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The Tower 第9話【創作大賞2024 応募作品】


 京都三条さんじょう教室の視察を終えて、匡之は自分の七条教室へと帰っているところだった。
 電車の座席で手帳を開き、今日の内容を振り返った。
 三条教室の課題は、講師同士の繋がりが薄いことだ。講師間でコミュニケーションを取り、指導方法を共有し、お互いのいいとこ取りをすれば、もっと授業の質が良くなる。 
 それぞれがそれぞれのやり方で授業を行っていると、成長もしにくいし、教室全体の統一感も薄れる。
 そこで匡之は、三条教室の講師一覧を貰い、ベテランの講師と新人の講師の比率がバランスよくなるようにチーム分けをした。こうすることで、ベテランが新人のフォローを行ったり、指導を行う体制を作る。そうすれば、講師間でのコミュニケーションが増えるし、新人だけではなく、指導を行うベテラン側にも学びが得られる。

 三条教室には、今日見ただけでも、リーダーシップが取れそうな講師が複数人いた。おそらく、大学でも部活やサークルで部長などをやっているに違いない。彼らを講師の中心に置けば、もっと教室の活気が良くなるはずだ。自分が引っ張っていくというより、リーダーをサポートするのが得意という者もいるだろう。そういう講師には、その役割を与えればいい。
 講師の本質を見極め、然るべき役割を与えること。教室長の仕事は様々だが、一番大切な仕事はそれだと匡之は思うようになっていた。
 塾のメインは講師。彼らが働きやすく、そして力を発揮しやすい環境を作るのが教室長だ。
 自分は今まで自分の力で教室を大きくし、利益を上げてきた気になっていたが、それは間違いだ。すべて、講師のおかげなのだ。
 それを忘れてはいけない。匡之はその思いを噛み締めた。

 先日、凛子から電話があった。あの後、直志を病院に連れていった結果、鬱病と診断されたという報告だった。
 しばらく休職をし、その間は凛子が直志の家に住み込んで世話をするとのことだった。
 凛子は匡之に何度も礼を述べ、この恩は必ず返す、と言った。
 「俺は、今まで何度も直志に助けられてきた。これからは俺が助けていく番や。恩返しなんてとんでもない」
 何か困ったことがあったらまた連絡するように伝え、匡之は電話を切った。
 責任感が強く、物事に常に真摯に臨む直志は、きっと周囲からの期待も大きく、それがいつしかプレッシャーとなって心を蝕んでいたのだろう。
 直志が鬱病になったという事実は、匡之を打ちのめした。だが、それでも立ち上がって、前に進んでいかなければと、匡之は決意をした。
 今日も仕事に行く。明日も行く。そうして、真っ直ぐに働いていく。そう決めたのだった。

 15時前に教室に戻り、仕事をしている時、本部にいる部長の原から電話がかかってきた。原は匡之の直属の上司に当たる者だったが、個別に連絡が来るのは珍しかった
 「吉見くん、今から本部に来てんか」
 「え、今からですか。大丈夫ですが……何かありましたか?」
 「何かあるから電話してるんやろ。まあ、それは来てもらってから説明するわ。忙しいところ悪いけど、急ぎで来てんか」
 原はものすごい勢いで言うと、乱暴に電話を切った。まったく心のこもっていない「悪いけど」だった。
 元々ガサツな話し方をする人で、匡之は原が好きではなかったが、今日のはいつも以上にひどかった。
 匡之は面倒くささと苛立ちと、突如呼び出しがかかったことへの仄かな不安を抱えて、教室を後にした。

