The Tower 第7話【創作大賞2024 応募作品】
3月になり、大方の受験生の入試が終わった。
12月から始まった冬期講習も終わりを迎え、どこかピリピリしていた教室の雰囲気も和やかになりつつあった。
「打ち上げでもやりましょうか」
匡之の隣で事務作業をしていた鈴木は、手を止めて目を丸くした。
「あらっ珍しい。吉見先生からそんなこと言い出すなんて」
匡之は照れ臭くなり、鼻の頭をぽりぽりと掻いた。
「まあ、たまにはね」
「いいですねぇ。私、お店探しておきますよ。吉見先生は講師の子たちに声掛けしておいてくださいな」
「ああ、すみません。よろしくお願いします」
鈴木はキーボードを叩き、早速周辺の店を探し始めた。
今月末からまた春期講習が始まり、慌ただしくなる。4月になれば、京都支部長に昇進が決まった匡之は、もっと忙しくなる。この3月上旬の2週間程が、自分にとって最後の暇な時期になるだろう。
匡之はそう思い、講師との交流の時間を今のうちに取っておこうと提案したのだ。
「それにしても」
と、鈴木が口を開く。
「吉見先生、秋頃から人が変わったようですねぇ」
「えっ、そうですかね」
「はい。なんていうんやろ……一生懸命になったというか。これまでも一生懸命やったと思いますけど、これまではちょっとドライな感じやったのが、最近はずいぶんと講師との親密さが増した感じがするんです」
コーヒーを一口飲むと、鈴木は授業ブースの一角に備えられた棚を指差した。
「それに、あんなものも作らはって。私、あれすごくいいと思います」
それは匡之が設置した本棚だった。そこには、匡之セレクトの名作小説がずらりと並んでいて、生徒に貸し出しを行えるプチ図書館となっていた。生徒に、たくさん本にふれてもらいたくて始めた試みだった。
匡之がかつて愛していた近代文学の名作たちから、昨今の話題作、講師から教えてもらった作品など、ジャンルの幅は多岐に渡る。それらはすべて、匡之が本屋に足を運んで直接買ってきたものだった。あらすじや口コミだけ見てネットで買うのではなく、中身を自分の目で見てから買いたかった。また、それらはすべて匡之の自腹で買われていた。
「生徒のために用意してるんやから、経費で落としたらええのに」
「いや、いいんです。僕が勝手にやってることやし。それに、会社はどうせ経費とは認めてくれませんよ。利益にならんことは無意味やと切り捨てる人たちですからね」
「世知辛いですねぇ」
と鈴木が言う。
匡之は、会社と闘い続け、最後には「あんな人はいなくていい」と言われた三島の背に、心の中で呼びかけた。
俺が、三島さんの意思を継ぎますんで。闘いますんで。
京都支部長になったら、俺がこの会社を変えてみせますよ。
匡之は、その決意を胸に仕事に打ち込むことにした。
利益とコスパ最重視の会社の方針にも反発し、どんな生徒でも見捨てず、全力で向かい合う姿勢を取るべきだと訴えた。
本部の管理職の中にはいい顔をしない者もいたが、匡之は臆することなく進み続けていくつもりだった。
2時間目の終了のベルが鳴り、一人の講師が匡之の元へやってきた。高柳という、大学4回生のベテラン講師だった。
「吉見先生、さっき授業をしてた高1の島田くんなんですけど、中学の英単語が身についてなくて、なかなか授業が進まなくて……」
匡之はパソコンの生徒管理ページで島田の情報を開き、成績を確認した。確かに、英語だけ異様に定期テストの点数が悪い。しかし、普段の学校の授業で行われる小テストはよくできている。
小テストは直近で習ったことだけしか出ないので、付け焼き刃でなんとかなるが、定期テストではそうもいかない。これまで騙し騙し勉強してきた典型例だ。
授業数を増やして、オプションでスマホで見られる映像講座も付ければ、一気に授業料アップだな……。
前までの俺なら、そうするだろう。
匡之は高柳に、
「ちょっとこっちで考えておくから、後でもう一回話し合おう。今日、少しだけ残ってもらえへんか?」
