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The Tower 第2話【創作大賞2024 応募作品】


 窓の外で、蝉が喧しく鳴いている。
 こんな暑い中、世間の営業マンは汗水流しながら走り回って、ご苦労なことですねぇ。
 匡之は、空調のよく効いた教室の中で、先程の面談のデータをまとめながら一人ほくそ笑んでいた。

 今日は、高校3年生の子を持つ親との面談だった。
 現状のままでは目指している大学の偏差値に届かない。この夏でどうにか点数を伸ばしたい。
 両親と生徒、3人揃ってやってきた彼らに、匡之はなんの躊躇もなく30万円のプランを提案した。
 高校3年生であれば、講習費用の相場は10〜20万円と言われている。それを遥かに超える料金の提示に、父母は当然顔を顰めた。
 しかし匡之は一歩も引かず、この金額の根拠と必要性を懇々と説いた。最後には父がOKを出して決定となった。 
 俺のトークスキルなら、パチンコに行くよりも簡単に稼げてしまう。先程の自分はまるでスティーブ・ジョブズのようだったな……などと思い返しながら、匡之はこの仕事を天職だと改めて感じていた。


 16時過ぎになって、事務員の鈴木明子すずきあきこがやって来た。それを皮切りに、学生のアルバイトたちがぞろぞろとやってくる。

 1時間目の開始時刻は16:30。講師はそれまでに、今日の担当生徒の確認や授業の予習を行う。
 授業時間は、1時間目が16:30から17:20の50分間。その後10分休憩があり、17:30から18:20までが2時間目。そのサイクルで5時間目まで行われ、21:20ですべての授業が終了となる。
 1時間目にやって来る生徒は少なく、この時間帯は教室全体がのんびりとしている。夕方までにひと通りの事務仕事を終えた匡之は、時折掛かる電話対応やメール返信を行うほかは、教室内をぶらぶら歩いて授業の様子を見て回ったり、講師用の冷蔵庫にお茶を補充したりして時間を潰す。

 2時間目からは急に生徒数が増え、それに比例して遅刻、欠席の連絡や、授業トラブルも増える。
 トラブルとは、例えば生徒がテキストを忘れた、授業に集中せず無駄話ばかりする、生徒が時間になっても来ない、といったものがある。
 そのような場合には教室長が対応を行うことになっているので、どこの教室でもこの2時間目からがバタバタし始めるタイミングだった。 
 しかし、匡之の教室では事務員の鈴木にその対応のほとんどをさせていた。また、学生講師の中から優秀な者を何人か選出しており、簡単な事務仕事を覚えさせている。そうすることで、彼らが手が空いた時には事務を行わせ、匡之はなるべく自分の負担を減らすことができるのであった。
 もちろん彼らをここまで育てる必要はあったが、基本的にみんな真面目で要領もよく、使える人材になるまで時間はそうかからなかった。
 自分の右腕を作っておく。一人、二人ではなく、多めに。これが、彼の仕事の流儀だった。
 鈴木に、夏期講習の資料のコピーとホッチキス留めの指示を出してから、匡之は教室の裏口から外に出た。

 鈴木は今年の4月に来たばかりの事務アルバイトで、30代前半頃の既婚女性である。結婚前は企業で事務職を経験したこともあるということで、昨年度までいた中年のおばさん事務員よりはるかに優秀だった。
 与えられた業務をこなすだけではなく、気遣いも細やかで、いつもプラスアルファの仕事をしてくれた。これはいくら優秀でも、学生アルバイトにはないものだった。

 外へ出ると、匡之は煙草を取り出した。夕方を過ぎ、そろそろ一服が欲しくなる頃だった。
 彼の愛飲の銘柄はマルボロ・メンソール。緑のパッケージから一本抜き取り、火をつける。メンソールのスッとした清涼感が喉を刺激する。京都の夏特有の酷い湿気の中でも、この一本で気分転換になる。
 スマホを取り出し、何気なくLINEを開く。宇野から3件のメッセージが来ている。匡之はそれをスルーし、その下に表示されている浅倉直志あさくらただしからのメッセージを開いた。

