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The Tower 第3話【創作大賞2024 応募作品】


 7月下旬のある日、匡之は体調を崩して仕事を休むことにした。
 匡之は事務員の鈴木と、講師アルバイト用の全体ラインにその旨を送った。何かトラブルがあれば連絡するように伝えているが、うちの優秀な事務員と講師はだ。よほどのことがなければ、連絡が来ることはないだろう。
 それにしても、体調不良とは久しぶりだな……。
 熱はなかったが、頭痛がひどく、身体がだるかった。面談を頑張りすぎたかもしれない。

 夏期講習の面談をすべて終えた匡之は、過去最高の売上を叩き出していた。受験生はもちろん、中2や高2のほとんどの生徒にも講習を受けさせることに成功していた。また、中1や小学生など、普通なら取りにくい学年の受講率も悪くなかった。
 匡之は、今年は本気だった。この暑さの中で本気を出し過ぎて、ついに体調を崩してしまったようだ。しかし、この売上なら京都支部長の座もほぼ確実だろう。
 支部長になって給料が上がったら、外車でも買おうか。もっといい部屋に引っ越してもいいな……。
 ベッドの上に横たわり、頭の痛みも忘れて匡之は悦に浸っていた。


 目を開けると、視界の端にカーテンの隙間から差し込む夕暮れが見えた。どうやらすっかり熟睡していたようだった。
 起き上がると、頭痛はすっかり治っていた。エアコンの効いた部屋中に夕方の気配が満ちていて、匡之は穏やかな気持ちを覚えた。仕事の日は、帰る頃には外はすっかり暗くなっているし、休日も大抵パチンコか、どこかに出掛けていることが多く、こうして部屋でのんびりした時間を感じるのはずいぶんと久しぶりだった。

 腹が減っているのに気が付き、匡之は着替えてから外へ出て、近くのサイゼリヤへ向かった。
 店に到着し、メニューを眺めている時、携帯が鳴った。見ると、鈴木からだった。
 あの優秀な鈴木さんが、何事だろうか。まあ、どうせ保護者のクレームとかだろう。それなら、こちらから直接電話をかけてさっさと対応すればいい。
 余裕をかまして鈴木の電話に出た匡之は、予想外の内容に絶句した。

 「吉見先生、お休みのところすみません……今教室に若い女の人が来てまして…… 何か、吉見先生に弄ばれたとか、色々と喚いてはるんです。どうしましょう……」

 宇野だ。
 宇野がついに教室に押しかけてきたのだ。
 匡之は再び頭痛がし始めるのを感じながら、
 「とりあえず向かいます」
 と鈴木に伝え、サイゼリヤを飛び出して教室へと急いだ。
 「忙しくて会えない」と告げた後も、宇野からの連絡は度々来ていた。しかし匡之はそのほとんどを無視していた。
 いずれ電話がかかって来るだろうと予測していたのだが、その時には夏期講習の諸業務で忙しいことに加え、今は俺にとって大事な時期で仕事に専念したいなどと適当に言って、あとはひたすら謝ればさすがにわかってくれるはず、とシミュレーションをしていた。
 だが、なぜ教室までやって来るのだ。それも俺が休みの今日に限って……。
 匡之は、外の蒸し暑さと頭痛も相まって、苛立つ気持ちを抑えきれなかった。そして教室に着き、宇野の顔を見るなり、
 「なんで来たんだ!」
 と大声を出してしまった。
 教室の真ん中で喚いていた宇野は、大きな目をさらに大きくし、そこに驚きと怒りの感情を宿して匡之を睨みつけた。
 「ひどい、ひどい……!」
 ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、宇野が叫ぶ。匡之はハッと我に返り、血の気が引くのを感じた。授業中の生徒と講師が、怪訝そうにこちらを見ている。鈴木も困惑した表情で匡之と宇野を交互に見ている。
 これはまずいことになった……。
 「ああ、鈴木さん、すみません。あとはこちらで対応しておきますので……さ、ほら、みんなも授業に集中して。この夏は大事だからなぁ」
 匡之はなんとか冷静に、明るく振る舞い、ざわついている教室全体に呼びかけた。 
 「何よ、対応って! 人を厄介者みたいに……!」
 匡之は金切り声で叫ぶ宇野の手を掴み、裏口へと引っ張っていった。その間も宇野は離して、離してぇ、と叫び続けた。その尋常ではない様相に、鈴木が警察に電話をするジェスチャーをしたが、匡之は強く首を振った。
 警察を呼んで事情が知られたら、当然会社にも連絡がいくだろう。そうなれば俺は終わりだ。元アルバイトと身体の関係を持った挙句、ヤリ捨てしたなんてことは、誰にも知られてはいけない。

