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The Tower 第10話【創作大賞2024 応募作品】


 秋の風の流れる爽やかな昼下がり、匡之が向かう先はパチンコ屋だった。
 無精髭が伸び、髪の毛も寝起きのままで、服装は上下ジャージという格好で、匡之は人目も気にせずに歩いていた。
 平日の昼間から煙草と缶ビールといくらかのお金だけを持って、匡之は毎日のようにパチンコを打っていた。
 仕事を辞めた匡之にとって、今はパチンコくらいしかすることがなかった。
 石岡から、今回の一件は原の策略だったことを教えられた匡之は、もうこんな会社にはいられない、と退職の決意を固めた。それに、支部長と教室長のポストを剥奪され、腫れ物扱いされて尚、この会社にしがみつく理由はなかった。

 匡之は、原に直接電話をかけ、退職の意向を伝えた。
 「ご迷惑おかけしました。それでは」
 匡之は必要最低限の連絡と挨拶だけ済ませて電話を切ろうとした。
 「残念やなぁ。君ならまた這い上がってくると思ってたけどなぁ」
 電話の向こうで、原の粘っこい声が聞こえた瞬間、匡之は頭にかっと血が上った。
 「……原さん、あんたきっと、地獄に堕ちますよ。きっとね」
 匡之の言葉に原は鼻を鳴らして笑い、
 「おー、こわこわ」
 とだけ言って電話を切った。

 俺は敗けた。
 会社という大きな組織の中で、俺一人が真面目に頑張ったところで、何も変わらない。
 前のままの手抜きで会社に従順な俺であれば、例え宇野からの告発があったとしても、原はここまで大事にはしなかっただろう。
 会社の方針に反意を示しつつも業績を上げ、上へ昇ってくる。それが気に食わず、さらには脅威を感じて、匡之を陥れるに至ったのだ。おそらく、それは原だけではなく、他にも同様の考えを持っている者が上層部にはたくさんいたのだろう。
 匡之はすべてが馬鹿馬鹿しくなった。
 俺は敗けた。直志も敗けた。三島も敗けた。
 熱意のある者が次々と敗北していく。そんな社会に希望はない。
 教育業界にも、未来はない。
 いずれ転職活動をするだろうが、そこに教育という選択肢は、俺にはもうない。
 匡之の心はすっかりやさぐれ、支部長として稼いだそれなりの貯蓄をひたすらパチンコに溶かし続ける日々を過ごしていた。

 ある晩秋の深夜、日付がすでに変わった頃、匡之はビールを飲みながらぼんやりと壁を見つめていた。特に何を考えるでもなく、ただぼんやりとしていた。
 そんな自分に気が付き、はっと意識を戻すと、壁際に置かれた本棚が目に入った。
 そこには、匡之が学生時代から集めてきた名作のほか、教室に置くために買い揃えた小説の数々が並べられている。
 匡之は立ち上がり本棚の前まで行くと、床にどかっと座り、本の背表紙を眺めた。教室用に買った本は、匡之が去る時に生徒のためにそのまま置いていくと言ったが、林田に置いていくなら捨てると言われてすべて持って帰ったのだった。
 林田は本なんか読んだことないのだ。平気で捨てるなど言うなんて、あいつには本の素晴らしさがわからないのだ。
 匡之は、不意に込み上げてきた悔しい気持ちを振り切るように、本を一冊適当に取ってページを開いた。
 それは、夏目漱石の「虞美人草」だった。
 文章が難しく、匡之が高校時代に何度も挫折しかけながら読んだ作品で、正直、当時は話の内容も理解できていなかった気がする。
 10年以上の月日を超えて久々に「虞美人草」を手に取った匡之は、初めはパラパラとページをめくっているだけだった。しかし、次第に話にのめり込んでいき、いつの間にかしばらく読み耽っていた。
 一章の終わりに、とある文章が出てきた。

 ‘’真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据わることはない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。”

 “真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。

 “口が巧者に働いたり、手が小器用に動いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。”