 「ユキ、元気? 久々に飲みに行かないか?」
 匡之は直志の日焼けした顔に浮かべる屈託のない笑顔を思い出しながら、素早く、
 「タダシ、久しぶり。こっちは元気やで。いいね、行こう!」
 と打ち込み、スマホをポケットにしまった。
 匡之は久々の友人からの連絡に一人で笑みを浮かべ、煙草を美味そうに一口吸った。
 直志は、匡之が学生時代にアルバイト先で知り合った友人だった。
 彼は自分と同じ「タダ」が入っていることから、匡之のことを下半分を取って「ユキ」と呼んでいた。匡之にとって、名字でもなく、「先生」でもなく、あだ名で呼んでくれる唯一の存在だった。社会人になると年々気軽に連絡できる友人が減っていくが、彼との関係は変わらなかった。

 匡之は、直志とともに励んでいたアルバイト時代を回想した。
 二人が出会ったのは「オンライン個別指導塾」のアルバイトだった。
 これは、現在匡之が勤めているような一般的な個別指導塾とは違い、zoomのようなweb上のツールを使い、オンライン上で授業を行うものである。
 基本的には在宅での仕事なのだが、当時実家に住んでいた匡之は、家族共有のパソコンしかなく、自宅で授業を行うことが難しかった。そのため、運営本部まで出勤し、そこにあるパソコンから授業を行っていた。
 本部には他にも、パソコンを持っていない講師や同様の事情を持った講師が出勤していて、その中に直志もいた。
 直志とは大学は違ったが同学年で、また同時期にバイトを始めたこともあり、二人は休憩時間などに自然と会話をするようになり、親しくなっていった。二人とも大学卒業までこのアルバイトを続けていたのは、お互いの存在によるところが大きかった。

 卒業後、匡之は小さな出版社に就職し、営業職をしていたが、激務に耐えかねて半年ほどで辞めた。その後、学生時代にそれなりの熱意を持ってアルバイトをしていたことから、教育業界への転職を決め、今に至る。
 直志は、新卒で大手の住宅メーカーに就職し、今もそこで働いている。つい最近、係長に昇進したと匡之は聞いていた。
 そういえば、昇進祝いをしていなかったな……。
 匡之はふと思い付き、今度飲みに行くときは自分がご馳走してやろうと決めた。

 教室に戻り、パソコンの前に座ると、ネット通販サイトを開いて直志への贈り物を物色し始めた。
 「おや、吉見先生、彼女へのプレゼントですか?」
 匡之の隣の机で事務作業を行っていた鈴木が、彼のパソコンを覗き込んで言った。
 「いやいや、ちゃいますよ。学生の頃からの友達がね、昇進したって言うんで、何かあげようかと思いまして」
 「まあ、素敵! 男同士の友情っていいですね。うちの旦那も見習ってほしいわぁ」
 「旦那さん、あまり友達付き合いないですか?」
 「そうねぇ、年々友達が減っていくって嘆いてはるわ。でも、それって吉見先生みたいに贈り物をするとか、頻繁に連絡をするとか、自分で努力して繋ぎとめるものじゃないのかしらね」
 やれやれ、と溜息をつき、鈴木は仕事を続けた。
 匡之は、自分は努力をしていない、と思った。
 直志との付き合いは、必死で引き留めてなんとか続けているようなものではない。昇進祝いを思いついたのもたまたまで、もし何もなかったとしてもそれで壊れるような関係ではなかった。努力をして保つようなものは、しんどいだけだ。

 彼はスマホを取り出して、宇野のラインを開いた。
 「次はいつ会えますか? 明日すぐに会いたいです」
 絵文字のクエスチョンマークを付けたそのメッセージに対して匡之は、
「急に忙しくなった。しばらく会えません」
 と絵文字のひとつも付けずに書いて送った。
 こうしてしばらく距離を置いておけば、自然と関係も終わるだろう。宇野も就活で忙しいはずだし、すぐに俺のことなど忘れるに違いない。ああいう女は常に誰かに頼っていないと駄目だから、どうせ就活の相談を口実にいろんな男と会い、その中からお気に入りの一人を見つけて、そいつと恋人にでもなればいい。
 そのまだ見ぬ誰かが、宇野の身体を弄んでいる映像がふと頭をよぎり、匡之は微かな嫉妬を覚えたが、即座に頭を振って打ち消した。
 そして立ち上がると、授業を終えて帰り支度をしている生徒たちに声をかけて、「フレンドリーな教室長」を演じてみせた。