 裏口から外へ出ると、宇野は一層喚き、匡之の肩や胸を何度も叩いた。
 「悪かった、悪かったから一度落ち着いてくれ」
 匡之は何度もそう呼びかけたが、宇野は叩く手を止めることなかった。手の甲が顎に当たり、そのあまりの勢いに匡之はひるんだが、強い力で掴んで制した。
 「痛い、痛い! 離して、離してよぉ!」
 宇野は耳をつんざくような金切り声で絶叫し、もう片方の手で匡之の頬を打った。匡之はとうとう耐えかねて冷静さを失い、
 「いい加減にしろ! 迷惑なんだよ!」
 と、怒鳴った。宇野はひっと小さく悲鳴を上げると、叩く手を止め、頭を抱えて俯いた。
 しばらく、二人の呼吸だけが聞こえる静寂が続いた。やがて匡之は大きく溜息をつき、 
 「……悪かった、俺が悪かった。どうしても忙しかったんや」
 と、静かに言った。宇野は声も上げずにただ目から涙を流し続けていたが、匡之の言葉を聞くと嗚咽混じりに口を開いた。
 「嘘ばっかり。どうせ私のことがめんどくさくなったんでしょ」
 違う、違うと全力で否定してから、匡之はシミュレーションをした通りの文言を宇野に伝えた。
「嘘ばっかり、嘘ばっかり。どうして、どうして」
 宇野は、匡之が話している間中、同じ言葉を呪詛のように呟き続けていた。匡之は何度も「話を聞け」と怒鳴りたくなる気持ちを抑えて、あくまで下手に出ながら宇野を説得した。
 言い終えると、匡之はふうと息を吐いた。
 さあ、どう出る。おそらく納得しないだろう。
 長期戦を覚悟して、近くのカフェにでも移動した方がいいだろうか。
 あれこれと考えを巡らせている間、宇野はいつしか無言で下を向いていた。
 そして、パッと顔を上げたかと思うと、
 「わかりました……それなら、しょうがないですね」
 と、涙声で言った。
 匡之は思わず「えっ」と声が出たが、すぐに苦しげな表情を作ってみせた。
 「……申し訳ない。本当に」
 深々と頭を下げる。こんなにあっさりと引いてくれるなんて。少し怖い気もするが、ともかく有り難い。匡之は心の中でガッツポーズをした。
 「でも、ひとつだけお願いがあります」
 宇野の言葉に匡之が顔を上げて「何?」と聞くと、
 「……最後にもう一回だけ、私としてください」
 と、宇野は潤んだ瞳で匡之を見つめて言った。
 「わかった。これで最後だからね」
 匡之は宇野の頭をポンポンと叩いて、優しく言った。小さく頷いて、宇野は去っていった。
 煙草を咥えて、匡之は虚空を見つめた。初めのヒステリーが嘘のような彼女の引き際に、多少の疑念は残りつつも、とりあえずこれで一件落着だ。匡之は煙とともに溜息を吐いた。

