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『忘れもの』 【第11話】 「本音」

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「葉山さん、担当が変わって早々で申し訳ないが、手形の15億を返済しようと思っとるとですよ。すまんが、手続きばお願いできますやろか?」
 そう言って、革張りの応接ソファーに深く腰掛けた岡崎勤が、縦縞のダブルのスーツのボタンを締め直しながら、葉山ヒカルをまっすぐ見た。
「社長、15億とは、手形で出している融資5本を全てご返済なさるということでしょうか。何か、当行に不手際がございましたでしょうか」
 今日が訪問3回目だ。
 まだ、腹を割って話せるほど距離を詰めることはできていない。
 恐る恐る、葉山ヒカルは岡崎に訊いた。
「いや、私ら北九州で長く商売させてもらっとって、地元にまったく協力せんっていうのもできんとですよ。前から地元の銀行さんや信金さんからも付き合いをお願いされとるんですが、計画もなしに何でも借りるなんて経営者としては失格でしょ。これまでもどうにかこうにか交わしてきたとですけど、今回はちょっと事情がねぇ……」
「社長、その事情とは……」
 葉山ヒカルの顔が緊張でこわばる。
「うーむ。あまり気を悪くせんで欲しいとやけどね。わしが若い頃にいろいろと世話になった地元の銀行の方が、役員に昇格なさったとですよ。随分と世話になった方やけん、どうしても恩返ししたくてな。すまんねぇ。あんたには悪いと思っとる。いつか、この借りは必ず返すけん!」
 まっすぐ見つめてくる岡崎勤の目に、嘘はないように思えた。
 しかし、葉山ヒカルにとってもかがやき銀行での生死がかかっている。
 折尾支店着任時に支店長の川辺と約束した復活への最終兵器。それが、岡崎産業との関係改善、つまり、正常取引の構築だ。
 それがいま、目の前で手形融資の全てを他行に借換えたいと言われている。
 万が一、この話を丸っと受け入れれば、岡崎産業への融資残高は証書貸出の5億円のみとなる。
 失った15億円をこの地域の中小零細企業では到底穴埋めなんてできない。
 平均融資額が5,000万円程度の担当先50社にどれだけお願いしたところで、せいぜい5億円を貸し出せれば御の字だろう。
 葉山ヒカルは、岡崎勤にどのような言葉を返したらよいか考えながら、この話の重大さに気を失いそうになるのだった。
「社長、ご事情はよくわかりました。しかし、15億のお取引は、当行にとって、いえ、何よりも当店にとっては大変大きなお取引です。私一人の判断でお受けするには少々事が大きすぎます。店に戻りまして、川辺や飯塚とも相談し、明日、あらためてお時間を頂戴できませんでしょうか」
 気持ちの焦りをできるだけ悟られないように、葉山ヒカルは努めて冷静に言葉をつないだ。
「まぁ、川辺さんと飯塚さんに話されても、結果は変わらんばってん、葉山さんの立場もあろうけん、しょうがなか。よかでしょ。明日、15時にまたいらっしゃい」
 岡崎はそう言って、葉山ヒカルにお茶を勧めた。
 茶柱は湯呑の底でだらしなく横たわっていた。