 木屋町にある居酒屋の前に着き、店の名前を確認すると、匡之は中へ入った。予約していた吉見であることを告げ、店員が個室の席へと案内してくれる。
 戸を開けると、すでに直志は到着しており、匡之の姿を見つけると笑顔で手を上げた。
 「久しぶり!」
 その元気な声で、匡之も思わず笑顔になる。
 「おう、元気そうでよかったわ」
 匡之の言葉に直志は頷き、手を差し出す。その意図が掴めないまま匡之が同様に手を出すと、直志はぐっとその手を握った。
 「ありがとうな。こんないい店用意してくれて」
 「まあ、いつまでも鳥貴族って訳にもいかんやろ」
 匡之が笑いながら言う。学生の時、二人でしょっちゅう鳥貴族に行き、飲んでいたことを思い出したのだ。今日の居酒屋は美味い天ぷらが食べられると評判のお店で、値段もそれなりに高かった。
 「どうや、教室長は?」
 「楽勝やな。やることやっとけば、後は優秀なバイトたちで教室を回してくれる。こんな楽な仕事はないで」
 「そうかぁ、えらい変わってもうたなぁユキも。昔は一生懸命な先生やったのにな」
 直志は匡之をまじまじと見つめながら、そう言った。匡之は、ただ薄く笑うだけだった。
 店員がビールを運んできて、二人はジョッキをかちりと合わせた。
 「えー、浅倉係長の出世に、乾杯」
 匡之がそう音頭を取ると、直志は照れ臭そうに笑い、「サンキューな」と礼を言った。
 「じゃあ、忘れないうちに」
 そう言って匡之は、直志に細長い紙袋を渡した。早速取り出してみると、ジョルジオ・アルマーニのネクタイだった。えんじ色のシルク生地にドット柄の洗練されたデザインで、直志はそれを見るなり「うわぁ!」と大きな声をあげた。
 「こんなの着けて出社したら、上司に怒られてしまうなぁ」
 そう言う直志は実に嬉しそうで、匡之もつられて笑顔になる。
 「お前も上司になるんやから、いいもん着けとかんとな」
 「いやぁ、ほんまに嬉しいなぁ。ありがとうな」
 大事そうにネクタイをしまいながら、直志は何度も礼を言った。
 「それで、どうや? 係長になった気分は」
 運ばれてきた天ぷらを箸で掴みながら、匡之が尋ねる。
 「いやぁ、そらもう大変や。上からも下からもやいやい言われてばかりでな。これが管理職か、と毎日噛み締めとる。でも、みんながいるから頑張れる。みんなに助けてもらってるから、俺はやれている」
 言い終えると、直志はぐいっとビールを飲んだ。
 「タダシは立派やなぁ」
 「ユキかて、俺なんかよりもずっと前から教室長になっとるやん。そっちのが立派やわ」
 「いや、教室長といってもな、結局関西に100ある教室のひとつやからなぁ。俺なんか組織の末端に過ぎないんや。タダシみたいに係長になるには、ここからさらに成果を上げていかないとあかんのや」
 直志は舞茸の天ぷらをサクサクと鳴らして齧った後、
 「ユキなら、きっとすぐに上に行けるよ」
 と言った。
 「どうかなぁ」と匡之は首を捻ってみせたが、実は彼は、いま自分が最も役職者に近づいている者であることを知っていた。

 教室数の拡大に伴い、各府県ごとに支部長のポジションを設けることが、先日の全社のリモート会議にて発表されたのだ。支部長は、そのエリアで今年度の売り上げナンバーワンとなった教室の教室長が選ばれることになっている。
 匡之の教室は、現時点ですでにトップを走っているとこっそり知らされていた。このまま現状を維持し続けることができれば、来年からは京都支部長の座を掴むことができる。今も給料はそれなりに悪くないが、役職につけば一気に跳ね上がる。