 本部は大阪の中心街、梅田にある。七条駅から向かうと乗り換えが多く、その道のりは片道一時間以上かかる。
 匡之は電車の車内で鈴木にLINEを送り、本部に呼ばれて教室に戻るのはいつになるかわからない旨を伝えた。鈴木からはすぐに「了解です。任せてください!」と頼もしい返信があり、匡之は安堵の溜息をついた。
 先日も直志の件で迷惑をかけたのに、鈴木はいつでも臨機応変に対応してくれる。本当に優秀で頼れる事務員だ。日頃の疲れも相まって、京橋に着くまで匡之は眠っていた。
 梅田に着き、本部へ向かう。車内では熟睡で、今もまだ少し眠いが、両手で頬を叩いて匡之は本部へと入っていった。
 原は匡之の姿を見ると、何も言わずに顎でついてくるよう促した。匡之はその横柄さに苛立ったが、あくまで元気に返事をし、部長の後に続いた。
 匡之が連れてこられたのは会議室で、ロの字型の配置の右側の机の上に、角形の封筒が置いてあるのが見えた。原は、匡之にその封筒の置かれた席に座るように指示し、自分は座らずに会議室をゆっくり歩き回り始めた。
 「なぜ呼ばれたか、わかるか?」
 手を後ろで組み、原はゆっくりと言った。
 「いえ……ちょっと思いつかないですね」
 もったいぶってないで早く封筒の中を見せろ、どうせここに答えがあるんだろ。そう思いながら、匡之は返事をした。
 「ふむ……ほんまにないんか。心当たり」
 「はい……」
 匡之が答えると、原は白髪混じりのオールバックを片手で触りながら、金縁の眼鏡の奥から鋭い眼光を向けた。匡之は原を尊敬してはいなかったが、この目は昔から怖かった。これだけは、自分には出せない威圧だった。
 「ほな、その封筒を開けてみぃ」
 匡之は焦りによる手汗が滲んだ指で、ゆっくり封筒を手に取った。
 中には、6枚の写真とA4の用紙が一枚入っていた。写真を見た瞬間、匡之の背に戦慄が走り、先程までの眠気が吹き飛んだ。
 それは、七条教室の仮眠室で、匡之と宇野が抱き合っている写真だった。
 「な……なんで……」
 匡之は震える指で写真を繰り、すべてに目を通した。3枚は、あの日宇野と最後に身体の関係を持った日のもので、もう3枚は講師の高柳をパチンコに連れて行った時のものだった。
 「まいったよ……今朝、この封筒が会社の郵便受けに入っとったんや。宛名もなかったし、なんやと思ったら、これや……どういうことか説明してんか」
 匡之は、必死で言い訳を考えた。言葉巧みに出まかせを言うのは匡之の得意なことだったはずだが、こればかりはさすがに何も言葉が浮かんでこなかった。
 「え……あ……」
 ただ、声にならない声が喉から漏れるばかりだった。
 「その文書も読んだかぁ?」
 原が大きな声に圧倒されながら、匡之はA4用紙に目を落とした。

 「私は、以前七条教室でアルバイトをしていた者です。
 当時私は、教室長の吉見匡之から、身体の関係を迫られていました。初めは断っていたのですが、執拗に迫られ、恐怖で関係を持ってしまいました。
 それから、いつもみんなが帰った後に残るよう命令され、教室の仮眠室で犯されていました。
 私がバイトを辞めた後も、時々呼び出されて身体の関係を強要されました。
 私は嫌でしたが、吉見に弱みを握られていて、断り切れませんでした。
 写真は、吉見の目を盗んでセットしたカメラで撮影したものです。

 また、吉見は業務中に抜け出してパチンコに行っているようです。そして、学生講師をパチンコに連れて行ったことも確認できています。
 私の知り合いの講師が録音したレコーダーと写真を同封します。

 私を強姦しただけではなく、学生をギャンブルに連れていく吉見は、悪魔のような男です。
 私は、吉見を許せません。
 この告発が、正しい人のもとに届き、吉見に然るべき制裁が下りますように」

 読みながら、匡之は心臓の動悸が激しくなり、眩暈に襲われた。
 どういうことだ……。匡之は机に肘をつき、両手で頭をかかえた。
 宇野は、最後に会った日にすべてを清算したのではないのか? 俺に恨みを残したままだったというのか…?
 匡之は、はっと気がついた。
 あの日、宇野は普段のラブホテルではなく、教室を指定した。ラブホテルで写真を撮っても、それでは単なる男女の関係と取られる可能性がある。教室内で行為をしている写真を撮れば、信憑性は一気に増す。宇野はそれが狙いだったのだ。

