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The Tower 第11話【創作大賞2024 応募作品】
冬枯れの鴨川沿いに寝転んで、匡之は高い空を見ていた。
夏にはカップルが等間隔に並ぶ風景が見られる鴨川の河川敷だが、寒い冬にはその数も少なく、間隔もずいぶんと広い。
河原町に近い辺りだと人が多いので、三条辺りまで進んだところで匡之は寝ていた。
首に巻いていたマフラーを外して枕にし、仰向けのまま煙草を咥えた。晴れた冬空に白い煙が上っていくのを見つめながら、匡之は三島からのメールについてずっと考えていた。
三島の目から見た自分は、恥じるようなものではなく、「初めから真面目に、熱心」だった、と書いてくれた。
俺は、俺自身を卑下しすぎていたのかもしれないな……。
俺は、ずっと自信がなかったのかもしれない。それが、効率化を考えたり、講師を育てたり、営業トークを磨くことに繋がっていたはずのに、自信がないばかりに、それを手抜きと思ったり、悪いことをしてるように捉えていた。
もっと自信があれば、何か変わっていただろうか。
でも、それはそれとして、宇野のことは完全に自分の落ち度だ。
そう思うと、結局何も変わっていないだろうと落ち込んだ。
しかし、三島は「今は、前だけを見つめてください。過去の失敗を必ず次に活かし、進んでください。吉見くんならそれができます」
そう書いてくれた。そして三島は、「これからも教育の仕事に携わってほしい」と書いた。
前だけを見つめる。今はそれしかない。そう思う。
でも、自分はまた教育の仕事に戻れるのだろうか。教育といっても様々な形があるが、どんな会社の、職種に就けばいいのか、匡之にはまったくイメージが湧かなかった。
空はよく晴れていたが、冷たい風が首元を通り過ぎたので、匡之は寝転がった姿勢のまま頭のマフラーを取り、首に巻いた。もうすっかり冬だ。塾では冬期講習の準備をしている頃かな……。
ふとした時に塾のことを考えてしまうのに疲れ、匡之は帰ろうと思った。
その時、背後から
「あれ、吉見先生……?」
と声が聞こえた。振り向くと、楠村が立っていた。
楠村は肩でぜえぜえと呼吸をしながら、こちらを見ていた。
匡之は驚いて起き上がり、思わず口に咥えた煙草を落としそうになった。
慌てて煙草を手に持ち、
「久しぶりやな……何してるん?」
と聞いた。楠村は照れくさそうに頭を掻いて、
「あの……ランニングを」
と答えた。
よく見ると楠村はジャージを履いていて、首にはタオルをかけている。
「僕、ずっと引きこもってたから、体力がなくて、いつもすぐ疲れちゃうんです……それで、大学の友達が一緒に走ろうって誘ってくれて」
「そうか。いやぁ、えらいなぁ」
あの楠村が、活発にランニングだなんて。それも、友達と……。
匡之は、楠村の成長と変化に感動した。
「あれ、でも友達は?」
一人きりで立っている楠村に、匡之は尋ねた。
「あ、友達は今日は、お腹が痛いって……」
「それで、一人で走ってるのか! 一人でもちゃんと走ってるんやな」
もし自分だったら、友人が来れない日には自分も休むだろう。匡之はますます関心して、楠村をまじまじと見つめた。久しぶりに会った楠村は、顔つきもどこか大人っぽくなったような気がする。ボサボサだった髪の毛もさっぱりして、今風になっている。白髪はまだ残っているが、髪型のおかげか全然気にならない。
しばらく見ないうちに垢抜けたようだ。きっと、大学での様々な出会いが、彼にたくさんの刺激を与えているのだろう。
「先生も、ランニングですか?」
楠村は、匡之がジャージを履いているのを見て言った。
「え? ああ、俺は違うよ。俺はね、寝てるだけ。俺、今ニートなんだ」