 この夏は勝負になる。
 夏期講習でどれだけの売り上げを出せるかが重要だ。今までは多少サボっていても自慢の話術でそれなりに売り上げを出してきたが、本腰を入れればもっといけるだろう。
 宇野に「忙しいから会えない」と言ったが、それはあながち間違いではない。だから罪悪感を抱く必要もない。俺は、この夏は忙しいのだ。

 しばらくすると、話題は二人の学生時代の思い出話に移った。二人が勤めていたオンライン塾の話題だ。
 「ユキは、ほんまに熱い先生やったなぁ」
 日本酒で顔を真っ赤にした直志が楽しげな声を上げる。
 「生徒ごとに授業計画を作ってるだけもえらいのに、ノートいっぱいに細かい文字でびっちり書いてあるんや。俺はそれを初めて見た時には、こいつは気が狂っとると思ったわ」
 ゲラゲラと笑う直志と一緒に笑いながら、匡之は、
 「みんな昔の話や。今はもうそんなことしていられん」
 と、手を大きく左右に振った。
 「今はいかに手を抜くかが大事や。あの頃と同じ熱量でやってたら、とても保たん。おかげでこっちは上手くなったけどな」
 右手を口の前にかざし、お喋りのジェスチャーをしながら匡之は言った。
 「あんなに一生懸命やったのになぁ」
 直志のその言葉に匡之はふっと笑って、「もうええって」と呟いた。その声は彼には届かなかったようで、ただ匡之をにこにこと見つめているばかりだった。
 「そういえば」
 と、直志が何かを思い出したように声を出した。
 「あの子、覚えてるか? あの、不登校だった……」
 「え、なんやっけ」
 「ほら、あの……『なんとか村』みたいな名前やったかなぁ」
 腕組みをして首を大きく傾げながらうーんと頷く直志とともに、匡之はかつての記憶を手繰り寄せた。
 「……あぁ、楠村くん、だったかな」
 「あ、そうそう、楠村くんや!」
 直志は手をぱちんと叩いて大きな声で言った。
 「楠村くん、あの子の授業は特に熱心やったな、ユキ」
 もうその話はいいよ、とうんざりしかけたが、次の瞬間、匡之の頭の中に、楠村和人という一風変わった生徒の記憶がまざまざと思い出されていき、思わず「ああ…!」と声を出した。

 楠村和人くすむらかずとは、匡之が大学2年生になった頃に入塾してきた生徒で、当時中学1年生だった。それから楠村が中学3年の途中で退塾するまで、匡之が授業を教え続けていた。
 楠村は不登校児だった。保護者からの説明によると、中学に入ってすぐに突然不登校になり、ほとんど勉強ができていないということだった。勉強のことを心配した親が家庭教師に来てもらう提案をしたが、家族以外の人間とは一切会いたくないと頑なに拒否し、困っていたところにオンライン塾の存在を知ったらしい。
 うちの子は誰とも会いたくないし、会話もしたくないと言っている。もし可能であれば、カメラとマイクを切り、顔も声も非公開で授業を行うことはできないだろうか。
 その保護者からの要望を会社は承諾し、そしてその担当を匡之に任命した。理由は、匡之が熱心な講師だったからだ。

 楠村との授業は、向こう側はカメラとマイクを完全にオフにし、こちら側はオンにして行われた。つまり、楠村に匡之の顔と声はわかるが、逆は一切わからなかった。楠村からの発信は、すべてオンラインチャットで行われた。
 慣れるまでは大変だったが、匡之は根気よく楠村と向き合った。英語はABCから、数学はプラスとマイナスから、彼がわかるまで教えた。
 その学力の低さとコミュニケーションの不便さから、思うような授業ができずもどかしい気持ちになることも多かったが、匡之は楠村を決して叱らなかった。
 一年が経つ頃、楠村は相変わらず顔も声も非公開のままだったが、チャット上で雑談をするようになり、匡之もその変化を喜んでいた。
 彼との授業にやり甲斐を感じた匡之は、自身の進路に「教育」という選択肢を考えるようになっていた。