 教室に戻ると、鈴木が心配そうにこちらを見ていた。
 「大丈夫でしたか……?」
 「ええ、なんとか。いや、お騒がせして申し訳ないです」
 「あの人、誰なんです?」
 「ああ……あの人は、その、知り合いで……ちょっと思い込みが激しいところがあってね。その、僕が弄んだとかっていうのは、全くのでっちあげなんです」
 「そうでしたかぁ」
 鈴木は、憐れむような声を出し、「お休みのところすみませんでした」と頭を下げた。
 匡之も鈴木に頭を下げ、ふらつきながら教室を後にした。


 外はもうすっかり暗くなっていたが、匡之は真っ直ぐに帰る気になれなかった。パチンコにでも行こうかと考えたが、それも気分ではなかった。
 「ブラックバード」で一服でもするか……。
 匡之は、重たい足取りで店に向かった。
 窓際の席に着くと、ナポリタンとブラックコーヒーを注文した。サイゼリヤを食べ損ねていたので、空腹が限界に近かった。
 煙草に火をつけ、先程の宇野との騒動を思い出す。どっと疲れが押し寄せてきた。そもそも今日は体調不良で休んでいたはずだ。なぜこんな目に遭わなければいけないのか。匡之はむしゃくしゃして、いつもはすることのない貧乏ゆすりをした。
 煙草を吸いながら窓ガラスに目をやると、微かに自分の顔が映っていた。その顔のあまりの生気のなさに、思わず笑ってしまう。
 運ばれてきたナポリタンをずるずると音を立てて啜っている時、背後から
 「吉見先生ですか」
 と声をかけられた。匡之は驚いて、口からパスタが垂れ下がった状態のまま振り向いた。そこには、見知らぬ男が立っていた。

