にペコペコと下げている後頭部ばかりだった。

 あれじゃ、だめだ……。
 三島を反面教師とし、匡之は常に「ある程度」で仕事をするようになった。そうしなければ、彼のようになってしまう。「ある程度」でいかに結果を出すか。それを目指していこう。
 その意識で仕事をするうちに、匡之はどんどんと「見せかけ」のスキルが上がっていった。特に保護者対応でその本領を発揮し、内容の薄いトークで保護者や生徒の心を掴むことに長けていた。

 三島の後任となった教室長は、放任主義ののんびりしたおじさんで、匡之のスタイルに口を出すことはなかった。そのため、匡之は自分のやり方で仕事を進めることができ、そして教室の売り上げをぐんぐんと伸ばしていった。
 その数字が匡之の活躍によるものであることが明らかになると、匡之は新規校舎の教室長に抜擢された。入社後わずか1年のことで、同期の中で最短の出世だった。
 それから2年半が経ち、匡之の「手抜き技術」はより磨かれていた。

 「……昨日もね、夜遅くまで担当講師と残って話し合っていたんですよ。それで講師が言うんです。ヒロキくんは真面目で優秀だからこそ、苦手な単元があるのがもったいない。ここでその苦手を潰しておかないと、受験勉強が大変になる」

 「お母さん、受験勉強は中3から始めるんじゃない。中2からすでに始まってるんです。この夏こそが勝負なんです...! ヒロキくんが来年になった時に後悔しないためにも、私も講師も、一丸となって頑張りたいと思っています」

「金額は多少高く見えるかもしれませんが、他の塾ならもっと高いはずです。ヒロキくんの将来を考えた時に、これが高く感じるか、安く感じるか……それはお母さんが一番わかっていることじゃないでしょうか」

 現在、7月下旬から始まる夏期講習に向けての面談期間の真っ最中だった。
 今日の面談は、中2の生徒の保護者だ。
 夏期講習は生徒ごとにオーダーメイドでカリキュラムを組むため、こうして保護者と面談を行い、生徒に合わせたプランを提案する。一コマあたりに料金が設定されているので、塾側としては、なるべく多くのコマ数を取らせたいが、あまりに高額なプランを提案すれば当然保護者は顔を顰める。かといって、怖がって少額で提案すれば、通りやすくはなるが売上は低くなる。
 高額なプランを通すためには、いかに保護者の心を掴むトークができるかが重要となる訳だ。
 そこで、「講師と一緒に夜遅くまで話し合った」などと言えば、説得力が増すし、保護者も安心する。もちろん、そんな話は嘘っぱちなのだが。

 匡之が行っているのは、学生講師に指示を出して、自分が担当している生徒のテストの点数や科目の得意・不得意、性格などの情報をまとめさせ、提出させることだけだった。
 あとはそれを元にそれっぽく話を組み立て、相手の情に訴えかけるようなトーク展開ができれば、大方は狙い通りに売り上げることができた。
 他の教室長たちは、生徒の現状を掴むために授業を見学したり、それこそ実際に講師と遅くまで話し合ったりしてるという。それによって、他の業務が溜まっていき、みんな残業や休日出勤をする羽目になる。
 そんなことやってたら保たないだろう。どうしてみんな、俺みたいに上手く頭と人を使って仕事をしないんだろう。
 みんな、熱血すぎるんだよ……。


 面談を終え、諸々の業務に区切りがついて時計を見ると、14時だった。匡之は社内の共有システムからカレンダーをひらくと、自分の名前の後に「14:00〜16:00 休憩」と打ち込んだ。
 講師と生徒がやって来るのは夕方以降なので、それまでに戻りさえすれば、基本的に休憩は自由なのだ。きちんと仕事さえできていれば、極端な話、何時間でも休憩を取っていいということになる。
 要領のよい匡之は、時々こうして長めの休憩を取り、外出をしていた。

 教室を出て、JR京都駅方面へ向かう。教室から京都駅までは、徒歩10分ほどで着く。
 駅前付近の銀行の入口の前に宇野葉子が立っているのを見かけると、匡之は小走りで駆け寄る。軽く挨拶を交わすと、二人は大通りから外れた細い路地に入り、ラブホテルに向かった。

 宇野葉子うのようこは、今年の3月まで匡之の教室で働いていたアルバイト講師だった。
 宇野がまだ勤めていた頃、担当の生徒のことで相談があるということで、業務終了後に二人で食事に行ったことがあった。夜遅かったこともあり、帰りは匡之が家まで送ったのだが、その際に流れで身体の関係を持った。
 その後は二人の間には特に何もなく、宇野は大学4年生になるタイミングで就活を理由にバイトを辞めた。
 しかし、その直後に宇野から就活のことで相談があると連絡があり、再び会うことになった。食事をしながら相談に乗り、また流れるようにホテルに行った。
 それ以来、匡之は度々「休憩」として仕事を抜け出し、彼女との逢瀬を繰り返しているのだった。