 しかし、楠村は突然塾を辞めた。彼が中3の夏だった。
 受験生にとって大事な時期に退塾とは何事かと、匡之は社員にその訳を聞いたが、結局教えてもらえることはなかった。
 「……どうしてるんだろうな、今」
 匡之は遠い目をして呟いた。
 「なんか訳ありの生徒やったもんな。何か事情があったんやろなぁ」
 「そうやな……」
 彼との授業に熱を注いだことが、匡之を教育業界に導くきっかけだったことは、間違いない。匡之は大学卒業後、出版社に就職したものの、教育への心残りがあった。その会社が合わず転職を決意した時、真っ先に頭に浮かんでいたのが、この業界だった。
 あれからもう何年も経って、匡之は楠村の存在を忘れてしまっていた。そして、かつて自分が教育に心を燃やしていたことも。
 その事実は、匡之の心に突然暗い翳を落とした。俺は、今何をやっているのだろうか……。
 「ユキ、これからもお互い頑張ろうな」
 直志が拳を突き出して、嬉しそうに言った。匡之も同じように拳を突き出し、こつんと合わせて、笑った。それが作り笑いだったことに、直志は当然気付いていなかった。

 不意に、携帯が鳴った。直志のものだった。
 「すまん」と立ち上がり、直志は部屋の角まで行くと電話に出た。

 「…もしもし、うん、いまユキとおるよ。そうそう、楽しく飲んどるよ、ありがとう。でも、もうすぐ帰るよ。うん……ありがとうね」

 電話を切ると、どことなく恥ずかしそうな笑みを浮かべて直志は戻ってきた。
 「凛子ちゃんか?」
 「ああ、すまんな」
 「いや、俺はええけど、そっちは大丈夫か?」
 「うん、帰りは何時ごろになるかって」
 「ええなぁ、心配してもらいやがって。アツアツやのぉ」
 匡之が茶化して言うと、彼ははにかみながら「へへ」と笑った。
 凛子は、直志と同棲している彼女だった。
 直志が入社2年目の頃、仕事の取引先で出会い、直志の一目惚れだったらしい。最初は彼女にとってただの取引先の人に過ぎなかった直志は、営業回りに出る際、何かと用事をこじ付けて彼女の会社に寄り、一言だけでもいいから何か話して帰ることを続けた。
 そして丸一年が経ったある日、とうとう連絡先をゲットし、そこから直志の猛プッシュを経て、3ヶ月後に付き合うことになった。
 同時に、足繁く通っていたことが凛子の会社との信頼に繋がり、営業成績が伸びたという逸話もあった。
 「そろそろか、結婚は」
 匡之が訊くと、直志は一層顔を赤らめ、
 「この昇進を機に、とは思ってる」
 と言った。
 その瞬間、匡之は目の前にいるはずの直志の存在が、随分と遠くにいるように見えた。これまでの付き合いの中で、初めてのことだった。

 四条大橋を渡って祇園四条駅へ向かう直志の背を見送り、匡之は阪急方面へ歩き出した。
 歩きながら、直志のネクタイを受け取った時の屈託のない笑顔と、仕事について聞かれた時の「みんながいるから頑張れる」と言う真っ直ぐな言葉、そして、彼女との電話の終わりに告げた「ありがとうね」のあまりにも慈愛に満ちた響きを思い出した。
 あいつは、昔から何も変わっていない。真面目で、情に厚く、人に優しい。優しすぎて、頑張りすぎてしまう時もあるが、結果、大手企業の熾烈な出世争いの中で、見事ポストを勝ち取った。可愛い彼女もゲットし、結婚も目前だ。
 直志はまっすぐに頑張っている。しかし、俺はもう歪んでしまった。この歪みはもう戻せないだろう。
 匡之は急に何もかもが虚しくなり、人通りの多い四条通りで煙草を咥え、火をつけた。すれ違う人はみな、歩き煙草をする匡之に嫌そうな顔を向けていくが、彼にとってはどうでもよかった。
 匡之は不意に立ち止まり、白い煙が街を汚していくのを、疲れた眼差しで見つめていた。


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