 匡之はこの部分を何度も何度も読み返した。
 まさに、自分に言われているような気がしたのだ。夏目漱石が目の前に現れ、叱られているような気がした。
 真面目とは、真剣勝負……。
 そうだ、勝負なのだ。
 小器用に上手く生きたって、それは真面目じゃない。勝負じゃない。
 俺は、そういう自分を捨てて勝負をしたかった。真面目になって、腰を据え、己の精神を見つめ、真剣勝負をしたかった。
 過去の真面目じゃなかった自分が枷になったのなら、それを振り切るほど、もっともっとがむしゃらに働けばよかった。たとえポストを降ろされ、立場が弱くなったって、真面目に働き続ければ、勝負ができたかもしれない。
 匡之は、突然三島に会いたくなった。
 三島は、勝負を降りたのだろうか。いや、三島は、会社との勝負には敗けたのかもしれないが、教育の世界でまだ闘っている。
 闘って、楠村を救い、京大へ導いた。それだけは確かだ。
 これまで、三島はどんな思いで働き、闘ってきたのだろうか。
 匡之はスマホを取り、三島の電話番号を探した。連絡帳の整理などほとんどしないので、確か残っているはずだった。
 匡之は三島の連絡先を見つけると、電話番号をじっと見つめた。
 今更電話をかけて、どうなるというのだろう。精神を病んで辞めた会社の、かつての部下から突然電話がかかってきても、迷惑なだけだろう。
 しかし、匡之は三島の話を聞いてみたかった。そして、できるなら自分のこれまでを聞いてほしかった。
 匡之は、電話番号の下にメールアドレスが書いてあるのを見つけた。
 自分勝手だとは思うが、メールを送ってみよう。匡之はそう思った。
 メールなら、返したくなければ返さなくていいし、もしアドレスを変えていて届かなければ、その時はそれまでと思おう。
 匡之はパソコンに向かい、メールを開いて、キーボードを叩き始めた。

 三島が辞めた後の堕落していた自分のこと。
 楠村と出会い、三島の話を聞いたこと。
 それを機に、心を入れ替えて真面目に働き始めたこと。
 真面目に頑張っていた親友が精神を患ったこと。
 自身も堕落していた頃の報いを受け、会社を辞めたこと。
 自分は闘い続けられなかったこと。
 本当は、自分は三島に憧れていたこと。

 すべてを赤裸々に綴り、何時間もかけて匡之は文章を完成させた。書き終える頃には、外はもう明るくなっていた。
 匡之はメールを読み返して誤字や脱字をチェックしてから、深呼吸をし、そして送信ボタンを押した。
 そしてベランダに出て、煙草に火をつけると、朝の白みがかった街を眺めた。
 三島にメールは届くだろうか。届いたら、どんな気持ちで読むだろうか。嫌な気持ちになるだろうか。匡之は不安になってきたが、もう送ってしまったのだから仕方がない、と言い聞かせて煙草を吸った。
 秋の早朝の空に、渡り鳥が群れを成して飛んでいくのが見えた。匡之は、なんとなく楠村のことを思い出していた。


 パチンコの頻度を以前より減らし、匡之は本を読む時間を増やすようになった。三島からの返信は結局来ることはなかったが、メールを書き上げたあの夜、自分の中で何か変わるものがあった気がしていた。
 そして、生きているうちに、読めるだけの本を読んでおこうと思ったのだった。
 それとは別に、そろそろ次の仕事を探さなければならなかった。貯金もいつまで保つかわからないし、いつまでもギャンブルと酒と読書などという、それこそ文豪のような生活を続けている訳にはいかない。

 冬になって、匡之はいくつかの転職サイトに登録し、求職活動を始めた。転職エージェントとも面接を行い、求人紹介をしてもらったりしていたが、どれもしっくり来なかった。
 エージェントからは、もう少しやる気を持って取り組むようにと説教を受けたが、どうしても気持ちが入らないのであった。
 俺は何がしたいんだろうな……。
 通算10社目の面接からの帰り道、匡之はその足でパチンコに向かいながらそう思った。もう深く考えず、条件が良さそうなところに適当に決めてしまおうか。
 ネクタイを外し、台の前に座って、大きな溜息をついた。この先の人生をどうしていいのか、匡之はわからなかった。