と伝えた。高柳は嬉しそうな顔で元気よく「はい!」と言うと、次の生徒の授業準備に戻っていった。
以前までの匡之なら、上手い具合に保護者に話をし、授業料アップを狙っていたが、今はちがった。
島田は中学で習う単語が頭に全然入っていない。それなら、中学の単語帳を用いて小テストを行うのがいいだろう。その単語を用いて英作文もできるほうがいいから、テストの作り方も考えなければな……。
ただ、今高校で習っている単語や文法も並行して覚えていかなければいけないので、中学単語ばかりに時間をかけていられない。
では、島田に30分前に教室に来てもらい、テストを行うのはどうだろう。島田も部活などがあるだろうから、30分前に来るのが難しければ別の日。講師も空いているかわからないから、採点は俺がやろう。
よし、このアイデアを高柳と共有し、詳しいことを詰めていこう。
匡之はキーボードを叩いて、思い付いた内容をまとめ、プリントアウトした。
冬期講習で気合いに気合いを入れ、驚異的な売り上げを達成した匡之は、京都支部長への昇進が確定した。
今年度の決算会議で各エリアの支部長が発表される予定だったが、京都に関しては匡之が圧倒的だったために、すでに会社から個別に通告が出されていた。
支部長の仕事は、京都府全域の教室長のリーダーとして、他の教室長のフォローや指導などを行なったりするのが主な仕事となる。これからは自分の教室の売り上げがいくら良くても、エリア全体の数字が低ければ支部長の責任として追求されることになるだろう。
京都だけで教室の数は25はある。今までは手抜き技術でなんとかなってきたが、いよいよそれで誤魔化せる範囲ではなくなった。
しかし、それでいい。匡之は、これからは誰よりも熱く、誰よりも真摯に、そして誰よりも反骨心を持って仕事をしようと思った。
生徒や保護者との面談も、見せかけで上手くやり込めるのではなく、時間をかけて資料を作り、それぞれに真正面から向き合った。残業も増えたが、生徒のためならいくらでもしてやる。ついでに、昼休みにパチンコに行くこともなくなった。
匡之は、心を入れ替えたのだ。
それは、紛れもなく楠村と三島のおかげだった。そして、昔から変わらずに真面目に生きている親友、直志の存在も大きかった。
匡之は、ふと昔のことを思い出した。
二人が社会人2年目の頃、不注意で匡之が自転車で転び、足の指を骨折したことがあった。そこまでの大怪我ではなかったが、会社と医者の指示で3日程仕事を休むことになった。
そのことを笑い話のつもりで直志にLINEを送ると、直後に電話がかかってきた。
「ユキ、大丈夫か!?」
「大丈夫やで、全然大したことないで」
「ほんまか? 飯はどうしてる? 買いに行けてるか?」
「まあ、ネットで頼むし、心配せんで大丈夫やで」
「ネットで頼むって、歩けへんのか?」
「痛いことは痛いけど、歩けんことはないって感じかな……」
その言葉が余計に直志は心配させ、とうとう家まで行くと言い出した。匡之は何度も大丈夫だと言ったが、直志は聞かなかった。
そして本当に家までやって来て、大量の食料品の入ったビニール袋を匡之に渡した。
「他に困ってることはないか? 風呂は? トイレは?」
もしここで風呂もトイレも不便だと言えば、こいつは介助をするつもりなのだろうか。匡之は苦笑いで、
「大丈夫やで。ちゃんと自分でできてる。ほんまに大丈夫やから」
と必死で説いた。直志はそれでも不安そうな目をしていたが、「まあ、そんなに言うなら」と納得した。
その日は日曜日で会社が休みということで、直志は今日は終電の時間までいると言い出した。
「いや、悪いって。貴重な休みやのに。他に用事とかないのか?」
匡之が聞くと、直志は
「あったとしても、お前が怪我してるって知って置いていけるか」
と当然のように言った。
後日、直志はその日、付き合う前の凛子と初めてのデートを約束していたことを匡之は知った。