 「……よし、ええよ、連れてったる。俺がパチンコのイロハを教えてやろう」
 不意に聞こえた声は、自分自身のものだった。顔を上げると、原がテープレコーダーを持っているのが見えた。
 「これが、講師をパチンコに連れていった時の音声らしいわ。この声、吉見くんやな?」
 匡之はばくばくと鳴っている心臓を鎮めようと深呼吸した。
 確かに、自分は高柳をパチンコに一度だけ連れて行った。しかし、それは高柳から連れて行ってほしいと言ってきたことで、決して無理矢理に誘ったわけではない。
 レコーダーは匡之の声しか入っておらず、高柳の声は一切入っていなかった。これでは、自分が高柳を一方的に誘っていると取られてもおかしくない。
 高柳が宇野とグルになっていて、自分を嵌めたというのか……?
 「まあ、仕事抜け出してパチンコ行くぐらいやったら、正直注意だけで済ましたるけど、学生講師を連れてくっちゅうのは、さすがにあかんなぁ」
 原はレコーダーを乱雑に置き、匡之の背後に回った。
 「何よりぃ!」
 原は怒鳴り、宇野との写真を匡之の手から引ったくった。
 「元バイトを強姦、それも教室の中で!」
 耳元で大声を出され、匡之は恐怖と混乱でパニックになった。
 「い、いや、誤解です。こんなの、おかしい」
 「何が、どうおかしいんや。説明してみぃ!」
 原はより大きな声で怒鳴りつけながら、写真を匡之の顔面に押し付けた。
 匡之は息も切れ切れに、なんとか口を開いた。そして変に取り繕わずに、関係は確かにあったこと、一方的に連絡を絶ったこと、宇野が教室に押しかけてきたこと、最後に向こうの頼みで教室ですることになったこと、それきり何もなかったことを正直に話した。
 原は黙って聞いていたが、匡之が話し終えるとふんと鼻を鳴らし、
 「だったらこの文書に書いてあることは嘘だと言うんやな?」
 と言った。
 「ほんで、パチンコも嘘か?」
 「……いえ、パチンコは確かに高柳と行きました。彼のほうから連れて行ってくれと言われ、それで、つい出来心で……」
 しどろもどろになりながらも、匡之は正直に説明した。しかし原は、
 「ああ、そう。講師のせいやと言うんやな。なすりつけるんやなぁ」
 と、笑みを浮かべた。
 その下品な笑みを見て、匡之は「ああ」と胸の中でつぶやいた。
 原は、事実などどうでもいいのだ。ただ、弱い者いじめがしたいだけなのだ。原はパワハラ気質の古いタイプの人間で、部下のミスは執拗に責め、気が済むまで怒鳴り散らす。
 そう、三島もこいつに潰されたのだ。
 匡之は、奥歯をぎいっと噛み締めた。
 「いえ、講師は、高柳は、1%も悪くありません。すべては私の責任です」
 俯きながら、匡之は言った。
 「仕事中にギャンブルに、女。優秀な君が、京都支部長の君が、まさかこんなクズだったとはねぇ」
 原は映画に出てくる悪役さながらの、ねちっこい歓喜の声を上げた。
 「でも、宇野の件は、この女性の件は、本当にちがうんです。信じてください」
 匡之の訴えは虚しく、原は手をぶんぶんと左右に振って「無理無理」と言い放った。
 「じゃあ、この件は近々本部の会議に上げておくから。君は、そうやなぁ、支部長は当然降りてもらうことになるやろうけど、教室長も辞めてもらわなあかんかもな。なんせ、神聖な教室内で女とセックスしとったんやからなぁ」
 原は鬼のような形相で匡之を睨みつけた後、ゲヘヘと下卑た笑い声を漏らした。
 飛ぶ鳥を落とす勢いで売上を伸ばし、いつか自分のポストを脅かしかねない匡之の不祥事は、原にとってこれ以上ない大スクープだったのだろう。
 原は勝ち誇ったような顔で匡之を見下ろし、ニヤニヤと笑っていた。