 しばらく打っていたが、大した儲けもなく、匡之は帰ることにした。その時、スマホが震えた。
 開くと、それはメールの通知で、三島虎之介という名前が表示されていた。メールはパソコンから送っていたが、スマホのアプリにも同じものが入っていて、受信の際には通知が来るようになっているのだ。
 匡之はその場で固まり、画面を凝視した。
 三島から返事が返ってきた。1ヶ月程前に送ったあの長いメールは、三島に届いていたのだ。
 匡之は心臓がバクバクと鳴るのを感じ、急いでパチンコ屋を出た。このメールを読むには、どこか落ち着いた場所が必要だ。
 匡之は、ふと「ブラックバード」を思い出した。あそこならあまり人も来ないから、ゆっくり読めるだろう。
 しかし、もし楠村と鉢合わせたら、と匡之は思った。
 もう楠村とは会わないと決めていた。しかも、今の自分はあの頃からさらに状況が悪くなっている。会えるわけがない。
 でも、それはそれでいいだろう。会ってしまったらそれまでだ。たとえ匡之に失望したとしても、彼は自分の人生を歩んでいく。それだけだ。
 匡之はそう考え、「ブラックバード」へ向かった。

 店内に入ると、楠村はいなかった。匡之は安堵して席に着き、コートを椅子の背にかけた。
 ブラックコーヒーを注文し、届くまでの間は煙草を吸いながら窓の外を眺めていた。
 あの鏡に映ったタワーが見え、匡之はそれをじっと、微動だにせずに見つめ続けた。
 やがてコーヒーが運ばれてきて、一口啜ると、匡之はいよいよメールを開いた。


 吉見くん、三島です。
 お久しぶりです。突然の連絡で驚きましたが、とても嬉しかったです。ありがとう。そして、返事が遅くなってすみません。
 メール、大事に読ませていただきました。吉見くんも大変だったんですね。書きたくないこともあっただろうけど、すべて書いてくれてありがとう。
 お友達、早く良くなるといいですね。友達思いの吉見くんの心に感動しました。

 さて、早速ですが、僕はあの会社でそれなりの情熱を持って働いていました。
 会社の方針にそぐわないこともやっていました。それで上司から怒られたり、仕事が溜まったりして、最終的にはしんどくなって辞めてしまいました。
 それは、自分の甘さが原因だったと今は思っています。あの頃は僕も若造で、一生懸命やっていればきっといつか報われるだろうと信じていました。でもただそう思うだけで、例えば仕事の効率を考えるとか、人に頼るところは人に頼るとか、そういう工夫や思慮がまったく足りていなかったのです。保護者や生徒のことも考えているようで、自分の気持ちを押し付けるばかりで嫌われてしまった。僕は仕事を舐めていたんです。
 その点、吉見くんはすごいです。一緒に働いていた時から、吉見くんは要領が良くて、講師や保護者からも好かれる努力をしていて、一生懸命だと関心していました。
 僕は、きっと自分より吉見くんの方がいい教室長になるだろうと思っていました。

 僕が仕事を辞める直前、もう精神の限界だった時。僕は吉見くんに「どうしてこの仕事をしようと思ったのか」と聞きました。そこで、吉見くんが学生時代に教えていた楠村くんの話を聞きました。
 それは本当に素晴らしい話で、そんな情熱を持った吉見くんなら大丈夫だ、僕はもう退こうと思い、会社を辞めました。あの時はもう限界だったので、医者に言われるままに即日退職し、きっと吉見くんにもたくさん迷惑をかけたと思います。本当に申し訳ないです。

 その後は吉見くんは新たな教室で活躍していたようですね。
 吉見くんはメールに「堕落していた」と書いていましたが、僕は違うと思います。吉見くんは、きっちりと準備を怠らず、効率化の工夫ができ、そして人の本質を見極められる人だと思います。

 仕事の手を抜いて、残業も休日出勤もせず、講師を駒だと思い、仕事を振って楽をしていたと書いていましたね。
 それが本来の仕事の在り方でしょう。残業も休日出勤も別に偉くない。人に仕事を振るのがリーダーの仕事です。
 講師それぞれの力量を見極め、自分の右腕として育て、仕事を振ってあげる。それは理想の教室長ですよ。
 講師は自分の能力を見出してくれたと、きっと喜んでいるはずです。