 年齢は、大学生ぐらいだろうか。髪の毛は短いがボサっとしていて、眉毛も濃い。鼻は低く、頬にはニキビの跡なのか、ボコボコとした凹みが目立つ。服装は白と黒のチェック柄の半袖シャツに、くたくたのジーンズ。
 お世辞にもいい男とは言えない。それどころか、かなり野暮ったい見た目をしている。しかし、窪んだ目の奥には、どことなく聡明さを感じさせる光が揺れていた。
 「……どなたでしょうか」
 ナポリタンを飲み込んでから、匡之は男に尋ねた。男は手で頭をボリボリと掻くと、「あ、いや」とボソボソ言った。そして、次は腕をしきりにさすりながら、床に目を落としたり天井を見上げたりした。
 男の挙動を気味悪がりながら、匡之は記憶の糸を辿った。
 「吉見先生」と呼ぶということは、うちの教室の卒業生だろうか。しかし、どれだけ思い出そうとしても、こんな生徒はいなかった気がする。
 それにしても、なぜ自分から話しかけておいて、この男は名乗ろうとしないのだろうか。
 「あー……どなたか教えてくれないなら、お引き取りいただけますかね。飯食ってるところなので」
 苛立った口調で匡之が言うと、男は焦って、
 「すみません」
 と謝り、そして、
 「ぼ、僕は、く、楠村です」
 と言った。
 「……へ?」
 匡之はぽかんと口を開けて、彼を見つめた。
 楠村と名乗った男は、バツが悪そうな表情で腕をさすり続けている。
 「楠村って、あの楠村くんか……?」
 「はい……先生の授業を受けていた、あの楠村です」
 男は、匡之がオンライン塾のアルバイトで担当していた、顔も声も知らないあの楠村だった。
 「な、なんで、ここにいる……?」
 「あ、その、近くを寄ったもので……」
 それだけ言うと黙ってしまった楠村を見て、匡之は、
 「そうか」
 とだけ答えた。
 彼が本当に楠村だとすれば、かつて不登校で、いろいろと訳ありだったことを思い出し、これ以上聞くのも悪いと思ったからだった。
 「とりあえず、座ったら」
 匡之は自分の前の席を指差した。そろそろ後ろを振り向いたまま喋るのが辛くなってきた。
 ああ、はい、と言いながら、楠村は椅子に座る。
 匡之がメニューを差し出すと、ぺこりと頭を下げて1ページ目を開いた。ひとつひとつ確認していくような目の動きを見て、匡之は「おいおい…」と心の中で呟いた。
 目上の人間を前に、まさか全部のメニューを時間かけて見ていくつもりじゃないだろうな。こういう時はさっさとコーヒーにでもしろよ……。
 まあ、不登校だった彼には、きっとそういう社交性が身についていないのだろう。匡之はナポリタンの続きを啜りながら、改めて楠村の姿を見た。
 本当に楠村なのだろうか……。
 でも、そうでなければ誰がそんな嘘をつくことができる? 
 それにこの雰囲気……。今目の前にいる彼の纏う雰囲気は、画面越しで授業を受けていた顔も声もわからない楠村に感じていたものと、まったく同じだったのだ。
 匡之は不思議な感覚を覚えたが、彼が楠村であることは間違いないような気がしていた。
 「今、いくつになった?」
 匡之が尋ねると、楠村はゆっくりと顔を上げて、
 「20です」
 と言って、またゆっくり顔を下げた。
 最後に授業をしたのが5年前で、楠村は15歳だったはずだ。そうすると、彼はいま20歳ということになる。やはり、この子は楠村だ。匡之は確信した。
 「先生は、いくつになりますか」
 メニューを見ながら楠村が聞いた。
 「俺は27歳だよ。お互い、歳取ったな」
 「はい」
 「……初めましてやな」
 楠村は再びメニューから顔を上げて、匡之の目を見た。
 「僕は、先生の顔を知っていました」
 「そりゃ、君の方はそうやろ。俺は、今日初めて君の顔を見た。なんだか、不思議な気分やわ」
 「……アイスコーヒーにします」
 「えっ」
 唐突な申し出に戸惑っている匡之を他所に、楠村は「すみません」とくぐもった声で店員を呼ぶ。
 注文を済ますと無言になり、店内を見回したり、再びメニューに目を落としたり、テーブルの上に置かれた自分の手の甲の血管を指でなぞったりしている。
 あれだけ悩んで、結局アイスコーヒー……? 
 なんなんだこいつは。何を考えているのかさっぱりわからん。それに、さっきからずっと挙動に落ち着きがない。感動の再会どころか、不快な気持ちにすらなってきた。
 いやいや、彼はこういう子なんだ。いろいろと訳ありだったし、これもまた彼の個性だ。匡之は煙草に火をつけると、深呼吸のように深く吸って吐き、苛立ちを鎮めようと努めた。
 「……煙草、大丈夫か?」
 「えっ、あっ、はい」
 「そうか……嫌やったら言うてな」
 楠村は「あ、いえ」と小さく返事をした。アイスコーヒーが運ばれてくると、シロップとフレッシュを2個ずつ入れ、ストローでちゅうちゅうと飲み始めた。コーヒーは基本ブラックで飲む匡之は、その甘ったるそうな薄褐色の液体を見て苦笑いした。
 「今、京都に住んでるの?」
 「あ、はい」
 「そうか。20歳ってことは、今は……」
 一般的には大学生かと聞くところだが、彼の場合、さまざまな進路が考えられて、匡之は言葉を濁してしまった。
 「今は、大学生です」
 楠村が答える。匡之は驚きとホッとした気持ちを同時に抱き、
 「おお……」
 と言うことしかできなかった。
 「塾をなぜやめたのか」「その後、どうしていたのか」
 彼に聞きたいことはいろいろとあったが、どう聞いていいものかわからず、匡之は黙ってしまった。
 「先生は、今、何してるんですか」
 楠村が聞く。
 「俺は、今塾の教室長をやっているよ」
 「え、あの塾ですか」
 楠村は自分が通っていたオンライン塾だと思ったようで、匡之は首を振った。
 「いや、今のところは違ってな……」
 匡之は、大学卒業後から今に至るまでを楠村に話して聞かせた。