匡之が自嘲気味にそう言うと、楠村は表情ひとつ変えずに、
「そうなんですね」
と言った。
「驚かへんの……?」
「いや、少しびっくりしましたけど……人生ってきっといろいろだから……」
楠村の言葉に、匡之は声を上げて笑った。まったく、この子はどこまで大人なんだろう……。
匡之は楠村に自分の隣に座るよう促した。楠村は頷きながら腰をかけ、三角座りで鴨川を眺めた。
「僕も、ニートというか……なかなかバイトが決まらないんです」
楠村の沈んだ声に、匡之はまた笑った。
「まあ、それはニートではないけどな」
匡之も川の流れを眺めた。
「なんのバイトがしたいんや?」
「……塾講師です」
「えっ」
匡之は楠村の顔を見た。彼も、教育の世界に興味があるというのか。
それは喜ばしいことなのだろうか……。今の匡之にはわからなかった。
「塾は大変やぞぉ」
匡之が言うと、楠村はこくりと頷いた。
「はい、知ってます。吉見先生も、三島さんも、大変そうでした……でも、僕は二人のような先生になってみたいんです」
楠村は言うと、項垂れて、
「でも、面接に何度も落ちちゃいます」
と落ち込んだ。匡之は「そうか」と答えて、しばらく黙った。
沈黙の中、冬の川のごうごういう音と、川沿いの道を走るランナーたちの足音が時折聞こえるばかりだった。
一羽のユリカモメが、川の上を滑るように飛び、そして高く舞い上がったかと思うと、あっという間に遠くへ去っていった。その背を見送りながら、匡之は口を開いた。
「楠村くん、俺は、君が思ってるような人間とはちがう」
ボサボサの髪、無精髭、くたくたのジャージ、酒とパチンコと煙草にまみれただらしない生活。これが今の自分だ……。
楠村は匡之の方を向き、続きの言葉を待っていた。
匡之は目の前の景色を見つめながら、これまでの自分のことを楠村に話して聞かせた。
長い話を終えて、匡之は煙草に火をつけた。
楠村は、匡之の手元から上っていく煙を目で追いかけて、そのまま高い空を見上げていた。
匡之も空を見上げた。青い空に、キャンバスの端から端に筆で引いたような、長い一筋の飛行機雲が描かれていた。
「俺は、そういう人間なんや。クズなんや。だから、こんな平日の真っ昼間からパチンコに行ったり、川沿いでぼけっとしたりしてるんや。俺は、楠村くんが思うような立派な教育者とはちがう。わかってくれるかな」
匡之が言うと、楠村は空を見上げたまま、首を傾げた。そして、
「でも、何もわからなかった僕が、勉強をできるようになったのは、先生のおかげです。だから、僕にとっては、先生はいつまでも先生です。それは、変わることはありません」
と静かに話した。匡之は、黙って彼の言葉を聞いた。
「吉見先生、去年最後に会った時、先生は京都駅の壁に映った京都タワーを指差して、あれは俺やと言いましたよね」
「ああ、そうやったな……」
「あの言葉の意味を、僕は次に先生に会った時に聞こうと思いました。だけど、先生はそれから来ることはありませんでした。僕は何度も『ブラックバード』に行きました。そして、あの席に座って、鏡に映るあのタワーを眺めて、先生の言葉の意味を考えていました……あの時の口ぶりから、先生はたぶんネガティブな意味で言ったのだと思います。だからちがうと思うけど……僕は、あのタワーは鏡に映ってもすごくかっこいいなと感じました。鏡の中でほんの少し歪んだり、くすんだりしていても、空に向かって真っ直ぐ立つその姿を、その存在を示している……それがすごくかっこいいなって」
楠村はそこで区切ってから、
「鏡に映っていようが、偽物に見えていようが、少し間違えたり、失敗したりしても、先生が真っ直ぐで、かっこいい先生であることに変わりはないんだと思います」
と付け加えた。
楠村は匡之が何も言わないのを見て、