 保護者からいかに金を取るかばかり考えていた、とも書いてありました。
 それもまた、仕事として当たり前のことです。吉見くんは、営業トークを磨いていただけでしょう。保護者が納得した上でお金を出したなら、それでいいのです。それで成績が伸びない、下がったというのなら別ですが、売り上げを出し、吉見くんが支部長に昇格したというのは、その売り上げが真っ当なものだったという証拠です。会社はそれをちゃんとわかっているはずです。

 吉見くんは、初めから真面目に、熱心に仕事をしていたんです。
 まあ、女性問題とパチンコはさすがにまずいと思うけど……笑
 それさえなければ、吉見くんは今でもあの会社で頑張っていたでしょうか。それはわからないですよね。
 過去のことを言っても仕方ない。
 今は、前だけを見つめてください。過去の失敗を必ず次に活かし、進んでください。吉見くんならそれができます。

 次に、僭越ながら僕の話を少ししましょう。
 僕は、鬱病になって会社を辞めたあと、妻に支えてもらいながら少し休んでいました。
 回復して再就職するに当たって、僕はまた教育の会社を選びました。理由はわかりません。ただ、僕にはそれしかないと思っていたような気がします。
 僕が転職したのは、通信制高校を運営する会社で、僕は生徒のアドバイザーとして採用されました。
 様々な事情で高校に通えなかった生徒たちの担当アドバイザーとなり、高卒認定試験の合格に向けて、学習プランを考えたり、日々の勉強の相談を受け、アドバイスをするという仕事です。
 勉強をしたくてもできない。そういう人たちの力になりたかったんだと思います。僕にとって、ものすごくやり甲斐があって、楽しい仕事です。今も続けています。しんどいことも多いけどね。
 僕は不器用で要領も悪いので、真面目にやっていくことだけが僕にできることだと思っています。
 特に教育業界は、真面目こそが正義だと思います。子どもの「今」と「未来」を預かっているのだから。真面目に向き合わずして、この仕事はできません。僕は、前の会社にいた時から今まで、それを忘れたことはありません。

 楠村くんと会った時はびっくりしました。会ったと言っても、顔も声もわからないけど。
 でも、すぐにわかりました。吉見くんが語ってくれた子に違いないと。
 楠村くんは驚くほどに優秀で、意欲があって、あっという間に学力が伸びていきました。うちの通信に通う生徒さんは、大学を目指す人も少なくないけど、正直レベルの高いところに合格できる人はほとんどいない。でも彼なら、関関同立やMARCHレベルでも合格できると思いました。
 しかし、楠村くんは、京大に行きたいと言い出すのです。僕はたまげました。でも、無理じゃない、そんな気がしました。
 よし、京大を目指して頑張ろう。僕も本気になりました。楠村くんは必死でした。本当によく頑張っていました。
 そして、いつも「中学時代にお世話になった先生がいる。その人に、いい大学に行った姿を見せて喜ばせたい」とチャットで語ってくれました。
 吉見くんのことです。吉見くんが、彼の勉強を頑張る原動力だったんですね。

 結果は合格でした。僕は本当に嬉しかった。
 そして、人生とは、人間とは不思議なものだと思いました。
 偶然という言葉では表現できない、星の巡りとでも言うべき縁が繋がっている。楠村くんという一人の宇宙のような可能性を秘めた少年が、僕と吉見くんと、そしてもっともっとたくさんの人たちを繋げ、そして何かを与えてくれている。そんなことを思いました。
 何かとは幸福や喜びだけではなく、たぶんもっと広い意味での何かなのだと思います。

 最後になりますが、不甲斐ない僕のことを、憧れていたと言ってくれてありがとう。楠村くんを大切に指導してくれてありがとう。こうしてメールをくれてありがとう。真面目に教育のことを考えてくれてありがとう。
 吉見くんはこれからも教育の仕事に携わってほしいと思います。きっと、そういう星の巡りがあると僕は信じています。
 楠村くんに会うことがあればよろしくお伝えください。
 それでは、身体に気をつけて。お元気で。

 三島虎之介

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