 事が終わると、匡之はさっさと着替えを済ませ、ベッドに腰を掛けて煙草に火をつけた。宇野は裸のままベッドに横たわり、匡之の指先から昇る煙を眺めていた。
 「……吉見先生」
 宇野が呼びかけると、匡之は気の抜けた声で「ん?」と返した。宇野は、アルバイト時代の名残で匡之を先生と呼んでいた。
 「私、不安なんです……内定、全然決まらなくて」
 彼女の細い声が宙を漂う。
 「まだ7月でしょ。夏までに決めないとあかん、とかよく言うけど、大丈夫や。自分に合った会社を、自分のペースで見つけるのが大事やからね」
 匡之は優しい口調で言うと、煙草を一口吸った。
 「でも、周りの友達はどんどん決まっていってて、私、このまま一人だけ取り残されちゃうんじゃないかって思うと……」
 ふうっと煙を吐いてから、匡之は宇野の手を握った。
 「大丈夫、大丈夫」
 宇野は薄く微笑み、ありがとうございます、と囁いた。
 匡之は笑顔で頷いたのち、煙草を消して、じゃあ仕事があるから、と言って立ち上がった。宇野の何か言いたげな目の潤みが見えたが、匡之は気が付かないふりをして部屋を出て行った。


 窓の外に京都タワーが見える。
 ただ、本物ではない。
 匡之はホテルを出た後、京都駅前まで戻り、雑居ビルの3階にある「ブラックバード」という喫茶店に入った。ここはコーヒーが美味い上に煙草が吸えたので、匡之のお気に入りの店だった。
 彼は宇野と会った後は必ずここに寄り、ブレンドコーヒーとサンドイッチのセットを注文し、煙草を吸いながら遅い昼食をとることにしている。

 店は京都駅の北側に位置し、駅の大きな壁面がちょうどよく見える。その壁はタイル状のガラスが一面に張り巡らされていて、そこに駅前に聳える京都タワーが反射して映っている。本物のタワーは見えない角度にあり、ガラスに映った偽物だけが、ここから見えるのだった。
 匡之は、その景色が好きだった。
 壁に映るタワーは、ガラスのくすみと比例して汚れていて、しかし実物よりも何故か艶かしい色彩で輝き、どこか揺らめきながら、確かにそこに映っていた。とても美しい佇まいだった。紛い物だけが放つ美だった。
 「先生」と呼ばれ、子供を未来へ導く教育者であり、一人で教室のマネジメントをこなす敏腕教室長でありながら、一方では煙草の煙に塗れ、元アルバイトの女と業務中に寝るような、俺そっくりではないか。
 あの偽物のタワーは、まるで俺自身だ……。
 匡之は、窓からその景色を見る度に、そんなことを思った。
 「ブラックバード」を出ると、授業までもう少しだけ時間があったので、匡之はパチンコを20分だけ打ってから教室へ戻った。


 そろそろ面倒くさい。
 宇野との逢瀬について、匡之はそう感じていた。身体だけの関係とお互いの認識があったはずが、どうやら最近、向こうはそれ以上のものを求め始めているようだ。
 宇野は、目が大きく、唇は厚く、そして身体の肉付きがよい、典型的な男好きする見た目をしている。その点で言えば、確かにいい女だった。ただ、精神的に甘いところがあり、自分中心に物事を考えるところがある。自己主張が強く、我儘だった。その容姿ゆえに常に誰かが彼女の願望を叶えてきたことが、その人格形成に繋がっているのだろう。
 実際、過去には彼女に夢中になった男子学生たちが何人かいたようで、皆、至れり尽くせりの「優しい男の子」だったと、宇野は語る。彼らの中には、恋人としてではない関係の者もいたらしい。
 いい大学に通い、授業にもしっかり出席し、成績もよく、ゼミでは副ゼミ長を務めているという。その上、塾講師のアルバイトをしていた経歴もある。一見、絵に描いたような優等生であるが、その裏には男を溺れさせる魔性の顔を持っている。

 匡之は宇野に、あくまで自分たちは身体だけの関係だとはっきり伝えていた。時折、毎日連絡を寄越せだの、たまには普通のデートをしろだの、誕生日には予定を合わせてほしいだの、我儘を言うことがあったが、自分たちはそういうのではない、と言い切り、上手くいなしていた。
 しかし、最近はどうも宇野が自分に本気になりかけている様子を感じる。就活の相談も、どうせ弱気な面を見せて気を引きたいだけなのだ。
 これ以上深く関わると、宇野の感情はエスカレートしていく恐れがある。あの身体を手放すのは惜しいが、そろそろ関係を切るべきか……。
 匡之はうーむと唸りながら、今日の勝ち分を財布から出して数え直していた。



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