「あ、すみません、なんか。えらそうで」
と、頬を手でさすりながら謝った。
「ううん。ありがとうな。そんなふうに思ってくれてたんや」
匡之は、柔らかい笑みを楠村に向けて言った。
俺が、真っ直ぐで、かっこいい先生だというのなら、それは、きっと君のおかげだよ。匡之は、そう思った。
そして川の流れにまた目をやって、楠村が自分の生まれてきた意味であると話した、
「誰かを不幸にし、誰かに不幸にされ、その分、誰かを幸福にし、誰かに幸福にされる。それを繰り返していくこと」
という言葉を思い出した。
同時に、三島のメールに書かれていた「星の巡り」という言葉についても思い出した。
「楠村くんという一人の宇宙のような可能性を秘めた少年が、僕と吉見くんと、そしてもっともっとたくさんの人たちを繋げ、そして何かを与えてくれている。そんなことを思いました。
何かとは幸福や喜びだけではなく、たぶんもっと広い意味での何かなのだと思います」
俺は、この子に、楠村くんに、出会った瞬間からあまりにも多くのものを与えてもらっていたのだ……。
勉強を教え、与える立場のようでいて、本当はあの時から俺は、この子から幸福や喜びや、もっと広い意味での何かを与えてもらい続けていた。
この子は、これからもこうやって自分の生きる道を進み続けていくのだろう。そんな彼に、俺が何かできることはないだろうか。
匡之は煙草に火をつけ、思いを巡らせた。
そして、不意にある考えが頭に浮かんできた。
「なあ、楠村くん。俺と一緒に塾をやってみないか?」
楠村は目をまん丸にして、「え?」と声を漏らした。
「俺が塾を立ち上げて、君に講師として働いてもらうっていうのはどうやろう。塾のバイトやってみたいんやろ?」
「はい……でも、そんなことできるんですか?」
不安そうに尋ねる楠村に、匡之はにっと笑ってみせた。
「できるかどうかじゃなくて、やってみるんや。もちろん立ち上げにかかる資金は俺がお金を出すし、楠村くんは学生なんやから、あくまでアルバイトとして雇われてくれたらええ」
楠村は、匡之につられて笑顔になった。
「すごいな、先生は」
「この前まで支部長やってた男や。給料はめちゃくちゃ貰ってたんやでぇ。辞める少し前に入ったボーナスもえらい額やったし、結構貯金はあるねん。まあ、少しパチンコに使ったけど……」
楠村はうんうんと頷きながら、匡之の話を聞いていた。
「そうやな、塾のコンセプトとしては、ゴリゴリの進学塾というよりは、勉強が苦手な子や、事情があって勉強ができてない子に、楽しく勉強ができるような場を提供するというのがいいなぁ。テキストで勉強するだけやなくて、ちょっと遊びの時間やみんなで交流する時間を作って、楽しい場所にしたいなぁ。それで、教室には本をたくさん置くんや。俺は、そういう塾がいい」
匡之の言葉に、楠村がぱっと顔を輝かせた。
「いいですね、すごく。僕みたいな生徒が対象ということですね。子どもたちが本を通していろんな世界を旅して、豊かな情緒を育む……そんな塾だといいですね」
その表情はとても生き生きとしていて、匡之はそんな楠村の姿を初めて見た。
匡之は自分の太ももをぱしっと叩いた。
「よし、やるぞ。俺はやるぞ。時間はかかるかもしれんが、俺は必ずそういう塾を開く。そのためには楠村くんの力が必要や。絶対に必要や。力になってくれるかな」
匡之がそう言うと、楠村はなんの躊躇いもなく、
「はい、ぜひ」
と答えた。
「ありがとう……俺も、ちょっと走ろうかな。身体鈍ってるし」
楠村は「いいですね」と言うと、立ち上がって嬉しそうに足を伸ばしたり曲げたりした。
匡之も立ち上がって足を伸ばし、楠村と並んで走り始めた。
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