 支店に戻り次第、川辺と飯塚と支店長室に入った。

「15億の借換です。手貸がすべてゼロになってしまいます。岡崎社長は地元の北九州銀行の山田常務の昇進祝いのための借換だとおっしゃっておられました。なんでも、山田専務には若い頃に随分とお世話になったとのことで、そのご恩返しとのことでした。岡崎社長の言葉に嘘はなさそうなのですが、仮に15億が無くなったとして、別の形で穴埋めすることも、他の担当先で新たに貸し出すのも厳しいと思います。何か良い手があればいいのですが……」
 葉山ヒカルは事の経緯を伝えつつ、過去のいきさつにも詳しい川辺と飯塚からの言葉を待った。額には大粒の汗が滲み、時折、ハンドタオルで汗を拭った。
 川辺と飯塚は腕組みをしたまま応接椅子の背もたれに深く腰をかけて黙っている。
 沈黙はしばらく続いた。
 川辺がゆっくりと身を起こし、膝に腕をつきながら手を組んだ。
「葉山くん、君はどうするつもりだ」
 これまで見たこともないような川辺の鋭く冷たい視線が葉山ヒカルに向けられている。
 ノーという言葉を許さない気迫が伝わってくる。
 葉山ヒカルはまた額の汗を拭った。
「借換を思いとどまっていただくためには、岡崎産業へ何らかしらのお土産が必要だと思います。しかし、それはすなわち金利をさらに下げることになりますから、私の役目とは反対のことをしてしまうことになります。かと言って、私の担当先では15億を穴埋めできるような体力のある会社はありません。新規といっても、すぐにリカバリーできるほどの企業が折尾エリアにあるとは……。こうなれば、みなさんのお力をお借りして、各担当先への融資額の増額をすすめるか、岡崎産業に新規先の紹介を依頼するかの二択かと考えます」
 喉がカラカラに乾いている。
「それじゃなにか?君がみんなに頭を下げて、融資額の増額に走ってもらうってことか?そんなことしたって、たかが知れてることくらい君のキャリアだったらわかるだろ。つまりは、岡崎産業に頭を下げて新規先の紹介を受けるというのが、君の本意だな」
 川辺の声が大きくなった。
「岡崎社長のことだ。紹介する見返り次第で紹介先を変えてくるだろうな。つまりは、残っている証貸5億の金利条件の緩和が土産というわけだ。5年の固定で0.8%だったな。昨年更新したばかりだったな。くそっ!うまいところ突いてきやがる!きっと、5年0.5%以下でないと思うような新規先は紹介してくれんだろうな」
 川辺は応接椅子の肘掛けを叩きながら吐き捨てるように言った。
 葉山ヒカルは自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
 額に流れる汗も氷水のように冷たい。
 目の前が霞がかかっているようにぼやけ、視点も定まらない。
「おい、葉山!聞いてるのか!」
 川辺の怒声でハッと我に返った。
「す、すみません」
「葉山、お前、このミッションが成功したら本店に戻してくれって交換条件出してきたよな。あの言葉、忘れたとは言わせないぞ。おい、どうなんだ?」
 川辺が凄む。
「はい、覚えています。私から本店に戻させてくださいと申し上げました」
 葉山ヒカルは身体が勝手に傾いていくような感覚になるのを必死に起こしながら、川辺の恫喝に答えた。
「そうだよな!だったら、言ったことは守れよ!証貸の金利緩和は0.5%までなら譲歩してもいい。その代わり、きっちり15億の代わりになる新規先を岡崎産業から引っ張り出してこい!いいな!」
 川辺は顎で葉山ヒカルに部屋を出るように促した。