 話し終えると、匡之はふう、と息を吐き、新しい煙草に火をつけた。楠村は匡之の手元のマルボロの箱を見つめながら黙っていたが、やがて、
 「先生は、やっぱり先生なんですね」
 と言った。
 「……まあ、今は授業は教えてないけど、先生と呼ばれることは多いな」
 匡之がそう答えると、楠村は、
 「すごいです」
 と、ぽつりと置くように言った。
 すごくないよ。匡之は心の中で言ったが、実際に口から出たのは、
 「日本の教育に少しでも貢献したくてな。微力やけど、俺なりに頑張ってやってるよ」
 そんな言葉だった。
 「すごいです」
 楠村が、再び同じ言葉を口にした。
 まったく、自分でも笑ってしまうほど、俺の口からは出まかせばかりが出てくるな。楠村がそれを知ったら、どう思うだろうか。
 「先生」
 楠村が口を開いた。
 「ん?」
 「……あの、僕は、不登校でした」
 「うん」
 「でも、大学に行けました」
 「うん」
 「僕はきっと……先生に会わなければ、大学なんて行けなかったと思います」
 匡之は楠村の顔をじっと見つめて、
 「……そんなことはないやろ。俺が教えてたんは君が中学の間だけや。大学に入れたのは、君が頑張ったからや」
 と言った。楠村は少し沈黙した後、
 「先生は、全然勉強ができなかった僕に、優しく教えてくれました。だから、勉強ができるようになって、それで、その後も勉強を頑張れました。だから、先生のおかげで、僕は大学に行けました」
 と、所々つっかえながら話した。抑揚のない声だったが、力強い響きがあった。
 「ありがとうございました」
 深々と頭を下げる楠村の頭頂部は、うっすらと禿げていた。よく見ると、若干数ではあるが、白髪も混じっている。
 匡之は、楠村の白く、薄い頭頂部から目が離せなかった。
 まだ20歳だというのに。ずいぶんと苦労してきたんだな。
 中学時代に彼が不登校になった原因は聞いていなかったが、家庭環境か、学校の人間関係やいじめか……。ともかく、彼を取り巻く環境に問題があり、学校に行くことができなくなったことは確かだ。勉強にどんどん遅れていくばかりではなく、他者とコミュニケーションをとる機会もなく、社会そのものから取り残されていった。
 それでも、楠村は頑張って、諦めないで、大学まで進んだ。具体的にどんな経緯があったのかはわからないが、死にものぐるいで頑張った時期があったことは間違いない。この目の前に見える髪の毛がそれを物語っている。
 その頑張るきっかけとなったのが、俺との授業だったと言うのか……?
 「楠村くん」
 楠村は顔を上げて匡之を見た。
 「今通っているのは、京都の大学かい?」
 「……はい」
 楠村が小さく答える。匡之はふと頭によぎったある予測が当たっていることを確信し、首を小刻みに縦に振った。
 「……どこの大学や?」
 楠村は、照れたように目を伏せ、小さな声で「京大です」と答えた。
 やはりそうか……。
 匡之の教室に勤める学生講師の中には、京大生も何人かいる。彼らは他の大学の者たちと比べると、個性的で、独特の世界観があり、柔和な顔つきをしているが、その目には苛烈な受験戦争を勝ち抜いてきた者だけが持つ鋭い光が宿っていた。楠村の纏う雰囲気、そして眼光は、彼らのそれと同じだと匡之は気がついたのだ。