 1時間以上に及ぶ原の尋問から解放され、匡之は本部を後にした。その足取りは重く、ふらふらとしていた。
 スマホが震え、ポケットから取り出して画面を見ると、高柳の名前が表示されていた。
 匡之はぎょっとして立ち止まり、画面を凝視した。1分ほど経って、匡之はようやく電話に出た。
 「もしもし、高柳くんか……どうした?」
 電話の向こうで、高柳のくぐもった声が聞こえた。
 「吉見先生、すみません。僕、今日でバイト辞めます」
 「……わかった。手続きしておくよ」
 本来なら、バイトを辞める際は最低でも1ヶ月前に言うルールだったが、匡之は高柳の申し出をその場で承諾した。
 「ありがとうございます。では、お世話になりました」
 「ああ、ちょっと待って」
 高柳は冷静な声で「はい」と答えた。
 「……高柳くんは、宇野さんと繋がってたのかい?」
 匡之が聞くと、高柳は少し言い淀んでから、
 「はい。付き合ってました」
 と答えた。匡之は驚いて、思わず「えっ」と叫んだ。
 「い、いつから?」
 確か、宇野と高柳は少しだけバイトをしていた時期が被っていた。その頃は二人が話している場面など見たことなかったが、自分の預かり知らぬところで交流があったのだろうか。
 「去年の秋頃からです。夏期講習が終わったあたりです」
 それは、匡之が宇野と最後に教室で関係を持った時期と重なる。
 「宇野さんの方から突然連絡が来て、バイト時代ずっと気になってた、今度食事でもどうって言われて」
 匡之は、そうか、と小さく呟いた。
 宇野は高柳に近付き、利用したのだろう。俺に復讐をするために。
 「単刀直入に聞くけど、俺にパチンコに連れていってくれと頼んで、録音と写真を撮ったのは、宇野さんの指示?」
 「そうです」
 高柳は、ぽつりと言った。
 なんてシンプルで、そして悲しい響きなのだろう。
 匡之は、高柳は自分が利用されていることを知っていたのだろう、と思った。それでも彼は、宇野に従い続けた。宇野がいつか、本当に自分に振り向いてくれることを信じて。
 匡之は、高柳に対する恨みは、まったく生じなかった。
 「……宇野さん、吉見先生のこと、本気でしたよ」
 高柳はほんの少しだけ声を震わせて言った。
 「本気だったけど、吉見先生は迷惑だったって、悲しんでいました。迷惑というあの一言が、私をこうさせたって……泣いていました」
 匡之は、宇野が教室に押しかけてきた日のことを思い出した。あの時、ものすごい強さで殴られ、思わず迷惑だと確かに言った。
 迷惑だと言っていなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
 匡之は、それもちがうと思った。
 きっと、いつかはこうなっていた。それほど、俺は彼女に酷いことをした。復讐をされて当然だ。むしろ、裁判を起こすのではなく、会社に密告するという形で済ましてくれたことに感謝するべきだ。こんな嘘を書いた文書や盗撮写真を送り付ける真似をすれば、自分も訴えられる可能性だってあるというのに……。
 「君にも、悪かったね」
 匡之が優しくそう言うと、高柳は不機嫌そうな声で、「何が」と答えた。
 「いや……高柳くん、もし宇野さんに会うことがあれば、俺が心の底から済まないと思ってる伝えてほしい……それから、どうか幸せになって、と」
 高柳は、ふんと鼻息を漏らした。
 「会うことがあればって、付き合ってんだから会うに決まってるでしょ……わかりましたよ、伝えておきます」
 「ありがとう。それじゃあ」
 匡之が電話を切ろうとすると、高柳が「あ」と言って制した。
 「あの……パチンコ、一緒に行けて楽しかったです……じゃあ」
 そう言って、高柳は電話を切った。

 匡之はスマホをしまって、空を見上げた。梅田のビル群の合間から、夕空が見えた。
 宇野は、本当に自分のことが好きだったのだ。その気持ちに正面から向き合っていれば、こんなことにはならなかった。高柳という真面目で純粋な青年が巻き込まれることもなかった。
 何が、どうか幸せになって、だ。どの口が言ってるんだ。
 匡之は、京都よりも遥かに人の多い雑踏を進み、果てのない後悔に苛まれながら、駅へ向かった。

 1週間も経たないうちに、匡之の懲戒処分が決まった。
 支部長、七条教室の教室長ともに解任。1ヶ月間の減給。
 支部長の後任は、昨年度の売り上げが2位だった烏丸四条教室の教室長が就き、七条の教室長には、三条教室から異動となった林田という中年の男が就くことになった。
 匡之は、林田に七条教室の方針や教室運営の引き継ぎを行い、あとはひたすら雑用係となった。
 林田は、以前支部長であった匡之から、三条教室の講師の質の改善のアドバイスを受けた恩も忘れ、匡之に冷たく当たった。
 匡之のスキャンダルはあっという間に各教室に広まっていった。おそらく原がそれぞれの教室長に電話でもして教えたのだろう。嬉々としてペラペラと喋る原の顔を思い浮かべると匡之は怒りが沸いてきたが、元はといえばすべて自分が悪いことだ。林田の態度は腹立たしいが、堪えるしかない。
 また、石岡との連絡もすっかり途絶えてしまった。直志の一件で約束をキャンセルした際には、後日素直に事情を説明すると、わかってくれた上に次の約束まで取り付けることができた。
 しかし、その日を待たずしてこの事態が発生した。きっと石岡にもいろいろ伝わっているだろうと思った匡之は、次に会う時に説明させてほしいとLINEを入れたが、返事は返ってこなかった。そして、約束の日になっても石岡からは連絡はなく、そのまま日が過ぎていった。