匡之は、俺は大丈夫だと言ったはずだ、何をやっている、と怒ったが、直志は、
「言った通りや。お前が怪我してるって知って置いていけるか」
と言うばかりだった。
匡之は、直志のドタキャンの理由を凛子に信用してもらうために、自分からも説明と謝罪をさせてくれと頼み、3人で食事に行くことになった。匡之はこの日初めて凛子に会った。
匡之が話し終え、直志と二人で頭を下げて謝ると、
「……いいなぁ」
と凛子は呟いた。
「ドラマみたいで素敵」
そう言って、彼女は明らかな好意を込めた目で直志を見つめていた。
その後、二人は何度か逢瀬を重ねてめでたく交際が始まったが、決め手は、あの日のことだったと凛子は話していた。
直志はそういうやつなのだ。今も昔も。名前の通り真っ直ぐで、情に厚く、やさしい。
匡之はスマホを取り出し、直志にLINEを送った。
「ついに俺も昇進や。忙しくなる前に飲みに行こう」
直志もそろそろ、凛子にプロポーズを済ませている頃だろう。お互いのお祝いに、また盃を交わしたい。
あいつも結婚か……。俺はまだ独身で彼女もいないけど、ぼちぼちいい人を探したいな。恋人なんて面倒くさいと思っていたけど、これも心境の変化だろうか。
「冬期講習も受験やらで大変でしたけど、夏は夏でいろいろありましたよねぇ」
持参した菓子パンを食べながら、鈴木が言った。
「ええ、夏は受験の総本山と言いますからね。下手したら冬よりも殺伐としてたかもわかりませんね」
匡之がそう言うと、鈴木は頷きながらも何か言いたげな目で匡之を見た。
「……それもそうやけど、ほら、一度教室に女の人が押しかけてきたことがあったでしょ。あれはほんまにびっくりしましたわ……あの後、大丈夫でしたか?」
「……ああ、あれはほんまにすみませんでした。あの後はなんとか穏便に終わったので、ご心配なく」
匡之は、あの日の宇野との一件を思い出すだけで、気持ちがげんなりした。
しかしあれも、自分が招いたことだ。宇野とはもう二度と会うことはないだろうが、もし機会があれば、もう一度誠心誠意謝りたい。
宇野とは、その後約束通り、最後の一回をした。
いつものように仕事の合間ではなく、休日の夜に会いたいと宇野から申し出があった。さらに場所の指定があり、それは匡之が今まさに勤めている七条教室だった。
教室には、講習期間に長時間勤務をした時のために、匡之専用の仮眠室が設置してある。
教室の一角をカーテンで仕切り、そこに布団を敷いただけの小さなスペースなのだが、宇野はそこでしたいと言った。
匡之は教室でするのはさすがに勘弁してくれ、と一度は断ったが、思い出の場所だからと懇願する宇野に折れて、承諾した。あまり刺激するとまたヒステリーを起こしかねないし、次こそ何をしでかすかわからない。匡之は、渋々宇野に従うことにした。
当日、教室に着くと宇野はすでに入り口の前で待っていた。匡之は宇野に会うなり「申し訳なかった」と頭を下げて謝罪をした。
すると、宇野は優しい微笑みを浮かべて「来てくれてありがとう」と礼を述べた。中に入ると宇野は、匡之に抱きついて、いつもより長く一緒にいてほしいと甘えてきた。
先日の狂乱ぶりと打って変わった態度に困惑していたが、「これが本当に最後」という覚悟があるのだろうと感じ取り、匡之は終始彼女の言うことを聞くことにした。
翌朝、匡之が目を覚ますと宇野の姿はなく、置き手紙やラインのメッセージなども一切なく、それきりだった。
その後2ヶ月程は、いつまた宇野が教室に現れるかとビクビクしていたが、それは杞憂に終わった。宇野は本当に身を引いたようだった。
もう3月だ。就職先も決まっているだろうし、きっと新しい恋人もいることだろう。いろいろと大変な性格ではあるが、彼女なりの幸福を掴んでほしい。匡之はそう願った。
新年度が始まり、春期講習も追い込みに差し掛かった頃、直志から返信が来た。匡之が連絡をしてから、1ヶ月程経ってからの返信だった。