 匡之は全身に鳥肌が立つのを感じた。まさかあの不登校だった楠村が、京大生になっていたなんて。
 自分がかつて目指していた教育とは、こういうものだった。
 元々勉強ができる生徒に小手先のテクニックを教えるようなものではなく、勉強が苦手な生徒や、勉強の機会に恵まれない子どもに勉強の楽しさを教えたかった。そして、彼らが自主的に勉強するようになり、最後には自分の力で目標を達成できるようになってほしい。自分はあくまで、その手助けをするだけ。
 それが匡之の理想の教育だった。
 もうとっくに諦めていたことが、時間を超えて、今になって叶った。それは匡之の胸に感慨深い気持ちをもたらした。
 「おめでとう。よく頑張ったな。嬉しいよ」
 楠村を讃え、匡之は手を差し出す。楠村は不器用な動きで匡之の手を掴み、二人は握手を交わした。
 「ありがとうございます」
 礼を言うと、アイスコーヒーをごくごくと飲み始めた。
 その姿を眺めているうちに、匡之は全身にどっと疲れが押し寄せるのを感じた。
 思えば、今日は病欠した上に、校舎に押しかけてきた宇野の対応で、体力と気力が相当削がれていた。
 そこへ、突然の楠村との再会である。今日はずいぶんと密度の高い一日だった。
 他にも聞きたいことはあったが、匡之は今日はもう帰ることにした。
 「また、日を改めてゆっくり話そうか」
 「あ、はい、ぜひ」
 じゃあLINE交換しよう、と言ってスマホを取り出す匡之に、楠村は首を振った。
 「あ、僕、LINEやってないんです」
 「え? あ、そう……じゃあメールかSMS教えてよ」
 「すみません……スマホ、持ってないんです」
 「……まじ?」
 楠村はこくりと頷き、アイスコーヒーをずずずと音を立てて飲み切った。 
 匡之は苦笑いしながら、今時そんなやつがいるのか、と心の中で呟いた。
 「わかった。じゃあここで会おうか。俺は仕事の休憩中か、退勤後によくこの店に来てるから、君も暇な時に来てもらえばそのうち会えるやろ。それでどうや?」
 自分から日を改めようと言った矢先だが、スマホを持っていない楠村と具体的な約束を取り付けるのは面倒な気がして、匡之はそう提案した。
 楠村は「はい」と返事をした後、
 「先生が、先生を続けていて、あの、嬉しいです」
 と言った。そして突然立ち上がり、無言でトイレに向かった。
 アイスコーヒーをがぶ飲みしたせいで、尿意を催したのだろう。あんなに勢いよくコーヒーを飲むやつは初めて見た。本当に変なやつだ。
 楠村がトイレに行っている間に二人分の会計を済ませ、再び席に座ってぼんやりと窓の外を眺めた。そこには、例の壁面の京都タワーが見え、夜のライトアップで白く光り輝いていた。
 綺麗な光を纏いながら、歪な形で映る偽物のタワーをじっと見つめ、匡之は楠村の口から放たれた「先生」という響きを脳内で反芻していた。


 ベッドに転がって、天井を見つめる。今日は長い一日だった。疲れた。
 明日、講師が出勤してきたら、今日のことの説明をしなければいけないな。いくら真面目で優秀とはいえ、まだ若い学生たちにとっては、女が泣き喚きながら押しかけてくるなんて大スクープだ。きっともうすでにあることないことを噂し合っているに違いない。それが何かの弾みで本社の人間の耳にでも入ってみろ。俺の京都支部長への道も終わりだ。それどころか、もっとひどいことになるかもしれない。
 匡之は、お得意の話術で話を丸く収めるためのシナリオを、頭の中で組み立て始めた。
 大体の筋書きが出来上がり、匡之は明日に備えて寝る体勢に入った。

 目を閉じると、今日出会った楠村の顔が脳裏に浮かんできた。
 ……あんな顔で、あんな声してたんだな。なんだか不器用で独特な感じだったけど、それでも今は立派な京大生だもんな。
 俺のおかげって言ってくれたな。俺、嬉しかったよ。
 今の俺はもうあの頃の俺じゃないけど、直志みたいに真っ直ぐじゃなくて、歪んでしまったけど、もう一度頑張ってみようかな……。
 匡之はぐるっと寝返りを打った。
 いや、無理だな。俺はもう、こういうやり方でしか仕事ができないんだ。
 一瞬心によぎった思いを跳ね除けて、匡之は先程考えたでっち上げのシナリオを、再び脳内で確認し始めた。校正を重ね、完璧なストーリーが出来たと満足しながら、彼はやがて深い眠りに落ちていった。

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