 そろそろ夏期講習が始まる頃で、教室はバタバタしていたが、匡之は依然雑務ばかりを押し付けられていた。自分がこれまでに関係を築き上げてきた保護者や生徒は、すべて林田が面談を行っていた。
 匡之は「あの家庭はこれこれだから、このようなプランの提案が良い」などとアドバイスをしていたが、林田はそれらを一切聞かなかった。その態度に、匡之は何もかもどうでもよくなり、口出しするのをやめた。
 事務の鈴木は、匡之とどう接していいかわからないようで、以前のようにフレンドリーに話しかけてくることはなくなった。講師たちも、突然知らないオジサンが教室長になり体制が変わったことに戸惑っていて、教室の雰囲気はすっかり重くなってしまった。
 林田は講師にもどこか高圧的で、話を聞かない人だった。講師の相談や提案に耳を貸さず、すべて忙しいと突っぱねるか、否定的な言葉を返すのみだった。
 そのくせ、匡之のもとに講師が相談に行くのを見掛ければ、なんで俺のところに来ないのかと怒るのであった。

 この短期間で辞めていった講師は、七条教室の歴史の中で過去最高だった。
 匡之はこのままではまずい、と林田にもっと講師との関係を築く努力をするよう意見したが、林田は、
 「君が言えることかいな。講師といかがわしい関係を持ってたようなやつが」
 と冷ややかな笑みを浮かべて言った。匡之は何も言い返せず、それ以来、講師と話すことを避け、めっきり口数も減った。

 仕事から帰れば、いつもは一本だけだった缶ビールが二本に増え、三本に増え、休日も昼間から酒を飲んで過ごすようになった。
 直志が精神を病んで休んでしまった今、俺が真っ当に働き、成功することで、直志に勇気を与えたいと思っていた。それが、どうしてこんなことに……。
 匡之は、毎日酒を飲み、煙草を何本も吸いながら、どうして、どうしてと自分を責め続けていた。


 ある休みの日、石岡から連絡があった。
 今日これから会えないかとのことだった。
 今更なんの用だろうかと思ったが、匡之は会いに行くことにした。
 石岡が指定したのは、河原町の裏寺町通にある小さな喫茶店だった。
 店に入ると、石岡はすでに来ていて、匡之を見つけると立ち上がって小さく頭を下げた。
 「お久しぶりです……すみませんでした」
 匡之は、石岡に座るよう促し、
 「君が謝るようなこと、何かあったかな」
 と聞いた。石岡は席に着き、項垂れながら、はい、と言った。
 「あの……お返事返せず、約束も破ってしまって……」
 石岡は、匡之からのLINEに返事をせず、食事の約束を有耶無耶にしたことを謝っているようだ。匡之は苦笑して石岡を制した。
 「そんなこと、気にせんでよ。むしろこっちが謝らないと……驚かせて申し訳ない」
 「いえ……確かにびっくりしましたけど……」
 「たぶんいろいろと聞いてると思うけど、大体その通りや。俺は、そういう人間やねん」
 匡之はそう言って、店員を呼び、ホットコーヒーを頼んだ。石岡は続けてアイスコーヒーを頼むと、匡之の顔を無言でじっと見つめた。この擦れたところのない綺麗な目に見つめられると、匡之の胸に罪悪感が沸いてきた。
 「本当にその通り、なんですか?」
 「うん……そうやな」
 「本当に、本当なんですか?」
 その強い口調に匡之は気圧され、
 「いや、ほんまは、事実とは少しちがうところもあって……」
 と、ぼそぼそと言った。言い訳をする子供のようでみっともない、と思った。
 石岡は、鼻で大きく息を吸うと、小さく、
 「やっぱり……」
 と呟いた。石岡は、自分を信じてくれているのだろうか。
 「吉見さん、私、前に大阪の教室にいたって言いましたよね」
 「ああ、うん」
 「そこの教室長は、今は大阪の支部長なんです。私、直属の後輩だったから可愛がってもらってて、今も時々調子はどうかって連絡をくれるんです」
 運ばれてきたアイスコーヒーにガムシロップを半分だけ入れ、ストローでかき混ぜながら石岡は続けた。
 「それで、先日その人からまた連絡があって。今、京都は大変やな、支部長があんなことになって、って心配してくれてたんですけど……どうやら事実は少しちがうみたいだぞって、教えてくれたんです」
 「……えっ」
 匡之は、コーヒーカップに手をかけた状態で静止し、石岡の顔を見つめた。
 石岡はアイスコーヒーを一口と飲むと、ゆっくり口を開いて説明を始めた。