 支店長代理の飯塚が、さっきまで葉山ヒカルが座っていた椅子に座り直し、川辺と向かい合った。
「支店長、どうするんですか?あいつ、うまくできますかね?」
 コバンザメのように川辺の後ろにくっついて回る飯塚は、こういう時のフォローに余念がない。
「ふん。別に失敗したっていいさ」
 川辺は飯塚にコーヒーを淹れるよう催促しながら吐き捨てるように言った。
 飯塚はドリップコーヒーを棚から出し、慣れた手つきでお湯を注ぐ。
 川辺が娘から誕生日プレゼントで貰ったというスターバックスのロゴの入ったマグカップに淹れたコーヒーから湯気が上がる。
「え、失敗してもいいってどういうことですか?支店長、どこか15億の当てでもおありなんですか?」
 びっくりした時に見せる飯塚の目は、弓道の的のようにまん丸になる。
 川辺はそれを見るとふっと吹いてしまう。
 おかげで少し冷静になった川辺が続けた。
「お前も知ってるだろう。横浜の片岡は俺の同期だ。あいつが頼み込んできたから、葉山を受け入れてやったんだが、まぁ、使えない奴だったってことだよ。もうちょっと肝が座ってるかと思ったが、所詮、都会のお坊っちゃんだったな。こういう修羅場には使えねーよ。まぁ、15億飛んだとなりゃ、本部でも話題になるだろう。かえって俺らにとっちゃチャンス到来ってわけさ」
 コーヒーを啜りながら、川辺の口元が緩んだ。
「え?と、申しますと?」
 まったく状況が読めないという表情で飯塚が訊き返す。
「相変わらず勘の悪い奴だなぁ、お前は。いいか、片岡に懇願されて引き受けた渉外の係長の不始末なんだから、お願いしてきた片岡にも責任があるだろ?こいつは使える!優秀な奴だから頼むって太鼓判押してたんだから。それがどうだ?優秀な奴が15億飛ばすか?つまり、片岡が嘘ついて無理やり人事をやったことになるだろ。片岡は使えない人材を他店に押し付けたってことだよ。あまりに身勝手で権利の濫用じゃないか?責任問題だろ?そうなりゃ、片岡だってこのまま横浜クラスの支店長ではいられんだろ」
「なるほどぉ!つまり、片岡さんを失脚させて、支店長が横浜に行かれるってことですかぁ」
 必要以上にうなずく飯塚を見て、川辺は少しイラッとした。
「横浜支店なんてどうでもいいんだよ。それよりもだ。片岡も葉山も油山常務の派閥だったよな。片岡なんて油山常務が頭取になれば、役員への昇格も確実だとか噂されてやがる。大した能力もないのに学閥と派閥でうまく立ち回りやがって。だからさ、油山常務の秘蔵っ子の二人が問題を起こせば、油山常務だって頭取候補の器を疑われて当然だろ?そうすりゃ、油山常務を押さえて、坂田専務に一気に頭取の椅子が舞い込んでくるってわけよ!」
 コーヒーの香りはまだ支店長室に漂っている。
 川辺はマグカップを大事そうにテーブルに置いた。
「飯塚。坂田専務が頭取になられたら、我々にもいよいよ陽が当たるってことよ。サラリーマン人生なんて所詮は運だ。運が味方すりゃ、学歴も何も関係ない。あのエリート気取りのお坊っちゃんたちがいかに甘ちゃんだったか、痛いほど思い知らせてやるよ」
 地方の国立大学を卒業した川辺は、かがやき銀行での銀行員生活のほとんどを地方支店で過ごした。
 暑い日も寒い日も、原付バイクで営業先を回った。
 何もよりも足で稼ぐことを信条に、これまで歯を食いしばり、泥をも食う覚悟で必死に働いてきた。
 同期に遅れること3年、ついに掴んだ支店長の椅子だった。
 折尾支店長の辞令を交付された時、これまでの苦労がやっと報われたような思いで男泣きした。
 しかし、同時に、同期入行での一番出世組は、都市部の旗艦店舗の支店長を任されるようになっていた。
 会社に社格があるように、銀行内の支店にも格付がある。
 役員が支店長を務める支店が母店で最も格が高く、続いて1号店から5号店まで、支店の規模によって格付がされている。
 川辺の折尾支店は4号店で、同期の片岡が支店長を務め、葉山がいた横浜支店は1号店だ。
 支店の格付によって、支店長が決裁できる融資額も異なる。
 1号店と4号店では、支店長決裁額には40億円の差があった。
 今回の岡崎産業の事案で考えると、仮に、岡崎産業の代わりの新規企業に15億円の融資を行うにしても、川辺の決裁では融資の実行はできない。
 つまり、本店の審査部の審査を通じ、役員の決裁を経て、ようやく15億円の融資を行えるのが、折尾支店の実力なのである。
 一方で、横浜支店であれば、支店長の決裁権限額は50億円まであり、今回の岡崎産業の事案レベルであれば支店長の裁量で何とでもなるわけだ。
 これだけ見ても、支店長としての差を嫌というほど見せつけられるのである。
 同期入行とはいえ、今となっては支店の格差も、派閥の優劣にも大きな差をあけられてしまった。
 努力した時間は誰にも負けないと川辺は自負しているし、周囲も認めるほどの仕事人間だが、見えない大きな渦の中ではそれも虚しくなる。
 だからこそ、頭取人事は、これまでの形成を大逆転できる大きなチャンスなのである。
 専務の坂田と常務の油山も互いの立場を心得ており、どちらかがトップになれば、もう片方は銀行を去ることを自覚している。
 0か100か、無になるか有になるか、勝敗の結末がそれだけシビアな世界なのだ。
 間近に迫っている取締役会で現頭取の鷲山頭取が勇退を表明することは確実視されているだけに、水面下での派閥争いは激しさを増していた。
 スキャンダルはおろか、頭取としての資質を問われかねないような汚点が発覚するようなことがあれば、たちまち形勢が傾く。
 まさに今、折尾支店という田舎の4号店でも、自らの立身出世のための謀略が図られようとしているのだ。