「遅れてすまん。昇進おめでとう。なかなか時間が取れなくて、飲みに行くのは厳しいかもしれん。すまない」
いつもはエクスクラメーションマークやグッドを示す絵文字などを使用した賑やかな文面を送る直志だが、今回はずいぶんと淡白な連絡だった。
「それは仕方ない、気にすんな。また落ち着いたら行こう! 係長がんばれよ!」
高瀬川の喫煙所の石段で一服をしながら、匡之は返信を返した。川沿いの木々には桜が咲いていて、桃色の天井が広がっている。春の朝の陽気の中で、匡之は心地よい一服の時を過ごしていた。
直志は頑張っている。年度が変わるタイミングだから、きっとバタバタしているのだろう。係長ともなれば、様々な責任や役割がついてくる。その中で、直志は必死に闘っている。俺も頑張らねば。
匡之は昨年の夏、ここから四条通りの光景を眺めている自分を、井伏鱒二の『山椒魚』のようだと思ったことを思い出した。今はむしろ、山椒魚に覗かれる側だ。世間の、社会の真っ当な一員としてありたい。
よし、と小さく気合いを入れ、匡之は煙草を捨てて駅へ向かった。
今は講習期間なので、匡之の出勤時間はいつもより早い。8時半に教室に着くと、あくびをしながらパソコンを立ち上げて業務に取り掛かる。
授業開始までまだ1時間あるというのに、講師の高柳がやって来た。
「おはようございます」
「おお、ずいぶん早いんやな」
高柳はぺこりと頭を下げると、鞄を置き、授業の準備を始めた。
しばらく静かな時間が続いたが、不意に高柳が匡之に声をかけた。
「吉見先生、ちょっといいですか」
また生徒のことかな、と匡之は嬉しくなった。この高柳は講師の中でもかなり熱心で、匡之の元に相談に来る回数も断然多かった。先日も、島田という生徒について、遅くまで残って一緒に話し合ってくれた。
高柳の視点は匡之にないものがあり、彼の話を聞くのが楽しみでもあった。
「あのー、つかぬことを聞くんですけど、吉見先生ってパチンコとかやりますか?」
想定外の質問に、匡之は「は?」と声を漏らした。
「え、なに、高柳くんパチンコやるの?」
そう聞くと、高柳は、
「いや、やったことないんですが、興味があって……」
「へえ、意外やなぁ。前は、俺は休みの日はよく行ってたで。最近は行ってないけど」
「前っていつ頃ですか?」
「去年の夏頃までやなぁ」
「……もしかして、僕ら講師が来る前の時間でパチンコ行ったりしてましたか?」
一瞬どきりとしたが、高柳に対してすっかり好感を抱いている匡之は、
「なんでバレた!?」
とおどけて言ってみせた。
「内緒やでぇ」
そう言うと高柳は、
「内緒にしとくんで、今度連れてってもらえませんか?」
とお願いをしてきた。
「ええ……」
学生講師をギャンブルなんかに連れていってもいいものか……。匡之は少し悩んだが、高柳のような優秀な学生には、社会経験としてありかもしれないと思い、承諾した。
「よし、ええよ、連れてったる。俺がパチンコのイロハを教えてやろう」
「ありがとうございます。まったくの初心者なのでよろしくお願いします」
頭を下げる高柳に匡之は笑った。
「パチンコなんてそんな畏まってやるもんちゃうから。気楽にいこ」
そして二人で日程を決め、来週早速行くこととなった。
講師とこんなに交流を持つなんて、今まではなかったことだ。それが今や、授業が終わった後に講師と残ってミーティングを行い、授業の改善について日々話し合っている。また、遅くまで残ってくれた講師を、時々ご飯に連れて行くこともある。
吉見先生は変わった、前よりも接しやすくなって、働くのが楽しくなった。
講師たちからそんな声を聞くこともあった。これから支部長としての業務が本格化して忙しくなっても、俺は講師を大事にしよう。
やがて、他の講師や生徒がぞろぞろとやって来ると、匡之は立ち上がって一人ひとりに元気に挨拶をして回った。
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