 その大阪の支部長は部長の原に気に入られてて、よく飲みに連れて行ってくれるという。つい先日も飲みに行き、そこで匡之の話が出た。
 原は、これは内密にしておいてほしいんだが、と前置きしてから、信じられないような話をした。
 去年の夏に、宇野という女性から電話があった。

 匡之の教室で以前バイトをしていた講師で、匡之と関係があったという。しかし、匡之から一方的に関係を切られ、先日教室まで押しかけたが、迷惑だと言われた。私は傷付いたが、最後にもう一度だけしてほしいと約束をして、それでもう諦めることにした。
 大事にするつもりはないが、吉見匡之はそういう人間だということを伝えたくて電話をした。それだけ伝われば、もう自分は一切彼に関わるつもりはない。

 宇野はそう話した。
 原は、これはとんでもないスクープだ、逃す訳にはいくまいと、宇野に詳細を聞くことにした。直接会う約束を取り付け、話を聞くと、宇野は匡之のことはもう仕方がないが、最後に誰かに話を聞いて欲しくて電話した、と涙ながらに話した。
 原は、売り上げを伸ばし、どうやら最近は会社のやり方に反発するような動きを見せている匡之を快く思っていなかった。確か、かつていた三島という社員と同じ匂いがする。このまま匡之の業績が伸びていけば、そのうち本部に配属になり、自分のポストも危うくなるかもしれない。そういう危険分子は今のうちに排しておこう。それが原の魂胆だった。

 原は宇野の良き理解者として振る舞い、入れ知恵をした。最後の一回は教室で行い、その様子を撮影し、終わったらそれを私に渡すようにと指示を出した。
 他に何かネタにできるものはないだろうか。材料はあればあるだけいい。宇野は、確か匡之は時々仕事を抜け出してパチンコに行っているようだ、と話した。
 なるほど、しかしそれだけでは弱い。よし、講師を使おう。
 そうして宇野を操り、宇野は高柳を操り、匡之が学生講師をパチンコに連れて行ったという事実を作り出した。

 きっと、私が吉見匡之に制裁を下してみせよう。
 集まった材料と偽造した告発文書を手にした原は、宇野にそう告げた。その後、宇野とはもうそれ以来会っていないが、今は一般企業に就職し、普通に暮らしているらしい。原にとって、宇野の私情などどうでもよかった。ただ、匡之を陥れたかった、それだけだった。
 そして、匡之がすっかり油断し切っているであろう頃合いを見計らい、呼び出しをかけたということだ……。


 石岡はところどころ、声を震わせながら必死に話してくれた。話し終えると、大きな溜息をついて手元に目線を落とした。
 「俺は、原に嵌められたのか……」
 しばしの沈黙の後、匡之はゆっくりと言った。
 「……闘いましょう、吉見さん。こんなの、おかしい。ほとんど犯罪じゃないですか!」
 ばっと顔を上げて、石岡は訴えた。しかし匡之は首を振って、
 「いや、いい。もういい」
 と呟いた。
 「でも!」と身を乗り出す石岡を遮り、匡之は続けた。
 「俺が彼女に酷いことをしたのも、パチンコに行ったのも、事実や。それに、俺は他にも酷いことをした」
 「え……なんですか?」
 石岡は眉をひそめた。
 「……講師をただの駒としか見ず、保護者を金の成る木と思い、生徒はそのダシとしか思っていなかった……俺はそういう姿勢で仕事をしてたんや。俺は、教育の現場にいてはいけない人間なんや」
 「そんな……そんなことないです。少なくとも、私の目から見た吉見さんは、そんな人じゃありません。熱心で、真面目で、私の憧れです」
 石岡は匡之を真っ直ぐに見つめて言った。匡之はぬるくなったコーヒーを一口飲み、小さく笑った。
 「ありがとう。でも、ほんまの俺はそんなんじゃないんや」
 あの京都駅の壁面に映る京都タワーのような、偽物にすぎない。
 匡之は「じゃあ、これで」と言うと立ち上がり、伝票を持ってレジへ向かった。石岡は慌てて財布を出したが、匡之はそれを制した。
 石岡のそういうところが好きだったと思いながら、匡之は店を後にした。

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