 胸を押さえ、やっとの思いで自席に戻った葉山ヒカルの様子は明らかにおかしかった。
 顔色はコンクリートみたいに蒼白で、肩で息をしているが、うまく息を吸えていない。
 唇も震え、手先の感覚も鈍くなっている。
 指先が硬直していくような感覚さえある。
 何か身体に異変が起きているのは間違いがなさそうだが、どうすればいいのかわからない。
 時刻は21時を回っており、店舗に行員は残っていなかったのがせめてもの救いのように葉山ヒカルは感じていた。
 このような姿を若い行員に見せるわけにはいかない。
 弱々しい姿を見せるなど、葉山ヒカルのプライドが許さない。
 川辺と飯塚は支店長室からまだ出てこない。
 声をかけてから店を出るべきだとは思ったが、少しでも動く範囲を小さくしたかったのと、呼吸が乱れて声をうまく発することができなかったので、何も言わずに支店を出た。

 目を開けると、薄暗い天井が見える。
 視界の右側に点滴の袋がぶら下がっていた。

「気がつかれましたね。大丈夫ですよ、ここは病院ですから」
 横から看護師の女性がそう声をかけてきた。
「あの、私は……」
「覚えていらっしゃらないのね。葉山さん、ホテルのフロントで倒れられて救急車で運ばれたんですよ。過呼吸で血圧が急激に下がって意識がなくなったみたい。後から、先生の問診がありますが、ひとまず、救急で検査したところ、身体には異常はありませんでしたから安心してくださいね」
 看護師の女性はそう言って、医師を呼びに病室を出ていった。
「俺は倒れたのか……。そういえば、店を出たところからどうやってホテルまで歩いたのか覚えてないな……」
 薄暗い天井についている古い蛍光灯に、蜘蛛の巣がはっているのがぼんやりと見えた。
 身体は随分と楽になり、あれだけ苦しかった呼吸も嘘のように軽くなっていた。
 葉山ヒカルは、自分の身に起きたことを理解できずにいたが、ホテルで倒れ、救急車で病院に運ばれたことが事実であることは飲み込めた。

 白衣を着た20代と思われる長髪の男性がやってきた。
「葉山ヒカルさん、気分はどうですか?」
 カルテに目を落とし、葉山ヒカルの方にはまったく目をやらず医師が訊いてきた。
「はい。随分と楽になりました。この度はご迷惑をおかけしました」
 葉山ヒカルは折り目正しく答えた。
「そうですか。それはよかった。念の為、心臓の検査と血液検査、あと、脳波とMRIもやっておきましたが、どれも異常の所見はありませんでしたよ。おそらくは何か心労がたたったんじゃないかと思いますけどね」
 長髪が視界を邪魔するのか、若い医師は手で髪の毛をかき上げながら、カルテばかりを目で追いながら、続けた。
「あ、そうだ。万が一の確率ですが、心筋梗塞の可能性は今日の段階では完全に否定できないです。なので、一応ですけど、ニトログリセリンを処方しておきます。もし、明日以降にも同じ症状が出てたら、舌の裏にニトログリセリンを一錠入れてください。水は飲まなくていいですから。もしそれで発作が治まるようでしたら、心筋梗塞の可能性がありますので、すぐに病院に来てください。もし、ニトログリセリンを飲んでも症状が治まらなければ、心筋梗塞ではありません。その時は、一度、心療内科を受診されるといいと思います」
 ひと通り話し終えると、何やらカルテに書き加え、「お大事に」と言い終わるより先に立ち上がり、スリッパの音を立てながら病室を出ていった。

 折尾記念病院と書かれた建物を見上げた。
 まだ肌寒さの残る道を国道まで出て、タクシーを拾うことにした。
 時計を見ると、日付がちょうどかわる時間だった。
 動悸も息苦しさもしない。
 むしろ、肌寒い代わりに澄んだ空気が心地良い。
 背伸びをしてみた。
 肩甲骨のあたりがポキポキっと鳴る。

 国道まで出てみたが、どうやらタクシーを捕まえられそうにない。
 ポケットからスマホを取り出し、ホテルまでの道を調べてみた。

「歩くのもわるくないか……」

 スマホ片手にホテルを目指すことにした。

 ゆるやかな坂道が続いた。
 革靴がアスファルトを叩く。
 カッ、カッ、カッと規則正しく歩く音がこだましてかえってくる。

 夜風がそっと葉山ヒカルの背中を押すように吹き抜けていった。

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<まとめ&振返り>
 第1話〜第10話まではこちらからお楽しみいただけます!
 あわせてご覧いただけますと幸いです。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。


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